落語「首ったけ」の舞台を歩く
   

 

 五代目古今亭志ん生の噺、「首ったけ」(くびったけ)によると。
 

 辰つぁんの相方の紅梅さんが、回しを取られて、ドンチャンどんちゃんと騒いでいる。馴染み客とすれば嫌なもので苦言の一つでも言いたくなるだろう。若い衆を呼んで騒がしくて寝られないから帰ると言い始めた。敵娼(あいかた)の紅梅さんがなだめに入ったが、売り言葉に買い言葉、見世を飛び出してしまった。

 大引け後だったので、真っ暗で帰るに帰れなかった。向かいの見世に明かりが見えたので頼むと、明日、よりが戻って向かいに帰られると立場がないと言う。二度と行かないからとの約束で上がると、敵娼(あいかた)の若柳さんは前から辰つぁんの事を気にかけていたからと、充分の接待をして帰した。毎晩のように通うようになったが、行けない日があった。

 今晩は行こうと思っていると、昼頃、火事が出た。それは吉原からだった。若柳さんを助けようと思って飛んで行った。表からは人だかりで入れないので、裏のお歯黒ドブに回った。花魁達は化粧気もなく走って来るが、煙に巻かれて右往左往している。そこに数人の花魁が駆けて来たが、跳ね橋から一人が落っこちて、真っ黒く汚いお歯黒ドブにはまった。泥深く直ぐに脇の下まで潜ってしまった。「助けてよ〜!!」と金切り声を上げた。みんなで助けてやれ、と手を出すと、それは喧嘩別れをした、紅梅さんであった。
 「夜中俺をおっぽり出したやつなんか助けねぇ」
 「辰つぁん! 早く助けておくれよ。もう首まで来たからさぁ
 「そんな薄情なやつは助けねぇ」
 「そんな事言わないで! もう、首ったけなんだから」。

 


 
1.野暮ですが、初めに吉原の言葉説明。
首ったけ;「惚れて惚れて、もう貴方無しでは居られない」という状況。こんな素晴らしい言葉が広辞苑にも小学館の国語辞典にも載っていない。

回し(廻し);お相撲さんが着けるのがまわし。ではなく、落語「五人まわし」でも登場の、花魁が一晩に何人もの客の相手をする事。浅草寺でイベントがあった時や、お酉さんの晩なぞはお客が集中して忙しかったので、当然この様になった。 普段でも安い所は皆、質より量でこなしていた。また、この様な状況ですから、馴染みの客が、ほかの客と目の前で楽しんでいるのを見ると、男としてたまらなかったであろう。

大引け;お引けと言って、四ツ(午後十時)には大門が閉まって、以後は脇の潜戸を利用した。午前0時を中引けと言い、午前2時を大引けと言ったが、今考えると以外と早い時間に大門がしまったのですね。 八ツ(午前2時)には見世も大戸を立てます。これが大引け、以後原則として客は取りません。 この時鳴った時の鐘の音が”追い出しの鐘”と言われた。
 証券取引所で使われる、取引時間の最後を”大引け”と言うのはここから来ています。

若い衆(わかいし);別名ぎゅう(妓夫、牛太郎=若い衆)。客引き。 遊郭の若い衆(使用人)。小見世では客引きなどをする見世番。歳を取っていても”若い衆”と言う。

 

2.お歯黒どぶ
 吉原遊郭の外周をかこっている堀(ドブ)。真っ黒で汚かったので、お歯黒ドブと呼ばれた。
 名前の由来は、遊女が化粧をする際、お歯黒を流したためとも、また、溝の水がお歯黒のように黒く濁っていたからだともいう。

 「お酉様の手前、大音寺前から茶屋町というのがありますが、樋口一葉がいたというその向こう側に、糸切りダンゴというのがあって、そばにチャンユウという正月はよく凧を売っていた小間物屋もありました。吉原は、町からは木戸があって夜は通さなかったですが、大門の方は開けっ放しのようでした。おはぐろどぶは遊女屋の方は石垣になっていて、さし水で、もとは菊屋橋のほうからきていたと思うのですが、それこそまっ黒で、おはぐろのようにきたなく、流もそうないくらいでした。その菊屋橋の橋の下あたりも水はまっ黒でしたね。
『古老が語る 台東区の明治.大正.昭和 浜中 藤一郎氏』

 大門のちょっと離れた左右には水をたたえた大溝(おおどぶ)があり、これがぐるっと吉原を取り囲んでいました。大溝は新吉原初期のころ5間の幅(約9m)があり、唯一の出入口が大門だったので、吉原は文字どおりの廓だったのです。この大溝は江戸末期から明治初期のころ2間(約3.6m)に狭められ、さらに明治36年ごろには3尺幅となりました。もちろん現在ではすっかり埋め立てられています。また、大溝は幕末ごろからお歯黒溝とも呼ばれるようになりました。

 先代金馬が言うには、お歯黒ドブは跳ね橋が架かっていて、通常その橋が跳ね上がっている為、通行する事が出来ませんでした。その橋番をしているたばこ屋の主人に頼むと、タバコを買っていさえすれば、橋を降ろして通してくれたといっています。でも万人がそれをした訳ではなく、やはり顔が利いていたんでしょうね。

 

3.吉原の火事
 江戸時代から吉原で大火になるような火事は数回起こっています。志ん生が噺の中で話している火事は、明治44年4月9日の火事の事です。当時の「日曜画報」から引用すると、

 「四月九日午前十時三十分、新吉原 江戸町二丁目二十番地美華登(みかど)楼より起これる怪火、花時風雨多き折りも折りとて朝来哮(たけ)り狂える西南の烈風之を煽(あお)り煽りて瞬く間に東京名所随一の吉原遊郭六街を全焼し、焦土と化す。火勢は烈風を倍加し郭外にも飛延、西は竜泉寺(町)の大半を舐めつくし、金杉下町より北三ノ輪に及び、東は橋場・総泉寺付近に至り、北は南千住車場貯炭倉庫に至って、夜十時三十分ようやく鎮火す。延焼面積一里四方、町数二十四ヶ町、六千五百余戸にして、罹災民十万余と称される。当日の悲壮、雑沓、混乱の惨景言語に絶す」。
 なお原因についても記されていて、
 「美華登楼の娼妓が二階の部屋で長襦袢の衿(えり)の油汚れを取ろうと揮発油で拭いて、その濡れた衿を火鉢で乾かそうとして引火、驚いて手を滑らせ、さらに、水と油の違いを知らなかった娼妓の無知さまで分かった。折からの春風に煽られて障子襖に燃え移り、瞬く間に楼を焼き、八方に飛び火し、吉原炎上の大惨事になってしまった」。

  

絵草紙「吉原炎上」 斉藤真一著より  左;出火状況。中;吉原炎上。右;炎上中とその廃墟。

吉原大火
  「明治44年4月9日の吉原大火の時は、遊楽連の仮装を見に飛鳥山に誘われていて、見ていますと、下の方で鐘が威勢よく鳴るんです。風の強い日で花吹雪の中、やがて半鐘だと分かったんですが、飛鳥山を下りたところの笛売り屋の角に半鐘があり、そこで鳴らしているのが見えました。それから急いで山のはずれへ来て南を見ると、おわんをかぶせたように真っ黒に見えるんです。「こりゃだめだ、うちの方だ」というので、人力車であわてて帰ってきたんです。
  お天気は大変よかったのですが、吉原の方からぞろぞろ大勢で逃げて来るんです。遊女ですね。遊女が綱につかまりながら、婆さんや男衆がまわりを取り巻いてくるんです。遊女を見るてえと、それこそ寝巻きみたいなのを着てましてね。幅広い黒襟を出して羽織ったり、また半天着ているようなのもいました。そういうのが何を持ってくるかというと、たばこ盆を持ったり、枕を持ったり、人形をもってんのもいましたね。それに吉原や竜泉の人もまじって上野の方へ逃げていきました。うわさでは遊女が、えりの油をとるんで、キハツを使った、そのキハツのビンが倒れて、火が移ったといわれています。火のまわりが速く、蒸気ポンプが中で焼かれているのを見ています。

『古老が語る 明治.大正.昭和 浜中 藤一郎氏 談』
http://www.aurora.dti.ne.jp/~ssaton/taitou-imamukasi/oomon.html

仮宅(かりたく);吉原遊郭が焼失したり洪水の被害にあった時、吉原五町の名主から奉行所へ請願して廓外の一定の場所の家屋を借りうけて遊女営業をすることを仮宅と言った。本場所よりも遊興費も安く結構繁盛した見世もあって、仮宅営業の許可期限が切れても本場所へ戻らぬ妓楼もあった。これを「焼け太り」といった。

「里すずめねぐらの仮宿」歌川国芳画 国立国会図書館蔵
 弘化2年(1845)暮れに吉原が焼けて仮宅が営まれた。国芳はそこに取材し、雀で擬人化し、格子先やぞめき客の状況を写した。


4.竜泉寺 (町)
  この町は何と言っても樋口一葉ゆかりの町として有名だ。明治26年に、それまで暮らしていた本郷菊坂からこの地に越してきたのは一葉が21歳の時である。父親の事業失敗とその後の死去で、経済的に困窮していた一葉は、越してきたこの細民街を「塵(ちり)」に例えて日記を書いている。当時の住所は竜泉寺町368番地である。この年代には住居番地が変わっていて茶屋町通りに面した340番地ということになろうか。一葉が住んでいた茶屋町通りについて一葉は『たけくらべ』に「氣違い街道、寐ぼれ道、朝帰りの殿がた一順すみて朝寐の町も...十分間に車の飛ぶ事此通りのみにて七十五輛と數へしも、...」と書いている。吉原通いの人力車が絶え間なく通った通りである。一葉の住んだ二軒長屋の隣は車夫宿屋であった。この地で駄菓子や荒物、雑貨を営み母と妹を養いながら、文学に熱い思いを抱いていたのだ。

 右図;「一葉像」鏑木清方画 東京芸術大学蔵

  茶屋町通りの南には地元の人に「飛ぶ不動」の名で親しまれている「飛不動」がある。縁日には飛不動の名にちなんで飛行お守りを授けている。毎年秋には「下谷竜泉菊まつり」が境内であり賑わっていたが、今年から中止となったようでさみしい限りである。
  下谷区と浅草区の区境となっているのは吉原の「お歯黒ドブ」跡。刎(はね)橋があっていつもはそれが上がっていて遊女の逃亡を防いでいた。大鷲(おおとり)神社は毎年11月の酉の市では、熊手を買い求める人で足の踏み場もないほど混雑する。
  茶屋町通りの西側を南北に走る「清杉通り」には、三ノ輪車庫−有楽町間を市電が走っていた。市電竜泉寺町停留所の反対側の大音寺*は『たけくらべ』の龍華寺のモデルとなったお寺だ。その上の竜泉寺町西派出所の左に竜泉小学校がのぞいている。この学校は後の竜泉中学校であり、現在は下谷中学校と統合して柏葉中学校となっている。
  竜泉小学校の北には『たけくらべ』の祭りの舞台となった千束稲荷がある。「千束」の名はこの地が昔、広い田圃であったことの証である。
台東区の「明治.大正.昭和」より

* 大音寺;第40話・落語「悋気の火の玉」で歩いた舞台。『初七日も済んだ頃、橘屋さんの蔵の脇から奥様の陰火が唸りながら根岸に向かって飛んでいった。と、根岸からお妾さんの陰火がふあふあ〜と飛んで、大音寺前で火の玉どうしが「カチーン」とぶつか り大騒動』になった所。

 



 舞台の吉原お歯黒ドブを歩く

 

 吉原お歯黒ドブ跡、すなわち吉原遊郭外周部を歩きます。
 浅草寺東側の馬道を北に進むと日本堤に出ますが、今は埋め立てられて、細長い公園になっています。道なりに左に曲がって間もなく、「大門交差点」に出ます。この交差点の左側にガソリンスタンドがあって、この前に柳が1本植えられています。これが見返り柳ですが、当然植替えられたもので、当時のものではありません。ここを左に曲がると、当時、「衣紋坂」と呼ばれたS字カーブをした道です。そのカーブが終わった、右側交番のあるマンションが「松葉屋」跡です。この手前に「大門」(おおもん)があったのです。決して大門交差点の所に大門があったのではありません。

 大門跡を右に曲がり、細い道を行くと左側に「吉原公園」の入口階段が現れます。この階段の右側の石積みが、かっての吉原お歯黒ドブ跡の石垣の遺構です。この2m程の石垣しか吉原には残っていません。この石垣の手前がお歯黒ドブだったのですが、今は歩いている道になってしまいました。
 これから外周を歩きますが、何処も埋め立てられて道になっています。
 最初の角を左に曲がり、一方通行から交互通行の少しは広い道路になりました。吉原中程お歯黒ドブ跡から右に入っていく「Yの字」道路の交差点に出ます。吉原内は当然真っ直ぐですが、右に入っていくと「竜泉寺(町)」で5千円札でおなじみの
樋口一葉が雑貨屋さんを開いた所で、現在は一葉記念館(06年秋に新装開館)が有ります。
 吉原にそって次の角を左に曲がると細い道で、他人の家に入っていきそうな小径です。この広さが
後期のお歯黒ドブの広さだったのでしょう。間もなく、大門の反対方向の元・水道尻跡に出ます。左は吉原遊郭で仲之町、右には「吉原神社」が有ります。そのまま真っ直ぐ進むと、吉原の南角に出ます。
 出たこの道が「花園通り」道路の中央に花壇がある小粋な(?)道になります。道に沿って北東の方に行くと、2階建てのアパートの先を左に曲がります。ここも狭い小径で直ぐに突き当たります。突き当たった家の向こう側が、大門の有った所ですが、道なりに右に曲がって、その先左に曲がり、
衣紋坂に出ます。左に曲がれば大門跡、右に曲がれば見返り柳になります。

 これで、吉原遊郭の外周を一週した事になります。お疲れさまでした。馬道に出たら、桜鍋(馬肉)でも天麩羅でも、お好みのもので英気を養ってください。

 

地図

  

地図をクリックすると大きな地図になります。 

地図中の番号は下の写真説明番号に対応しています。
水色のところがお歯黒ドブ跡、すなわち吉原の外周です。

写真

それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。

1.吉原お歯黒ドブ遺構台東区千束4−40)
吉原公園の外側出口の所にある階段際に大谷石を積み上げたドブの石垣が残っています。
吉原でドブの遺構が残っているのはここだけです。

2.吉原お歯黒ドブ跡北角( 千束4−49)
吉原のドブ伝いに反時計回りで歩いていきます。お歯黒ドブ遺構を後に最初の角へ出た所で、振り向いています。奥の右、木立が吉原公園。道路の奥突き当たりが、大門跡。
写真の右方向に進みます。

3.吉原お歯黒ドブ北西千束4−47)
吉原の西河岸と呼ばれた所です。写真を撮っている背中方向が竜泉寺(村)と呼ばれ、樋口一葉が雑貨屋さんを開いた所です。 跡地が記念館になっていますが、只今改装中で秋口竣工。

4.吉原お歯黒ドブ西(千束3−27)
大門の反対側、水道尻と呼ばれたとこです。
左側が遊郭、右側が吉原田圃と呼ばれた所で、ドブが意外と狭いのが分かります。

5.吉原お歯黒ドブ東南千束4−26
今、花園通りと呼ばれる所です。2階建てのアパートの裏が羅生門河岸と言われた所。

6.吉原お歯黒ドブ東角千束4−12
吉原東角から、花園通りを振り返っています。右側が吉原、左は吉原田圃があった所。

7.吉原お歯黒ドブ北東千束4−11
東角から曲がってのドブ跡です。
道は突き当たりになっていて、大門跡には直接行けません。

8.吉原大門跡から仲の町を見る千束4−33
大門跡に立っています。この道路の左右が一番賑やかだった所、メインストリート仲之町です。右側に交番の入ったマンションがありますが、そこが料亭「松葉屋」跡です。 そのマンション手前の道を右に入ると、1番の吉原ドブの遺構が左側に出てきます。

9.吉原大門跡から見返り柳を見る千束4−33
大門跡から後ろを向いて、衣紋坂の中程から見返り柳を望遠しています。
見返り柳は奥の右側ガソリンスタンドの舗道上に植えられています。

廓の周囲
「廓の周囲は一面の吉原田圃だった」 絵草紙「吉原炎上」 斉藤真一著より。
お歯黒ドブとそれに架かる跳ね橋が見事に描き出されている。

                                                        2006年9月記

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