落語「搗屋無間」の舞台を歩く
   

 

 八代目春風亭柳枝の噺、「搗屋無間」(つきやむげん)

 

 当時、日本橋人形町に搗米屋の越前屋が有った。そこに13年も奉公している米搗きの徳兵衛さんが、まじめで堅い一方で、休みでも遊び一つしたことがないので、14~5両の預け金が出来ていた。

 その徳さんがブラブラ病。そこに葭町(よしちょう)の幇間・聚楽(じゅらく)がやって来て主人からその話を聞き、徳さんを見舞った。聞き出すと「休みをもらって外に出たが行くところが分からない。両国の絵双紙屋に入って見ていたら、錦絵のこの女が気に入って買ってきたが、何を見てもこの女(あま)っ子に見える」、「それは恋煩いだ」。見るとそれは、吉原で全盛の松葉屋丸山花魁だった。

 聚楽が言うには「丸山花魁は大名道具だが売り物、買い物、丸山花魁とはじっこんだから逢わせてあげよう。ただし、10両の金が要る。それと、一晩だけであきらめて欲しいし、その上、その晩に先約が有って逢えるかどうかは分からない。それを承知してくれたら連れて行こう」。
 髪結い床とお湯屋に行かせた。
 親方に徳さんの恋煩いの事を話し、10両出して貰った。着物は損料屋から借りて、雪駄は親方のを借りて二人で出掛けたが、道々聚楽は注意を与えた。
 向こうに着いたら仕事を聞かれるから、上総のお大尽にする。聚楽と呼び捨てにする。手の杵搗きダコは、鼓(つづみ)ダコだとしよう。
 もう、ここは土手八丁、そして、衣紋坂、向こうに見えるのが見返り柳、大門をくぐると仲之町、縁日のように賑やかだ。

 お茶屋に入って、徳さんの経緯を話し、女将に聚楽の紹介で松葉屋丸山花魁を名指しし、2階に上がったら下から雪駄が無いという。「親方の雪駄だから懐にしまってある」。
 上総のお大尽と言うことで座敷に芸者衆が上がってきた。ボロが出る前に見世に送り出した。丸山花魁の部屋に通され、手のタコの事、等々聞かれるたびに聚楽は、はらはら落ち着けない。

 翌朝、(はい、もう朝です) 後朝(きぬぎぬ)の別れ「主はいつ裏を返してくんなます」、徳さん、ポロポロと涙を流し「13年後」、「13年後とは」、今までのことを全て話してしまった。
 情にほだされて「わちきが主を呼び通します」と言って遊んでくれたが、徳兵衛という真夫(まぶ)が出来たという噂が立ち、バッタリと客足が途絶えた。為に、丸山花魁に金が無くなり二人は逢えなくなってしまった。

 徳兵衛さん、親方の二階でまた、伏せってしまった。

 徳兵衛さん、ある晩、思い詰めて居ると閃いた。昔、梅ケ枝(うめがえ)という傾城は、無間の鐘(むげんのかね)をついて三百両の金を得たと浄瑠璃で聞いたことがあるが、たとえ地獄に堕ちても金が欲しいと、店先にあった大道臼を杵で一心不乱に搗いた。
 その一心が通じたか、バラバラと小判が出て、数えてみると二百七十両。
「三百両には三十両不足。よ~く考えたら、一割の搗き減りがした」。

 



1.搗米屋
 店を構え臼をしつらえ、玄米を臼で挽いて、その精白した米を売る、お米屋さん。

 店の床に穴を掘り石で出来た臼をしつらえ、シーソーの足踏み式杵で搗いた。 右隅に臼杵が置いてあります。
上図;深川江戸資料館にて。

大道臼(おおどううす);搗米屋が店の前に転がしておく、米つき用の大臼。また、看板用の大臼。お得意さんに頼まれると、臼を持って顧客の家で搗いた。
 右図、臼を転がしてお得意さんの自宅まで出向き、そこで精米をした。熈代照覧より

搗き減り(つきべり);搗き男の給金は安いので、一割の搗き減りは搗き男の余録として、搗き減りがしたとして、その分を差し引いた。しかし、現在食用米は精米を1割ですることが普通です(9割が白米、糠が1割)、1割の目減りは当然です。搗き男の余録を考えると、噺家によっては2割としていますが、この方が理にかなっています。

 

2.無間の鐘(むげんのかね)
 小夜の中山の東、菊川の村に仏の道を修行する山伏がふと思う事があり、「仏様へのお願いに、栗ヶ嶽の頂上の観音寺に、釣鐘を寄付しよう」と考え、多くの人の寄付を集め大きな釣鐘を作って、観音寺の釣鐘堂に吊るしました。

 鐘の音は広く遠州の国々に響き、釣鐘は大評判になり噂が独り歩きし始め、「あの鐘を撞くと大金持ちになれるが、死んだあとは地獄に落ちる」という話になっていった。
 欲の深い人たちが我先にと、今が良ければそれでいいとばかりに鐘を撞きにやってきて険しい道から足を滑らせ落ちるものが続出し、それを見かねた和尚様が「そんな考えで鐘を突きに来るのなら、無い方がいい」と考え栗ヶ岳の頂上にある古い井戸の中に投げ入れ埋めてしまいました。
 それ以来、無間山観音寺の無間の字をとって「無限地獄に落ちる」意味の「無間の井戸」と言われるようになったという事です。
『遠州七不思議のはなし』より要約。

 この話から、鐘を埋めたのはお寺さんで、無間山観音寺、今は廃寺になっています。その山の山頂に阿波々神社(あわわじんじゃ。静岡県掛川市初馬5419番地)が有って、その裏側に鐘を埋めたと伝わる井戸跡が現存します。

無間地獄(むげんじごく);八大地獄の第八。大悪を犯した者が、ここに落ち、間断なく剣樹・刀山・などの苦しみを受ける、諸地獄中で最も苦しい地獄。阿鼻地獄。無間地獄。阿鼻叫喚地獄。
 八大地獄の最下層に位置し、そこに到達するまでに二千年落下し続けなければならないという場所。しかもそこでは舌に百本の釘を打たれたり、熱した鉄の山を上り下りさせられたり、拷問をされるという。その苦しみは今までの地獄の実に一千倍であると言う。

ひらかな盛衰記;浄瑠璃の代表的作品の一つ。木曾義仲とその遺児・遺臣の物語を中心に、梶原源太をめぐる逸話を加えて構成されている。四段目の無間の鐘の伝説は古くから歌舞伎・文楽に組み込まれているが、直接には享保16年(1731)江戸中村座初演『けいせい福引名護屋』における瀬川菊之丞の当り芸をとり入れている。
 四段目;神崎の廓に身を沈め、傾城梅が枝(うめがえ)と名乗る源太と逃げた千鳥は、源太の出陣に必要な産衣(うぶぎぬ)の鎧を請戻す金の工面に心を砕き、無間の鐘をついても三百両を得たいと思い詰める。来合わせた延寿がそれと言わずに金を与える。梶原父子を親の敵と狙う姉お筆も、延寿の情ある計らいに心解け、源太は出陣する。
 右上写真;2009年5月8日 「ひらかな盛衰記」より 「神崎揚屋の段」の梅ケ枝、主遣い:勘十郎。
 http://www5e.biglobe.ne.jp/~freddy/metorobunraku.htm より

 歌舞伎・浄瑠璃の趣向の一つで、手水鉢(ちょうずばち)を無間の鐘になぞらえて打つもの。歌詞は、
「♪梅ケ枝の手水(ちようず)鉢(ばち)叩いてお金が出るならば もしもお金が出たならば そのときや身請けを ソレ頼む」。
 この歌詞を落語「らくだ」に出てくる『カンカンノ』のリズムに乗せて歌われます。

 

3.吉原(よしわら)
 現在の台東区千束三・四丁目の一部に有った、幕府公認の唯一の遊廓。3000人の遊女を抱え、江戸時代の暗部と、文化を発信したという明部に代表される地。
 落語「遊女買い」 等に詳しい。

幇間(ほうかん);太鼓持ち。客の宴席に侍し、座を取り持つなどして遊興を助ける男。男芸者。落語「王子の幇間」、「鰻の幇間」に詳しい。

土手八丁(どてはっちょう);吉原に向かう日本堤(山谷堀)の土手の長さ。柳枝は、本当は四丁半だが語呂合わせで八丁(約873m)だと言う。しかし、柳枝は間違いで現実は吉原-今戸橋間、八丁あった。ただし、浅草寺東の馬道から行くと、土手に出てから四丁半。

衣紋坂(えもんざか);同じく柳枝は、花魁によく見られたいので、自然とここで衣紋を整える。
五十間坂とも言う。

見返り柳(みかえりやなぎ);
翌朝帰り道、花魁のことを思いだし、自然と吉原の出口で振り返る地に柳があった。
「きぬぎぬの後ろ髪ひく柳かな」

大門(おおもん);決して「だいもん」と発音しないこと。吉原の入口に有った門。

上図;「江戸八景 吉原夜の雨」英泉画。 正面の道が日本堤の「土手八丁」。雨の中遊客や駕籠が吉原を目指しています。土手の右側は見えないが「山谷堀」、左側の田んぼは「吉原田んぼ」です。土手の上の行灯が田の面を照らすので「田面(たのも)行灯」といい、その先に「見返り柳」が見えます。そこを左に曲がりS字型の「衣紋坂」を通ると画面左手に「大門」と「吉原」の遊廓が望めます。土手上の提灯を持った女は土手に並んだ茶屋の女将でしょう。

仲之町(なかのちょう);大門を入ると真っ直ぐに伸びる大路、ここを仲之町といい、両側に茶屋が軒を連ねていた。

後朝の別れ(きぬぎぬのわかれ);遊廓で迎える別れの朝。衣を重ねて共寝した男女が、翌朝、めいめいの着物を着て別れること。また、その朝。暁の別れ。衣衣の別れ。

裏を返す(うらをかえす);吉原では初めて登楼することを「初会」、二会目を「裏を返す」、三会目以降を「馴染み」と言います。丸山花魁が言ったのは「次の逢える二会目は」と聞いたのです。

お茶屋(おちゃや);ここでは仲之町の引き手茶屋。ここで見世の花魁を指名して空きがあるかどうか打診して、空いていれば見世に繰り込む。また、見世で遊んだ勘定は一切ここで支払う。一流の見世にはここを通さなければ上がることが出来なかった。

真夫(まぶ);花魁の意中の人で将来を約束された男。落語「三枚起請」にもあるように、通う男達は自分が真夫(まぶ)だと自惚れてホイホイ通ったが・・・。

似た噺;この噺と大筋では似ている、落語「紺屋高尾」が有ります。同じように染め物職人久蔵さん、高尾太夫に恋煩いし寝込むが、幇間に助けられ、一夜の吉原へ。後朝の別れで全てを話し、太夫年期開けの3月15日に一緒になる。駄染めの染物屋を初めて大成功。
 また、落語「幾代餅」では、搗米屋の職人清蔵が恋患い。同じように年(年期)が明けた幾代花魁と一緒になり、両国の広小路に幾代餅屋を開き大繁盛した。
 松葉屋丸山花魁も高尾太夫のように、二度とこの世界に足を踏み入れてはいけないと、言い聞かせ年期(ねん)が開けたら、徳兵衛さんの家に押しかければ良いものを、無理をするから徳さんは無間地獄に落ちなければならなくなるのです。

 

3.言葉
■上総
(かずさ);千葉県房総半島の南端を「安房」、中程を「上総」、北部を「下総」と言った。

日本橋人形町(にほんばし_にんぎょうちょう);現在も中央区日本橋人形町、下記の葭町とは隣どおし。搗米屋の越前屋が有った。江戸の商業的中心地で多いに栄えた。

葭町(よしちょう);幇間・聚楽が住まっていた地。現・日本橋人形町の一部にあった。元吉原が隣に有った場所で、移転した後も、粋で艶っぽい街となっていた。明治以降「茅町」と表記していた。

■両国(りょうごく);絵双紙屋があった所。両国は吉原に並んで夏場は花火も上がり、人が集まり繁華街でした。特に西河岸は両国広小路の大部分を仮設見世物小屋や物売り、寄席、水茶屋、髪結い床が並んで、物売りも出て歓楽街を形成していた。

 「両国広小路ジオラマ」 江戸東京博物館蔵 ここは隅田川(大川)、右に見えるのは両国橋。西河岸には水茶屋、奥には見世物小屋や曲芸小屋、講談席亭や寄席があり、食べ物屋や髪結い床があり、絵双紙屋もあったのでしょう。写真、一番左の小屋の外側に薬研堀の水路に架かる元柳橋が有りました。

■絵双紙屋(えぞうしや);錦絵などを売る店。
右図、江戸東京博物館蔵 クリックすると大きくなります。

10両;10両盗めば首が飛ぶ時代の10両。今の金額にして80~100万円。一晩で使い果たしてしまうなんて、徳兵衛さんも言うように途中から引き返したくなります。
 吉原で遊ぶと、費用は花魁の揚げ代+取り巻きの新造、禿(かむろ)などの代金+見世の者に使うチップ+宴会用の酒肴代+芸者・幇間の揚げ代+茶屋への心付け+手数料が最低掛かります。
 臼から出てきた270両、身請けの金ならそれを持って飛んで行けば良し、足りなければ27回通うことが出来ますよ。早く年期(ねん)が明ければ良いのですが。ここで、大名道具で10両と言っていますが、現実はその数倍は掛かりましたし、上限はチップ次第でキリがありません。

損料屋(そんりょうや);着物、鍋釜から布団まで、何でも貸した。そのレンタル屋さん。

 


 

 舞台の人形町を歩く

 

 ま、徳さんは世間知らずと、恋わずらいという病弱なため、先ずはお見舞いがてら住まいの人形町に出掛けます。
 日本橋人形町と地名の頭に日本橋と付いています。その日本橋には江戸時代の前期、吉原が有り、魚河岸があり、歌舞伎、人形浄瑠璃の小屋があって、大変賑わった所です。吉原は40年の歴史を刻んで、浅草の北側に引っ越し、そこを新吉原と呼び、旧地は元吉原と呼ばれました。魚河岸は落語「目黒のさんま」や「百川」でも触れたように、関東大震災まで日本橋の東側で商いが続いていました。そして、歌舞伎小屋や人形浄瑠璃の小屋は浅草・猿若町に閉じ込められてしまい、静かな街になっていくのですが、その粋さは街に残り、その粋さを味わうためにわざわざこの地を訪れる人々がいっぱい居るのです。

 人形町の交差点に立つと、ここは碁盤の目のように区画されていますが、東西が45度傾いているので東と言ってもどこを指すか分からなくなります。仮に水天宮(東南)方向を東と言いますと、反対の小伝馬町方向を西と言います。この道を人形町通りと言います。人形町の交差点の西隣のビルの路地入口に「玄冶店」(げんやだな)の石碑が建っています。落語「お富与三郎」の舞台でお富の妾宅があったところです。その隣が落語寄席で有名だった人形町末広亭跡で、ビル前に碑が埋め込まれています。

右図;「人形町末広亭」1968.3~4 酒井不二雄画

 その150m位西に行くと右側に、落語の世界では有名な「長谷川町・三光新道」の入口が見えます。ここには常磐津の歌女文字(かめもじ)師匠と外科医の鴨池玄林(かもじげんりん。落語・百川)、心学先生の紅羅坊名丸(べにらぼうなまる。落語・天災)、踊りの師匠の板東お彦(落語・派手彦)などのそうそうたる文化人が狭い地区に住んでいましたが、現在はその雰囲気さえ見付けることが出来ません。この路地の奥に三光稲荷神社があります。
  表通りを西に、長谷川町の先に住む、かの有名人、日本橋田所町三丁目日向屋半兵衛の息子時次郎(落語・明烏)が住み、道路の反対側には富くじで千両当てた椙森(すぎのもり)神社(落語・宿屋の富)があります。その先の伝馬町は牢屋があったところで、当時は近づきたくない所でした。

 元の人形町の交差点に戻り南に行きます。今度は交差点の直ぐ先が、葭町(芳町)で、幇間・聚楽が住んでいました。また、葭町は桂庵千束屋(百川化け物使い)があり、芸者小春が住み(縁切り榎木)、お藤は松五郎と食事をここでしたかった(お藤松五郎)、また、(片棒)ではここの芸者を総揚げして葬列に加えると言っています。

 

 「親父橋より、よし町を望む」明治東京名所図会 山本松谷画 講談社

 その先には今は堀が埋め立てられて無くなりましたが、親仁(おやじ)橋がありました。人形町の北側に有った元吉原に遊びに行く親不孝者がこの橋で、ふと親仁のことが脳裏をかすめるという場所です。渡ると照り降り町で、雨傘と晴れた日用の下駄を商っていたので、俗に照り降り町と言われていました。左に入ると小網町、その甘酸っぱい夜を過ごす、お花半七が住んでいました(宮戸川)。戻って先に行くと江戸橋、ここから日本橋にかけて魚河岸がありました。目黒のさんまもここで仕入れたのです。

 人形町の由来も、人形劇が栄えていたので人形制作者がこの地に多く集まり、自然と街の名前になっていったといいます。
 人形町交差点に戻り北に、現在の元吉原跡の地は、大きなビルが建ち、日本通運、NTT、等が並び、お世辞にも粋な街とは言えなくなっています。元吉原跡は堅い変哲も無い街になっていますが、その回りの街は粋な街になっています。元吉原跡の大門(おおもん)に接する道路が昭和通りの岩本町まで延びて、その道を大門通り(右写真)といいます。
 元吉原の先にはもっと堅い久松警察署があり、向かいには笠間稲荷(紋三郎稲荷)、久松町交差点を渡ると、ついでですから、距離もありませんので足を延ばして、両国橋まで行きましょう。交差点を渡ると浜町に入り右側には明治座、浜町公園があります。
 左に曲がると、刀屋があった(刀屋)村松町で、その先は政五郎邸があった橘町(三井の大黒)。その先隣は落語の世界では有名な横山町で、久蔵さんが火事見舞いで駆けつけた旦那の住まい(富久)、お藤の旦那万屋清三郎の道具屋があり(お藤松五郎)、 若旦那の店があった(山崎屋)、文七のベッコウ問屋”近江屋”(文七元結)、番頭が善治郎を案内した町並み(松葉屋瀬川)の多くの舞台になっています。そしてその先が馬喰町、ここも多くの落語の舞台になっています。ま、ゆっくりとどの噺が舞台だったか考えて下さい。ヒントとして、宿屋の富江戸の夢馬大家御神酒徳利、などがあります。

 久松町交差点に戻り、道は直ぐに突き当たって左に曲がりますが、その突き当たりが隅田川です。右に曲がれば細い道で新大橋に出られますが、道なりに両国橋に向かいます。左側に区立日本橋中学校、もうここは町名・東日本橋ですが、江戸時代にはここに薬研堀があったところです。ここから歩道橋が隅田川の土手に渡しています。この下に薬研堀から隅田川に接する水路があったので、その上を元柳橋で渡っていました。ここから北側一帯が火伏地、広小路が有り、両国広小路と言いました。両国橋を渡った東側にも有って、そこは東両国広小路と言われ、西両国広小路と別けていましたが、東と言わない限り、ここ西両国広小路を指しました。

 この一帯の広大な空き地に目を付けた江戸っ子が幕府に請願し、将軍お通りの時、当然火災の時は取り払うと言う条件で、仮設小屋での営業を許可されました。当時は「目、口、ヘソの下」と言われ、芝居見物、日本橋の魚河岸、吉原に並んで一日、一千両が落ちると言うほどの繁華街に成長したのです。
 ここに店を出していた”絵双紙屋”さんに掲げられていた浮世絵の、吉原で全盛の松葉屋丸山花魁に一目惚れしてしまったのです。

 その浮世絵を震えながら抱きかかえて持ち帰った徳兵衛さんは、何を見ても丸山花魁に見えてしまうほど重症の恋煩いビールスに冒されて寝込んでしまったのです。
 その隣町、葭町から薮医者より効き目のある”逢わせてあげるよ”と言う薬を処方したのです。持つものは良い医者、では無く幇間ですね。

 ここから、浅草の北側、新吉原に向かうのですが、私はビールスに冒されていませんので、今回はここまで。

 

地図


  水天宮交差点にあった案内地図より

 地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真



 それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

芳町(中央区日本橋人形町一丁目の内)
 江戸時代は葭町と言って写真の通りに面した一画の狭い地域だった。
 写真は人形町交差点を背中に日本橋方向を見ています。この通りの左右が葭町であり、昭和の町名変更前の芳町だった所。幇間・聚楽が住んでいた所で、正面道なりに右に行くと江戸橋、日本橋に行きます。その途中に堀が有り、親仁橋が掛かっていた。

人形町交差点(中央区日本橋人形町)
 上記場所からクルッと回って背中方向を見ています。交差点が人形町、奥の白いビルの左右が元吉原跡、正面奥が隅田川で道なりに左に曲がると両国広小路が有ります。徳兵衛さんの店と目と鼻の先です。吉原の方がずっと遠い。

人形町(中央区日本橋人形町三丁目)
 上記交差点を渡って、左に入ると粋なお店が並んでいます。この左には玄冶店があり「お富・与三郎」の舞台になった所です。その先は「百川」などで訪れた、長谷川町・三光新道に常磐津の歌女文字師匠達が住んでいた所です。

人形町浜田屋(中央区日本橋人形町三丁目)
 人形町の表通りから一歩中に入ると人形町らしい、粋な料亭があります。

両国橋(隅田川に架かり京葉道路を渡す)
 江戸時代、明暦の大火後、隅田川に最初に架けられた橋。大正の大震災で傷み現在の橋に架け替えられた。この手前一帯に両国広小路が有った。

両国広小路(中央区東日本橋)
 上記両国橋を背に京葉道路都心方向を見ています。江戸時代の広小路は火伏の為でしたが、現在は交通の幹線ですから、広いのは当たり前。なお、京葉道路は千葉市まで延びています。

隅田川の両国橋を望む
 ここが江戸切り絵図の薬研堀があったところで、隅田川に接していました。左の歩道橋辺りにその堀に架かる元柳橋が架かり、両国広小路へと繋がっていました。正面の赤い橋が両国橋、写真左の道が後ろに行けば元吉原、人形町に行く道です。

                                                           2012年11月記

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