落語「後生鰻」の舞台を歩く

  
 

 古今亭志ん生の噺、「後生鰻」によると。
 

 信心家の隠居が浅草にお詣りした帰り道、天王橋にさしかかった。橋の際の鰻屋が今、蒲焼きを作ろうとして、 裂き台の上に鰻を乗せていた。それを見た隠居が可哀想だからと2円で買い取り、ザルに入れた鰻を前の川に”ボチャン”。  命を助けたと思い気持ちよく帰って行った。
 翌日も同じように鰻を買い取り、前の川に”ボチャン”。今日も良い功徳をしたと、気持ちよく帰って行った。

 次の日はスッポンの首をはねて血を採ろうとしていた。8円を払って前の川に”ボチャン”。

 毎日毎日、鰻だドジョウだと買い上げたので、いい金ずるが出来たと、鰻屋も隠居が来るのを心待ちする様になった。ところが、ぱったりと来なくなってしまった。

 心配していると久しぶりに病み上がりの隠居がやって来た。が、仕入れをしていなかったので、鰻もスッポンもドジョウ1匹居なかった。慌てた鰻屋、自分の赤ん坊を裂き台の上に裸にして乗せて、裂こうとする振りをした。それを見た隠居が大枚100円を払って助け、火のつく様に泣いている赤ん坊を前の川に”ボチャン”。

 


1.天王橋(台東区蔵前1丁目南を流れる鳥越川に、蔵前通りに架かっていた橋)
 
蔵前通り(江戸通り)を横切る今は無くなった鳥越川に架かっていた橋で「鳥越橋」と呼ばれていた。俗に「天王橋」とか「須賀橋」と言われた。 しかし、今は川も橋も有りません。

 

2.鳥越川 上野不忍(しのばずの)池南端から東に流れ出た、”忍川(しのぶがわ)” が小島一丁目に有った三味線堀に流れ落ちた。忍川が最初に横切る街道が御成街道(中央通り)ですが、この場所を火伏せの為道幅を広く取っていて、下谷広小路と言った。第16話「 黄金餅」で出てきた三橋が架かっていた所です。
 三味線堀から南に流れ出た川を”鳥越川”と名前を変えて、今の蔵前橋通りの道一本南側を東に流れ、北から流れてきた新堀川と合流して第10話「蔵前駕籠」で出てきた蔵前通り(江戸通り)を横切ります。ここに架かっていた橋が舞台の天王橋です。「蔵前駕籠」ではここから先、浅草の間で追いはぎが出ると言われた。
 鳥越川はこの先、浅草御蔵(米蔵)の南端に沿って隅田川に合流します。
 明治の初めから大正6年頃にかけてほとんど埋め立てられ、現在は忍川も鳥越川も新堀川も道路になって有りません。ですから橋もありません。

 

3.須賀神社(台東区浅草橋2−29−16)
 天照大御神の弟で八俣の大蛇(やまたのおろち)を退治した事でも有名な、素盞嗚尊(すさのおのみこと)を祭神と祀る。創建壱千数百年を経る古社で、江戸十社に入った神社。素戔嗚尊の別称を牛頭天王と言った。社名も牛頭天王社、祇園社、蔵前天王社、団子天王社と いろいろ呼ばれ、そこから地元の町名を天王町と言われた。また、橋名も俗に天王橋と呼ばれた。明治に入って、神仏分離令によって須賀神社と改名。地名も須賀町となり、橋名も須賀橋となった。
 「阿武松」で出てきた、千住の素盞雄(すさのお)神社(南千住6−60)は別名千住大王といった。

 

4.鳥越神社(台東区鳥越2−4−1)
 白雉(はくち)2年(651)今より1350年前創建。祭神、日本武尊を祀る。永承(1050)の頃、八幡太郎義家は奥州征伐の折り、瀬を渡る白鳥に浅瀬を教えられ、軍勢を安全に渡す事が出来た。義家は白鳥大明神の御加護と感謝し、鳥越の社号を贈った。以後、鳥越神社と改称、付近一帯の地名も鳥越と呼ばれる様になった。鳥越川もここからきています。

 

5.蒲焼き
 先代金馬は江戸庶民は”鰻と駕籠”は高嶺の花だったので、一度は食べたり乗りたかったものの代表であった。と言っている。鰻は落語「たがや」で侍と喧嘩をする”たがやさん”が、「二本差しが怖くて街を歩けるか!気の利いた鰻なんぞは三本も四本も指していら〜、そんな鰻食ったことがあるめ〜。俺も食ったことはネーが。」とタンカを切るが、その位あこがれであったが高嶺の花であった。同じく「子別れ・下」の後半の部分で、熊五郎、自分の女遊びの不始末で、分かれた息子”亀ちゃん”とバッタリ再会して、明日そこの鰻屋でご馳走をしようと約束する。鰻屋で食事を共にすると言うのは、職人にしてみれば大変なことであった。また、熊五郎が、それが出来るまでに、なっていたのである。 そして駕籠は、高かった。職人の手間賃が1日300文ちょっとのところ、日本橋から吉原大門まで駕籠賃が800文だったと言われている。その位贅沢であった。駕籠で吉原通いなぞ勘当物であったし、事実「勘当箱」といわれた。後々の噺で大川を行く「勘当船」と言うのもあった。 (第10話「蔵前籠」より)
 明治30年頃、天丼(並)5銭に対し鰻重(並)30銭だった。円生も天丼が10銭だった頃鰻丼が50銭だったと言っています。そのぐらい高価な食べ物であったのです。今で言うと、天丼が千円だとすると、鰻丼は5〜6千円です。
 


  舞台の天王橋を歩く
 

 天王橋に鰻屋は有るか・・・。
 まずは鳥越川の上流、三味線堀に行きます。元々は船溜まりが二つあり、その間を堀が結んでいた。これを三味線の胴と海老尾(えびお=三味線の頭の所)に見立て、堀を 桿と見て粋に三味線堀と呼ばれた。今は掘りも川もないので、当時の面影はないが、船溜まりだった所に住宅ビルが建っていて、1階が商店街になっている。そこが三味線堀商店街といい、この地名がここだけに残った。
 この三味線堀から流れ出た鳥越川の名の元になった鳥越神社に行きます。川は蔵前橋通りの南側を流れますが、神社は蔵前橋通りに面してあります。江戸時代は南は川まで、西は三味線堀までありました。 今の敷地は小さくて可哀想なくらいですが、御輿は千貫御輿と言われる様に都内でも指折りの大きさで有名です。
 埋め立てられて道になった鳥越川の上を歩いていきます。一方通行に逆行して進みますが、誰も川だったとは判らないでしょう。江戸通りに出る100m位手前右手に「うなぎ蒲焼」の旗が出ています。もう商売気の全くない店です(失礼)。活気のある店でしたら嬉しくて飛び込んでいたでしょうに。横目で眺めながら行くと、江戸通りに出ます。ここは天王橋が有った所です。
 この交差点の向こう(東)側に交番があって、その名を「蔵前警察署須賀橋交番」と言います。交番で聞くとこの交差点は「浅草橋3丁目交差点」と言います(信号機には名称板が付いていません)。須賀橋とは天王橋の後の名前です。事情を知らない人は何で須賀橋なの?と、思うでしょう。やはり聞かれるみたいで、その辺はすらすらと説明してくれました。若いお巡りさんありがとう。この交差点(橋)脇には造花屋、銀行、人形店、携帯電話ショップ等は有りますが、鰻屋は有りません。そうそう、魚料理を食べさせる居酒屋が 1軒有りましたが、さばく所は見られません。
 この須賀橋の名称の元になった神社、須賀神社(旧名;天王神社)に参拝します。普段の神社はどこも閑散としています。浅草橋3丁目交差点から直ぐ近くの須賀神社も表門は江戸通りに面していますが、静かな雰囲気を醸しています。

 

地図

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写真

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天王橋(台東区蔵前一丁目南西角。須賀橋<浅草橋三丁目>交差点)
 鳥越川が江戸通りを横切る所に架かっていた橋が天王橋。その後鳥越橋と呼ばれたが、今は無い。しかし、その場所の交番にその名を残している。
クリックした写真の正面三角屋根の黒く小さい建物が交番。その左側を川が流れていた。その先隅田川。左右が江戸通りで、右浅草橋、左浅草寺。

鳥越川跡の道路
 写真前方約100mが浅草橋三丁目交差点です。ここは鳥越川を埋め立てて道路になった所で、右側に仕入れを忘れた様な鰻屋が1軒有りました。道が川なら、川岸にたたずむ鰻屋として風情があるのでしょうが・・・。舞台の鰻屋ではありません。

須賀神社(台東区浅草橋2−29−16)
 須賀橋の名の起こりはこの神社から付けられました。

三味線堀(台東区小島1−5)
 「佐竹通り南口」交差点角にあります。区の11階建て集合住宅で、1階に三味線堀商店街があります。丁度このビルの敷地全部が三味線堀の胴であったのでしょう。交差点角に三味線堀の説明板が付いています。過去にはこの商店街で建てた碑があったのですが、手狭になって撤去されています。

鳥越神社(台東区鳥越2−4−1)
 鳥越川の名前の由来はこの神社からきています。

                                                        2002年7月記

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