落語「子別れ・下」の舞台を歩く
   

 

 柳家小三治の噺、「子別れ・下」(こわかれ、別名「子は鎹」。こはかすがい)によると。
 

 熊五郎は大店(おおだな)の番頭さんと木場に木口を見に同道する事になった。道々、吉原から連れ込んだ女房の事や先(せん)のおかみさん”お徳さん”は素晴らしかった。と言う話になったが、亀坊も含めて何処に居るのか分からなかった。女房には面目なくて会えないが、今は九つになる”亀”には会いたいと思っていた。

 偶然に亀ちゃんが前から歩いて来た。番頭さんには木場で会う事にして、亀ちゃんに声をかけた。この近所に住んでいるのか、元気でいたか、いろいろ話が弾んだ。三畳の部屋にいる事、先の女房は未だ独り身で、手間賃仕事で質素に亀坊を育てている事などが分かった。小遣いだと50銭銀貨を握らせた。額のキズを見付け聞くと、遊んでいて生意気だと斬られ血だらけで家に帰るとおっかさんは怒って、「男親が居ないとバカにして、今日は怒鳴り込んでやる。何処の子だい」と言うから、斉藤さんのぼっちゃんだと言うと「痛いけれども我慢をおし」と言われてしまった。「何時も着る物や仕事を貰っているのに、気まずくなったら路頭に困るから」と泣いていたよ。熊五郎もその辛さを感じて、ポロポロと涙を流した。近くに鰻屋があるのを見つけて、明日この時間に待っているから鰻をご馳走してあげると約束した。おとっつぁんに会った事は男同士の内緒だよ。

 「ただいま〜ぁ」。糸をほぐすので両手を貸してちょうだいと、手伝い始めると50銭が飛び出した。盗んだんではなく、貰った事は言ったが、誰からとは言えなかった。「悪い金でなければ言ってごらん。では、表を閉めてここにおいで」、捕まえて聞くが、どうしても口止めの約束で言えなかった。「どうしても言わないのなら、ここにおとっつぁんのゲンノウが有るから、これで叩くよ。これはおとっつぁんが叩くのと同じだからね」、でも言えないでいると 、ゲンノウを振り上げる母親の剣幕に押されて事の仔細を話してしまった。
 母親はビックリするやらうれしいやらで、亀坊に聞くには、「お酒も飲んでいないし、半纏は良いのを着ていたし、女郎の女は3ヶ月で追い出して、一人で仕事している」と言った。そして鰻をご馳走してくれると言っていたと話した。「いいよ、いいから行っておいで。これから髪結い床に行って、夜はお湯に一緒に行こうね」。

 翌日、学校から帰ってくると、こざっぱりした着物に着替えさせて送り出した。自分も気になるので洗いざらしの半纏を着て、顔を2.3回はたいてから、鰻屋の前を行ったり来たり、それを見つけた亀ちゃんが手を取って座敷に招き入れた。
 堅くなっている二人ではあったが、亀坊が「おとっつぁん、お願いだから昔のように一緒に暮らそうよ。おっかさぁん、頼んでおくれよ」。
 熊五郎、手を着いて「いまさら俺の口から言えた義理ではないが、亀が言うとおりだ。それが一番良いと思う。お前がいままで一人で居てくれたのが幸いだ。どうだ、もういっぺん俺と苦労してくれないか。・・・この通りだ」と深く頭を下げた。
 「(涙声で)お前さん、ありがとう。亀、良かったね。お前さん、夫婦がこうやって元の鞘に収まるのも、この子が有ったればこそ。お前さん、子は夫婦の鎹ですね」。
 「え!あたいは鎹かい。それで昨日、おっかさんが頭をゲンノウで叩くと言ったんだ」。

 


 
1.「子別れ」序、中ついて
  最近は子別れと言えば「下」が中心で、なかなか「序」、「中」に接する事が少なくなりました。今回、小三治さんはきっちりと三部構成で口演して居ますが、今回は華の「子は鎹」を中心に舞台を歩く事にします 。「序」、「中」の概略を小三治さんの噺から説明しておきます。

「序」 別名「こわ飯の女郎買い」 大工の熊五郎、大店の大旦那が90歳を越して大往生したので通夜に駆けつけた。天寿を全うしたので「めでたい」と、黒豆入りの赤飯(こわめし)と有名料理屋弁松の煮物 (写真も弁松)、酒をご馳走になって故人を偲んだ。弁松総本店は日本橋本町2−4、嘉永3年創業で折り詰め弁当専門店、江戸の味を伝える弁当を作り続けています。
 酒癖の悪い熊五郎はへべれけに酔って吉原に繰り込もうと町内の連中に声を掛けたが、誰も相手にしないどころか、「そんな金が有れば、女房子供に何か買ってやれ」とたしなめられた。
 そこに隣町のクズ屋がやって来て、前受けの金を持って懐豊かな熊五郎におんぶして、「着いたらクズ屋と言っちゃやだよ」ということで同行する事になった。ドブに落ちそうになるのを掴んで止めると、背中の煮物から汁が出て下帯に溜まって気持ちが悪い「このまま死んで焼かれたら照り焼きになっちゃう」。背中に七つ、袖に五つ、懐に三つ貰って来た、これが七五三の振り分けだという。
 吉原で若い衆から声を掛けられ、「通夜の帰りなら、ハカイキが良いからどうぞ」と言われ、揚がる事にし、手土産をみんなに配った。 見世で熊五郎は名乗りを上げる「俺は神田竪大工町にいる大工の熊五郎てぇ堅気の職人だぁ・・・」。
(舞台は吉原)

「中」 その晩、相方は若い時熱を上げた品川の馴染みの妓であった。その奇遇を喜び、焼けぼっくいに火がついて、楽しく遊んだ。翌朝妓は熊五郎を離さない。とうとう4日も居続けてしまい、有り金全部使い切ってしまった。
 家に帰って女房に言い訳をするが、品川の妓とのノロケ話を平気でするので、女房はたまらず亀坊を連れて家を出て行ってしまった。
 一人になった熊五郎はこれ幸いと、妓を家に入れて暮らし始めたが、「手にとるなやはり野に置けレンゲ草」で、朝寝、昼寝、夜寝をして、家事一切出来ないだらしない女であった。その上、長屋のトイレに行くのもめんどくさいと「流しで 、したいょぅ」と言いだす始末。朝も食べずに出掛ける熊五郎は別れ話をしようと思ったら、女の方で先に居なくなった。
 初めて目が覚めた熊五郎、「前の女房は過ぎたる良い女だった。それに亀坊も大きくなっただろうな」と思うようになった。これ以来、酒はプッツリ止めて3年間しっかり精を出して働いた。元々腕が立つので、お得意も戻ってきて人の頭に立つようになっていた。
 (この場面から「子別れ」の題名が付いています。舞台は住まいの神田竪大工町)



2.
木口(きぐち)を見る
 当然日本家屋を建てるのでしょうから、お仕着せの材木ではなく自分たちで吟味して材料を使いたいものです。ご主人はそこで番頭さんに頼んだのですが、ソロバンは使えても材木に関しては素人ですから、プロの
熊五郎のお出ましとなった次第です。
 木口(こぐち)とはバームクーヘン状の材木の切り口の事ですが、ここでは材木そのものの善し悪し、等級を吟味する事を言います。材木の檜、杉、松などの品種をあたり、産地や等級を見て、後は懐と相談して1軒分の材木を手当てします。やはり信頼できるプロの熊五郎の目が絶対必要になってきます。

 

3.神田竪大工町  (千代田区内神田三丁目
 
”熊さん”は、吉原で「俺は神田竪大工町にいる大工の熊五郎てぇ堅気の職人だぁ・・・」と言って啖呵を切っていました。神田竪大工町は 、今の 、内神田(うちかんだ)三丁目でJR神田駅西側の街になります。
 「三方一両損」で登場の大工の”吉五郎”が住んでいたのも神田竪大工町で、「大工調べ」の棟梁”政五郎”もここに住んでいた。落語の中の大工さん達は皆ここに住んでいました。横大工町と言う地名もこの北側に有りました。


4.かすがい(鎹)
 材木の接手、仕口をつなぎ固めるために作られたコの字形の大釘。大きめのゲンノウで片側ずつ打ち込みます。小さなゲンノウ(金槌)では何回も打ち込まなくてはいけないので、結果グズグズになって効かなくなります。ここは一発大きなゲンノウで決めたいところです。亀ちゃんも大工の子、「こんなので叩かれたら・・・」と思った途端今まで口を閉ざしていたのが、男の約束でも一気にしゃべり出す のは致し方がないでしょう。

 最近はかすがいに替わるいい金物が開発されて、その方が利用頻度が高いようです(右写真;はごいた)。しかし天井裏には今でも必ず使われますが、普通の家でその数約150本は使用されます。かすがいは通常平面上でコの字形をしていますが、片方の釘が90度ねじれている物もあります。写真上 右 ;カタログから。写真上左;赤枠内使用例。


5.木場(江東区木場)
 隅田川東部の江東区の発展は、江戸初期からの埋立てに始まります。慶長期(1596〜1615)に大阪から来た深川八郎右衛門が森下周辺の新田開発を行い、深川村を創立しました。

 深川・木場のイカダ乗り

 明暦3年(1657)の振り袖大火後、幕府は火事に強い江戸づくりを計画し、密集した市街地の再開発、拡張に努めました。まず貯木場を永代島に集めて木場を創設し、元禄 14年(1701年)に現在の木場に移転させました。さらに埋立て開発の進んだ深川地区には、武家屋敷や社寺を移し、正徳期(1711〜1716)になると江戸の市街地に編入されました。

 「深川楼」 鈴木春重画

 区内を縦横に走る河川を利用しての木材・倉庫業、米・油問屋の町として栄えた深川地区は、社寺の祭礼、開帳などの年中行事を中心に、江戸市民の遊興地としても賑わい、江戸文化の華を咲かせました。
 材木を扱う木場は富岡、冬木、深川、木場、平野を中心に問屋、製材、原木業者が集中していて、俗に木場千軒といわれ、以来、300年近く木材取引の中心として繁栄を続けました。
 このため、材木商の中から、紀伊国屋文左衛門(1615−1718)、奈良屋茂左衛門(1655?−1714)、冬木屋弥平次(三代目)等の豪商が出ました。

 


  舞台の神田〜木場を歩く

 内神田3丁目に出掛けました。ここは神田竪大工町と呼ばれた所で、今はJR神田駅西側の駅前です。しかし、都市整備ができずに今に至っていますから、駅前広場はおろかバスの専用停留所さえありません。このごった返したところが神田駅の良い所なのでしょう。オフィスビルや店舗、飲み屋が雑然と軒を並べています。夜ともなれば赤提灯に会社帰りのサラリーマンが暖簾をかき分けて、一休みとなる所です。当然今は大工さんはおろか職人さんの住まうのも難しい駅前商店街です。

 神田から木場に行くその道順を、近道の幹線を通って、歩いて行きましょう。
神田竪大工町→中央通りを南に→日本橋を渡って直ぐ左折(日本橋交差点)→永代通りを東に→茅場町→新川(霊厳島)→隅田川の永代橋を渡って→門前仲町→木場。
が、順当なコースでしょう。地図上で約3kmですから、徒歩で40〜50分で行けるでしょう。

 木場は材木商で栄えた街ですが、今は海岸際の新木場に引っ越して、過日の面影はありません。その跡地は堀を埋めて「木場公園」ができています。桜の花から始まりいろいろな花が四季を問わず咲いています。この一画に「東京都現代美術館」があります。アンディ・ウォ−ホルなどの現代作家の作品を収蔵しています。
 話を戻して、三つ目通りを地下鉄東西線(南方)に向かって歩き始めます。永代通りに出た所が地下鉄東西線の「木場駅」です。地下鉄に乗って次の駅が「門前仲町」ですが、永代通りを西に向かって歩き始めます。目の前に高速道路の高架道が見えます。上下二段になった万里の長城のような無粋な建築物です。その手前、右奥に「繁栄稲荷」が有ります。永代通りを進むと、まもなく右側に深川八幡の参道が現れます。深川八幡とは通称で正式には「
富岡八幡宮」と言います。深川はここを中心に門前町があり、昭和33年まで遊郭もあり、辰巳芸者で有名な、粋で賑わった街です。
 江戸時代後半はこの永代通りが東京湾の海岸線でしたから、漁業が盛んで魚市場が立ち、江戸前の活きの良い新鮮な魚がふんだんに入りました。今、食べ物も昔からの飾らない料理で、煮込みや魚料理、それに忘れてはいけない深川丼があります。深川丼は漁師が即席に食べられるようにと、むきアサリとネギで煮たものを丼に掛けたものが始まりで、今は高級丼の仲間入りをしてしまったようです。最近あちこちで見受けますが、ここが発祥の地です。

 八幡宮に入ると直ぐ左手に測量開始200年記念「伊能忠敬像」があります。この近所に住んでいた事と測量の旅に出る時はここでお祓いを受けて出発したことを記念しています。
 その直ぐ足元にサッカーボールを半分に切って伏せたような石があります。その中に現在の測量基点の三角点があります。
 隣の御輿蔵には日本最大の4 .5トン御輿が飾られています。あまりにも大きく重いので、お披露目の時に担がれただけです。そのお祭りも今年(2005)は8月14日に盛大に行われます。
 参道の突き当たりが本社で右奥に入っていくと歴代・横綱力士碑があります。初代
明石志賀之助から今の朝青龍まで石碑に名前が彫刻されています。

 本社の左側から外に出るとそこが「深川成田不動」です。その向こうの深川公園が昔、永代寺があった庭園跡地です。この永代寺から隅田川に架かった永代橋の名が出たと言われます。ここから永代通りに出ると 、もう門前仲町の繁華街です。
 いい時間になったので、亀ちゃんをつれて、鰻で一杯。いえいえ、夜ですから、好みの赤提灯で一杯といきましょう。ねぇー、そこの貴方、ご一緒にいかがですか。

 

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

神田竪大工町千代田区内神田三丁目)
大工の熊五郎が住んでいた街。JR神田駅西側で、夜になれば赤提灯の氾濫するサラリーマンの街です。

「亀久橋」江東区冬木と平野二丁目を渡す。木場の隣)
熊さんが亀ちゃんと久しぶりに逢った所(?)。

木場(江東区木場四丁目)
深川木場は葛西橋通りを都心に向かって見ています。両脇は木場公園ですから緑が一杯ですが、当時は筏を係留する為、堀だらけでしたが、今は埋め立てられて、公園になっています。

木場(江東区木場四丁目
木場公園の木場公園大橋の上から俯瞰しています。川は東西に走る仙台堀川です。木場は埋立地の新木場に引っ越して以来、都市開発が進み、材木商抜きの普通の街になりました。

繁栄稲荷(江東区木場2−18。繁栄橋畔)
京都伏見稲荷から勧請した、商売繁盛、芸能上達の神として木場に鎮座しています。大丸デパートの創始者「下村彦右衛門」が宝暦7年(1757)建立。江戸日本橋に江戸店を開設、続いて深川木場四丁目に 別荘を開いた。その時の邸内神として祀られた。明治末木場を閉じたが、その後青山に移り、今は木場の原点に戻ってきた。

伊能忠敬像(江東区富岡一丁目、富岡八幡境内)
ご存じ、日本で最初に測量して日本地図を作り上げたパイオニアです。忠敬は黒江町(現・門前仲町一丁目)に住みここに参拝してから測量の旅に発ちました。寛政12年閏4月(1800.6.)第1回の旅立ちから全部で10回の測量をしています。

横綱碑(江東区富岡一丁目、富岡八幡境内)
有名な横綱碑の脇には「木場」と朱字で彫られた石が積み上げられています。隣町は木場ですから・・・、そこの旦那衆から贈られた物でしょう。

                                                        2005年6月記

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