落語「五銭の遊び」の舞台を歩く
   
 

 古今亭志ん生の噺、「五銭の遊び」(ごせんのあそび。別名「白銅の女郎買い」)
 

 

 吉原は女郎の格がピンからキリまでありますが、お金さえあればどんなに楽しい所だったか。
 町内で女郎の噂話をしています。

 留さんが言うには5銭で遊んできたと自慢しています。その時は2銭しか持ち合わせが無いので、外に行けず家に居たが、母親に馬道まで無尽のお金をもらって来てくれと頼まれた。無尽で5銭が当たった。浅草の瓢箪池まで来てみると、合わせて7銭なので、吉原に行きたくなった。そこに行って冷やかして女を安心させてやろうと思った。千束から吉原土手に出て、大門をくぐって江戸町二丁目を先の方までいって冷やかしていた。角海老の大きな時計を見たら夜の12時を打った。腹が減ったのでおでん屋に飛び込んでコンニャクを食べたが、お金が無いので他は食べずに出てきた。まるで小石川の閻魔様だな、と冷やかされるが話が続く。夜が明ける頃帰れば母親も安心する。もう少し冷やかしていこう。

 ある女郎屋の前を通ると、後ろから声が掛かり二十四・五位の女だった。その女が2日続けてお茶を引いたから今晩ぐらいお客を取らないと御内所から怒られるから、どうしても助けてよと言われた。金が無いというと、「どの位なら有るのよ」と言うので、5銭なんだとは言えないので、片手を出してこれ位と表したら、女が考えてから、「なら、お上がりよ」と承知してくれた。トントンと2階に上がった。

 寝ようというので、その前に腹が減ったので何か食わしてくれと言うと、この時間じゃ注文も出来ないので、廊下から台屋の残りお鉢を持ち込んで、食べさせてくれたが、おかずはと言うと贅沢言わないで梅干し食べていると思って食べなと言われたので酸っぱい唾で飯をかき込んだ。寝ようと思ったら若い衆・松どんが来て、宵勘だからと催促されたので、「ハイよ」と五銭を投げた。「足りない分は私が足すから文句を言わないで承知しな」、と言うのを「承知も何も、5銭だけですよ」。女はジッと俺の顔を見て、「片手を出したじゃ無いか」、「そうだよ。5銭だから」、「まあ、5銭でよく女郎屋の敷居をまたいだね。その上、飯まで食べて・・・。貴男は面の皮が厚いね」、
「俺は薄くは無いよ」と言ったんだ。

 

上絵;写楽の「二代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」 手の部分です。



1.貨幣価値
 5銭の価値が解らないとこの話は全くおもしろくありません。

 江戸時代初期から中期までは物価が安定していて、毎回使う、1両=8万円の換算が成り立ちます。しかし、幕末になると幕府の権威も地に落ち、あわせて物価も上昇し、1両が8万円の1/3位になってしまいます。明治政府に替わってから、明治4年(1871)に新貨条例が制定され貨幣が発行されました。この時、1両=1円としました(呼称の変更)。両の時は4進法で、円になって10進法になりました。物価の推移を見ても、小判当時の金の含有量と明治政府が出した金貨の含有量を比較して約1/8ですので、切りよく1両=1円=現在の1万円でしょう。米の価格や蕎麦の値段、下駄の値段や家賃など、それぞれ細かい所を見れば差があるでしょうから、おおざっぱにまとめるとこの時代の1円が現在の1万円位になるでしょう。
 1円=現在の10,000円=100銭=1,000厘。
 1銭=現在の100円。1厘は現在の10円。
 では、本題の5銭は現在の500円。
 え?!・・・
500円で遊びに行けるの? 問題はそこです。どんなに頑張ったって、500円で遊べるわけはありません。現在だって生ビール一杯が500円位ですから、遊びに行くなんてとんでもないこと。コンニャクのおでんですら2銭しているのですから。

 ここに落とし穴が二つあって、一つは遊女が2日続けて客無しでアブレて見世から怒られています。安くてもイイから、客が欲しかった三日目です。
 二つ目は、女が聞きます「お金が無いというが、いくら持っているの」、男が答えて、片手を出します。差額は自分で持ってもいいと思っていました。女は考えてからOKを出しますが、まさか500円と言うことも無いので、5千円か5
万円だろうと思っています。思うのは勝手。見世に上げてからお金を払う段になって、500円を出すと女も若い衆もビックリしますが、もう後の祭り。

 常識外れの、そんな突き詰められた遊びでも、やはり行きたかったのでしょう。志ん生とダブります。

 吉原の案内書、吉原細見(明治二十年)でも1冊10銭でした。上記細見で見ると、最上級の花魁が1円。次が75銭、50銭、40銭と下がっていって、20銭が打ち止めです。金が無いからとはいえ、片手ですから5万円は無いでしょうから、5千円と踏んだのでしょう。クヤシイかな持ち金はその下だなんて。この値段は花魁の指名料で、これに祝儀、料理、酒代、芸者、幇間が付くと2~3倍の料金では追いつきません。

5銭白銅貨;明治22年(1889)に初めて発行され、直径が20.6mm、銅75%ニッケル25%、重さ4.67gで俗に菊五銭白銅貨と言います。明治30年になると同じ素材でデザインを変えて、稲五銭白銅貨と替わります。今の1円貨は直径20mmですから、0.6mmだけ大きく、触った感じでは微妙に大きいくらいで、色は(金属配合)は、現在の50円、100円と同じです。
写真右、菊五銭白銅貨。実物の倍以上の大きさです。 

 

2.吉原(よしわら)
 新吉原と呼ばれ、江戸町、揚屋町、角町、京町から出来ていた。古くは元和元年(1617)日本橋近くの葭原(葭町=よしちょう)に有ったのが、市心になってしまったので、明暦3年(1657)明暦の大火直前に、この地に移転してきた。『どの町よりか煌びやかで、陰気さは微塵もなく、明るく別天地であったと言われ<さんざめく>との形容が合っている』と、(先代)円楽は言っている。私の子供の頃、300年続いた歴史も、昭和33年3月31日(現実には2月末)に消滅した。江戸文化の一翼をにない、幾多の歴史を刻んだ、吉原だが、 今はソープランド中心の性産業のメッカになってしまった。

 第23話「付き馬」、第25話「明烏」、第27話, 「紺屋高尾」、で吉原に触れていますので、そちらもご覧下さい。

馬道(うまみち);浅草寺東側、南北に走る道。そこに接した町。浅草寺の北側には浅草寺の馬場が有ったので、そこに通うため馬の往来が多かった。決して、吉原通いの馬が多かったとか、吉原で支払いが足りなくなって、ウマと同行したから、等と言うことはありません。なぜって、吉原が出来る前から馬道の呼称があったから。

浅草の瓢箪池(ひょうたんいけ);浅草寺の奥山、現在の六区に有った池。池の周りにはお茶屋が並び、子供連れでは近寄りがたい場所だった。また、凌雲閣(りょううんかく)が有った。これは明治期から大正末期まで東京・浅草にあった12階建ての塔。12階建てだったので「浅草十二階」とも呼ばれた。関東大震災で途中で折れ、解体された。瓢箪池も埋め立てられて現在は無い。
写真;左上に見えるのが浅草十二階、手前の池が瓢箪池。台東区立下町風俗資料館蔵

千束(せんぞく);現在の千束は吉原を含めて西側に1~4丁目までありますが、昭和40~41年に掛けて今の住居表示に切り替わりました。その前はざっくりと吉原の南から、浅草寺までの千束通りの左右の街を、浅草千束町と言いました。

吉原土手(よしわらどて);山谷堀の南側土手通り。日本堤とも、単に土手とも言われた。上記千束を抜けると土手に突き当たるので、左に曲がり見返り柳を左に土手を下りると吉原遊廓。

大門(おおもん);吉原に入るための唯一の出入り口。江戸から明治の初めまでは黒塗りの「冠木門(かぶきもん)」が有ったが、これに屋根を付けた形をしていた。何回かの焼失後、明治14年4月火事にも強くと時代の先端、鉄製の門柱が建った。ガス灯が上に乗っていたが、その後アーチ型の上に弁天様の様な姿の像が乗った形の門になった。これも明治44年4月9日吉原大火でアーチ部分が焼け落ちて左右の門柱だけが残った。それも大正12年9月1日震災で焼け落ち、それ以後、門は無くなった。

江戸町二丁目(えどちょう2ちょうめ);吉原に入って、最初の大きな交差点を左に入った地。

角海老(かどえびろう)の大きな時計;角海老楼は吉原遊廓・京町一丁目に存在した超一級の妓楼。明治17年「角海老楼」という当時は珍しい洋風の建物で、木造三階建ての大楼を建てた。その大きな時計台がシンボルの妓楼であった。当時の「角海老楼」は総籬の高級見世で、一般大衆が遊べるような見世では無かった。歴代の大臣が遊びに来るような格式のある見世であったという。 昭和33年公娼制度が廃止になると、見世も運命を共にした。
落語「木乃伊取り」に詳しい。http://ginjo.fc2web.com/256miiratori/miiratori.htm 

 明治時代の時計塔がある角海老楼 絵葉書より 「木乃伊取り」より孫引き

小石川の閻魔様(こいしかわのえんまさま);おでん屋でコンニャクしか食べなかったので友人に冷やかされたところ。文京区小石川二丁目22、源覚寺の閻魔様。目が見えるように願を掛け治癒したお礼に大好きなコンニャクを絶ち、コンニャクを奉納するようになった。眼病治癒の閻魔として、それ以来コンニャク閻魔と言われるようになった。

 

3.言葉
無尽(むじん);頼母子講。互助的な金融組合。組合員が一定の掛金をなし、一定の期日に抽籤または入札によって所定の金額を順次に組合員に融通する組織。鎌倉時代から行われた。無尽。無尽講。母親に言われ行ったのですが、5銭当たったと言いますが、5銭ではハズレたと言います。

冷やかし(ひやかし);張見世の遊女を見歩くだけで登楼しないこと。また、その人。素見。落語「蛙の遊び」に詳しい。
浅草山谷の紙漉業者が紙料の冷えるまで吉原を見物して来たことに出た詞で、登楼せずに張見世の遊女を見歩く事。

お茶を引く;遊女がその晩お客が取れないこと。

御内所(ごないしょ);遊廓のご主人が陣取っている場所。通常、1階のお客の出入りがよく見える所。

女郎屋(じょうろうや);江戸訛りで、じょろや。遊廓。見世。下級の遊女を置いた店。

2階に上がった;通常遊廓は2~3階に部屋を持っていて、お客は上階に上がる。ただし、志ん生の言う羅生門河岸と呼ばれた吉原最下等の女郎屋は、入った土間の向こうに三畳間しかなかった。ここ吉原でもピンキリです。

台屋(だいや);吉原の遊廓では料理は通常作らなかった、その為外部から出前を取った。その出前をする仕出し屋。料理屋、菓子屋、弁当屋、鰻屋、・・・等々、今のデリバリー屋。

若い衆(わかいし);吉原で客引きから、客の対応、室内の細々した用をする男使用人。歳に関係なく、若い衆とか若い者といいます。

宵勘(よいかん);宵のうちに遊びの料金を勘定する事。前払い勘定。後から払うのを朝勘と言った。茶屋を通して入った客は、見世では支払いはせず、茶屋に朝戻ってからそこで勘定をした。

面の皮が厚い;厚顔無恥。面の皮のあついこと。あつかましいこと。鉄面皮。

二十四・五位の女;江戸時代、吉原では娘達の年期奉公が10年ですから年季明けは二十八才と決まっていました。ただし、明治から終戦までは年季奉公は6年と決められていて、どんなに借金があろうが関係無しに自由の身になった。この娘も年季明けが近いくらい苦境に居たのでしょう。その娘に面の皮が厚いと言われたのですから・・・。

 



 舞台の浅草から吉原を歩く

 

 浅草寺東側の南北に走る道を馬道と言い、この道に面していた街が浅草馬道と言った。この街の中に母親の無尽を開いたところが有ったのでしょう。懐に2銭と無尽の5銭を持ったら気が大きくなって、吉原まで行きたくなった。

 二天門を入って、浅草寺本堂裏を西に抜けると、元・奥山の一画に子供の遊園地(?)・花やしきが有り、その前の花やしき通りを抜けると、右に大きなアーケードの浅草ひさご通りが見えます。その先のパチンコ屋さんが浅草十二階と言った凌雲閣跡(台東区千束2-28)です。ですからこのパチンコ屋さんを背中にすると正面の南に抜ける道が浅草興行街の六区と言われる歓楽街で、道路の左側はJRAの場外馬券場ですが、そこから南に交番がある所までが、瓢箪池があった所です。池の切れた右向に浅草演芸ホールが有ります。

 右写真;浅草12階=凌雲閣。江戸東京博物館模型より

 アーケードの付いたひさご通りを入って行きます。言問(こととい)通りの大きな交差点を渡り、千束通りに入って行きます。道なりに歩いて行って、アーケードが切れたところを左に曲がれば、元お歯黒ドブがあった花壇街の道を横切れば吉原の江戸町二丁目に入っていくことが出来ます。落語の噺の中ではドブがあって入れなかったので、先程の千束通りに戻り素直に真っ直ぐ歩きます。左に下水道局の建物がある地方橋(じかたばし)の交差点を左に曲がります。この道が山谷堀の土手通りだった所ですが、現在は山谷堀も埋め立てられて山谷堀公園として細長い公園になってしまいました。その土手も無くなり4車線の広い道路になっていますので、その面影は何処にも有りません。消防署を左に見て歩くと、シェルのガソリンスタンドが左側に見えます。交差点名が大門交差点。スタンドの前に柳が1本、その下に恨めしそうな顔の幽霊・・・、それはありませんが、その柳が有名な見返り柳。

 その柳を見ながら左に曲がりますと、大門への曲がりくねった一本道、それが衣紋坂(えもんざか)、別名五十間茶屋町です。微妙にくの字状に曲がっていますので、表から直接中を覗くことは出来ません。衣紋坂を抜けると吉原の中央通りが一直線に奥に伸びています。この通りを仲之町と言い、その入口に大門がありました。入って行くと最初の信号の有る交差点、交番前交差点の右方向を江戸町一丁目、左方向を江戸町二丁目と言います。留さんに合わせて二丁目の奥まで行きます。吉原遊廓の周りはお歯黒ドブと呼ばれてた堀がありましたので隣町に抜けることは出来ないので、堀に沿って右に曲がればそこが羅生門河岸と呼ばれた吉原最下等の女郎が集まった掃き溜めのような一画です。志ん生の「お直し」にその辺の事情がよく描かれています。現在もソープランドをおおざっぱに比べると、この辺の一画は1万円チョットで遊べそうです。高級店になると3~5万円とメニューに書かれています。でもでも、留さんの片手では遊ぶことは不可能です。
 留さんはまだ時間は早かったので、吉原中ぶらぶらと冷やかしをして遊んでいましたが、どうにも腹が減ってきたのでおでんを食べたが、金が無くてお代わりは出来ないので、芥子をたっぷり付けてむせながら食べて、2銭払って爪楊枝5~6本もらって外に出た。懐には母親の5銭しかありません。
 現在の吉原は大門近くにソープランドが集中していて、奥に行くにしたがってマンション、事務所が多くなって普通の町中と変わらない顔を見せます。超高級な角海老楼があった角町一丁目角は大きなマンションになって吉原の趣は何処にも有りません。その奥の吉原神社との境に有ったお歯黒ドブも埋め立てられて、細い路地になっていて、両側の家は完全な民家です。ソープランドは朝から始まり、私が取材中の太陽が頭の真上にあるのに各店とも臨戦態勢で、店の入口には黒いスーツ姿のお兄さんが立っています。夜は12時までで、時間は厳守すると宣言しています。
 過日の吉原は12時になって、中引けと言い、大門を閉めて潜り戸だけになります。外を歩く客は減り始めます。午前2時になると大引けと言って、見世の大戸を閉めはじめ客は取りません。あぶれた遊女達はこの時間帯までに何とか客を引かなければなりません。スーパーの閉店前セールと同じです。売れなければお茶を引くと言われ、御内所からキツく言われます。
 その時、留さんの背後から声が掛かったのです。

 おでん屋でコンニャクしか食べなかったので、友人にからかわれたコンニャク閻魔に行きます。
 コンニャク閻魔は愛称で、正式には源覚寺(文京区小石川二丁目23)と言います。JR水道橋の北側に野球のメッカ・ドーム球場が有り、その北側に文京シビックセンターが有ります。文京シビックセンターは区役所と文京区の芸術・文化・教育・展望台などの区民のセンターになっています。この北側に千川通りがあって、100mも行った左側に源覚寺があります。入口は狭い参道ですが、奥の突き当たりに閻魔堂があって、その中に大きな閻魔様がこちらを睨んでいます。閻魔堂の入口には多くのコンニャクが供えられていて、眼病には効果がありそうです。有りそうではなく、有るのでしょう、ひっきりなしに参拝者が手を合わせに来ます。

 

地図



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写真


 それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

馬道(浅草馬道)
 落語の世界では良く出てくる道。これから案内するコースの他に、この道を北上(写真の奥)に進めば、山谷堀にぶつかり左に曲がって見返り柳を目標に歩けば吉原に行けます。

二天門(浅草寺東側の門)
 浅草寺に入るには、南の雷門とここ二天門が門つきの入口になります。最近、一度バラして大修繕後再建され塗装も新しく生まれ変わった二天門です。

花やしき(浅草奥山の遊園地)
 デズニーランドにはどうあがいても負けますが、修学旅行生や家族ずれが楽しんでいます。

瓢箪池跡(浅草寺に有った池跡)
 この噺の中では瓢箪池がありました。六区の興行街が北側でぶつかった所に12階が有りました。写真の右側は場外馬券場等がありますが、その地が瓢箪池でした。今はどちらも有りません。
 

ひさご通り(浅草六区から北に抜ける道)
 上記パチンコ屋の右(東)側にアーケードの付いた通りが、ひさご通り。浅草寺から出たいときの一つの北側出口。この中に、江戸下町伝統工芸館があり、地元の工芸品が並んでいます。

千束通り入口(浅草寺北側出口)
 浅草寺北側の東西に走る幹線道路・言問通りの交差点です。ここを出て吉原に向かう一本道が千束通りです。たとえ雨が降ってもアーケードが付いていますから濡れずに(?)行ける。志ん生も噺の中だけではなくここを通ったのでしょう。

千束通り・アーケード終わり(江戸町二丁目入口)
 八割方来た所でアーケードが途切れます。黒塗りの車やタクシーがこの細い道を左に入って行きますので、何が有るのか覗きに行くと、そこは吉原江戸町二丁目出入口、当時は手前にお歯黒ドブが有ったので直進は出来ませんから、元の場所まで戻って、その先の地方橋まで向かいます。

地方橋跡(じかたばし、地方橋交差点先)
 地方橋交差点の向こう側、山谷堀が有った当時の橋が地方橋です。ガードレールの植栽が山谷堀の川幅です。河口付近では川幅はもっとありますが、ここでは船を旋回させるのも大変ですが、すれ違う船客と目が合ったら、手の届く距離ですから困る遊客も出ることでしょう。ですからこの土手の上をみんな歩きましたし、余裕の有る人は駕籠を頼みました。

  

見返り柳(大門交差点際)
 吉原の衣紋坂の入口に建っている有名な柳です。何代目かの柳ですが、今回の柳はすくすく育って親の柳に成長しました。土手下にあったのですが、土手がこんなにも広い道になってしまい、当時の雰囲気はありません。

衣紋坂(吉原入口の五十間坂)
 上記見返り柳から吉原に入って行く道が、この衣紋坂です。坂と付いていますが、現在の土手道も低くなって、そこから下ってくる坂も無くなってしまいました。写真は大門跡から振り返って見返り柳方向を見ていますが、道をわざとくねらせていますので、直接には見えません。

吉原大門跡(吉原入口)
 吉原遊廓の入口で過去にはここに大門(おおもん)が有りました。写真は大門跡より仲之町を見ていますが、突き当たりには水道尻と呼ばれた所が有り、(現在は道が抜けています)その手前に京町が有りました。

江戸町二丁目(吉原交番前交差点)
 最初の大きな交差点、右側は江戸町一丁目、左側が二丁目です。写真はその左側を見ています。奥に入って行くとお歯黒ドブにぶつかりましたが、今は、外部と道で繋がっています。

角海老楼跡(吉原京町一丁目)
 仲之町を奥に進むと、最奥に京町があって、その右側が一丁目、左側が二丁目。一丁目の角、現在はマンションになっていますが、その地に角海老楼がありました。

こんにゃく閻魔(源覚寺、文京区小石川二丁目23)
 願掛けの老婆に閻魔自身の右目を与え、眼病治癒の感謝を込めてコンニャクを納めるようになった。
 閻魔像は高さ1m檜の寄せ木造り、鎌倉時代の運慶派の作と思われる秀作。左目は正常だが右目は黄色く濁っている。区有形文化財。

                                                           2013年8月記

 

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