落語「城木屋」の舞台を歩く
桂歌丸の噺、「城木屋」(しろきや。白木屋)によると。
お客様からもらった題名の『伊勢の壺屋の煙草入れ』、『東海道五十三次』は当時の人は周知の事実。『江戸一番の評判の美人』は誰にするかで迷ったが、日本橋新材木町二丁目に、城木屋正左衛門の一人娘”お駒”さんと言う大変な美人がいました。そのお駒さんにして、噺が始まります。
『江戸一番の評判の美人』がいる城木屋のお駒さん。その城木屋の一番番頭に丈八さんがいた。この丈八さんはお駒さんと対照的に一点非の打ちどころが無い醜男であった。そこまで言うかと言う程、上から下まで良いところがなかった。
その丈八さんが、江戸一番の美女に恋い焦がれてしまった。当時は主従の間違いは御法度であった。
廊下ですれ違うと、お駒さんの袖を引いたりしたが、お駒さんは丈八のどこも嫌いであった。嫌だとハッキリ言えば良かったが、大店のお嬢さん、気にも留めず無視をしていた。”振られれば振られる程燃え上がる火事場の纏”状態に丈八さんはなっていった。ある時、袂に恋文を投げ込んだが、お駒さんは無視をしていたが、母親がそれを見つけた。下品な言葉が並んでいた。
番頭の丈八を母親は部屋に呼び出した。「この付け文は何なのですか。これは貴方が書いたとは思えません。誰かが貴方を陥れようと企んだものです。でも、それは貴方にスキがあるからで、今後は注意をしてください。」と、丈八は真綿で首を絞められるようであった。それ以来、みんなが知るところとなって、振られ番頭、バカ番頭と罵られるようになってしまった。丈八の心まで曲がって、店の手文庫から100両の金を盗んで、生まれ故郷の駿河の”府中”に逃げてしまった。
金が無くなってきたとき、お駒さんが婿を取ると噂が聞こえてきた。
二人で死んだら心中と噂になるであろうと、江戸に出てきて安物の刀を手に入れ、お駒さんの寝所に忍び込んだ。寝顔が綺麗であった。お駒さんが気が付いて「泥棒〜っ!」と叫んだ。刀を布団に刺したが、お駒さんを外して根田まで突き通して抜けなくなってしまった。店中で「泥棒だ〜」と騒がしくなって、丈八はそのまま逃げ出した。
あとに残ったのは、刀と落ちていた丈八お気に入りの『伊勢の壺屋の煙草入れ』であった。
奉行所に届け出て、丈八御用となった。
丈八を取り調べるのは、ここでも名奉行の大岡越前。
越前から、この一件は事実かと聞かれ、否認する丈八。
付け文、刀、伊勢の壺屋の煙草入れを証拠に突きつけられ、100両盗んだ上にお駒さんを殺害するとは不届きであると、キツクとがめられた。
「白状申し上げます。お嬢様の事は、もう〜『東海道五十三次』より思い詰めたことでございます。花の下も日本橋、お駒さまの色品川に迷い、川崎ざきの評判にもあんな女を神奈(かんな)川に持ったなら、さぞ程もよし保土ヶ谷と、戸塚まえてくどいてみたが頭(かぶり)も藤沢、平塚ぬ間も大磯っと婿話。どうかこの事が小田原になればよいと、箱根の山ほど夢にも三島、たとえ沼津、食わずにおりましても原は吉原、いまいましいと蒲原立てても、口には由比かね、寝つ興津、江尻もじりいたしておりました。」
越前 「これこれ、東海道を仔細にわたって申し述べたな。してその方の生れは・・・」
丈八 「駿河の御城下でございます。」
越前 「府中(不忠)ものめが」
。
1.三題噺
三題噺と言うとすぐに思い付くのが、圓朝の「鰍沢」「大仏餅」「芝浜」それにこの「城木屋」あたりでしょう。
落語「城木屋」は『江戸一番の評判の美人』、『伊勢の壺屋の煙草入れ』、『東海道五十三次』と言う、初代、三笑亭可樂がお客さんからいただいた題です。
この題三つを噺の中に入れ、即興で作って高座で口演します。創作力、広い知識、落語の技量、等がないと落語になりません。その時は逃げおおせても、後世に残る名作になるには余程の力がないと勤まらないでしょう。
■『江戸一番の評判の美人』;誰にしようか大変困って考えたが、当時、日本橋新材木町二丁目に、城木屋正左衛門の一人娘”お駒”と言う大変な美人がいました。そのお駒さんを主人公にしました。
歌丸が言う、まず昔のいい女=お駒さんはと言うと、
「髪はカラスの濡れ羽色」、「三国を自慢で見せる富士額」、「眉毛は山谷の三ヶ月眉毛」、「目はパッチリと鈴を張ったような黒目がち」と。顔ばかりではなく「胸は大きからず小さからず」、「腰は風にナヨナヨ柳腰。有るか無いか分からないような幽霊ゲツ」。お駒さんの容姿はどれも備わった美女であった。「いにしえの美女に例えるなら、普賢菩薩の再来か常磐御前か袈裟(今朝)御前、お昼の御膳はもう済んだ
」。
円生では「胸にアザが出来たのかと思ったら、今朝の御膳にいただいた味噌汁の、ワカメが胸に引っかかっていて、それが透けて見えた。」と言っています。
見せる方もよく見せますが、それなら相方の見る方に回りたいものです。
その美女を図版に見る事が出来ます。左;鈴木春信「おせん茶屋」部分の、お仙です。 明和年間(1764〜72年) たばこと塩の博物館蔵。
右;楊枝屋柳屋の娘「お藤」ちゃん、奥村利信画。東京国立博物館所蔵。
お仙は、江戸は谷中笠森稲荷の水茶屋「鍵屋」で給仕する看板娘であった。そのお仙、見たさにお稲荷さんへ参詣する客が絶えなかったという。3、4年ほどこの茶屋で働いていた後は
、笠森稲荷の勧請者(地主)といわれる倉地家の息子・政之助(幕府お庭番)と結婚し、武家の内儀として子供も授かり平穏な一生を終わった。
ちなみに、「明和の三美人」とは、このお仙と、浅草観音の奥山の楊枝屋柳屋の娘「お藤」、それに二十軒茶屋の蔦屋の「およし」であった。
■『伊勢の壺屋の煙草入れ』;伊勢のおかげ横丁の「壺屋の煙草入れ」
屋
紙を革に似せて加工した「擬革紙(ぎかくし)」で作った、壺屋の煙草入れが、お伊勢詣りのお土産として江戸でも人気がありました。
「夕立や 伊勢の壺屋の煙草入れ 古なる光る強い紙なり」
これは、下の句、古なる光る強い紙なり=降る、鳴る、光る、強い雷とうたわれた蜀山人の狂歌です。
写真;伊勢の壺屋(とこさん提供)
壺屋紙とは、和紙を固め、油を引き、型押しされた擬革紙です。本物の革製品のように作られていました。
稲木村の壺屋池部清兵衛は、この煙草入れによって巨万の富を得たといわれています。明治の初年頃まで盛んに製造していました。
しかし、参宮線の鉄道が敷設され、旅客の多くが鉄道を利用するようになって、伊勢街道はまったくさびれてしまったことと、特許や登録商標制度の無い時代、他に類似の製造者が続出しました。いずれも、店頭で壺屋本家の称号をかかげて、これを売り、店数は数百に及んだことが原因で、本家は次第に衰退し、廃絶してしまった。今は、その屋敷跡の一部だけが稲木の伊勢街道沿いに残っています。まだ、そのコピー煙草入れが今でも売られていて、伊勢参宮の名物土産として、壺屋紙の煙草入れは有名です。
写真;「壺屋の煙草入れ」、擬革紙で作られた煙草入れ。日本たばこホームページより「紙の博物館所蔵」。
王子、飛鳥山にある「紙の博物館」で上記、擬革紙で作られた煙草入れの話を聞かせてもらいました。常時展示品ではないので、実物を見学する事は出来ませんでしたが、学芸員さんの話では、革との区別はまったく付かないと言っています。
■『東海道五十三次』;広重の五十三次より
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1.日本橋 朝之景 |
2.品川 日の出 |
3.川崎 六郷渡船 |
4.神奈川 台之景 |
5.保土ヶ谷 新町橋 |
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6.戸塚 元町別道 |
7.藤沢 遊行寺 |
8.平塚 縄手道 |
9.大磯 虎ヶ雨 |
10.小田原 酒匂川 |
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11.箱根 湖水図 |
12.三島 朝霧 |
13.沼津 黄昏図 |
14.原 朝之富士 |
15.吉原 左富士 |
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16.蒲原 夜之雪 |
17.由井 薩スイ嶺 |
18.興津 興津川 |
19.江尻 三保遠望 |
20.府中 阿倍川 |
丈八が大岡越前に陳述するには、「白状申し上げます。お嬢様の事は、もう〜東海道五十三次より思い詰めたことでございます。花の下も日本橋、お駒さまの色品川に迷い、川崎ざきの評判にもあんな女
を神奈(かんな)川に持ったなら、さぞ程もよし保土ヶ谷と、戸塚まいてくどいてみたが頭(かぶり)も藤沢、平塚ぬ間も大磯っと婿話、どうかこの事が小田原になればよいと、箱根の山ほど夢にも三島、たとえ沼津、食わずにおりましても原は吉原、いまいましいと蒲原立てても、口には由比かね、寝つ興津、江尻もじりいたしておりました」。
「で、生国は府中? 不忠者めが」。
東京近郊にお住まいの方は、府中と言えば都内西方の府中競馬場のある府中市をすぐ思い浮かべます。ここでは東海道の宿駅を言っていますので、駿河の府中(駿府)の事です。今の静岡県静岡市で、東海道線の駅で言えば、静岡駅になります。
広重五十三次の安倍川は次の宿駅鞠子との間にある川を画いていますが、川の手前にある老舗石部屋の安倍川餅が有名でした。
2.日本橋新材木町
城木屋のお駒さんが住んでいたところ。
日本橋新材木町(中央区日本橋堀留町1丁目椙森神社の西側一帯)。
椙森(すぎのもり)神社(日本橋掘留町1-10-2)、は落語「宿屋の富」で歩いたところで、平安時代の末に平将門が信仰したと伝える古社で、のちには江戸城主の太田道灌の厚い信仰もうけたといわれています。江戸時代には江戸三森の一つとして繁栄し、境内で社殿修造のために、「富くじ興行」を行った神社として有名です。
この街は江戸時代以来、大商店や、問屋が集住する町として発展してきました。特に元和年間(1615〜24)から材木商がここに多く住むようになった。
新材木町は、その昔、「芝原宿」と呼ばれた村落だったと伝えられています。元和年間(1615〜24)の頃から材木を扱う商人が多く住んでいたので、そこから町名が生まれたといわれています。新材木町の西河岸を別に「お万河岸」と呼んでいました。徳川家康の愛妾お万の方の化粧科所があった所との説もあります。(『江戸名所志』他)。
江戸橋の本材木町に対して新を頭に付けて区別した。後年、江戸で火災が発生するたびに、ここの材木によって被害が大きくなった。
深川一帯は、明暦の大火のあと埋め立てが進み、市街地として繁栄していきますが、材木商は隅田川の東に強制的に移転させられて、深川木場の誕生となります。
3.奉行所と大岡越前守
江戸の奉行所は南と北の二つの町奉行があった。交代で月番制をとり、月番の町奉行は午前10時に登城し、午後2時頃退出してから町奉行所で訴訟・請願その他の仕事をした。また、内寄合(ないよりあい)という月番奉行所の役宅内での両奉行の協議を、月に3回ほど行い、連絡を密にしていた。非番の町奉行所は正門(大門)を閉ざして、その月は新たな訴訟や請願を受け付けない。しかし、仕事そのものは継続して行っていた。
南町奉行所は今の有楽町マリオン北側のところ。北町奉行所は東京駅八重洲口北側高層ビルのところに有りました。
大岡越前守は大岡忠相(おおおか ただすけ)のことで、延宝5年(1677)大岡忠高の三男に生まれ、享保2年(1717)、41歳の若さで江戸の花形奉行といわれる町奉行に抜擢された。晩年、60才の時に外桜田に屋敷を与えられ、寺社奉行を勤める。八代将軍徳川吉宗に登用されて裁断公正、名判官と称せられた。「大岡裁き」は、裁判に取材した小説・講談・落語・脚本などで、和漢の裁判説話によって作られたものが非常に多いのが特徴で、これも名奉行だったので、いいものは皆彼の手柄になってしまった。越前守は72才で三河国西大平藩(現岡崎市内)に任じられ一万石の大名になる。
大岡政談を扱った落語には、この「城木屋」、「大工調べ」や「五貫裁き」、
「小間物屋政談」、「唐茄子屋(唐茄子屋政談)」、「三方一両損」などが有ります。
この噺の元になった城木屋のゴタゴタを描いた経緯は「髪結新三」で語られています。
舞台の椙森神社を歩く
椙森、私だけでしょうか、何回この字を見ても読めないのでルビを振ります(-_-;)。椙森(スギノモリ)神社は日本橋堀留
(ほりどめ)町にあり、広い一方通行の表通りの水天宮通りからは路地で入った所に有ります(写真)。
この掘留町の由来は、東堀留川が1丁目の西で止まっていたので「ほりどめ」といわれたと伝えられています。その東堀留川とこの椙森神社に挟まれた所が過日、日本橋新材木町と呼ばれ、江戸一の美女お駒さんが住んでいたのです。今この地を歩いても、商社や商店、オフィスビルが林立していて地元に住む住人が少なくなって、美女を捜すのが難しくなっています。ここに勤めで通ってくる美女を10人足して10で割っても、いえ足しただけでも、お駒さんの美しさにはかなわないでしょう。なにせ、「ミス江戸グランドチャンピオン」ですから。
この地は落語の舞台が目白押しです。
西に歩けば日本橋室町に出ます。日本国道路元標がある日本橋で、落語「百川」では田舎出の”百兵衛さん”が三光新道に常磐津の師匠を迎えに行く道です。
椙森神社の西側は小伝馬町と言われ、牢屋敷があったところです。椙森神社の北側は田所町です。思い出してください。あのウブな若旦那が茶屋で挨拶します「日本橋田所町三丁目日向屋半兵衛のせがれ時次郎と申します」と。落語「明烏」の若旦那の住まいです。
人形町通りを南に歩けば長谷川町三光新道で奥に三光稲荷があります。常磐津の”歌女文字”師匠や落語「天災」の”紅羅坊名丸”心学先生、落語「派手彦」の踊りの師匠、”板東お彦”などそうそうたる落語文化人が住んでいました。この南側に史跡
・玄冶店(げんやだな)「お富与三郎」、その南側は人形町の交差点。ここの北側は明暦の大火まで元吉原と言われ遊郭があった所です。今でも小粋な店が沢山あって、休みの日には観光マップを持参で散策に来る人達で賑わいます。
南に下ると水天宮の交差点。角に安産の神様水天宮が有ります。
ここを右に曲がると、小網町。コアミチョウと聞いただけであの甘美な雷の夜を連想させる落語「宮戸川」主人公”お花・半七”が住んでいた所です。
地図をクリックすると大きな地図になります。
それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。
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椙森神社(すぎのもり_じんじゃ。中央区日本橋
堀留一丁目10−2)
社伝によれば平安時代からあったという古社です。江戸時代は富興行が盛んに行われた事で有名です。
それ以上に、落語「宿屋の富」で有名です。
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日本橋新材木町(中央区日本橋堀留1丁目・椙森神社の西側一帯)。
今は材木屋さんが有る訳ではなく、ごく普通のビジネス街です。
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南町奉行所跡(
有楽町・マリオン)
「三方一両損」などで何回か訪れているマリオンですが、今回は裏側から見ています。右側がJRの高架線と有楽町駅。中央奥2棟並んでいるのがマリオンでそこの手前が南町奉行所が有ったところです。左側の建物が東京交通会館。その間に挟まれた丸味のある建物が、現在再開発が進んでいる所で、地権者が入る四角い低層棟と丸井とオフィスが入る高層棟があります。今年10月オープン。
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北町奉行所跡(東京駅八重洲口北)
八重洲には只今建設中の2棟の超高層ビルがあります。
「グラントウキョウ ノースタワー」(左写真の右側)の低層階に大丸(左写真の中央)が今年の秋に引っ越して来ます。その場所に北町奉行所がありました。今年11月オープン。
右写真の高層ビル。
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日本橋
ここも何度も訪れているところです。だからといって、どの写真も毎回撮り直している最新版です。
写真左は日本橋の上から神田方向を見ています。(下のジオラマと対比)
右の写真は道の起点・日本橋の特徴を著すモニュメント。ポールは「日本国道路原標」柱。その後撤去されて今は橋の中央にプレートが置かれています。手前はそのレプリカ。
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日本橋ジオラマ
江戸時代の日本橋とその賑わいをえがいたジオラマ。上記写真と同じ方向を見ています。手前日本橋、渡って右に折れると魚河岸、真すぐな道が中央通り、道の左側奥に
越後屋(三越)が有りました。
江戸東京博物館にて
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品川(北品川一丁目)
旧東海道の最初の宿駅品川宿です。落語「品川心中」で訪れたところですが、今は品川駅東側が再開発されて、遠景には高層ビル群が写っています。手前の船溜まりは昔ながらの風情を残しています。
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2007年9月記
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