落語「搗屋無間」の舞台を歩く 八代目春風亭柳枝の噺、「搗屋無間」(つきやむげん)
店の床に穴を掘り石で出来た臼をしつらえ、シーソーの足踏み式杵で搗いた。
右隅に臼杵が置いてあります。
■大道臼(おおどううす);搗米屋が店の前に転がしておく、米つき用の大臼。また、看板用の大臼。お得意さんに頼まれると、臼を持って顧客の家で搗いた。
■搗き減り(つきべり);搗き男の給金は安いので、一割の搗き減りは搗き男の余録として、搗き減りがしたとして、その分を差し引いた。しかし、現在食用米は精米を1割ですることが普通です(9割が白米、糠が1割)、1割の目減りは当然です。搗き男の余録を考えると、噺家によっては2割としていますが、この方が理にかなっています。
2.無間の鐘(むげんのかね)
この話から、鐘を埋めたのはお寺さんで、無間山観音寺、今は廃寺になっています。その山の山頂に阿波々神社(あわわじんじゃ。静岡県掛川市初馬5419番地)が有って、その裏側に鐘を埋めたと伝わる井戸跡が現存します。
■無間地獄(むげんじごく);八大地獄の第八。大悪を犯した者が、ここに落ち、間断なく剣樹・刀山・などの苦しみを受ける、諸地獄中で最も苦しい地獄。阿鼻地獄。無間地獄。阿鼻叫喚地獄。
■ひらかな盛衰記;浄瑠璃の代表的作品の一つ。木曾義仲とその遺児・遺臣の物語を中心に、梶原源太をめぐる逸話を加えて構成されている。四段目の無間の鐘の伝説は古くから歌舞伎・文楽に組み込まれているが、直接には享保16年(1731)江戸中村座初演『けいせい福引名護屋』における瀬川菊之丞の当り芸をとり入れている。
歌舞伎・浄瑠璃の趣向の一つで、手水鉢(ちょうずばち)を無間の鐘になぞらえて打つもの。歌詞は、
3.吉原(よしわら)
■幇間(ほうかん);太鼓持ち。客の宴席に侍し、座を取り持つなどして遊興を助ける男。男芸者。落語「王子の幇間」、「鰻の幇間」に詳しい。
■土手八丁(どてはっちょう);吉原に向かう日本堤(山谷堀)の土手の長さ。柳枝は、本当は四丁半だが語呂合わせで八丁(約873m)だと言う。しかし、柳枝は間違いで現実は吉原-今戸橋間、八丁あった。ただし、浅草寺東の馬道から行くと、土手に出てから四丁半。
■衣紋坂(えもんざか);同じく柳枝は、花魁によく見られたいので、自然とここで衣紋を整える。
■見返り柳(みかえりやなぎ);
■大門(おおもん);決して「だいもん」と発音しないこと。吉原の入口に有った門。
上図;「江戸八景 吉原夜の雨」英泉画。 正面の道が日本堤の「土手八丁」。雨の中遊客や駕籠が吉原を目指しています。土手の右側は見えないが「山谷堀」、左側の田んぼは「吉原田んぼ」です。土手の上の行灯が田の面を照らすので「田面(たのも)行灯」といい、その先に「見返り柳」が見えます。そこを左に曲がりS字型の「衣紋坂」を通ると画面左手に「大門」と「吉原」の遊廓が望めます。土手上の提灯を持った女は土手に並んだ茶屋の女将でしょう。
■仲之町(なかのちょう);大門を入ると真っ直ぐに伸びる大路、ここを仲之町といい、両側に茶屋が軒を連ねていた。
■後朝の別れ(きぬぎぬのわかれ);遊廓で迎える別れの朝。衣を重ねて共寝した男女が、翌朝、めいめいの着物を着て別れること。また、その朝。暁の別れ。衣衣の別れ。
■裏を返す(うらをかえす);吉原では初めて登楼することを「初会」、二会目を「裏を返す」、三会目以降を「馴染み」と言います。丸山花魁が言ったのは「次の逢える二会目は」と聞いたのです。
■お茶屋(おちゃや);ここでは仲之町の引き手茶屋。ここで見世の花魁を指名して空きがあるかどうか打診して、空いていれば見世に繰り込む。また、見世で遊んだ勘定は一切ここで支払う。一流の見世にはここを通さなければ上がることが出来なかった。
■真夫(まぶ);花魁の意中の人で将来を約束された男。落語「三枚起請」にもあるように、通う男達は自分が真夫(まぶ)だと自惚れてホイホイ通ったが・・・。
■似た噺;この噺と大筋では似ている、落語「紺屋高尾」が有ります。同じように染め物職人久蔵さん、高尾太夫に恋煩いし寝込むが、幇間に助けられ、一夜の吉原へ。後朝の別れで全てを話し、太夫年期開けの3月15日に一緒になる。駄染めの染物屋を初めて大成功。
3.言葉
■日本橋人形町(にほんばし_にんぎょうちょう);現在も中央区日本橋人形町、下記の葭町とは隣どおし。搗米屋の越前屋が有った。江戸の商業的中心地で多いに栄えた。
■葭町(よしちょう);幇間・聚楽が住まっていた地。現・日本橋人形町の一部にあった。元吉原が隣に有った場所で、移転した後も、粋で艶っぽい街となっていた。明治以降「茅町」と表記していた。
■両国(りょうごく);絵双紙屋があった所。両国は吉原に並んで夏場は花火も上がり、人が集まり繁華街でした。特に西河岸は両国広小路の大部分を仮設見世物小屋や物売り、寄席、水茶屋、髪結い床が並んで、物売りも出て歓楽街を形成していた。
「両国広小路ジオラマ」 江戸東京博物館蔵 ここは隅田川(大川)、右に見えるのは両国橋。西河岸には水茶屋、奥には見世物小屋や曲芸小屋、講談席亭や寄席があり、食べ物屋や髪結い床があり、絵双紙屋もあったのでしょう。写真、一番左の小屋の外側に薬研堀の水路に架かる元柳橋が有りました。
■絵双紙屋(えぞうしや);錦絵などを売る店。
■10両;10両盗めば首が飛ぶ時代の10両。今の金額にして80~100万円。一晩で使い果たしてしまうなんて、徳兵衛さんも言うように途中から引き返したくなります。
■損料屋(そんりょうや);着物、鍋釜から布団まで、何でも貸した。そのレンタル屋さん。
舞台の人形町を歩く
ま、徳さんは世間知らずと、恋わずらいという病弱なため、先ずはお見舞いがてら住まいの人形町に出掛けます。
人形町の交差点に立つと、ここは碁盤の目のように区画されていますが、東西が45度傾いているので東と言ってもどこを指すか分からなくなります。仮に水天宮(東南)方向を東と言いますと、反対の小伝馬町方向を西と言います。この道を人形町通りと言います。人形町の交差点の西隣のビルの路地入口に「玄冶店」(げんやだな)の石碑が建っています。落語「お富与三郎」の舞台でお富の妾宅があったところです。その隣が落語寄席で有名だった人形町末広亭跡で、ビル前に碑が埋め込まれています。
右図;「人形町末広亭」1968.3~4 酒井不二雄画
その150m位西に行くと右側に、落語の世界では有名な「長谷川町・三光新道」の入口が見えます。ここには常磐津の歌女文字(かめもじ)師匠と外科医の鴨池玄林(かもじげんりん。落語・百川)、心学先生の紅羅坊名丸(べにらぼうなまる。落語・天災)、踊りの師匠の板東お彦(落語・派手彦)などのそうそうたる文化人が狭い地区に住んでいましたが、現在はその雰囲気さえ見付けることが出来ません。この路地の奥に三光稲荷神社があります。
元の人形町の交差点に戻り南に行きます。今度は交差点の直ぐ先が、葭町(芳町)で、幇間・聚楽が住んでいました。また、葭町は桂庵千束屋(百川。化け物使い)があり、芸者小春が住み(縁切り榎木)、お藤は松五郎と食事をここでしたかった(お藤松五郎)、また、(片棒)ではここの芸者を総揚げして葬列に加えると言っています。
「親父橋より、よし町を望む」明治東京名所図会 山本松谷画 講談社
その先には今は堀が埋め立てられて無くなりましたが、親仁(おやじ)橋がありました。人形町の北側に有った元吉原に遊びに行く親不孝者がこの橋で、ふと親仁のことが脳裏をかすめるという場所です。渡ると照り降り町で、雨傘と晴れた日用の下駄を商っていたので、俗に照り降り町と言われていました。左に入ると小網町、その甘酸っぱい夜を過ごす、お花半七が住んでいました(宮戸川)。戻って先に行くと江戸橋、ここから日本橋にかけて魚河岸がありました。目黒のさんまもここで仕入れたのです。
人形町の由来も、人形劇が栄えていたので人形制作者がこの地に多く集まり、自然と街の名前になっていったといいます。
久松町交差点に戻り、道は直ぐに突き当たって左に曲がりますが、その突き当たりが隅田川です。右に曲がれば細い道で新大橋に出られますが、道なりに両国橋に向かいます。左側に区立日本橋中学校、もうここは町名・東日本橋ですが、江戸時代にはここに薬研堀があったところです。ここから歩道橋が隅田川の土手に渡しています。この下に薬研堀から隅田川に接する水路があったので、その上を元柳橋で渡っていました。ここから北側一帯が火伏地、広小路が有り、両国広小路と言いました。両国橋を渡った東側にも有って、そこは東両国広小路と言われ、西両国広小路と別けていましたが、東と言わない限り、ここ西両国広小路を指しました。
この一帯の広大な空き地に目を付けた江戸っ子が幕府に請願し、将軍お通りの時、当然火災の時は取り払うと言う条件で、仮設小屋での営業を許可されました。当時は「目、口、ヘソの下」と言われ、芝居見物、日本橋の魚河岸、吉原に並んで一日、一千両が落ちると言うほどの繁華街に成長したのです。
その浮世絵を震えながら抱きかかえて持ち帰った徳兵衛さんは、何を見ても丸山花魁に見えてしまうほど重症の恋煩いビールスに冒されて寝込んでしまったのです。
ここから、浅草の北側、新吉原に向かうのですが、私はビールスに冒されていませんので、今回はここまで。
地図をクリックすると大きな地図になります。 2012年11月記 |
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