落語「明烏」の舞台を歩く

  
 八代目桂文楽の噺、「明烏(あけがらす)」によると。 

 

 大門がどちらを向いているかも判らない、硬すぎる息子をもう少し柔らかくと、悪友2人に親父が頼む。源兵衛と多助はお稲荷さんのお籠もりだと言うことで日本橋田所町三丁目日向屋半兵衛の息子時次郎を吉原に連れ出す。お詣りだけでなくお籠もりに必要な御利益の多いナリ(着物)とお賽銭をたっぷり持って出掛ける。

 見返り柳を見ながら大門をくぐり、お巫女の家だと言われた茶屋に入る。茶屋からバレる前に早々に見世に送り込まれると、どんな堅物でもここが何処だか判る。帰りたいと泣きながらだだをこねる若旦那に、大門の所で帳面に付けていて、3人で来たのに1人では帰れないと言い含め、飲み始める。若旦那は一人落ち込んでいると、十八で絶世の美女の花魁”浦里”がそれなら私がと自らお見立て。部屋の方にと案内するとさんざん抵抗してやっとの事でその場は収まり・・・朝を迎える。

 「振られた者のお越し番」。源兵衛と多助は振られた朝を迎えたが、若旦那はモテて、まだ部屋に居るというので、甘納豆をほおばりながら覗きに行く。若旦那はまだ床の中で浦里と共に居る。2人は「又来ますから、起きたらいいでしょう」、浦里も「若旦那、早く起きたら」、「花魁も言っているように早くしたら」、「花魁はそーは言ってますが、私の手をグーっと、おさえて・・」。「う〜!。若旦那は時間があるのでユックリ遊んでいらっしゃい。私らは先に帰ります」。
 「帰れるものなら、帰ってごらん。大門で止められらー」。


似顔絵;山藤章二「文楽」 新イラスト紳士録より



1.見返り柳
(台東区千束4−10−8)馬道通り(土手通り)から吉原に入る角に有る柳の木。今はガソリンスタンドの前の歩道に寂しそうに立っている。
 『吉原遊郭の名所のひとつで、京都の島原遊郭の門戸の柳を模したという。遊び帰りの客が、後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、この柳の辺りで遊郭を振り返ったということから、”見返り柳”の名があり、
   きぬぎぬの後ろ髪ひく柳かな
  見返れば意見か柳顔をうち

など、多くの川柳の題材になっている。
 かっては山谷堀脇の土手にあったが、道路や区画整理に伴い現在地に移され、また、震災・戦災よる焼失などによって、数代にわたり植え替えられた。』(台東区教育委員会の立て札より)


2.大門
(おおもん)
(台東区千束4−11と33に道路をまたいで立っていた)吉原の入り口に有った門。

   江戸から明治の初めまでは黒塗りの「冠木門(かぶきもん)」が有ったが、これに屋根を付けた形をしていた。何回かの焼失後、明治14年4月火事にも強くと時代の先端、鉄製の門柱が建った。ガス灯が上に乗っていたが、その後アーチ型の上に弁天様の様な姿の像が乗った形の門になった。これも明治44年4月9日吉原大火でアーチ部分が焼け落ちて左右の門柱だけが残った。それも大正12年9月1日震災で焼け落ち、それ以後、門は無くなった。

 大門は常時開放されているが、「大門を打つ」と言って、遊里で事件が起こったとき、大門を閉じて人の出入りを禁じた。また、郭内の遊女を買い切って豪遊する時にも閉じられた。紀伊国屋文左衛門が吉原を一晩借り切って豪遊したことは有名である。
 大門について、写真と解説が「台東区今昔物語のホームページ」に有ります。

 吉原の回りは堀に囲まれ出入りは大門だけ。大門を入ると、右には出入りを監視する「会所(詰め所)」が有り、左には与力、同心、岡っ引きの詰める、「番所」が有った。これは遊女の脱出防ぎ、犯罪者の侵入を防いだ。女性は全て証明書(切符)が無いと出入りできなかった。噺の中で「大門でとめられる」は嘘でもなかった。善良(?)な男は関係はないが。

 樋口一葉は一時、吉原のすぐ北側に住んでいたことがあった。この体験から”たけくらべ”の書き出しで「廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝(どぶ)に灯火うつる三階の騒ぎも手に取るごとく、・・・」と表現しています。その一葉記念館は台東区竜泉3−18−4に有ります。


3.引き手茶屋と見世(貸座敷)
中小の見世では直に登楼することもできたが、大見世や格上の見世では通常茶屋を通してから見世に上がった。 
 茶屋とは 客に飲食・遊興をさせることを業とする家。芝居茶屋・相撲茶屋・料理茶屋・引手茶屋など。
 引手茶屋とは、遊郭で、遊客を妓楼に案内する茶屋。
 見世は妓楼で、道路に面して格子構えなどにし、遊女がいて遊客を誘う座敷。また、そこに遊女が居並んで客を待つこと。張見世(はりみせ)ともいわれる。(広辞苑)
 
茶屋のシステムは芸者(芸を本業とするので、床には入らない)や幇間を上げて、飲食をして遊ばせ、その後、見世(貸座敷)にお客を送り出した。茶屋はその先の見世での料金を保証して、全て茶屋の責任で見世に支払いをした。その為、紹介のない一見(いちげん)さんを断った。紹介者は暗黙の内に、茶屋に対して連帯して保証した。今でも京都の祇園ではどんな有名人でも、一見さんを断る茶屋がある。茶屋遊びだけでも楽しく、それだけで満足して帰る客も多々あった。
  また、見世側は「付き馬」でも紹介したように、集金業務が大変であった。そこで、茶屋から紹介されてくる客を、優先的に遊ばせた。その為、茶屋から見世というルートが出来上がっていった。後年、この煩雑なシステムを嫌う客が増え、直接見世に上がる客が増えた。
 寛永19年(1642)遊女987人、見世が125軒あった。明治30年(1897)茶屋60軒、見世200軒、昭和33年(1958)茶屋9軒、見世300軒になった。
 若旦那・時次郎は二人の紹介で茶屋にも上げてもらえたし、見世では初会の客にも拘わらず破格の扱いを受けた。初会でベットイン出来るのはラッキーであった。

   
       

 吉原は大門をくぐると、真っ直ぐな道が奥まで続いている。このセンター通りが「仲之町通り」。この左右には茶屋がびっしりと並んでいた。そして、その両脇の奥に見世が群居していた。
 
談志は文楽の口調をまねて「稲本、角海老、大文字、品川楼は当時の大見世で、幅の広い梯子段を『とんとんとん・・』と上がって、廊下なんぞは広くて、ス〜っと見通せないぐらいで、所々に電灯が付いていた」と言っています。



4.稲荷
江戸を言い表すのに、「伊勢屋、稲荷に犬の糞」と言われるほど、江戸には稲荷が多かった。吉原の遊郭の中にも四隅にお稲荷さんが祀られていた。大門くぐって左に「明石」、時計回りに「九郎助(黒助)」、「開運」、「榎本」稲荷があり、入り口見返り柳の反対側に玄徳(よしとく)稲荷が有った。『明治8年五稲荷社を合わせて、吉原神社が出来た』(吉原神社説明)。しかし明治27年の地図によるとまだ吉原神社は無い。大正12年の地図で初めて五稲荷は合祀され、玄徳稲荷が有った所に吉原神社が出来た。その後、昭和に入って現在地(台東区千束3−20−2)に移転した。 若旦那はどのお稲荷さんで”お籠もり”をするつもりであったのか。 


5.
浅草寺、吉原については第23話「付き馬」をご覧下さい。


6.
オチについて文楽は品良く「私の手をぐーっと、・・・」と言っているが、他の演者は「私の足に足をギューと挟んでいるので・・」とか「私の太股を掴んでいるので・・・」とか、かなりきわどい台詞を吐いている。過去にはバレ話風に「嘘だと思ったら、布団を這いで見せても良いですよ」まで、言わせたが、文楽以降は品のいい若旦那に仕上げている。


7.日本橋田所町三丁目
 
日向屋半兵衛の息子時次郎が住んでいた所は、現在地中央区日本橋掘留町二丁目。落語「百川」で紹介した、長谷川町・三光新道は此処にある。


8.その後の時次郎
 そんなウブな時次郎であったが、吉原に一人で通うようになった。

原画出典;渓斎英泉画「北里花雪白無垢」(草双紙)。三谷一馬画江戸吉原図聚「色客」立風書房刊

 四隅に房付きの三段重ねの布団の上にいる色客は、原典で明烏の時次郎になっています。客と隣の花魁は上着を脱いだ間着で、これが寝間着になります。寝る時は花魁の頭の飾りは抜き取って禿(かむろ)に渡し、それを受け取って箱に収めています。左手前の男は幇間でしょうが、薬(葛根湯?スッポンの粉?)を客に渡しています。振袖新造がその湯を汲んでいます。
 掛け布団のエリは黒繻子に龍の刺繍がしてあり、三つ組の敷き布団の柄も手が込んだものです。花魁の間着はエリ、ソデ、スソが同じ柄で、胴が別柄で、これを胴抜きといいます。客も同じような胴抜きです。
 部屋を見渡すと、枕元にたばこ盆と右に枕屏風、奥に屏風が立て回されています。粋な丸形行灯があります。
 どちらにしても、早く二人にしてあげて。
 この項、2011.8.追加


■「明烏」の原典
 この心中事件の元は、吉原・蔦屋抱えの遊女三芳野(三吉野)と浅草蔵前の伊勢屋の養子伊之助が深く馴染んだが、借金がかさんで江戸の三河島で情死を遂げた。明和6年(1769)の事だった。
 その事実を、3年後の安永元年(1772)、初代鶴賀若狭掾(わかさのじょう)が新内「明烏夢泡雪(あけがらすゆめのあわゆき)」を作り、三芳野は浦里に、伊之助は時次郎に、名を変えてよみがえった。通称「明烏」で江戸中に知れ渡るほどに流行した。

 妓楼山名屋の遊女浦里と深く馴染んだ時次郎は、もはや金は借り尽くして、浦里と逢うことも禁じられていた。募る恋しさに、人目を忍んで浦里と逢っているところを、遣り手婆ァのかやに見付かり、時次郎は若い衆に散々乱暴され、表へ突き出されてしまった。
 一方浦里は、時次郎との間にもうけた禿・みどりと共に、吹雪の舞う庭の木に縛られ、妓楼の主にきつく折檻される。緋の長襦袢を雪に濡らして浦里は悲観にくれる。妓楼の主の姿が見えなくなってから、浦里の元へ、時次郎は屋根伝いに忍んできて、二人の縄目を解いて、手に手を取って去って行く。

 続編が出来て「明烏後真夢」として発表、それによると、
 二人は縁ある深川の慈眼寺まで逃げ、その境内で心中する。しかし、名刀小烏の霊力で蘇生して、めでたく夫婦になる。

 この落語「明烏」は、「明烏夢泡雪」のパロディーです。

 


 

  舞台の吉原を歩く
 

 まず、今の吉原には噺の舞台となった面影は何処にもない。町名も千束に変わり、名前が残っているのは、吉原神社、NTT吉原、東電新吉原変電所、吉原交番、京町公園、吉原公園、吉原大門交差点、見返り柳、ぐらいでしょう。それと、町会の名前は昔通りの旧町名で呼ばれている。花魁道中ショーで有名だった松葉屋も今はマンションになってしまった。土地の古老に聞いても、華の吉原は何処にもない。しかし、今はネオン瞬く歓楽街になっている。その主役は「ソープランド」、早朝割引サービスまである。それなら振られることも無いであろう。平成5年で、ソープランド163軒、ホテル・旅館20軒、が営業している。
 大門から入って一番奥、水道尻(すいどうじり。みとじり)。裏門の先左側に通称吉原公園(現NTT吉原)があって、”酉の市”には小屋や露天が並び盛況を極めた。その中ほどに弁天池があり、震災の時避難してきた遊女達が火から逃げるため多数水死*した。今はその一角(千束3−22−3)に、これを供養するため、弁財天が祀られている。その入り口の石門に、焼失した鉄の吉原大門の左右に刻まれていた銘文がおなじ文面で残っている。福地桜痴 (下注)作の漢詩で、「春夢正濃満街桜雲(しゅんむまさにこまやかなりまんがいのおううん)」、左に「秋信先通両行灯影(しゅうしんさきにつうずりょうこうのとうえい)」と刻まれている。当時、発起人が彼に頼んで書いて貰ったが、原稿料が余りにも高いのでビックリしたと伝わっている。
 源兵衛は「としが十九になって吉原の大門がどっちを向いているのかわからね〜って変わり者」と、若旦那を如何に堅物かを表現して言う。ここの”花吉原名残碑”に「世俗いふ吉原を知らざるものは人に非ずと」とある。私なんざ〜、吉原も大門も知りませんよー。硬すぎて!

 *遊女の水死;弁天池に飛び込んだ遊女の上に火炎が何度も舞って、彼女たちは火と水によって死んだ。百人とも数百人とも言われた。その池は真っ黒になり、手鉤で引き上げたが、後からあとから引き上げられて終わりがないかと思われた。その写真を載せますが、非常に残忍な写真ですからそれを承知の方のみ閲覧してください
 「吉原公園に引き上げられた遊女の死体」、「鑑定が済み安置された遊女」

 福地桜痴 現、池之端1−4−22 俗に「池之端御殿」と呼ばれていた 所に住んでいた。福地桜痴は、幕末は通訳官として維新後は新聞人として活躍。劇作家、小説家、翻訳家として縦横に活躍する。父は儒医。蕃所調所で箕作阮甫に蘭学を学び、中浜万次郎に語学を学ぶ。下谷二長町に塾を開き英、仏語を教授。明治3年伊藤博文に随行して渡米、のち再び岩倉具視使節団外務大記として欧米派遣。明治7年東京日日新聞入社、主筆として活躍。主権在君論をひっさげて政界他に幅広く活躍したが、明治20年東京日日新聞を去って演劇界に入り、22年千葉勝五郎らと東京木挽町に歌舞伎座を創立、座主となる。37年歌舞伎座に於ける翻案「夜の鶴」を最後に再び政界に入り、東京府選出の衆議院議員となる。東京会議所議員となり渋沢栄一らと、ガスをひき街燈を灯すなど公益事業にも貢献した。脚本「春日局」「鏡獅子」「侠客春雨傘」歴史小説「幕末政治家」「山形大弐」「車善七」等多数。(台東区ホームページより)

 

地図

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写真

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松葉屋跡
 
最後まで残った茶屋。料亭として営業して「はとバス」のコースとして、”花魁道中”は有名であったが、今は無い。ごらんのように交番が入ったマンションになってしまった。他に有名な角海老もマンションになっている。
 ここに「大門」が有った。丁度電柱の建っている辺りであろう。左方向、吉原。道路手前(右)見返り柳。中央奥への道はお歯黒どぶの跡。
大門絵図
明治24年の吉原大門。一葉記念館で撮させて貰ったもの。アーチ型の門ではなく、ペン先のような門柱が建っていた。ペン先のような部分が、ガス灯。その後、この上にアーチを架けて中央に弁天像が立っていた。
吉原神社(台東区千束3−20−2)
 
吉原のお稲荷さん五社を合わせて、祀られている。午の日を縁日とし、花魁、遊女達の参拝が絶えなかったという。
比翼塚(豊島区巣鴨5−35−33、慈眼寺)
 明和6年(1769)公儀役人の息子伊藤伊之助と吉原の花魁三芳野が心中をした。3年後これを題材に新内節「明烏夢泡雪」が作られ大ヒットした。落語はそのパロディー。
 慈眼寺には伊之助と三芳野の比翼塚が有る。情死した二人の墓を列べて祀られている。

                                                   2001年6月記

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