落語「文違い」の舞台を歩く
 

  
 六代目三遊亭円生の噺「文違い」(ふみちがい)によると、
 

 内藤新宿の女郎”お杉”に真夫(まぶ)気取りで通ってくる日向屋の”半七”に 、父親からの無心だからと20両を用立ててくれと相談するが、10両しか所持金が無く困っていると、在方から来るお客”角蔵”がやって来た。「母親の病気治療に人参を呑ませるから」と無心して、馬を買う予定のお金15両を巻き上げる。半七の5両を合わせて、お杉はその20両を持って下の座敷で待っている”芳次郎”に渡す。
 芳次郎は眼病で高価なシンジュという薬で治療しないと失明するという。その治療代だと無心に来ていた。ゆっくりと逢瀬を楽しみたかったのに、芳次郎が早々に帰った後、彼が落とした手紙をお杉が拾い、読んでみると、”小筆”という女から芳次郎にきた無心の文面。「兄の欲心から、田舎の大尽の妾になれと、いやなら50両よこせの無理難題。親方が30両だけはととのえてくれたが、あと金20両に困っていたところ、新宿の女郎にてお杉とやらを眼病と偽って20両こさえて下さるとの事かたじけなく、 云々」。
 2階では、半七が、芳次郎からお杉宛の手紙を見つけ読んでみると、「・・・20両もする目薬を使わないと失明すると医者に言われたが、馴染みの日向屋の半七に父親の縁切りと偽って・・・ 云々」。
 そこにお杉が部屋にもどってきた。お互い騙されたもの同士喧嘩になる。それを、もれ聞いていた角蔵が
若い衆を呼びつけて、「前のお杉が可哀想だから止めてやってくれ」と頼むが、すぐに前言を翻して「止めておこう、言えばこの私が真夫だと分かってしまう」。
 

(どのお客も自分だけが真夫だと思っている。 一番の男は俺であり、一番の女は私なのだと。)

 


 

1.内藤新宿(ないとうしんじゅく)
  品川、板橋、千住宿の江戸四宿のひとつで、宿の規模からすると一番小さかった。飯盛り女も一段落ちた。甲州街道・青梅街道の江戸から最初の宿場。
 甲州街道】 江戸時代の五街道の一つ。江戸日本橋を起点として、内藤新宿から甲府を経て下諏訪に至り、中山道に合する。通常、新宿から石和(いさわ)までの38宿と韮崎(にらさき)から上諏訪の6宿を合わせ44宿とする。
 【青梅街道】 東京都新宿区から青梅市を経、柳沢峠を越え山梨県甲府市に至る道路。江戸時代は、甲州街道の脇街道。

 日本橋から2里(7.8km)、家数698、旅籠24、約2300人の人が住んでいた。この先の甲州街道、高井戸宿が第一宿だったが、江戸から遠かったので信州高遠藩・内藤若狭守の下屋敷の一部を幕府に返還し、元禄11年(1698)に宿駅を造った。馬継ぎの中継基地となり、町屋もでき馬市が立ち、馬喰たちで大いに賑わい、青梅街道の初宿を兼ねた。内藤新宿の名前の由来は今の新宿御苑が内藤駿河守の下屋敷だったために、新しく出来た宿場で新宿。品川と判別するため「内藤新宿」と呼んだ。江戸四宿はどこも江戸から近すぎて、旅の宿泊者は少なく、岡場所として栄えた。
  しかし、諸説有るが、岡場所として栄えすぎて、または、宿の若い者と近くの武家一党の大喧嘩があって、20年後享保3年(1718。別説では享保5年)内藤新宿は廃止されてしまう。その後再開しようという試みが何度か有ったがかなわず、54年後やっと明和9年(1772)に許可された。その後数年のうちに急激に栄えた。

  内藤新宿までは街道の両側が谷で、尾根路のようになっていて、両側は林が続いていた。吉原や品川のように駕籠や舟が使えず、もっぱら馬が使われた。「四ッ谷街道、馬のくそ」と言う悪口も聞かれた。広重の浮世絵「四ッ谷内藤新宿」(上図)も、馬のお尻と馬糞が大きく描かれた町並みで紹介されている。角蔵さんが馬を買いに来たのもうなずけます。

 今の新宿通りが国道20号線甲州街道で旧道もここを通っていた。江戸に近い四谷4丁目に大木戸があって、ここからが内藤新宿で宿場の内、手前大木戸より3分の1が下町、次が中(仲、地図によって表記が違う)町、新宿追分けまでが上町と言った。宿場の長さ約1kmほどで、後年この新宿追分けを中心に宿場が伸びて大きくなった。新宿3丁目の交差点、伊勢丹デパートが有る交差点が新宿追分で、このまま 真っ直ぐ行くと青梅街道、左に直角に曲がると甲州街道です。甲州街道はこの先すぐ、右に曲がり小文字の”h”の様に曲がっていた。今はJR新宿駅南口を大きな橋で渡っている。当然当時は無かったが、街道は同じ所を走っていた。青梅街道は今はJR新宿駅北口を大ガードの下をくぐり抜けています。

 この噺では芳次郎から小筆が受け取るであろう20両。その金20両もまた次の男へ、そしてまた・・・と、この噺の枠の外で、20両があっちに行ったり、こっちに来たり、終わりがないのでは、と思わせます。
 また「虚構の世界で、嘘を嘘と百も承知のうえでの遊びであった。」と言うが、私はそこまで徹することが出来るだろうか。「遊びとは嘘と実の間だの世界」だと思うのですが、甘いだろうか。この登場人物達も虚構の世界に居ながら、自分だけは皆とは違うという、うぬぼれと、誤解が生んだ人間模様ですが、恨みきれない人の性が見えてきます。手練手管のお杉さんが可愛く思えてくるのは何故でしょうか。
 

2.遊里での遊びについて
 元遊郭(貸座敷)の楼主の若旦那で、自分の代で遊郭を閉めた秋谷勝三氏の手記から引用させていただく。

 私は、「遊び」を考えるとき、いつもその時代の背景にあったものを忘れてはいけない、そう思っている。貸座敷は当時の男にとって一種の性教育の場であり、遊びを学ぶ場所でもあった。それは大正という、あの時代の考え方であった。女遊びそのものに対して、世間から後ろ指をさされるような事はそれほど無かったし、それどころか「女郎買いひとつ出来ないようじゃ、一人前の男じゃねえ」というのが、男同士のもっぱらの風潮でもあった。
 私は決して、ことさらに貸座敷を美化したり擁護したりするつもりはない。
 貸座敷で働く女達も、巷間言われるほど、全部が全部人身売買による悲劇の持ち主であったわけではなかった。
 初めての見ず知らずの男と床を共にするのは、だれしも嫌なことであった。それが出来るのは、親のため、兄弟姉妹のためという心根を支えに持っていたからでもある。
 勿論、その本質として、女には体の構造上からいっても、一晩に何人もの相手を勤めることが出来ると言うことがある。さらに、こうした貸座敷で働くことは、家にいる時よりもはるかに贅沢な暮らしが出来る・・・そんなことも、女達が我慢できる点でもあった。
 「芸者すりゃこそ御召(おめし)の着物、家じゃお飯(おめし)も食いかねる」
 昭和に入ってからでも、ある地方では娘が妾(めかけ)になると、赤飯で祝う風習があったものである。私はその席に呼ばれたことがある。娼妓達は、決して不幸ばかりとは言えないところがあったのである。
 男にしろ女にしろ、貸座敷とはそうした男と女の本質を見据えた上で、
虚構の世界で、嘘を嘘と百も承知のうえでの遊びであった。それは子供達がやる”ままごと遊び”と相通ずるものなのである。
 中身は例え土の入ったプラスチックの容器であっても、当の子供達にとっては、それがご飯であり、茶碗であるのと同じで、貸座敷に上がる客の敵娼(あいかた)となる娼妓は、これから何人もの男を相手にするか知らないが、その場においては、客の「一夜妻」なのであって、仮初め(かりそめ)の夫婦になったのである。それは約束事であり、お見立てなのである。
 そう思えばこそ、遊びも成立する。情が出てくるし、いたわりも出てくるのである。決してバタンキューだけがあの遊びの全てではなかった。それは、物を媒介として真心を売った商人とまるっきり同じである。
 売るからには、たとえ悪いものでも良くして売る。たとえマズイ娼妓でも、どこか取り柄を作ってやらなければいけない。妙なもので、美人だから客が付くとは限らないのが遊びの世界である。顔かたちは二番でも実に客の良く付く女もいる。その原因は結局、女の持ち味、つまり気風が、ものを言うのである。
 そうして遊びに来る客も、相手に良くして貰いたければ先に情をかけ、いたわりを持たなければいけなくなる。実意と建て引きの精神は、こうした貸座敷の遊びでも生かされていた。いや、むしろそうするのが東京の遊び方であったと私は思う。
 建前と本音、物事にはいつもその両方がある。それを建前だけ、あるいは本音だけで通していたのでは、色気も、情もない。貸座敷はそのところを、情でうまく包んで売るのである。そこが遊びの面白さなのである。
 「思い出すよじゃ惚れようが薄い、思い出さずに忘れずに」
貸座敷の遊びを思う時、情こそ、郭の約束事の根本だった。

 「品川宿遊里三代」 秋谷勝三著 青蛙房より抜粋
 

3.娼妓の奉公年数について、
 昭和の初め頃、普通1千円から3千円位の前借りで就業したのが、年限の半ばで完済、廃業という者も少なくない。が、旅籠屋飯盛り女時代、年季奉公の名義の下で、多いのは二百両、少ないのは二、三十両で身柄を旅籠屋に売り渡された。法令の保護のない時代、文字通りの業界で、幸い中途で身請け、廃業する者は別として、時には四十を越して、なお、客に接していた者もあったという。これについては正確な年代はもう分からなくなったが、一時娼妓の年齢を、吉原では25まで、品川では26までとしたことがあった。
 娼妓取締規則が発布されるようになってからは、稼業年齢も最長6年と短縮された。官憲の保護も行き届き、楼主側の覚醒もあって、年限が満了すれば債務の有無に拘わらず自由に廃業することが出来る上に、その所得も例月精算することになっていたから、年限の半ばで前借りを完済して廃業する者も多かった。

 「品川宿遊里三代」 秋谷勝三著 青蛙房より抜粋

 娼妓取締規則;内務省令第44号で、娼妓稼業に関する取締法規。明治33年(1900)10月20日発布され、昭和21年(1946)廃止された。
 満18歳以上の女性で、娼妓所在地所轄警察署に備える娼妓名簿に登録されたものでなければ娼妓稼をなすことができない(1条、2条)。とあり、娼妓を一人前の職業人としてとらえた規則。


4.真珠(しんじゅ)
 ウグイスガイ科やイシガイ科などの貝の体内にできる球体を真珠といい、その貝殻の真珠層を珍じゅ母(ちんじゅも)という。本邦ではウグイスガイ科のアコヤガイが有名である。 装飾用にならない「シジミ真珠」を薬用にする。 真珠の成分は殆どが炭酸カルシウムで、有機物としていくつかのアミノ酸を含んでいる。薬理的には抗ヒスタミン作用が知られている。動悸、心悸亢進には単味で使用され、高熱による痙攣には犀角あるいは石膏と併用する。 消化性潰瘍には単独でも使用され、甲状腺ガンには他の漢方薬と配合される。 又、結膜炎には内服し、角膜混濁には点眼薬として外用する。 江戸時代以来、目薬に配合されていた。

 


 

  舞台の内藤新宿を歩く
 

 今の新宿は大きく分けて、南北に走るJR山手線を境に西側がオフィス街、東側が歓楽街と商店街に分かれています。
 新宿駅の西側は都庁を含む高層ビル群のオフィス街で、此処はもと淀橋浄水場が有ったところで、そこに一大高層ビル都市が出現した。別名、新宿副都心。昼の人口は大変なものだが、夜の人口は山奥よりも少ないのではないかと思わせます。JR東日本調べ(99年)によると、新宿駅は日本1の乗降人員で756,772人が利用しています。ちなみに、2位池袋57万人、3位渋谷42万人、東京駅は5位で38万人(江東区の人口38万人と同じです。2000年10月現在)、上野は10位。
 反対に東側は北よりの歌舞伎町が一大性産業の歓楽街です。この中に新宿区役所の本庁舎が有るのが、新宿区を象徴していておもしろい。西側とは逆に夜の人口がすさまじく、朝が明るくなってもまだ人出は切れず、出勤時のサラリーマンとごちゃ混ぜになります。

 靖国通りを渡り南側、新宿3丁目は駅前商店街で、デパートや有名店が軒を連ねています。駅を含め、大商店街で、場外馬券場のJRAウインズは甲州街道の陸橋を渡った4丁目にあります。

 新宿3丁目の交差点、新宿追分けを渡った東側に、世界的に(?)有名な落語界の聖地「新宿末広亭」(新宿3−6)が昔ながらの風情を残してガンバっています。

 更に東に新宿通りを進むと新宿2丁目、此処は元赤線の有った所で、今もその様な店もちらほらと見受けますが、歌舞伎町にはかなわない。花園公園とか花園通りという色っぽい名前の路も有りますが、そこで驚いてはいけません、1丁目には花園小学校(新宿1−22−1)や花園幼稚園も有ります。昭和のつい最近まで、新宿1丁目の北半分は花園町と言われていた、その名残。大木戸の交差点に近づくにしたがい赤い提灯の数が少なくなるどころか、変わらない賑やかさです。しかし、内藤新宿のざわめきは歌舞伎町に完全に移ってしまいました。

  靖国通りに面した、成覚寺(新宿2−15)に立ち寄ります。ここは内藤新宿の女郎達の投げ込み寺として有名で、旭地蔵と子供合埋碑が、入り口階段を下りた左側に建っています。
 旭地蔵は石像で、蓮座と反花の間だに18人の戒名が記されています。これらの人々は、寛政12年〜文化10年(1800〜1814)の間に宿場内で不慮の死を遂げた人達で、その内7組がなさぬ仲を悲観して心中した男女だと分かります。これを哀れみ寛政12年7月に宿場で寄進し玉川上水の北岸に建立したもの。明治12年(1879)道路拡張の為ここに移された。別名、夜泣き地蔵とも呼ばれた。
 子供合埋碑が隣なりに建ちます。子供とは女郎のことを指し、彼女達を弔うために作られた共同埋葬の墓じるしであった。
 『宿場町新宿が生み出した悲しい男女の情愛と、宿場町を陰から支えた彼女達の存在が、新宿発展の一面を物語る貴重な歴史資料である。』教育委員会書。
 どちらも、誰が供えたのか、花と線香が手向けられているのが、わずかながらの救いを感じます。合掌。歴史をひもとくと、どうしても避けて通れない一面です。江戸四宿どこにも投げ込み寺はありましたが、ここで代表して(?)記しておきます。

 本題からはずれて三遊亭円朝の旧居跡を訪ねます。きれいに整備された花園公園(新宿1−22、花園小学校隣)の一角にこの碑が建っています。
 説明文より『このあたりは、明治落語界を代表する落語家三遊亭円朝(1839−1900)が、明治21年から28年(1888−1895)まで住んでいた。円朝は江戸湯島の生まれで7才の時小円太の名前で初高座をふみ、9才で2代目円生の門下に入門した。話術に長じ、人物の性格、情感を巧みに表現し落語を大成した。制作にも優れ、自作自演に非凡な芸を残し、いくつかの人情噺を完成させた。代表作に「塩原多助」「怪談牡丹灯籠」「名人長二」等がある。
 屋敷地は約千平方メートルで、周囲を四つ目垣で囲い孟宗竹の藪、桧、杉、の植え込み、回遊式庭園などがあり廊下でつづいた離れは円通堂と呼ばれ、円朝の居宅になっていた。
 新宿在住時の円朝は、明治24年以降寄席から身を引き、もっぱら禅や茶道に心を寄せていたという。
』 
以上、新宿教育委員会。
 この説明から、敷地は小学校とこの公園を含む全域であったと思われます。円朝はご存じ落語界の神様で、中興の祖と言われる名人中の名人で、名跡を継ぐ話が出ても、その重さにだれ一人受けるものが未だいません。
 創作噺の内、寄席でお客様からお題を3つもらい、即席で落語を創り演じる、三題噺は特に上手く、「芝浜」「文七元結」等があり、「真景累ケ淵」「双蝶々」「江島屋騒動」「心中時雨傘」など数え上げたらきりがありません。
  また、速記本では円朝の落語「怪談牡丹灯籠」(1884年刊)が、講談本を含めて最初のものとされています。

 元に戻り、新宿御苑に出ます。ここは例の内藤駿河守の下屋敷の跡ですが、今は都立の庭園になっていて誰でも入園料さえ払えば入れます。此処で催される春の園遊会は有名で、私なぞいつも電話で断っている(?)。ここの地名が内藤町。入り口の名前、大木戸門、すなわち四ツ谷4丁目交差点に近い所に有るからでしょう。
 新宿通りの南側、御苑の北側を大木戸から並行して新宿御苑に沿って走る細い道は玉川上水の跡で、今は埋め立てられて有りませんが、その跡が道になった。大木戸には水番所も有った。

 今の四ツ谷4丁目交差点に大木戸が有った。御苑と四ツ谷4丁目交差点の間に大きなシルバー色のビルがあります。これは新宿区文化センターで、区役所、保健所、ホールといろいろな施設が入っていますが、異色の水道局が入居しています。これは、江戸時代、玉川上水が川として流れてきたものが、ここから地下に入り木管や石管を使って江戸市中まで送られた。元ここに水番所が有って、水量の調節やゴミの除去をしていた。水を汚すことや洗濯、魚取りは厳重に取り締まられた。その水番所跡の碑が文化センターの四ツ谷4丁目交差点よりに建てられていますし、大木戸門跡の碑も有ります。
 

地図

    地図をクリックすると大きな地図になります。

写真

それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。2000年に撮られた写真

新宿追分け、今の新宿3丁目の交差点。
四ツ谷(宿場内)方向より、新宿駅(青梅街道)方向を見る。この交差点を左折すると、甲州街道。次の信号を右折すると、新宿駅南口の橋を渡り、甲府までつながっています。右側のビルが伊勢丹デパート。左先、三越。その先右側、マルイ。その先TVでおなじみ、スタジオアルタ。その前が新宿駅。
新宿末広亭
落語界のメッカ。和風作りの寄席は東京では此処だけになってしまった。逆に趣と風情がフアンとしてはなんとも、たまらない。当分存続することが決まっています。
三遊亭円朝の旧居跡
新宿区指定有形文化財歴史資料に指定されています。
61才で亡くなり、晩年禅や茶道に心を寄せていたのを見ると敷地の大きさより、心の大きさに驚く。
当時新宿は田舎で、円生ですら新宿(柏木=西新宿)に住んでいると言うと、ひいき筋に「可哀想に」とか「大変ですね」とか言われていた。
成覚寺の旭地蔵
新宿区指定有形文化財歴史資料に指定されています。
投げ込み寺は遊郭のそばには当然どこにもあった。しかし、心中に対しての地蔵尊は珍しいのでは。
ただ手を合わせるのみ。素朴できれいなお地蔵さんです。
新宿御苑
内藤駿河守の下屋敷の跡です。
広大な洋式庭園と日本式庭園を併せ持った、素晴らしい都立の公園です。休みの日には家族連れやアベックがつめかけて楽しんでいます。
四谷大木戸跡の碑
新宿区指定有形文化財歴史資料に指定されている碑。
隣に玉川上水開削の由来を記した高さ4.6mの大きな石碑があります。
大木戸跡の碑は高さ約1m位の碑ですが、この石は地下に埋められていた玉川上水の水道用の石管を発掘、それを碑にしたもの。
大木戸はここ四ツ谷4丁目交差点にあった。大木戸から内側は江戸で、外側は治外法権?であった。四宿全て大木戸から外は権外であった。
四ツ谷4丁目交差点
四ツ谷(都心)方向から新宿方面を見る。中央の大きなシルバー色のビルは、新宿区文化センターで、区のいろいろな施設と、水道局が入居しています。その手前下に、水番所跡の碑が有ります。
この交差点からYの字になって、左が近年出来た地下道で御苑の下を通り、駅南口の甲州街道に直結しています。右は新宿通り、旧内藤新宿です。と言っても、すごい繁華街なのですが。(目のいい人は分かりますか?右側のビル、あるプロダクションのビルです)

                                                    初版:2000年記
                                                  改訂版:2009年6月記
                                                 

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