落語「包丁」の舞台を歩く
   

 

 六代目三遊亭円生の噺、「包丁」(ほうちょう)によると。
 

 久治と呼ばれる兄貴に呼ばれた、弟分の寅んべーは風采が上がらない。兄貴は清元の師匠をしている”おあき”さんに面倒をみてもらっている。鰻をご馳走してもらって、ノロケを聞くと、儲けさすという。
 兄貴は清元の師匠も良いが、他に若い女が出来たので、芝居を打ってほしいという。
「俺の家に行って、兄貴が帰ってくるまで待たして欲しいと言って、上がり込む。酒は出すような女でないから、お土産だと言って1本下げていって、湯飲みを借りて飲み始め、ツマミは出さないだろうから、鼠入らずの右側の上から2段目に佃煮が入っているからそれで飲ってくれ。香こが台所のあげ板の3枚目を開けるとヌカ漬けのキウリが入っているから、それで飲んでくれ」、「初めて行った家で香こを出すのはおかしくないか」、「そんなことは気にしないで、3杯ぐらい飲んだら女の袖を引いてその気にさせたところで、俺が出刃包丁を持ってガラッと入っていく。啖呵を切って畳に出刃包丁をさしている間に、お前はズラかってしまい、その後に女を地方に売り飛ばしてしまう。その金を二人で山分けにする。どうだ!」。

 その足で、兄貴の家に乗り込んだ。当然いないので上がって待つことになった。お茶を入れるからと言うので、持参の酒の封を切った。肴がないと言うので鼠入らずから佃煮を出した。「旨いね。鮒佐の佃煮は、やはり兄貴は口がおごっている」。 師匠に勧めたが、取り付くしまが無かった。漬物を所望したが頭から断られたので自分で出した。師匠はビックリしていたが、細かく刻んでまた飲み始めた。
 歌を唄いながら、師匠に手を伸ばすが、身持ちの堅い師匠にピシャリと叩かれたが、それに懲りずに手を出したらドスンと芯まで響くほど叩かれた。「ヤナ男だよ。酒を飲んでいるから我慢をしてたら、つけあがって。ダボハゼみたいな顔をして、女を口説く面か。ブルドック」。寅さんも切れて、一部始終の経緯をぶちまけてしまった。「佃煮や香この場所が分かるのは教わって来たからだ」。

 師匠は事情が飲み込めたので、「あいつが来たら追い出すから、アンタも加勢してください。女の口から言うのもなんですが、嫌でなかったら私と一緒になって下さい」。「そんなこと言ったってダメだよ、さっきダボハゼって言ったじゃないか」、「それは事情が分からなかったからで、あいつの為に上から下まで揃えてやって、世話もしたのに売り払うなんて、そんな男に愛想が尽きた」。「そ〜ですとも。だいたいあいつは良くない」。 (良くないのはお前もだろ〜)。
 「新しい着物を作ってあるから着替えてください。お酒もあるし。お刺身も出しますから」。気持ちよく飲んでいるとこに、久治が覗きに来て「あいつはお芝居がうめ〜や。あんな堅い女に酌をさせて」。
 ガラッと開けて、「やいやい。亭主の面に泥を塗りやがって」、「だめだダメだ。ネタは割れているんだから」。
おあきさんはさんざん久治に毒付いて追い出してしまった。

 二人で飲み始めたが、格子をガラッと開けて、また久治が戻ってきた。
「出刃包丁を出せ!」。
「(親分の風格で)誰かに知恵でも付けられて来たのか。お前が悪巧みするから話がひっくり返ってしまったんだ。(おあきさんに)いいから、包丁出してやれ。久治、四つにでも切ろうと言うのか」。
「いや、魚屋に返しに行くんだ」。

 


 
1.佃煮「鮒佐(ふなさ)」(台東区浅草橋2−1 須賀神社南)
 鮒佐の創業は、下總国船橋出身の鮒屋佐吉こと大野佐吉によりまして、幕末の激動期の文久二年( 1862 )に江戸は浅草瓦町、現在の浅草橋に店を構ええました。当時は、 江戸四宿の一つ千住の名物である『 鮒のすずめ焼 』 等を商いとしておリました。ある日佐吉は、隅田川河口に釣りに出かけました時に、暴風雨に遭い佃島に避難しました。その時に佃島の漁師にご馳走になった 『 雑魚の塩煮』 がとてもおいしかったので、 独自な改良のもとに商いに加えました。 当時の佃島の塩煮というものは、漁師の保存食として、残った魚貝類を塩で煮るというものでありましたが 、 魚は魚・貝は貝という様に品別に分けて、当時まだ高級であった醤油を初めて使用して煮るという斬新な方法で、現在の佃煮の形を作りました。
 製造方法も昔と変わらず燃料に薪を使用し、職人に頼ることなく主人自らが釜前に立っております。
鮒佐のホームページより

 ここの佃煮を好んだ落語家は多い。八代目桂文楽は食卓に欠かさなかったし、先代柳家小さんはシラスの佃煮が大好物で、シラスだけを包ませた。

 写真;曲げ物に詰め合わされた佃煮。上から時計回りに、アサリ、ゴボウ、海老、シラス、昆布。
 店には詰合せしか飾っていないのですが、単品でも嫌な顔をしないで包んでくれます。
浅草橋と柳橋
 隅田川に合流する神田川の最下流にかかる2本の橋。第10話落語「蔵前駕籠」、第22話落語「船徳」、第70話落語「松葉屋瀬川」で歩いたところです。

■佃煮「中野屋」(荒川区西日暮里3−2)
 この店は志ん生御用達の店で、創業80年の年季の入った店です。志ん生のお好みは富貴豆と鰻大和煮であった。濃い醤油味は江戸好みの味で、酒に良く合いご飯のおかずとしても最適です。

佃煮と言えばこの言葉になった佃島で、小魚などを煮て漁師のおかずにしたところから始まっています。中央区佃には今でも佃煮やさんが暖簾を下げています。ここの佃煮は観光客用ですので、少しお高いです。落語「佃祭 り」で紹介しています。


2.鼠入らず
 鼠が侵入しないように作った食器棚のこと。最近は冷蔵庫・冷凍庫が各家庭に標準装備されていますが、ほんの数十年前までは贅沢品で、氷の冷蔵庫が有れば良い方でした。ではそれ以前では食品はどの様に保管したのでしょうか。未加工品では、例えば大根なら切り干し大根のような干物にしたり、タクアンにしたり、醤油漬け、などにして保管しました。また余った料理や翌日食べる料理などは鼠や蠅や蟻が入らないようにした食器棚に入れたものです。引き戸には網が張られて蒸れないように工夫されていました。その為食品も濃い味に煮付けられたものです。魚の煮付けにしろ、佃煮にしろ皆濃い味で、今の梅干しは薄塩ですから1年経たずに腐ってしまいますが、当時の塩の利いた梅干しは何年でも保存が利いたものです。煮魚も甘煮もお新香も残ったご飯もそこから出てきたものです。ちゃぶ台や料理用蚊帳、鼠入らずは絶滅した食事用道具の一つになってしまいました。

 

3.清元
 清元節の略。清元節の芸姓。

 清元節;浄瑠璃の流派の一。広義の豊後(ぶんご)節に属する。初世清元延寿太夫が創始。師流の富本節を凌いで急速に隆盛し、江戸歌舞伎の舞踊劇の音楽として盛行。清元。

 清元延寿太夫;清元節の家元。
 (初世) 前名、2世富本斎宮(いつき)太夫・豊後路清海(きよみ)太夫。1814年(文化11)富本節から出て清元節を創始。凶漢に刺されて没。(1777〜1825)
 (5世) 4世の養子。本名、斎藤庄吉。前名、3世栄寿太夫。清元節の曲風を上品な節調に高めた。(1862〜1943)

 

4.包丁
 
日本橋「木屋」さんのホームページから包丁の種類あれこれ http://www.kiya-hamono.co.jp/hamono/syurui.html

出刃包丁;出刃庖丁は魚をさばく時に使います。峰が厚くてがっしりした印象で、なんでもザクザクと切れてしまいそうですが、刃の作りはとても薄く、乱暴に叩き切りしたりすると刃コボレします。
このような場合は、峰に手をそえてグッと押すように切る事をお勧めします。
刃渡りは、約15cmあればたいていの魚はさばくことができます。
  私も近くのスーパーで買ってきた出刃包丁で鯛の背骨を断ち切ろうと振り下ろしたら、魚は変化が無く包丁に刃こぼれがして一回でダメにした経験があります。

写真;日本橋「木屋」さんのホームページから出刃包丁

 


  舞台の佃煮屋を歩く

 佃煮鮒佐のあるところが、浅草橋(台東区)なのでその名前の元になった浅草橋と、ここから清元の師匠が住んでいたであろう、小粋なところと言えば隣町の柳橋でしょう。と仮定して歩きます。

 JR総武線浅草橋駅(両国より)で下りると、その鉄道と交差している道が江戸通り=水戸街道です。近くにはひな祭りや端午の節句用の人形を売り出す店が並んでいます。ここは人形の町です。
 北に2〜300m向かうと左側に須賀神社が有ります。蔵前天王社と言われた古社です。あらら、行きすぎてしまいましたね。2〜3軒戻ってください。そこに佃煮の鮒佐が有ります。文楽や小さんになったつもりで、酒のツマミにいかがでしょうか。

 江戸通りを渡って、奥(東)の方に入っていきます。 あ!ゴメンなさいね、通りのセンターラインの所には植樹されていて信号機のあるところしか横断できませんので、そこまで移動してください。渡ったそこが小粋な花柳界があった柳橋です。今でも素敵な粋さが漂う街並みを残していますので、清元の師匠に会えるかもしれません。突き当たりは隅田川ですが、土手のコンクリートが高いのとビルがあるので、川辺の風情は望めません。道が突き当たったら、右(南)に曲がりましょう。街の中をキョロキョロしながら歩くと、その先のJRガードをくぐり道なりに南下すると神田川に架かる柳橋に出ます。橋の上から見ると左側に隅田川とそこに架かる赤い両国橋が見えます。 正面の白く長い高架道路は首都高速道路です。橋の右側に目を移すと、屋形船と船宿が川岸に張り付いています。落語「船徳」で徳さんが船を漕ぎだしたところで、その先に浅草橋が望めます。

 浅草橋に出たら、右に曲がり橋を渡ると、その先にスタート地点の浅草橋駅のガードが見えます。

 

地図

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写真

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佃煮「鮒佐(ふなさ)台東区浅草橋2−1 須賀神社南)
しっかりした建物ですが、店の造りや雰囲気は歴史を感じさせますし、応対の女性たちの渋さが、味の原点になっているようです。店内は旨そうな佃煮の匂いでプンプンですが、値段も一流。

須賀神社(台東区浅草橋2−29−16)
 天照大御神の弟で八俣の大蛇(やまたのおろち)を退治した事でも有名な、素盞嗚尊(すさのおのみこと)を祭神と祀る。創建壱千数百年を経る古社で、江戸十社に入った神社。素戔嗚尊の別称を牛頭天王と言った。社名も牛頭天王社、祇園社、蔵前天王社、団子天王社といろいろ呼ばれ、そこから地元の町名を天王町と言われた。

柳橋(やなぎばし)
神田川に架かる橋と言うより、花柳界の柳橋の方が有名です。昔ながらの料亭も残っていますが、今は過日のような華やかさはありません。小じゃれた店や大きなビルになってしまった料亭が建ち並びます。
「春の夜や 女見返り 柳橋」子規

柳橋(やなぎばし)
 柳橋は神田川が隅田川に流人する河口部に位置する第一橋梁です。その起源は江戸時代の中頃で、当時は、下柳原同朋町(中央区)と対岸の下平右衛門町(台東区)とは渡船で往き来していましたが、元禄10年(1697)に架橋を願い出て許可され、翌11年に完成しました。
 その頃の柳橋辺りは隅田川の船遊び客の船宿が多く、「柳橋川へ蒲団をほうり込み」。と川柳に見られる様な賑わいぶりでした。
 明治20年(1887)に鋼鉄橋になり、その柳橋は大正12年(1923)の関東大震災で落ちてしまいました。復興局は支流河口部の第一橋梁には船頭の帰港の便を考えて各々デザインを変化させる工夫をしています。柳橋はドイツ・ライン河の橋を参考にした永代橋のデザインを採り入れ、昭和4年(1927)に完成しました。

浅草橋(台東区浅草橋)
台東区浅草橋1と中央区日本橋馬喰町2の間を流れる神田川に架かる橋。北に江戸通りとして蔵前から浅草を通り水戸街道となる。
前方に浅草橋駅があります。

佃煮「中野屋」(荒川区西日暮里3−2)
JR日暮里駅を降りて西に上野の山側に出ます。一本道なので迷わないでしょう。広い道はなくなり急な坂道を降りると「谷中ぎんざ」の入口アーケードが見えます。その丘の上の右側に、昔ながらの下町佃煮屋然として建っています。 値段は総菜としても買えるお手ごろ(?)価格です。

                                                   2007年4月記

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