落語「五銭の遊び」の舞台を歩く
古今亭志ん生の噺、「五銭の遊び」(ごせんのあそび。別名「白銅の女郎買い」)
江戸時代初期から中期までは物価が安定していて、毎回使う、1両=8万円の換算が成り立ちます。しかし、幕末になると幕府の権威も地に落ち、あわせて物価も上昇し、1両が8万円の1/3位になってしまいます。明治政府に替わってから、明治4年(1871)に新貨条例が制定され貨幣が発行されました。この時、1両=1円としました(呼称の変更)。両の時は4進法で、円になって10進法になりました。物価の推移を見ても、小判当時の金の含有量と明治政府が出した金貨の含有量を比較して約1/8ですので、切りよく1両=1円=現在の1万円でしょう。米の価格や蕎麦の値段、下駄の値段や家賃など、それぞれ細かい所を見れば差があるでしょうから、おおざっぱにまとめるとこの時代の1円が現在の1万円位になるでしょう。
ここに落とし穴が二つあって、一つは遊女が2日続けて客無しでアブレて見世から怒られています。安くてもイイから、客が欲しかった三日目です。
常識外れの、そんな突き詰められた遊びでも、やはり行きたかったのでしょう。志ん生とダブります。
吉原の案内書、吉原細見(明治二十年)でも1冊10銭でした。上記細見で見ると、最上級の花魁が1円。次が75銭、50銭、40銭と下がっていって、20銭が打ち止めです。金が無いからとはいえ、片手ですから5万円は無いでしょうから、5千円と踏んだのでしょう。クヤシイかな持ち金はその下だなんて。この値段は花魁の指名料で、これに祝儀、料理、酒代、芸者、幇間が付くと2~3倍の料金では追いつきません。
■5銭白銅貨;明治22年(1889)に初めて発行され、直径が20.6mm、銅75%ニッケル25%、重さ4.67gで俗に菊五銭白銅貨と言います。明治30年になると同じ素材でデザインを変えて、稲五銭白銅貨と替わります。今の1円貨は直径20mmですから、0.6mmだけ大きく、触った感じでは微妙に大きいくらいで、色は(金属配合)は、現在の50円、100円と同じです。
2.吉原(よしわら)
第23話「付き馬」、第25話「明烏」、第27話,
「紺屋高尾」、で吉原に触れていますので、そちらもご覧下さい。
■馬道(うまみち);浅草寺東側、南北に走る道。そこに接した町。浅草寺の北側には浅草寺の馬場が有ったので、そこに通うため馬の往来が多かった。決して、吉原通いの馬が多かったとか、吉原で支払いが足りなくなって、ウマと同行したから、等と言うことはありません。なぜって、吉原が出来る前から馬道の呼称があったから。
■浅草の瓢箪池(ひょうたんいけ);浅草寺の奥山、現在の六区に有った池。池の周りにはお茶屋が並び、子供連れでは近寄りがたい場所だった。また、凌雲閣(りょううんかく)が有った。これは明治期から大正末期まで東京・浅草にあった12階建ての塔。12階建てだったので「浅草十二階」とも呼ばれた。関東大震災で途中で折れ、解体された。瓢箪池も埋め立てられて現在は無い。
■千束(せんぞく);現在の千束は吉原を含めて西側に1~4丁目までありますが、昭和40~41年に掛けて今の住居表示に切り替わりました。その前はざっくりと吉原の南から、浅草寺までの千束通りの左右の街を、浅草千束町と言いました。
■吉原土手(よしわらどて);山谷堀の南側土手通り。日本堤とも、単に土手とも言われた。上記千束を抜けると土手に突き当たるので、左に曲がり見返り柳を左に土手を下りると吉原遊廓。
■大門(おおもん);吉原に入るための唯一の出入り口。江戸から明治の初めまでは黒塗りの「冠木門(かぶきもん)」が有ったが、これに屋根を付けた形をしていた。何回かの焼失後、明治14年4月火事にも強くと時代の先端、鉄製の門柱が建った。ガス灯が上に乗っていたが、その後アーチ型の上に弁天様の様な姿の像が乗った形の門になった。これも明治44年4月9日吉原大火でアーチ部分が焼け落ちて左右の門柱だけが残った。それも大正12年9月1日震災で焼け落ち、それ以後、門は無くなった。
■江戸町二丁目(えどちょう2ちょうめ);吉原に入って、最初の大きな交差点を左に入った地。
■角海老(かどえびろう)の大きな時計;角海老楼は吉原遊廓・京町一丁目に存在した超一級の妓楼。明治17年「角海老楼」という当時は珍しい洋風の建物で、木造三階建ての大楼を建てた。その大きな時計台がシンボルの妓楼であった。当時の「角海老楼」は総籬の高級見世で、一般大衆が遊べるような見世では無かった。歴代の大臣が遊びに来るような格式のある見世であったという。 昭和33年公娼制度が廃止になると、見世も運命を共にした。
明治時代の時計塔がある角海老楼 絵葉書より 「木乃伊取り」より孫引き
■小石川の閻魔様(こいしかわのえんまさま);おでん屋でコンニャクしか食べなかったので友人に冷やかされたところ。文京区小石川二丁目22、源覚寺の閻魔様。目が見えるように願を掛け治癒したお礼に大好きなコンニャクを絶ち、コンニャクを奉納するようになった。眼病治癒の閻魔として、それ以来コンニャク閻魔と言われるようになった。
3.言葉
■冷やかし(ひやかし);張見世の遊女を見歩くだけで登楼しないこと。また、その人。素見。落語「蛙の遊び」に詳しい。
■お茶を引く;遊女がその晩お客が取れないこと。
■御内所(ごないしょ);遊廓のご主人が陣取っている場所。通常、1階のお客の出入りがよく見える所。
■女郎屋(じょうろうや);江戸訛りで、じょろや。遊廓。見世。下級の遊女を置いた店。
■2階に上がった;通常遊廓は2~3階に部屋を持っていて、お客は上階に上がる。ただし、志ん生の言う羅生門河岸と呼ばれた吉原最下等の女郎屋は、入った土間の向こうに三畳間しかなかった。ここ吉原でもピンキリです。
■台屋(だいや);吉原の遊廓では料理は通常作らなかった、その為外部から出前を取った。その出前をする仕出し屋。料理屋、菓子屋、弁当屋、鰻屋、・・・等々、今のデリバリー屋。
■若い衆(わかいし);吉原で客引きから、客の対応、室内の細々した用をする男使用人。歳に関係なく、若い衆とか若い者といいます。
■宵勘(よいかん);宵のうちに遊びの料金を勘定する事。前払い勘定。後から払うのを朝勘と言った。茶屋を通して入った客は、見世では支払いはせず、茶屋に朝戻ってからそこで勘定をした。
■面の皮が厚い;厚顔無恥。面の皮のあついこと。あつかましいこと。鉄面皮。
■二十四・五位の女;江戸時代、吉原では娘達の年期奉公が10年ですから年季明けは二十八才と決まっていました。ただし、明治から終戦までは年季奉公は6年と決められていて、どんなに借金があろうが関係無しに自由の身になった。この娘も年季明けが近いくらい苦境に居たのでしょう。その娘に面の皮が厚いと言われたのですから・・・。
浅草寺東側の南北に走る道を馬道と言い、この道に面していた街が浅草馬道と言った。この街の中に母親の無尽を開いたところが有ったのでしょう。懐に2銭と無尽の5銭を持ったら気が大きくなって、吉原まで行きたくなった。
二天門を入って、浅草寺本堂裏を西に抜けると、元・奥山の一画に子供の遊園地(?)・花やしきが有り、その前の花やしき通りを抜けると、右に大きなアーケードの浅草ひさご通りが見えます。その先のパチンコ屋さんが浅草十二階と言った凌雲閣跡(台東区千束2-28)です。ですからこのパチンコ屋さんを背中にすると正面の南に抜ける道が浅草興行街の六区と言われる歓楽街で、道路の左側はJRAの場外馬券場ですが、そこから南に交番がある所までが、瓢箪池があった所です。池の切れた右向に浅草演芸ホールが有ります。
右写真;浅草12階=凌雲閣。江戸東京博物館模型より
アーケードの付いたひさご通りを入って行きます。言問(こととい)通りの大きな交差点を渡り、千束通りに入って行きます。道なりに歩いて行って、アーケードが切れたところを左に曲がれば、元お歯黒ドブがあった花壇街の道を横切れば吉原の江戸町二丁目に入っていくことが出来ます。落語の噺の中ではドブがあって入れなかったので、先程の千束通りに戻り素直に真っ直ぐ歩きます。左に下水道局の建物がある地方橋(じかたばし)の交差点を左に曲がります。この道が山谷堀の土手通りだった所ですが、現在は山谷堀も埋め立てられて山谷堀公園として細長い公園になってしまいました。その土手も無くなり4車線の広い道路になっていますので、その面影は何処にも有りません。消防署を左に見て歩くと、シェルのガソリンスタンドが左側に見えます。交差点名が大門交差点。スタンドの前に柳が1本、その下に恨めしそうな顔の幽霊・・・、それはありませんが、その柳が有名な見返り柳。
その柳を見ながら左に曲がりますと、大門への曲がりくねった一本道、それが衣紋坂(えもんざか)、別名五十間茶屋町です。微妙にくの字状に曲がっていますので、表から直接中を覗くことは出来ません。衣紋坂を抜けると吉原の中央通りが一直線に奥に伸びています。この通りを仲之町と言い、その入口に大門がありました。入って行くと最初の信号の有る交差点、交番前交差点の右方向を江戸町一丁目、左方向を江戸町二丁目と言います。留さんに合わせて二丁目の奥まで行きます。吉原遊廓の周りはお歯黒ドブと呼ばれてた堀がありましたので隣町に抜けることは出来ないので、堀に沿って右に曲がればそこが羅生門河岸と呼ばれた吉原最下等の女郎が集まった掃き溜めのような一画です。志ん生の「お直し」にその辺の事情がよく描かれています。現在もソープランドをおおざっぱに比べると、この辺の一画は1万円チョットで遊べそうです。高級店になると3~5万円とメニューに書かれています。でもでも、留さんの片手では遊ぶことは不可能です。
おでん屋でコンニャクしか食べなかったので、友人にからかわれたコンニャク閻魔に行きます。
それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。 2013年8月記
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