落語「大神宮」の舞台を歩く
初代柳家小せんの噺、「大神宮」(だいじんぐう)別名「おはらい」
「冨嶽三十六景・東都浅草本願寺」北斎画 ■門跡さま;皇子・貴族などの住する特定の寺の称。また、その寺の住職。宇多天皇が出家して仁和寺に入ったのに始まり、室町時代に寺格を表す語となり、江戸幕府は宮門跡・摂家門跡・准門跡などに区分して制度化。
本願寺の管長の俗称。
「浅草観音雷神門」北斎画 左上に東本願寺の伽藍が見えます。その手前に火の見櫓、右側に雷門。その間に立木に囲まれた大神宮が見えます。中央、広場に見えるのは浅草広小路。
2.磯辺大神宮
この噺の当時は雷門は焼失していて名前だけが残っていました。雷門の左側に磯部大神宮があり、丁度、今の雷おこし本店の位置です。
上記絵図よりもう少し古い図。浅草寺蔵 雷門の左手に日音院と記されています。そこが大神宮。
参道(今の仲見世)以外にも各子院には多くの堂社が有り、浅草寺は神仏のデパートと称されていました。ですから、浅草寺に行けば、あらゆる信仰の対象が用意されていたのです。
雷門は、浅草寺の山門。東京都台東区浅草一丁目2番~3番地に位置する。正式の名称は、風神雷神門(ふうじんらいじんもん)。提灯には雷門(かみなりもん)と略されている。慶応元年12月14日(1866)田原町大火で焼失、以後、95年近く恒久的な建築物としての山門は姿を消します。噺の中でも名前だけで門は無いと言っています。現在の雷門は昭和35年(1960)5月1日、松下幸之助氏が寄進して再建されたものです。
3.言葉
■暮れ六ツの鐘(くれむつのかね);夕方6時頃に時を知らせるために撞かれた鐘。
■台屋(だいや);廓の見世に出入りしていた、出前専門の料理屋。
■直垂(ひたたれ);垂領(タリクビ)式の上衣で、袴と合せて用いた、武家の代表的衣服。もと庶民の衣服。鎌倉時代に武家の幕府出仕の服となり、近世は侍従以上の礼服とされ、風折烏帽子(カザオリエボシ)・長袴とともに着用した。公家も内々に用いた。地質は精好、無紋、5ヵ所に組紐の菊綴(キクトジ)・胸紐があり、裏付きを正式とした。長直垂。(靴を履いた神官の右写真と広辞苑の直垂図)
■唐桟(とうざん);江戸時代、東南アジアからもたらされた縞木綿のこと。特色は、平織りで、極めて細い双糸を使うことで、木綿でありながら、絹そっくりの風合いを持っています。
■対服(ついふく);着物と羽織が共生地で対になったもの。
■茶献上の帯(ちゃけんじょうのおび);博多織の帯。江戸時代に黒田藩が献上したことから「献上の帯」と呼ばれています。普通男物の角帯といえばこれをさす。地色が茶系統のものを茶献上、紺色を紺献上と言います。
■阿弥陀(あみだ);西方にある極楽世界を主宰するという仏。法蔵菩薩として修行していた過去久遠の昔、衆生救済のため四十八願を発し、成就して阿弥陀仏となったという。その第十八願は、念仏を修する衆生は極楽浄土に往生できると説く。浄土宗・浄土真宗(東本願寺)などの本尊。阿弥陀仏。
■幇間医者(たいこいしゃ);やぶ医者で患者が少なく生計が立たないが、取り持ちが上手く幇間のように大旦那に付いて回り、ヨイショをしていた医者。通常、医者は坊主で羽織を着ていた。
■お勤め(おつとめ);勘定。勘定書き。元来は仏前で毎日読経すること。勤行。
■お払い(おはらい);吉原の言い方で、お支払い。勘定。
■お祓い(おはらい);災厄を除くために、神社などで行う神事。また、そのお札。
舞台の浅草を歩く
雷門はご存じ浅草寺の山門で、その手前の歩道を兼ねた空間には、何時も大勢の観光客と、記念撮影をする人達でごった返しています。そのうえ、観光用の人力車が客引きで地方から来た観光客を捕まえて勧誘に大忙し。ここの雷門を抜けると、仲見世から宝蔵門(仁王門)を越えると正面に浅草寺の本堂が現れます。
その門跡様がいる東本願寺は、雷門の西に500m位行った所に有る大きな寺院です。浅草寺とはがらりと趣が変わった静かな境内と本堂を持っています。ここには幼稚園や慈光殿(門徒会館)、棟方志功のふすま絵28枚で有名な紫雪亭(通常非公開)などがあります。
噺の吉原に行くには、雷門からのコースが二通りあります。その一つは参道を抜けて本堂に突き当たり、右に曲がって、二天門(随身門)を出て馬道を左(北)に向かい、山谷堀の日本堤を左に曲がれば、見返り柳。そこを入れば吉原大門。
それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。
2014年12月記 |
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