マクラで志ん生が「あんまり人が演りません、ごく古い『駒長』という噺でございまして・・・」といっているように、志ん生が活躍している時代には、他にやり手がなかった。志ん生自身もあまり演らなかったようで、残っているのはここに収録した音だけです。
「駒長」という題は、「お駒長兵衛」を詰めたもので、もう一人の男の丈八という名前は、お駒と丈八が出てくる「白子屋政談」をもじってつけたものでしょう。どうも即興にシャレで創った噺のような気がします。
落語「包丁」にも、丈八のようなダメ亭主が騙すつもりが、女房を男に取られ悔しがる噺があります。
本題があまり面白くないのを意識してか、志ん生はマクラに小咄を並べている。これで楽しんで下さいというサービス精神でしょうか。
2.言葉
■損料もの;使用料を払って借りる品物。レンタル品。江戸時代、長屋住まいでは夜具は損料物が当たり前(落語「富久」)だったし、古道具屋から買って、要らなくなったら売ってしまう事が多かった。衣料品まで損料ものだとは余程の貧乏生活か、おめかし用の貸衣装だったのでしょう。
今でもブライダル品はレンタルが普通です。
■間男の相場;二つを重ねて四つに切るのが浮気の相場ですが、これでは命が幾つ有っても足りません。そうでしょ、先輩。で、特に町人は金で解決しようと言う事になり、その解決金が7両2分です。7両2分は7.5両で、10両盗むと首が飛ぶ10両の4分の3で、(1両8万円として)現在の60万円相当です。江戸の前期では5両だったものが、後期では値上がりしているんですね。「据えられて七両二分の膳を食い」と言う川柳もあります。意味が分かったら教えてください。
小咄があって、隣の女房との浮気がばれて、その亭主に脅かされた。家に帰り女房に金の工面を相談すると、女房慌てず「それなら、おつり7両2分もらっておいで」。出来た女房を持つと亭主は幸せ??
■明ければ米の一升買い;金が出来た当座にしか買い物が出来ない様。「暮れれば油の一合買い」も同じ。
■柔らかもの;木綿と比べ、絹製の肌に柔らかな高級品。お駒さん、普段は丈夫で安価な木綿ものを着ていますが、それも雑巾のような継ぎ接ぎだらけのもの、柔らかものを着せられたら、たまりませんね〜。
■台所から;長兵衛は台所から出刃包丁を取りだし、と言っていますが、当時の長屋の構造を見てみましょう。通常九尺二間(くしゃくにけん)の広さが長屋の一番小さい標準寸法でした。その上の広さに、九尺二間半(土間と六畳間)、落語の三軒長屋では2階付きの長屋もありました。
九尺二間は間口九尺(1間半=2.7m)奥行き二間(3.6m)、引き戸を開けると3尺巾の土間があり、その奥に四畳半の部屋があるだけです。その奥は造りによって縁側になっていて洗濯物が干せます。手前の土間の半分にはへっつい(かまど)と水瓶が置いてあり、それが台所です。ですからこの噺のように、先に包丁を持って裏(縁側)から入ってこないとつじつまが合いません。
写真;深川江戸資料館より 「土間に置かれた炊事道具」
3.深川
(ふかがわ)
辰巳とも言われ、隅田川を東に越えた深川八幡宮を中心にした地。深川の名自体は古い地名で、徳川家康の江戸入城よりも前に摂津国から深川八郎右衛門が開拓をし住んだためにその名がついたといわれる(今の森下・猿江付近)。また昔、隅田川の東、今の佐賀あたりは島のような地形をしていて永代島とよばれていた。幕府が明暦の大火(明暦3年=1657)後深川を埋め立て始め、元禄年間には埋め立てをした地を払い下げ深川八幡が出来た。回りには岡場所も出来て発展し、深川地区一番の繁華街となった。落語「おさん茂兵衛」に詳しい。昭和22年(1947)に深川区と城東区が一緒になって江東区になった。その深川区全体を指す事もあります。
<深川地図>
左;元禄15年(1702)江戸図部分。
江戸幕府成立から約百年後の深川。明暦の大火から約50年、埋め立てが進んでいます。永代橋東側の部分は漁師町と深川最初の木場です。南部はまだまだ海が迫っています。
右;天保14年(1843)江戸図部分。
上記地図より40年後、凄まじいスピードで埋め立ても進み、町屋も形成されていきました。図中赤い部分は寺町が形成されて、南部には木場が形成されています。 深川江戸資料館、資料より
■上方(かみがた);関東の江戸と対比し、京大阪の阪神地方をこの様に呼んだ。上方落語などと、使い方をします。江戸当時、上方で生産されたものは上級品とされ、江戸では”下りもの”として珍重された。最近まで言われた舶来品と同じです。関東地方で作られたものは”下らないもの”と言い、残念ですがつまらないものは、”くだらないもの”という語源になった。
舞台の深川を歩く
取材に出掛けたのが旧暦の7月10日ごろです。一年中で一番暑い日と言われる四万六千日、暑い盛りです。この日も30度を軽く越える猛暑です。偶然にも富岡八幡の例祭に当たり、陰祭りではあっても御輿が出て、街中が祭り気分で盛り上がっています。深川の街の顔です。この日の為に一年があるのです。
深川は辰巳とも呼ばれ江戸城から見て辰巳(南東)の方向にあるのでそう呼ばれます。一般的に辰巳と言う時は色街を含め艶っぽさをその裏側に秘めています。この八幡を中心にした地域は江戸時代岡場所として栄えた所です。元吉原があった日本橋人形町、ここ深川も今、陰湿な部分は何処にも感じられず、華やかさと色気が現在も感じる事が出来ます。辰巳芸者は吉原と違って、粋と張りを競って栄えてきました。その気風が現在にも流れているのでしょう。
また、この深川には木場があって、紀伊国屋文左衛門や奈良屋、冬木などの材木で一代を築いた豪商がいたくらい、金持ちが多かったのです。大旦那が料理屋、八幡を引き立て町の発展に寄与した事は紛れもありません。
八幡宮にも木場からの奉納品が数多く見受けられます。
江戸時代、諸国から江戸に出てきて宿を取ると言えば馬喰町と決まって居ましたが、丈八のような行商人はもっと安価な深川に宿を取ったのでしょう。落語「名月八幡祭り」の越後から出てきた縮売りの新助でも、ここに宿を取っています。
落語「おさん茂兵衛」で八幡様近辺の岡場所を詳しく歩いています。今回は主にメインストリートの永代通りを八幡様から永代橋まで歩いています。それにしても暑かった。エアコンとビールの売り上げが伸びているのがうなずけます。
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富岡八幡宮(江東区富岡一丁目20)
http://www.tomiokahachimangu.or.jp/
深川の中心になる神社、深川八幡とも言われ愛され続ける八幡様です。深川八幡は4年に一度大祭が開かれますが、今年は陰祭り。それでも祭り大好き人間の深川っ子にしてみれば落ち着けないのでしょう、御輿が何基も出ています。
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門前仲町を望む
富岡八幡宮前から見た永代通りです。門前仲町方向を見ています。
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門前仲町
永代通りと清澄通りが交差する交差点。永代橋方向を見ています。ここから八幡様の入口にかけてが繁華街の中心地です。
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黒船橋
門前仲町交差点を南に下ると直ぐの所に架かるのが黒船橋です。
あまりの暑さなのでしょうか、人通りがとぎれがちです。弓の袋を持った女学生が颯爽と渡っていきます。 |
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永代橋上
隅田川に架かる永代橋ですが、こちらも暑さに負けて目的地を目指していちもくさんです。
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永代橋全景
隅田川に架かる永代橋の全景です。正面奥が下流の佃の町で近代化されたマンション群です。左手が深川になります。
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木場公園(深川木場跡地に出来た公園。平野四丁目+木場四丁目) 緑濃く緑の草いきれが充満していますが、日陰に入っても吹き抜ける風の熱さには負けます。
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2010年10月記
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