落語「坊主の遊び」の舞台を歩く
三代目三遊亭円歌の噺、「坊主の遊び」(ぼうずのあそび)
1.女性と関係を持った僧には厳罰が待っていた
修行中の僧が未婚の女性と通じた場合には、三日間さらし者になったうえ、各宗の規律によって処罰された。
僧であっても、人の子。隠れても廓通いしたくなるのだが、命を賭けの廓通いであった。
円歌はマクラで、増上寺の坊主だって品川で遊んでいたが、とがめられなかった。ただ、衣では無く、着物を着た医者のなりで出掛けた。医者も坊主頭であった。どんな道でも抜け穴は有った。しかし、噺の舞台は吉原。
2.吉原の決まり
英一蝶(はなぶさいっちょう)画 「吉原風俗図巻」 流罪となった伊豆三宅島で吉原を思い起こして描いた。
■お客が帰るときは必ず送り出す;早帰りのお客は店先まで必ず送り出すのが礼儀。「また一人で来てね」と甘えます。朝までの客は大門の所まで送って、同じように甘い声で送り出します。この別れを「後朝の別れ(きぬぎぬのわかれ)」と言います。
■お引け(おひけ);複数で登楼したときは、大きな部屋(引き付け)で遊んでから、床が準備された遊女の部屋へ行きます。落語「明烏」に詳しい。また、部屋持ちの遊女の部屋で飲み食いしていた時は、若い衆が来て「ちょっとお片付けします」と言葉を掛けて部屋を片付け床の用意をします。その間客は便所に行っています。帰ってきたら床に納まります。この間(ま)をお引けと言います。
大引け;「お引け」と「大引け」は言葉は似ていますが内容が違います。
■落語「五人回し」;第170話落語「五人回し」をご覧下さい。
■真夫(まぶ);(間夫とも)遊女が本心から自分に恋い焦がれられていると思い真剣に通う遊女の情夫。一人の遊女に複数の真夫(まぶ)がいることが有ります。落語「三枚起請」に3人の真夫(まぶ)が鉢合わせ。
■花魁(おいらん);(妹分の女郎や禿(カブロ)などが姉女郎をさして「おいら(己等)が」といって呼んだのに基づくという)
江戸吉原の遊廓で、姉女郎の称。転じて一般に、上位の遊女の称。娼妓。女郎。吉原だけで使われた言葉で、四宿(品川、新宿、板橋、千住)では飯盛女と言われ、上位の女郎は板頭と言った。
■花魁道中(おいらん どうちゅう);花魁が禿や振袖新造などを引き連れて揚屋や引手茶屋まで練り歩くこと。今日でも歌舞伎や各地の祭りの催し物として再現されることがある。
■忘八(ぼうはち);遊女屋の楼主。仁・義・礼・智・信・孝・悌・忠の8つの「徳」を忘れたものとされていた。
■禿(かむろ);花魁の身の回りの雑用をする10歳前後の少女。彼女達の教育は姉貴分に当たる遊女が行った。禿(はげ)と書くのは毛が生えそろわない少女であることからの当て字である。
■番頭新造(ばんとう しんぞう);器量が悪く遊女として売り出せない者や、年季を勤め上げた遊女が勤め、マネージャー的な役割を担った。花魁につく。ひそかに客を取ることもあった。
■新造(しんぞ);武家や町人の妻を指す言葉(ご新造さん)であったが、後に未婚の女性も指すようになった。
■振袖新造(ふりそで しんぞう);15・16歳の遊女見習い。禿はこの年頃になると姉貴分の遊女の働きかけで振袖新造になる。多忙な花魁の名代として客のもとに呼ばれても床入りはしない。しかし、稀にはひそかに客を取るものもいた。その代金は「つきだし」(花魁としてデビューし、水揚げを迎える日)の際の費用の足しとされた。振袖新造となるものは格の高い花魁となる将来が約束されたものである。
■留袖新造(とめそで しんぞう);振袖新造とほぼ同年代であるが、禿から上級遊女になれない妓、10代で吉原に売られ禿の時代を経なかった妓がなる。振袖新造は客を取らないが、留袖新造は客を取る。しかし、まだ一人立ちできる身分でないので花魁につき、世話を受けている。
■太鼓新造(たいこ しんぞう);遊女でありながら人気がなく、しかし芸はたつので主に宴会での芸の披露を担当した。後の吉原芸者の前身になった。
■遣手(やりて);遊女屋全体の遊女を管理・教育し、客や楼主、遊女との間の仲介役。誤解されがちだが楼主の妻(内儀)とは別であり、あくまでも従業員。難しい役どころのため年季を勤め上げた遊女や、番頭新造のなかから優秀な者が選ばれた。店にひとりとは限らなかった。
■女衒(ぜげん);遊女達を全国から集めて廓へ供給する調達役。表向きは年季奉公の前借金渡しの形だが、実態は人身売買。中には、人さらいと通じている悪質な者もいた。人買い。
■楼廓詞(くるわ ことば);遊女達は全国から集められており、訛りを隠すために「 - ありんす」など独特の言葉を使っていた。廓詞は揚屋によって異なっていた。里詞、花魁詞、ありんす詞とも。
■三枚歯下駄(さんまいば げた);花魁が履く黒塗りの下駄。重いこともあって、普通に歩くことが出来ないため、吉原の「外八文字」、嶋原の「内八文字」などと呼ばれる独特の歩き方をした。きちんと八文字で歩けるようになるには3年かかったともいわれる。八文字(はちもんじ)花魁の道中での歩き方。
■伊達兵庫(だてひょうご);4代目中村福助の三浦屋揚巻(豊原国周 画『江戸櫻』大判錦絵)伊達兵庫花魁の格式に相応した壮麗絢爛な髪型。横兵庫の派生形。文金高島田の髷を大きく左右に張り、そこに松や琴柱をあしらった簪(かんざし)を左右に計六本、珊瑚大玉の簪を二本、鼈甲(べっこう)の櫛を三枚挿したもの。歌舞伎『助六由縁江戸櫻』の三浦屋揚巻や『壇浦兜軍記』の阿古屋に見ることができる。(右図)
■身請(みうけ);花魁に限らないが、客が遊女の身代金や借金を支払って勤めを終えさせること。大見世の花魁では数千両にものぼったという。
■吉原細見(よしわら さいけん);廓ごとに遊女の名を記したガイドブック。当時のベストセラーの一つであったといわれる。
■二階回し(にかいまわし);遊廓で、遊女と客が寝る部屋の全般を取り仕切る役の男衆。遊女が特別な用事が無い時に部屋を抜け出した事が分かると、部屋へ連れ戻す事も役目の一つ。
■廻し部屋(まわしべや);一晩に複数の客の相手をするような、位の高くない遊女が廻る部屋。
■吉原については以下の所でも語っていますので、覗いてみて下さい。
3.言葉
■眉毛(まゆげ);眉毛を落とすとのっぺらぼうのようになってしまいますが、明治に入ってもお歯黒と、眉を落とすのは既婚女性の証、と剃っていた人妻もいた。遊びの女が人妻風だったらビックリしてしまいます。でも、今ではわざと落として書いている人が多い。朝起きるとビックリする客もいたでしょう。 ■河岸の連中(かしのれんちゅう);魚河岸で働く人達。江戸から大正の大震災までは日本橋から東の江戸橋まで魚河岸が有った。威勢の良い、金離れの良い連中であった。乱暴な口をきくが水商売の人達には懐が温かいので喜ばれた。 ■坊主頭(ぼうずあたま);尼さんのようなツルツル頭。これからどうするのでしょうね、ま、カツラという手は有りますが・・・。生え揃うまでに3年が掛かると言われます。落語「三年目」は生え揃うまで幽霊になって出られない。「だって嫌われるとイヤだから」。いじらしいのですが、花魁は年期が切られているので、生え揃った時は年季明け?それとも、移し替え(トレード)されて四宿に落とされるのでしょうか。
またまた、吉原を歩くことになってしまいました。歩くと言っても、特別取材経費が出るわけではありませんのでどうしましょう。吉原の街の外観は何度か行っていますが、皆様は、私も含めて見世の中を見たいですよね。 冗談は別にして、 遊廓廃止後、吉原のトルコ風呂は年々増えていきましたが、とくに顕著に増加したのは東京オリンピック開催前年の昭和38年頃でした。
昭和35年には16軒だった吉原のトルコ風呂は昭和50年には65軒と4倍になり、昭和55年には150軒を超え、昭和59年にはピークの170軒に達しました。そして同年12月19日にトルコ風呂の名称が「ソープランド」と改名されました。
現在の吉原 2013年5月21日 能書きは別にして私も歩きます。
それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。 仲之町
(吉原中央通り) 王室
(吉原) 嬢王蜂
(吉原) 2014年1月記
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