落語「氏子中」の舞台を歩く
   

 

  初代三遊亭遊三の噺、「氏子中」(うじこじゅう)によると。

 

 与太郎が越後に商用に出かけ、1年半ぶりに檜物町五番地に帰って来ました。二十三、四のかみさんのお美津の腹が木魚のように膨れているので、与太郎もこれにはビックリ。男の名を言えと問い詰めても、お美津はケロッとして、「亭主が居てはらむのは世間では当たり前。亭主が居なくてはらむのは女の働き。おめでたいじゃないか。お前さんと一緒になってもう七、八年。近所のおかみさんがはらむのを羨ましがっていただろう。だから、お前さんが信州に行っている間に、お前さんを喜ばせようと思って、こしらえておいたんだよ」、「馬鹿げている」、「これは、あたしを思うおまえさんの一念が通じて身ごもったんだ」、「馬鹿げている。相手の男は誰なんだ」、「神田明神へ日参して『どうぞ子が授かりますように』とお願いして授かったんだから、いうなれば氏神さまの子だ」と言い抜けをしてなかなか口を割らない。
  そこで、親分にあれだけ御願いして出掛けたのにと相談すると、「てめえの留守中に町内の若い奴らが入れ代わり立ち代りお美津さんのところに出入りする様子なんで、注意はしていたが、女房子供が居るから四六時中番はできねえ。与太郎の留守に5、6人入れ替わりに若いのが遊びに来ていた。注意はしたんだが、身ごもってしまった。おお事にするとお前も恥をかくし、俺も決まりが悪い。
 そこで、実は代わりの嫁さんをオレが用意していて、出戻りだがべっぴんで、駆け足は早く喧嘩も強い実にいい女だ。しかし、何も持っていない裸同様で来る女だ。
 来月は子供が生まれる月だ、お七夜に仲間を集めて、荒神さまのお神酒(みき)で胞衣(えな)を洗うと、必ずその胞衣に相手の情夫の家紋が浮き出る。祝いの席で客の羽織の家紋と照らし合わせりゃ、たちまち親父が知れるから、その場でお美津と赤ん坊をそいつにノシを付けてくれてやってしまえ。みんな帰った後に、料理を綺麗にして、新しいかみさんと祝言を上げれば料理も酒も一つで済む。お前は、運が向いて来たぞ」。与太郎、嬉しいんだか、悔しいんだか訳が分からない。
  さて、月満ちて出産、お七夜になって、いよいよ親分の言葉通り、間男の容疑者一同の前で胞衣を洗うことになった。お美津は平気の平左衛門。シャクにさわった与太郎が胞衣を見ると「神田明神」。「そーれ、ごらんな。疑り深いんだから。明神様のバチが当たるよ」、親分が覗き込むと「待て。まだそばに何か出ているぞ」 、「ヘエ? 何と出ています」、「そばに氏子中としてある」。

 


 

1.「町内の若い衆」と「氏子中」

 どちらも類型の艶噺ですが、題名が入れ違って高座に乗っています。馬生だった志ん生や立川談四楼の音源も残っていますが、中身は全て「町内の若い衆」です。

落語「町内の若い衆
 大工の八五郎が親方の家を訪ねますが、あいにくの留守。
奥で普請の音がするので、褒めると、親方のおかみさんが、町内の若い衆がよってたかって
茶室を作ってくれたようだと言います。
家に帰っておかみさんにその話をして、友達にその様子を見に行かせます。
奥さんは身重。
偉いね、この不景気な折に良く子供を作ったね。
奥様「いいえ、町内の若い衆がよってたかって作ってくれたんだよ」。

禁演落語;この噺も禁演落語の中に含まれている一つです。戦時中の昭和16年10月30日、時局柄にふさわしくないと落語家達が率先して禁演とした落語。浅草寿町(現・台東区寿二丁目9)にある長瀧山本法寺境内のはなし塚に葬られて自粛対象となった、廓噺や間男の噺などを中心とした53演目の落語のこと。戦後の昭和21年9月30日、「禁演落語復活祭」によって解除。建立60年目の2001年には落語芸術協会による同塚の法要が行われ、2002年からは、はなし塚まつりも毎年開催されている。以下にその演目を列記します。

禁演落語五十三話演目は「五人回し」 「品川心中」 「三枚起請」 「突き落とし」 「ひねりや」 「辰巳の辻占」 「子別れ」 「居残り佐平次」 「木乃伊取り」 「磯の鮑」 「文違い」 「お茶汲み」 「よかちょろ」 「廓大学」 「搗屋無間」 「坊主の遊び」 「あわもち」 「明烏」 「白銅(五銭の遊び)」 「二階ぞめき」 「紺屋高尾」 「錦の袈裟」 「お見立て」 「付き馬(早桶屋)」 「山崎屋」「三人片輪」 「とんちき」 「三助の遊び」 「万歳の遊び」 「六尺棒」 「首ったけ」 「目ぐすり」 「親子茶屋」 「宮戸川」  「悋気の独楽」 「権助提灯」 「一つ穴」 「星野屋」 「三人息子(片棒)」 「紙入れ」 「つづら間男」 「庖丁」 「不動坊」  「つるつる」 「引越しの夢」 「にせ金」 「氏子中」 「白木屋」 「せんきの虫」 「蛙茶番」 「駒長」 「おはらい(大神宮)」 「後生うなぎ」。

 これらの噺の中にある「氏子中」ですが、とびっきり上品な噺とは言えません。人によっては53話を語呂合わせで「ゴミ」だと言います。

放送自粛落語
 憲法によって表現の自由が保証されている今日の日本では、国家権力などによる禁止演目は一応存在しないことになっているが、放送が自粛されていたり、放送に当たって一部改変を余儀なくされていたりする演目が少なからずある。故人の演じたものの音声の一部が加工されて放送されていることも多い。放送のみならずいわゆるホール落語でも、上演された新作落語が、人権団体の抗議に応じた公的機関によって、自粛を要請された例が多々ある。  (この項ウイキペディアより)

 

2.神田明神

 江戸名所図会より神田明神社

 現在は神田神社と呼ばれます。千代田区外神田二丁目16。左;神田明神の紋
 だいこく様。縁結びの神様。天平2年(730)ご鎮座。
国土開発、殖産、医薬・医療に大きな力を発揮され、国土経営、夫婦和合、縁結びの神様として崇敬されています。また祖霊のいらっしゃる世界・幽冥(かくりよ)を守護する神とも言われています。大国主命(おおくにぬしのみこと)という別名もお持ちで、島根県の古社・出雲大社のご祭神でもございます。
 えびす様。商売繁昌の神様。
商売繁昌、医薬健康、開運招福の神様です。日本に最初にお生まれになった神様のお一人・高皇産霊神(たかみむすひのかみ)のお子様で、大海の彼方・常世(とこよ)の国よりいらっしゃり、手のひらに乗るほどの小さなお姿ながら知恵に優れ、だいこく様とともに日本の国づくりをなされました。
 まさかど様。除災厄除の神様。延慶2年(1309)にご奉祀。平将門公は、承平・天慶年間、武士の先駆け「兵(つわもの)」として、関東の政治改革をはかり、命をかけて民衆たちを守ったお方です。明治7年(1874)に一時、摂社・将門神社に遷座されましたが、昭和59年に再びご本殿に奉祀され今日にいたっております。東京都千代田区大手町・将門塚(東京都指定文化財)には将門公の御首をお祀りしております。
 以上の三神を祀る。(神田明神説明文から)

 歴史は社伝によると、当社は天平2年(730)に出雲氏族で大己貴命の子孫・真神田臣(まかんだおみ)により武蔵国豊島郡芝崎村―現在の東京都千代田区大手町・将門塚周辺)に創建されました。
その後、天慶の乱で活躍された平将門公を葬った墳墓(将門塚)周辺で天変地異が頻発し、それが将門公の御神威として人々を恐れさせたため、時宗の遊行僧・真教上人が手厚く御霊をお慰めして、さらに延慶2年(1309)当社に奉祀いたしました。戦国時代になると、太田道灌や北条氏綱といった名立たる武将によって手厚く崇敬されました。
慶長5年(1600)、天下分け目の関ヶ原の戦いが起こると、当社では徳川家康公が合戦に臨む際、戦勝のご祈祷を行ないました。すると、9月15日、神田祭の日に見事に勝利し天下統一を果たされました。これ以降、徳川将軍家より縁起の良い祭礼として絶やすことなく執り行うよう命ぜられました。 (神田明神説明文から)

神田明神で「神田祭」参拝者休憩室にて 上図とも二点 上;歌麿画 下;貞重画 山車の数々を描く。

檜物町(ひものちょう);与太郎さんの住まいで、檜物町五番地、豆腐屋の裏長屋。現在の日本橋三丁目1〜2、及び、東京駅八重洲口、正面に突き当たる八重洲通りの北側、八重洲一丁目7〜8。

 

3.言葉
氏子(うじこ);同じ氏神をまつる人々。氏子の仲間。氏子一同。
 当初,某家の子女の意味であったが、13〜14世紀の伊勢神宮の神職文書に氏人と混用されて散見するようになり,やがて畿内郷村の地方文書や神社文書には,氏人を氏神祭祀団の意味に,氏子を氏神の加護を受ける者の意味に用いている。中世末期から近世初期にかけて氏子の意味はさらに転化し,特権的な祭祀団を意味した〈氏人衆〉〈氏人等〉の語が消えて,郷村社会にふさわしい地域的祭祀団を示す〈氏子衆〉〈氏子中〉が登場した。江戸時代には氏神を産土(うぶすな)神とする考え方が一般化し,氏子が産子(うぶこ)と呼ばれる傾向も出るが,民衆の離村移住を統制するため幕府はこの産子の原理を援用して出生地の神社に氏子身分を固定しようとした。 (徳川禁令考)

氏子中;氏子仲間の集まり。同じ氏神を祀る仲間達。同じ目的でお美津さんを祭り上げた連中。

氏神(うじがみ);住む土地の鎮守の神。産土神。氏神神社とは、自らが居住する地域の氏神様をお祀りする神社であり、この神社の鎮座する周辺の一定地域に居住する方を氏子(うじこ)と称します。
 元来は、文字通り氏姓を同じくする氏族の間で、自らの祖神(親神)や、氏族に縁の深い神様を氏神と称して祀ったことに由来し、この血縁的集団を氏子と呼んでいました。現在のような地縁的な関係を指しては、産土神(うぶすながみ)と産子(うぶこ)という呼称がありますが、地縁的関係についても、次第に氏神・氏子という呼び方が、混同して用いられるようになりました。

 与太郎さんの住まい檜物町五番地、現・中央区日本橋(及び八重洲)は、日枝神社(千代田区永田町二丁目10)が氏神様であり、彼らはそこの氏子です。ですから、神田明神は彼らの氏神様にはなりません。なお、神田明神の氏子領域は日本橋の架かった日本橋川の北側までです。(神田明神説明)

荒神様(こうじんさま)のお神酒(おみき); 三宝荒神の略。荒神様は竈(かまど・へっつい)の守り神で、転じて家の守護神。そのお神酒を掛ければ、というのは、家の平安を乱す女房の不倫を裁断するという意味ともとれます。また別に、女房が荒神様を粗末にすれば 下の病にかかるという俗説も。
御神酒は神前に供える酒。また単に、酒をしゃれていう(通常は供えた酒は亭主がすぐ飲んでしまう)。この場合は、荒神様にあげた御神酒。

胞衣(えな);胎児を包んだ膜と胎盤。胞衣の定紋の俗信は古くからあります。
 胞衣を入れて埋めるのに用いた桶を、胞衣桶(えなおけ)と言った。外面を胡粉で塗り、雲母で松・竹・鶴・亀などを描く。おしおけと言う。また、産後5日または7日に、胞衣を桶または壺に納めて吉方の土中に埋める儀式を、胞衣納め(えなおさめ)と言った。その上を最初にまたぐ(通る)ものが、その人の恐いものになると言われた。

御七夜(おしちや);子供が生れて7日目の祝い。昔においては生後の赤ちゃんが無事に育つことが多くなかったため、節目とする7日目を迎えられたことをお祝いしたのが由来。赤飯や尾頭付きの鯛、昆布、紅白の麩などの祝膳を家族で食べ、お宮参りまでの約1ヶ月間、命名書を飾る。現在、出生届は14日目まで。

木魚(もくぎょ);読経・念仏の際に叩いて鳴らす仏具。木製で、円形・中空、魚鱗を彫刻したもの。先端を布や革で包んだバチで打つ。宋代に始まり、もとは魚形の板。木魚鼓。
 これだけポッコリとしていたらお美津さんのお腹は目立つでしょうね。 

 


 
 舞台の神田明神と八重洲を歩く

 

 JRお茶の水の聖橋(ひじりばし)口で降りると、南側にはニコライ堂の建物。聖橋を渡った右側には湯島聖堂が有り、この二つをつなぐので聖橋と言われ、アーチ型の美しい橋です。
 湯島聖堂は林羅山が上野の私邸に建てた孔子廟に徳川義直から孔子の聖像と顔子・曽子・子思・孟子の四賢像や祭器等を寄贈されそれらを祭っていました。その後、五代将軍綱吉が御茶ノ水界隈を文京の地とし中心地の湯島に孔子廟を移し聖堂と総称し、論語の勉学の中心としたものです。寛政9年昌平黌として明治になるまで官立の学問所としての役割を担いました。江戸の大火に数回遭遇し焼失を繰り返し再建されましたが、関東大震災で再び焼失し現在の建物は昭和になって建てられたものですが、華やかさは何処にも有りません。

 その北側に神田明神は有ります。聖橋を渡った最初の交差点は、本郷通りで左に行けば本郷三丁目交差点で、かねやすまでは江戸の内と言われた交差点。その先右側は東京大学、江戸時代の加賀百万石の上屋敷があった所です。

 先程の交差点に戻って、そこを渡って右に行くと、すぐ左側に神田明神(神田神社)の大鳥居が現れます。鳥居の左側には「天野屋」さん(上写真)という甘酒屋さんが有って、地下に江戸時代からの麹室が有り、その麹を使って上品な甘酒が造られています。ホッと一息付ける喫茶室を提供していますし、お土産も楽しく選ぶことが出来ます。参道の突き当たりには随神門があり、天野屋さんの所から光り輝いて見えます。随神門を入ると神田明神の境内で、広い空間を通ると正面に本殿があります。この時期は七五三の参拝者や結婚式の打合せでしょうか、若い二人が訪れています。



 神田祭(写真・上)は江戸三大祭りの一つであり、山車(だし)は将軍上覧のために江戸城中に入ったので、「天下祭」と言われた。当時は山車が中心だったが、明治に入ると電線の普及等により山車の数は大幅に減少し、現在は御輿中心です。神田・日本橋(日本橋川以北)・秋葉原・大手町・丸の内・旧神田市場・築地魚市場など108ヶ町会の総氏神です。「神田囃子」は東京都の無形民俗文化財に指定されています。
 

 檜物町(ひものちょう)は、東京駅八重洲口前北側の街です。
八重洲(やえす)の地名の起こりは、
 ヤン・ヨーステンは、オランダの航海士で慶長5年(1600)イギリス人のウィリアム・アダムスらとともに豊後(今の大分県臼杵市)に漂着しました。その後、家康に迎えられてアダムス(築地の按針町に住む)と共に江戸に出ると、家康の外交、貿易の顧問となり、世界情勢の説明などを行いました。地名は、屋敷を与えられて住んだ所があったことに由来しています。その、ヤン・ヨーステンが訛って八重洲となったと言われています。



 八重洲は落語「金明竹」や「代脈」で歩いています。その間にまたまた街は大きく変貌しています。東京駅八重洲口中央の大丸デパートは無くなり、その左右に建つ超高層ツインタワービル・グラントウキョウの右側の高層ビルノースタワーに移転しています。サウスタワーを含めこれからの八重洲の顔になるでしょう。大丸の入っていた鉄道会館ビルは取り壊されて、ノースビルとサウスビルをつなぐ4階建ての歩行者デッキ「グランルーフ」(写真・上)が建設されました。なお、グランルーフ部分には新たな高層建築物を設けず丸の内側と吹き抜け状態とすることで、丸の内側に風の通り道を確保し、ヒートアイランド現象の抑制を促す効果が期待されています。
 これは、夏の南風が東京湾から隅田川をさかのぼってきて、八重洲通りに沿って八丁堀・京橋・八重洲と流れ、東京駅を横断し丸の内から皇居に流れ着きます。都市化で熱気が動かない都心に東京湾の冷気が流れ込みます。その上、皇居は回りと比べて2〜3度気温が低いと言われています。その冷気が皇居の回りに流れ出して、都心を自然の風で温度を下げる事が出来ると言われています。そのために鉄道会館ビルを取り壊し、ビルを建てずに風の道を作ったのです。


 与太郎さんが住んでいた檜物町は、表通りから一歩中に入ると想像も出来ない程発展して庶民の歓楽街になっていて、何処にも住居らしい建物はありません。廻りの町々はチョットおすましな街並みですが、ここには赤提灯も有ります。

 

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

  それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。

神田明神(千代田区外神田二丁目16)
 総檜造り随神門。

神田明神
 神田神社本殿。七五三から会社発展の法人向け祈祷まで幅広く参拝者を集めています。

檜物町(中央区日本橋三丁目1〜2及び八重洲一丁目7〜8)
 東京駅八重洲口前の外堀通りに面した街並み。この奥一帯が江戸時代には檜物町と言われた所です。

檜物町
 上記から入った街中の裏通り。どこにも与太郎さんが住めるような住宅は有りません。

本法寺(台東区寿二丁目9)
 本法寺山門横の石壁には落語に関係する所の名前が出ています。写真右横には落語家さんの名前が列記されています。文治、文楽、志ん生、円歌、円生、柳橋、小文治、今輔、痴楽、助六、百生、馬生、小せん、猫八、等々。

はなし塚(本法寺境内)
  境内に建立されているはなし塚。この下に禁演落語53話が埋められた。

氏子中の玉垣
 神田明神には氏子中の玉垣はありませんでしたので、我が家の近くの神社正面玉垣より。

将門塚(千代田区大手町一丁目2番。東京都指定文化財)
 まさかどづか、又はしょうもんづかとも言われ、伝承では、将門の首級は平安京まで送られ東の市、都大路で晒されたが、3日目に夜空に舞い上がり故郷に向かって飛んでゆき、途中数カ所に落ちたとされる。最終的にここ大手町に落ち、平将門の首塚とされている。

                                                     2014年11月記

 

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