落語「お見立て」の舞台を歩く
古今亭志ん朝の噺、「お見立て」(おみたて)によると。
喜瀬川(きせがわ)花魁は商売を忘れて正直者、いえ、わがまま。野田から来る杢兵衛(もくべい)大尽が部屋で肩すかしを食っている。相方の花魁は杢兵衛が大嫌いだが、夫婦約束をしている仲。それはお金がない時に融通して貰った時、お礼に優しい言葉をかけただけ。亭主気取りの杢兵衛さん、対する虫ずが走る喜瀬川。
中に入った若い衆・喜助(きすけ)は困っているが、それでは「居ないと言いなよ。私は入院したと言いなよ」と喜瀬川に知恵を付けた。杢兵衛さんのとこで弁解を始めるが「なぜ明け方近くこんな事を言う。 『待っているから直ぐ来ます』と言っておきながら、入院しているとは何だッ。」、「事が事だけに、黙っていようかと思いましたが、正直申し上げました。ですからここには居ません」。「それではお見舞いに行かなければならない。その病院は何処だ」、「ウッ・・・・、吉原の法によってお客様に教える事が出来ません」。上手い事を言ったものだと、胸撫で下ろしたが「兄が国元ら来たと言って合わせろ」。
「病気だと言ったら素直に帰ればいいじゃないか。向こうが素直でないならこっちだって意地だ。『死んだ』と言っておしまいよ」。「今、入院していると言ったばかりです」、「だから、『あれはウソで本当は死んでいます』と言いなよ」、「そんなぁ・・・、病名は?」。「杢兵衛大尽に恋い焦がれて死んだと言いなよ」。
「言いにくい事ですが、喜瀬川花魁は亡くなりました」、「なに?!おっつんだ!」、「死んだとは言えず、入院とごまかしておりましたが、御内所で本当の事を言って良いといわれ、辛い事ですが申し上げます」。と、涙声で訴えた。「喜瀬川がまだそこらに居るような気がしているが、では帰るとしようか」、「そうなさいまし」、「でも、一度帰るとなかなか出て来れないので、墓参りするか。寺は何処だ。」、「ううぅ・・・・。」、「山谷か?」、「はい、そうです」。
喜瀬川に聞かせると「バカだねぇ〜、そんな近いとこ。同じ言うなら、肥後の熊本とか北海道の旭川とか言えばいいのに。行っておいで。好きなお寺で好きなお墓を案内してあげな」。
吉原から出て案内し始めた。「山谷に着きました。どちらに行きましょうか」、「バカ野郎、散歩に来ているんじゃない」。花とお線香をドッサリ買って、迷った末に墓を見立てて花を飾り線香で煙だらけにして、字が見えないようにしていた。杢兵衛さんホロリとして手を合わせたが、墓を見ると別人。
「人様の墓の前でナミダを見せてしまった」、「こちらです」。「煙をそんなに立てるな。喜瀬川、隣で聞いていただろうが・・・、?ん?これも違う墓だ」。
「今度の墓は・・・、ちょっと待て。先に改めてからだ。なんだ、『上等兵』、戦死者の墓だ。いったいぜんたい喜瀬川の墓は何処だ」。
「へい、沢山ございますので、どうぞお見立てください」。
池袋演芸場「志ん朝一門会」より。昭和57年6月放送。
落語家おもしろ名鑑には小島貞二氏が「実力も人気も超A級、父の志ん生や兄の馬生同様名人である。二枚目の舞台役者としても年々株が上がる一方である。」と志ん朝をベタ褒めです。
1.好き嫌い
花魁だって人の子、お客の好き嫌いは当然出てくるもの。好きなお客には心躍らせ接客するが、嫌いなお客にはマニアル接待しかしない。しかし、それでは客商売にはならないので、全てのお客に愛想を振りまき「貴方だけよ」と言う事になります。それを真に受けて通うとトンだ事になります。
「女郎買い振られて帰る果報者」
あの世界に行って、振られて帰ってくれば、散財はしない。万一、いえモテて帰ってくれば続けて通いたくなるもの。当然金は使うし、仕事はおろさかになり、借金しはじめ、友人知人を、そして信用を無くします。良い事はありません。「振られて良かったですね〜」と志ん朝は言っています。
私はこの年になるまでこの意味が分かりませんでしたが、この噺を書いていて、やっと分かるようになってきました。ハイ。
でも、矢張りモテたいのが男の常。
2.お見立て
女郎が並んでいるところで、好みの女を指名する事。または入店してからお店の紹介する女郎から好みの相方を指名する事。このお見立ての瞬間がなんともゾクゾク、ワクワクするのでしょうね。そのお見立てをしないで、冷やかし(素見)だけで帰るその道のプロも居ます。
見立絵(みたてえ); 遊客が相方の遊女を選ぶこと以外にも使われる言葉ですから、気を付けてください。
例えば、主題は物語や詩歌などの古典文学によっているが、人物や場景をすべて当世風に変えて描いた、機知的な絵画。浮世絵に多い。
またヤブ医者が診断ミスをした時に「お見立て違い」とも言います。
3.吉原の投げ込み寺
浄閑寺(じょうかんじ。荒川区南千住2−1
、大関横町交差点脇) http://www.jyokanji.com/
浄閑寺は安政2年(1855)の大地震の際にたくさんの新吉原の遊女が投げ込むように葬られたことから「投込寺」と呼ばれるようになりました。花又花酔の川柳に、「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と詠まれ、新吉原総霊塔が建立されました。
檀徒のほかに、遊女やその子供の名前を記した、寛保3年(1743)から大正15年(1926)にいたる、十冊の過去帳が現存します。
遊女の暗く悲しい生涯に思いをはせて、作家永井荷風はしばしば当寺を訪れて、「今の世のわかき人々」にはじまる荷風の詩碑は、このような縁でここに建てられたものです。
(荒川区教育委員会史跡案内板より)
遊郭に身売りされた女性は戸籍も抹消されたうえ酷使、病気になっても看病をうけることもなく、身元もわからず死んでいったという。葬られた数は昭和33年に新吉原が廃止されるまでに、2万5千霊(遊廓の関係者、安政・大正の震災の羅災者なども含む)にのぼったという。昔は夜間にそっと門前に置かれていったというから、俗に「投げ込み寺」とも「供養寺」とも呼ばれていたのです。
浄閑寺にあるもうひとつのはなし、「若紫塚」
本堂すぐ脇には五日後に年期あけを控えて、男と所帯を持つ約束に胸をはずませていたのが、たまたま登楼客の凶刃に殺された哀れな若紫の墓が残っている。
本堂砌の左方に角海老若柴之墓あり。碑背の文に曰ふ。
若紫塚記。
女子姓は勝田。名はのぶ子。浪華の人。
若紫は遊君の号なり。
明治三十一年始めて新吉原角海老桜に身を沈む。
桜内一の遊妓にて姿も人も優にやさしく全盛双(なら)びなかりしが、不幸にして今とし八月廿四日思はぬ狂客の刃に罹(かか)り、
廿二歳を一期として非業の死を遂げたるは、
哀れにもまた悼ましし。
そが亡骸をこの地に埋む。法名紫雲清蓮真女といふ。
ここに有志をしてせめては幽魂を慰めばやと石に刻み、
若紫塚と名(なづ)け永く後世を弔ふことと為しぬ。噫(ああ)。
■浄土宗道哲西方寺(さいほうじ=豊島区西巣鴨4−8-43)
落語「反魂香」で訪れたお寺さんです。ここも吉原の遊女達の投げ込み寺でした。土手の道哲(浅草6−36)と呼ばれ、西方寺は関東大震災まで
浅草に有った。47話「なめる」で紹介した猿若町の北側です。吉原に行く為の山谷堀の吉野橋手前の土手下に有り、道行く遊客は土手下の西方寺を見下ろしながら、通って行った。
4.吉原の言葉
・花魁(おいらん);娼妓。女郎。江戸吉原の遊郭で、姉女郎の称。転じて一般に、上位の遊女の称。
落語国では、狐は人を騙すが尾っぽがある、女郎は騙すのが商売だが尾がない、それで『お・いらん』、と言われるようになった。とか。
・夫婦約束(めおとやくそく);口約束だけでは客は信じないので、好きで大事なお客に起請を書いて渡した。熊野の誓詞の裏に年(年期)が開けたら一緒になると言う起請文を書いて渡した。落語「三枚起請」にその辺りの情景が詳しい。喜瀬川もそのぐらいは渡していただろう。で、男はコロリと騙されてしまう。
・御内所(ごないしょ);遊女屋で、主人の居間あるいは帳場。また、主人をもいう。内所。
・
吉原の法;吉原のローカルルール。見世側の都合の悪い事は”吉原の法”だと言って客を退けた。
・明け方近くに;江戸の遊郭では”回し”が普通で何人も客が重なると、順番待ちで夜遅く(明け方近く)まで寝られなかった。杢兵衛さん、さんざん待たされた挙げ句、死んだでは納得がいかないのは当たり前。
■山谷(さんや);「弔いを山谷と聞いて親父行き」と言う程、お寺が多い吉原の隣街です。反対に「弔いを麻布と聞いて人頼み」、草深い麻布まで出掛けられないよ、と言う事でしょうか。
山谷を狭い意味で言うと住所地ですが、山谷方面というと山谷の街を中心に吉原前、山谷堀辺りまでのかなり広い地域を指しました。ここ狭義の山谷には言われる程、お寺さんは有りません
。山谷の南(今戸北側)の山谷を挟んで東西の両隣の街にはお寺さんが集まっていますので、その広い意味で言うと、お寺さんはお見立てする程有ります。
山谷は千住のコツと言われた岡場所の南側にある町。高級料亭「八百善」が有ったくらい閑静なところでしたが、近年はドヤ街として有名。簡易宿舎や立ち飲み屋が密集しています。
■野田(のだ);千葉県の北端野田市。野田醤油で有名。落語「紺屋高尾」
では醤油屋のお大尽の息子として偽って吉原に登楼する。そのぐらい野田と言えば醤油。醤油蔵元はお大尽だったのでしょう。
舞台の浄閑寺を歩く
明暦元年(1655)開創、阿弥陀如来を本尊とする浄土宗のお寺が浄閑寺。吉原(台東区千束4)の北側にあたります。ここには数々の史跡がありますが、今回はその一部の噺に関するものをピックアップして見ていきます。
新吉原総霊塔
文豪永井荷風文学碑
三遊亭歌笑塚
花又花酔(はなまた_かすい)句壁
ひまわり地蔵尊
若紫の墓
どの遊郭にもその近所には「投げ込み寺」が有ります。特に吉原は幕府公認または政府公認で遊女三千人と言われたところですから、その人数からして死者は多くの数に上がった事でしょう。その遊女達を手厚く埋葬したのではなく、投げ込むように捨てていったとは悲しむ以外にありません。
浄閑寺で墓参りしても心が晴れないのはこの事にもよります。しかし、卒塔婆が有って塔の前には花が生けてあると言う事は、誰かが手を合わせているのです。その手を合わせる人が居るだけで彼女たちが浮かばれるでしょう。合掌。
浄閑寺を出て前の道を左(東)に行くと、山谷通り(吉野通り)に出ます。左にはJR常磐線、地下鉄日比谷線が併走しています。ここのガードをくぐると左側には回向院が有ります。この回向院は小塚原処刑場の跡にその菩提を弔う為に建てられたお寺ですが、鉄道が引かれた為に南北に分断されこぢんまりとした境内になってしまいました。第7話落語「藁人形」で訪れたお寺さんですから、そこに詳しく記述しています。その前方は南千住の駅になります。この地にも岡場所という遊ぶところがありました。別名「コツ」と呼ばれたところで、安価で安易に遊べたので、吉原より落ちますが栄えていました。ダメですよ、今は探しても何処にもありません。
今来た道を戻ると、明治通りとの交差点「泪橋」(なみだばし)に出ます。この泪橋は小塚原に泪を流して別れを惜しんだというのでこの名が付いたと言われます。この交差点から南に吉野通りの両側が山谷と呼ばれドヤ街をなしています。簡易宿泊地で過去には木造2階建ての簡易宿泊所が建ち並んでいましたが、今ではホテルと言う名の宿泊所が並んでいます。日雇い労働者が泊まるだけではなく、外国からの労働者、旅行者が安価な為よく利用するようです。私はここでは夜の一人歩きはしません。浄閑寺にある「ひまわり地蔵尊」はここで宿泊している労働者のための共同墓地です。
江戸時代は逆にここは江戸の郊外、江戸のハズレで閑静なところとして人気があり、江戸の料亭として一番を誇っていた「八百善」もここにあったくらいです。山谷は泪橋から東浅草交番前までで、この道を更に南に下れば浅草に出ます。
今はこの地名はなく、台東区日本堤、東浅草2の東側、清川の西側にあたります。
八百善;「Urban Heritage Chronicle」 http://www.uhchronicle.com/a000000105/a000000105j.html ここに八百善の素敵な話があります。第98話落語「大仏餅」で訪れたところでもあります。
先ほど「八百善風」っておっしゃっていましたが、八百善の特徴は何でしょうか?
「黒豆ってご存知ですか?蜜豆の。あれは八百善が作りました。専門の器に入れて、ちゅるちゅるって、音を立てて一口で吸う。それが決まりです。それが八百善の黒豆です。あと玉子焼きは良い例でしょうか。昔は甘いものは贅沢物。八百善の玉子焼きは、切って包丁を抜くと、砂糖が糸を引くんです。金時なんかも、冷えるとゴワゴワ砂糖が浮いてくる。でも、そんな味は今は受け入れられませんよね。他の日本料理屋さんなんて、上手く付加価値をつけていますよね。例えば、牡蠣。秋に出すとき、秋らしくって赤い落ち葉を添えて出す。それが八百善だと『馬鹿やろう。味で秋を表現しろ』ということになるんです」。
「八百善」の十代目、栗山善四郎氏談、上記のホームページより一部抜粋。
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2008年6月記
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