落語「片棒」の舞台を歩く

  
 

 雷門助六の噺、「片棒」(別題;あかにしや)によると。
 

  石町(こくちょう)の赤螺屋吝兵衛(あかにしや・けちべい)さん。一代で身代を築き上げた人なのですが、その名の通りけちな方でございました。
 この吝兵衛さんには三人の息子さんがあった。問題はこの内、誰に店を継がせるかでございます。不心得の息子に継がせたら、せっかく苦労して築いた身代をいっぺんに潰される。順に行けば長男ですが、ここは分け隔てなく三人の息子の内で一番見所のある者に譲ろうと一人一人の考えを聞く事にしました。

 まず長男の一郎を呼んで、
 私が死んだら、葬儀はどの様に出すかと訪ねると、
「通夜はしないが、日比谷公園を借りて、歳も不足がないので紅白の幕を張り巡らして、花輪も派手に飾って、呼び込みの音楽に”軍艦マーチ”をかけます。」、「まるでパチンコ屋の開店だな。」
「祭壇の中央には金を握りしめ、誰にもあげないぞ〜という写真を飾り、僧侶を50人ほどお願いし、一流レストランで料理を作らせ、銀座のホステスをずら〜っと列べます。棺桶も鋼鉄で立派な物を造り、夕方から出棺となります。棺を飛行機に 乗せて、会場の上空に来たら、陽気に花火を揚げます。宙返りをしたのを合図に、仕掛け花火で赤螺屋吝兵衛告別式と出します。飛行機の後ろからは”南無阿弥陀仏”と出ると、会葬者が、天をあおいで『バンザ〜イ』と叫びます。」、「バカやろ〜、祝賀会じゃねぇや」。

 そこで次男の次郎を呼んで、
 「お前だったらどうするね。」
「私だったらお兄さんとは違います。」、「違ってくれなくてはいけないよ。」
「”練り”でやります。要は行列を作って練り歩きます。お祭りの太鼓を先頭に、東京中の組頭、鳶を集めて木遣りを歌いながら進み、それで新橋、柳橋、芳町、赤坂の芸者を総動員して、手古舞が続きます。その後に山車 (だし)が続きます。山車の上にはお父様にそっくりな人形がソロバン片手に立っています。神田囃子がはやしながら、それに併せて人形が動きます。(仕草が入り、人形の動きや 、電線をくぐる様子が入る。場内大爆笑)。続いて、揃いのハッピを染め抜いて、景気よく御輿が出ます。」
唾を飛ばすほどお囃子のテンポが速くなり、葬列か祭列か解らなくなってきた。吝兵衛あきれてものも言えずにいると、弔辞の文句も「・・・ケチだ、栄養不良だ、挙げ句には山車の人形になって面白くも愉快なり。」と来たから、怒鳴りつけた。

 最後の息子に聞くと、
 「もっと質素にしたい。」、「いいね!その調子」。
「チベットでは”鳥葬”と言うのがありますが、ハゲ鷹に食べさせよと思いましたが、親戚がうるさいので、やめます。出棺は午後1時と言う事にして、実際は明け方に出してしまいます。」、「参列者が困るだろう」
「文句が出ても、お茶を出さずに済みます。棺桶も燃やしてしまうので、勿体ないから裏のタクアン樽に入ってもらいます。死んでいるから臭くありません。」、「分かった、古いのから使いなさい。」
「荒縄で縛って丸太を通します。人足を頼むとお金が掛かります。で、前棒は私が担ぎますが、後棒が・・・。」、
「心配するな、その片棒は私が担ぐ。」

 


1.赤螺(あかにし)
あかにし アッキガイ科の巻貝。殻高は約15cm、殻口の内面が赤いのでこの名がある。表面は淡褐色で、3列の大小の突起列がある。日本各地の暖かい浅海の砂泥底にすむ。卵嚢を「なぎなたほおずき」という。肉は食用。紅螺。辛螺。(広辞苑)
 サザエに似た巻き貝で、サザエの貝殻にこの貝を入れて食卓に出すと解らなかったと言われます。”あかにし”は焼くとツボの蓋を堅く閉じて取り出す事が出来なかった。そこで何も出さない事、ケチの代名詞として”あかにし”と言った。それに名前がケチ兵衛と付いていれば、 もう、これ以上のケチは無かった。

 けちん坊の別名、「六日知らず」; (助六のマクラによると) 1日.2日.・・、と指折り数えて「5日」までは指を折り曲げ握っていくが、「6日」からは指を開いていきます。握ったものは離さないと言うので「6日」から上は数えない。また数えられなかったので、知らないと言うケチです。
 けち=吝嗇(りんしょく)。

■「争えと 言わんばかりに 貯めて死に」  江戸古川柳
ここまで貯めると遺産相続で、家族が必ずもめるでしょう。生きている内にもこれですからね。
 

2.石町(こくちょう)
 本石町は江戸開府と共に、江戸で最初の町割りが行われた所と云われています。いわば江戸の城下町としての基礎をなす場所です。また、金貨を鋳造する金座が置かれた所として有名で、江戸でも特別の町でした。本石町2丁目と3丁目の間の通りには「本町通り」の称があって「将軍御成り」といった時の通過路であり、しきたりのやかましい場所でした。また、1丁目、2丁目は特に呉服商業地区として指定された地域で、いわば江戸で一番という商業を営む人々にとってあこがれの場所だったのです。また各種問屋街として江戸の商業中心地をなしていました。

 今の、中央区日本橋本石町です。南北に長い町ですから、まず南から、第76話「ぼんぼん唄」で伺った「一石橋」が 南端に有り、「東洋経済」や「東京銀行本店」、日銀の「貨幣博物館」(入場無料)が一丁目に有ります。二丁目には「日銀本店」。ビル街が続き、四丁目には「常磐小学校」も有ります。JRのガードに突き当たって、隣町になります。
 東隣は日本橋室町、三井村とも言える三井各社の本社が集まっています。また、三越本店もこの地に有ります。その南に道路起点の日本橋が有ります。
 

3.日比谷公園(千代田区日比谷公園)
 
この公園は明治36年(1903年)都市計画により誕生した日本で最初の洋風近代式公園です。江戸時代この付近一帯は松平肥前守、長州藩毛利家などの諸大名の邸地でしたが、明治初年の火災で屋敷が焼失し明治 4年に至り連兵場として陸軍省が所管しました。
 明治21年(1888年)都市計画日比谷公園の設置が告示され、これに伴い用地引継ぎをうけた東京市は本多静六博士(林学・1866−1952)らによる公園の設計案を明治 33年(1900年)採用、16万u以上の敷地の「ドイツ式洋風近代式公園」が、36年6月開園いたしました。
 その後、図書館、公会堂、音楽堂などが設置され都民のいこいの場所として親しまれるとともに広場(現在の第二花壇の位置)では数々の国家的行事が催されました。太平洋戦争が始まると樹木が伐採されて園地は畑となり、かつ金属回収のため外柵等の撤去がおこなわれました。戦後園は連合軍に接収されましたが、解除後昭和 26年(1951年)ころからこの復旧を開始、その最終段階の昭和36年(1961)9月には直径30m主柱12mの大噴水が完成し公園の新しいシンボルとなりました。
 このほか、四季花を絶やさぬ洋風花壇や鶴の噴水のある雲形池など各種施設を備えていることで、東京都の代表的公園とされています。(園内案内板より)
  またオフィス街の中心部にある花壇には一年中、色鮮やかな四季の花が咲き、いこいの場になっています。
日比谷公園公式ホームページ https://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index037.html 

 

4.新橋、柳橋、芳町、赤坂の芸者
 
料亭があって綺麗ドコロ(芸者)がいる都心の色街。港区新橋。台東区柳橋(落語22話「船徳」で訪ねた所)。芳町(中央区人形町辺り 、元吉原の有った所)今は婦人物、芳町下駄でその名が残っています。港区赤坂(TBS辺り)に有りました。いえ、今でも有ります。
 そこの、芸者を総揚げして葬列に列ばせるなんて、次男も相当放蕩息子だったのでしょう。

 

5.手古舞(てこまい)
(「梃前テコマエ」の当て字という) 江戸時代の祭礼の余興に出た舞。もとは氏子の娘が扮したが、後には芸妓が、男髷に右肌ぬぎで、伊勢袴・手甲・脚絆・足袋・わらじを着け、花笠を背に掛け、鉄棒(カナボウ )を左に突き、右に牡丹の花をかいた黒骨の扇を持ってあおぎながら木遣(キヤリ)を歌ってみこしの先駆をする。現在も神田祭などで見られる。
(広辞苑)

江東区登録無形民俗文化財
 富岡八幡の手古舞は、富岡八幡宮の三年に一度の大祭に行われる芸能で、江戸時代以来の伝統をもっています。手古舞の語源は不明ですが、石や木を大勢で運搬するときに、先頭に立って指揮をする人、梃子前(てこまえ)の転訛であるといわれています。
 現在手古舞をつとめるのは、かつての辰巳芸者と有志の人たちです。装束は、男髷に台肘(だいつき)の長襦袢を片肌脱ぎにして、肩抜き染めの上着と裁着(たっつけ)にわらじばきという男装です。所作は特にありませんが、神輿行列の先頭に立って、 金棒を引き、木遣で練ります。
 江東区民まつりにて、07年10月写真追加。

 

6.神田囃子
神田囃子の名について
 江戸の祭り囃子は、葛西に起こったものと言われている。
 その事は、前章で述べたが、それでは、いつ頃から『神田囃子』という呼び名が出来たのであろうか。
 化政期[1800年頃]に作曲された清元『神田祭』の中に、神田囃子の名が出て来るが、果して、この頃からであろうか。
 おそらく、もっとそれ以前からではあるまいか。
 それは、江戸で最も大きな祭礼として知られた『神田祭』に、山車・屋台などで囃子が演じられるようになった頃までさかのぼるのではあるまいか。
 江戸で最も盛んな『神田祭』に ”きほひょく” 粋に囃されたので、神田っ子達に歓迎され、自分達の囃子として『神田囃子』と呼ばれたに違いない。
 しかし、その当時の『神田囃子』がどの様なものであったか、今とどの位違ったものであったのかは分からない。
 当時の囃子方は、大部分が江戸近郷の葛西地区の人々であった。
彼らは、ほとんどが農民だったが、徐々に、神田に住む職人たちも習い覚えるようになり、やがてその囃子にも神田特有の気質、土地柄などが影響を与えて、神田特有の祭り囃子、つまり本当の意味の『神田囃子』が生まれ育っていったのではなかろうか。
 もっとも、祭り囃子に限らず、大衆芸能とか民俗芸能とか言うものは、大体この様に派生していくのではないか。
 こうして神田の地に定着して行った『神田囃子』が、主に地元の人に依る囃子となるのも当然の事であった。
 それが、はっきりとした形として現れたのは、『神田囃子保存会設立』の時からであった。
 大正から昭和にかけての事である。

PALETTE CLUB GALLERY 「祭囃子」 より

 

7.天下祭りの山車

   
須田町の山車。江戸東京博物館所蔵。クリックすると大きな写真になります。  

 加茂能人形山車は、江戸時代「天下祭」に曳き出された姿を忠実に再現した、魚河岸会自慢の山車です。
 「天下祭」は、神興の渡御よりも、山車行列が呼び物でした。 参加各町は、威信をかけて立派なものを出したといいます。 行列は、江戸城中に繰り込み、時の将軍の上覧に浴したそうです。
天保9年(1838年)には、参加町160、巡行した山車の数45台という記録(「東都歳時記」)があります。加茂能人形山車は十番目に曳き出されたとの番付が残っていす。
城門を通過するために「江戸型山車」は何層かの可動構造を持つのが特色でた。
江戸型山車の多くは、明治維新とともに、関東近県に買われていったり、年を経て壊れてしまったりしましたし、残っていたものも、関東大震災・戦火を受けて、殆ど無くなってしまいました。

 加茂能人形山車も、先代は震災で失われましたが、明治15年頃に作られた十分の一大の精巧な模型が継承されていたことから、それをもとに、昭和30年に復元製作されたのが現在のものです。
三層構造は中空で、上段が人形部分、中段は「四方幕」で、下段後部の幕(見送り幕)にかこまれた部分に、上、中段がすっぽりと収納出来るようになっています。

 人形は、能楽「加茂」の後シテ、別雷神(ワケイカズチノカミ)で、赤頭に唐冠、大飛出の面をつけます。衣裳は、紺地に金丸龍模様の狩衣、赤地に稲光電紋模様の半切で、右手に御幣を持っています。四方幕は、四面とも緋羅紗に加茂の競馬の騎馬人形、楓が配され、下段の見送り幕は、加茂の流水に青金二葉葵が、いずれも重厚な刺繍で織り出されています。
 現代の加茂能人形山車は「水神祭」に曳き出されます。 平成2年10月1日には、黒牛「とき姫号」に曳かれて、35年振りに巡行し、喝釆を浴びました。
平成2年4月、加茂能人形山車は「中央区民有形民俗文化財」に登録されました。

 この落語の葬列”練り”は神田祭をベースにしていますから、この様な山車を連想して語られているのでしょう。ただし、上部の人形は、ソロバンを持った赤螺屋吝兵衛君がお囃子にあわせて、頭や腕を振りながらパレードする事になっていたのでしょう。それは目立つ事請け合いです。 次男も葬列を祭列で執り行おうとするなんて、よっぽど遊び人かお調子者だったのでしょう。吝兵衛さんが怒るのも無理はありません。  

 「神田祭山車」復元模型
左;佐久間町一丁目「すさのうの尊」。
右;大伝馬町の「鶏」

 江戸東京博物館にて。ショウケースに入っていますが、一人一人の表情や、山車細部の復元まで驚く程精密に作られています。

上記写真をクリックすると大きなカラー写真になります。
 

■「片棒」について
 トルコから来日し、落語大好き人間で、卒論に”片棒”を題材に「日本人の宗教観」をまとめてしまった、彼からの質問メールをここに掲載します。トルコに帰ってからも、落語会を開いてしまうぐらいの”通”です。落語「片棒」について、別の切り口が見えてきます。遅くなりましたが、彼からのリクエストに応えて 、この第81話を書き上げました。

 



  舞台の日比谷公園を歩く
 

  西洋式庭園と日本式庭園の融合された、都心の都立公園です。北側には皇居のお堀。西側には政府の各省庁の建物。南側にはオフィスビル。東側には帝国ホテルや劇場があり、歓楽街の向こうにはJR有楽町駅と銀座につながります。
 公園の中には、日比谷公会堂、日比谷図書館があり、野外大音楽堂(略して、野音(やおん))では音楽家たちの演奏場所でもあります。夏の夜には良い雰囲気の音楽会が楽しめます。テニスコートや花壇、心字池が配置されています。公園の下には地下大駐車場も有ります。
 今回の葬儀場会場になるはずの所、第2花壇は、当時広場になっていました。
初期の自動車ショー(現;モーターショー)もここで行われました。自動車ショーはその後晴海に移り、今では幕張メッセに移っています。博覧会会場としても使われ、各種のイベントがここで行われました。今では花壇になって出来ませんが、赤螺屋吝兵衛さんの葬儀が行われたら、新聞ものだったでしょう。

 

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。

石町(こくちょう、中央区日本橋本石町)
赤螺屋吝兵衛さんが住んでいた所。今は、三越・日本橋本店の裏が本石町です。ここには金融界の重鎮「日本銀行」本店が有ります。
江戸時代も商業の中心地でしたので、ケチをすると一等地で店が開けたのでしょう。

日銀本店(中央区日本橋本石町2丁目)
手前のドーム部分が旧館で、奥に見える白いビルが新館です。
 建物は辰野金吾博士の設計で、ネオ・バロック洋式にルネッサンス的意匠を加味したものといわれ、明治時代を代表する建物といわれました。建物は関東大震災で3階の大部分と、2階、1階の一部が焼失しましたが、大正15年に修理を行い、別に昭和13年には東側と北側に増築も行っています。昭和49年2月5日、増築分を除いた旧館に、正門、回廊、中庭を加えて、国の重要文化財の指定を受けています。  


日比谷公園南入り口
長男が言う所の日比谷公園です。

 


日比谷公園大噴水
中心的な広場で、中央に噴水があります。ビジネス街のど真ん中にありますから、昼時はお弁当を持ったOLやサラリーマンがベンチで食事をしています。

 

日比谷公園第2花壇、イベント会場
長男がこの会場で葬儀をするとすれば、今まさに会場設営がされています。まさか赤螺屋吝兵衛さんの 葬儀場では無いでしょうね。

                                                                                                                   2003年11月記

 次のページへ    落語のホームページへ戻る

 

 

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送