落語「錦の袈裟」の舞台を歩く
   

 

 桂文朝の噺、「錦の袈裟」(にしきのけさ)によると。
 

 昔は男が遊びに行こうと言えば吉原に決まっていた。男連中が集まるとこの話になり、隣町の連中が吉原で緋縮緬の揃いの長襦袢で遊んで、帰り際に「隣町の連中はしみったれだから出来めぇ」と言って帰っていった。その相談で、我々も負けない御嗜好で遊びたいという。

 「錦の布の揃いの褌で総踊りしたらワッと驚くぜぇ」、「だめだ。1寸幾らという高価な布で、我々が先に驚いてしまう」、「実は伊勢六質屋の番頭に『錦の布が10枚あるので、何かの時は使ってください』と言われていた」。「それに決めよう」で衆議一決。参加者は11人、与太郎さんの分が無い。行かないだろうと思った与太さんに聞くと、女遊びをするのにおかみさんに聞いてみるからという。来る時は錦の褌でなければダメだぞ。

 家に帰っておかみさんに相談すると、あきれるやら、バカにされるやらだったが、行かせないと後でバカにされるからと、錦の褌の算段に入った。
 「お寺さんに行って借りておいで」と良い知恵が湧いた。「褌にするから錦の袈裟を貸してくれでは誰も貸してはくれないから、ウソでも良いから『親戚の倅に狐が付きました。偉〜い和尚さんの袈裟を掛けると治ると言います。どうか人助けだと思ってお貸し下さい』と言えば貸してくれるだろう」。と言う事で、ご住職さんに掛け合った。古い方が御利益があるからと勧められたが、新しいきらびやかな方をどうしても借りたい。しかし、これは納め物でその人の法事が明日あるので、必ず明日朝に返却する約束でやっと借りられた。
 家に帰って締めてみたが、白い丸いものが邪魔してサマにならなかったが、取り去る訳にもいかずそのまま出掛けた。仲間と点検すると与太さんのが一番綺麗だった。

 吉原では芸者幇間を揚げてどんちゃん騒ぎ、最後に尻まくりをして総踊りをした。当然座は盛り上がり大盛況であった。
 奥に戻って、芸妓が女将から聞くには、「あれは職人ではなく、大名の隠れ遊び」だと言う。その証拠には「高価な布を下帯にするのは、普通の人では出来ない。だから大名で、特に丸い輪をぶら下げているのがお殿様で、他は家来である。小用を足す時に手を使うのは不浄なので、輪に通してするのだ。その後白い房で払うのだ」と言うチン解釈を女達に授けた。「殿様のお相手になった”むらさき”さんは幸せ者で、玉の輿に乗れるかも知れない。他は家来だからほっときなさい!」。
 と言う事で、与太さんはめちゃめちゃモテた。その代わり、仲間連中は全員振られてしまった。

 朝、「大一座振られた者が起こし番」で、起こし合ったが誰も女は来なかったという。与太さんが居ないのに気づき、部屋に訪ねるとまだ屏風を立て回して女と一緒だった。
 「花魁早く起こしてくださいよ」、「無礼である。下がれ家来ども!輪無しやろうが・・・」、「輪無し・・・??」。
「与太、先に帰るぞ」、「だめだよ。花魁早く起こしてよ。」、「いけません。主はどうしてもケサは返しません」、「それは大変だ。袈裟を返さないとお寺をしくじっちゃう」。

 


 粋でいなせな江戸前の芸を得意とした落語家の桂文朝(かつら・ぶんちょう、本名・田上孝明=たがみ・たかあき)さんが平成17年 4月18日(月)午前1時5分、がんのため東京都内の築地がんセンターにて、逝去されました。享年63歳でした。合掌。

 私の隣町に住み、プライベートの時間にもお会いした仲だったので驚いています。地味な芸風でしたが堅実な落語を踏襲し、人そのものの、てらいのない落語は安心して聞けたものです。 上野・鈴本演芸場には今でも彼の名入り提灯が飾ってあります。

 桂文朝は、昭和17年3月31日、東京新宿生まれ。
 昭和27年二代目桂小南に入門し、前座名、山遊亭タア坊を名乗りました。少年落語家として、一躍人気者になりました。
 昭和50年には、文化庁芸術祭優秀賞受賞。
 昭和53年に、放送演芸大賞落語部門賞を受賞するなど、本格派古典落語の名手として、いよいよ円熟の時を迎えていました。 最後の高座は2月4日、東京・末広亭の「寄合酒」だった。

 その桂文朝師を偲んで、明るく郭噺の話芸を楽しんでみたいと思います。平成5年11月、国立演芸場の舞台から、江戸時代別名「チン輪」と言う題で演じられていたものです。


1.袈裟について

 
袈裟の語源はサンスクリット語のカーシャーヤ(Kasaya)で、もともと濁った壊色≠ニいう意味です。
 インドでは僧侶の服。中国・日本では、僧侶が左肩から右腋下にかけて衣の上をおおう長方形の布を意味するようになった。色は青・黄・赤・白・黒の5正色を避け、いくつかの布をつぎあわせて作ります。
 インドの僧団では、法衣の色をこの壊色(えじき、5正色を避けた色)に定めたため、仏教者が着る服・法衣そのものを「袈裟」と言うようになりました。日本に限らず、タイやスリランカのお坊さんも、実に大きな袈裟を着けています 。

 昔から袈裟の大きさと形には一定の決まりがあります。インドでは三衣(大衣・中衣・小衣)という三種類の袈裟・衣服を、仏教修行者の必需品としていました。その製法は田に見立てて、たくさんの布片を、決められた数だけ継ぎ合わせ、身体を包み込むほどの大きさの一枚の布に仕立てたものです。 仏教が熱帯気候のインドから中国・日本に伝わると、寒さを防ぐために少しずつ変化し、実に様々な様式が出来ました。
写真は
曹洞宗の絡子(らくす)です。

■略式袈裟とは
 インドの気候には、雨期と乾期の二つの季節があります。雨期には、大切な袈裟(三衣)を路地の泥水で汚さないために細かく畳んで輪のように結び、これを首に掛けて歩いていました。つまり便宜上の風習だったのです。しかし、この形式が中国・日本にまで伝わると、略儀の袈裟として考案され、とくに半袈裟として用いられるようになったのです。
 略式袈裟には国・宗派によりその種類を異にし、天台・真言・真宗などで用いる折り袈裟、輪袈裟(わげさ)、半袈裟などがあり、禅宗で用いる威儀細(いぎぼそ)・掛絡(から)など略式のものもあります。
 
威儀細の
袈裟につけた肩ひも部分を威儀と言います。袈裟を直して「重々しくいかめしい挙動。また、作法にかなった立居振舞い」をする事を、威儀を正すと言います。威儀はここから来ています。

 ローマ法王が新しい人になりましたが、その法王が謁見の時など公式行事に身につけている、マフラーのような首から提げている巾広の金襴の錦の布もこの袈裟の変形だと言われています。

■袈裟のサイズ;袈裟には大小があって、大は9条〜25条、7条、5条と有ります。条とは一枚布で作っていませんので、縦に別れている本数をあらわします。背中にまわす大きなマント状の袈裟は9条 、7条で、3枚の布を縦長に縫い合わせた布を、横に9枚または7枚縫い合わせたものです。7条で縦1.2mX横2m有り、畳1枚より大きいのです。あまりにも大きいものは”大袈裟”と言い、「大袈裟な事を言う」の大袈裟はここから出ています。
 薄地の夏用、裏地の付いた厚手の冬用、中間のあい物などがあり、最近は冷暖房が行き届いて冬でも薄手の物が使われるようになりました。キンキラキンの派手な物から、地味で落ち着いた物まで各種有ります。

■袈裟のわっか;これの付いた袈裟は一般に、坐禅を生命とする宗派で、禅宗という呼びかたがされる臨済宗・黄檗宗・曹洞宗の三宗が着用するものです。他宗では 直接紐で結んでいますから、輪は有りません。
 
袈裟に付く象牙等の丸い輪の名前は、「掛絡(カラ、クワラ)」と言い、通常、「鐶(かん)」と言います。この鐶は上の紐と下の紐を結ぶ結び目になります。ズボンのバンドで言うバックルにあたります。蚊帳などで吊り紐に使われる輪と役割は同じで、これも鐶と呼ばれます。 しかし、曹洞宗でも、鐶のない袈裟が主流になっています。むやみに借りに行っても輪がない方が多いので、一人モテる事は出来ませんよ。

鐶付きの袈裟、禅宗の開祖や名僧も着けています。

  

南禅寺開祖                隠元禅師

 伊達正宗ゆかりの人々に見る法衣の形(臨済宗) http://www5e.biglobe.ne.jp/~e-kaori/houi/houikatatop.htm
にて、袈裟の種類とその着用様子を見る事が出来ます。

道元像(秋田県比内町、養牛寺提供)
「正法眼蔵」を著した日本曹洞宗の開祖。越前に曹洞禅の専修道場永平寺を開いた。
(秋田県比内町、養牛寺提供)
直径15cm位の大きな鐶を着けています。
当時既に電車の吊り輪があったようです。(^_-) <本気にしないで

袈裟から派生した言葉
威儀を正す」、「大袈裟」は書きましたが、他にもあります。
・ 「
坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」;その人を憎むあまりに、その人に関係のある事物すべてが憎くなる。
・ 「袈裟懸け(けさがけ)」;袈裟をかけたように、一方の肩から斜めに他方のわきの下へかけて物をかけること。選挙の候補者が掛けるたすきなどもこれです。
・ 「袈裟斬り(けさぎり)」;一方の肩から斜めに他方のわきの下へかけて刀などで斬り下げること。 袈裟がけ。
 袈裟がけには面白い話があります。
『遍照の海』(中公文庫)澤田ふじ子著によると、
  江戸時代、処刑されかけた罪人を、公然と救う方法が一つだけあり、それが高僧による”袈裟がけ”だった。処刑場に唐丸籠(とうまるかご)や、両手を後ろで縛られたり、裸馬に乗せられ 、罪人が護送されて来ます。高徳の僧がそれに向かい、遠くから着ている袈裟を投げかける。これが袈裟がけであった。
 袈裟が見事に罪人にかかれば、処刑は中止され、司直と相談し、僧侶はその罪人をもらいうけ、当人の更正を考えたのです。
 ”袈裟がけ”にはこのように殺生する事と
逆の意味もあったようです。


2.にしき【錦】
1.金銀糸や種々の絵緯(えぬき)を用いて、華麗な文様を織り出した紋織物の総称。
2.三枚綾の地合に多くの絵緯や金銀糸を織り込んだ紋織物。主に絹織物を指すが、木綿を地糸としたものもある。
3.紋様の美しいものをたとえていう語。

広辞苑より

 数種の色糸で地組織と文様を織り出した織物。縦糸で文様を織り出した経錦(たてにしき)と、横糸で織り出した緯錦(よこにしき)とがある。
小学館国語辞典より

 楽蔵屋さん、金襴の織れるまで http://www.kinranya.com/user/index.php?menu_id=19&main_content_type=NEWS に詳しい話が載っています。


3.吉原

 第23話「付き馬」、第25話「明烏」、第27話, 「紺屋高尾」、で吉原に触れていますので、そちらをご覧下さい。


4.
緋縮緬(ひぢりめん)
風呂敷(袱紗 ふくさ) 朱 緋色のちりめん。縮緬;絹織物の一。経糸に撚(より)のない生糸、緯糸(よこいと)に強撚糊つけの生糸を用いて平織に製織した後に、ソーダをまぜた石鹸液で数時間煮沸することによって緯の撚が戻ろうとして布面に細かくしわ「シボ」をたたせたもの。広辞苑より
 
上の文字色の緋縮緬の長襦袢の揃いで踊ったら、さぞ派手やかであったろうし、隣町の若い者は自慢したかったでしょう。

  しわになりにくく、しなやかで優美、さらに手触りがとても良く、 シボがあるため色合いも深みのある色に染め上がります。 しかも耐久性に優れています。

  縮緬には、一越縮緬、紋意匠縮緬、綸子縮緬、古代縮緬、絽縮緬など多くの種類があります。しかし、縮緬と言っても、ラーメンのチジリ麺とは少し違います。(いやいや、全然違います)

 きものカルチャー研究所・縮緬 http://www.somesho.com/kitsuke/17_Gihou/1718_Chirimen/ に縮緬の情報があります。

■長襦袢とは
 着物の下に着る下着。身長に合わせて対丈で仕立て、衿には半衿をかけます。この衿の部分と、袖口や振りからほんの少しの部分しか表からは見えませんが、これが意外と目立つのです。コーディネートを左右する大きな要素の一つと言ってもいいくらい。手を動かすたびにちらりと覗く色や柄、また後ろ姿でぱっと目を惹く振りに日本独特の「重ねの美」が受け継がれています。たかが下着と思って気を抜かずこだわりたいものです。落語の中にも 、美女との戯れの中に、のぞく緋縮緬の色っぽさを表現している場面があります。「船徳」の続編、「宮戸川」のラストにその描写が生き生きと描かれています。本が破れるほどに。

 



  舞台の吉原を歩く

 浅草から真っ直ぐ馬道を北に、名前が変わって土手通りを行くと「吉原大門交差点」に着きます。左手にガソリンスタンドがあって、その前に見返り柳が待ち受けています。左に折れ曲がった道「衣紋坂」を入ると、大門(おおもん)跡に出ます。大門跡と言っても何もありません。右手に大きな茶色のマンションその1階に交番が入っています。このマンションが「料亭松葉屋」が有った跡です。最後まで花魁道中をやって、はとバスのお客さんを集めていましたし、落語会などもやっていました。ず〜っと奥まで続いている道が「仲の町通り」、吉原の背骨のメインストリートです。ここから吉原の事を”仲”とも言います。最初の交差点右に江戸一、左に江戸二、次の交差点が吉原の中心地、右が揚屋、左が角町です。次の交差点右側に大見世「角海老」が有りましたが、今はマンションが建っています。右奥が京一、左が京二です。各町名はなくなって今は千束4丁目でひとくくりになっています。メインストリートその先は水道尻と言って、当時お歯黒ドブがあって行き止まりですが、今は何の妨げもなく道は続いて、吉原をぬけ出ています。右手に吉原神社、道は左に曲がって、左に旧名「吉原公園」があり、弁天池の名残と池で水死した女性達の慰霊弁財天が建っています。
 Uターンして吉原の中央に戻ります。右手に二階建ての小粋な純和風料理屋さんが見えます。ここが吉原で最後まで残った料亭・金村です。まだ、玄関が閉まっていますので話は聞けませんでしたが、古き良き時代の風情を残しています。ここから大門跡に掛けての左右にはソープランド街としてぎっしりと店が並び競争をしています。まだ昼頃なのに店内をのぞくと、客引きとお客が結構出入りしています。
 前回は取材どころか客引きに追い回されて難渋しましたので、今回は派手に首から大きなカメラを下げ、左手に地図を挟んだバインダー、右手に筆記具を持って「遊びじゃないよ」とアピールしながらの歩行でしたので、幸か不幸か一度も声が掛かりませんでした。昼間じゃね〜、当然かも知れません。

 見返り柳まで出て、土手通りを渡り、明治の頃からの老舗料理屋さん、「桜鍋・中江」、「天麩羅・伊勢屋」が和風のたたずまいを残して営業しています。天麩羅は15人ぐらい並んでいますので、隣の桜鍋でランチです。吉原に遊びに入る連中が馬力を付ける為にたいそう流行ったと言う事です。深川の「みの家」と列び東京の二大桜鍋屋さんです。値段も いいが味も良い。

 

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

夏用袈裟(東京江東区、天台宗・自性院にて)
夏用の7条袈裟です。薄布で出来ていますので、透けて見えます。田圃のあぜをイメージしてパッチワーク状になっています。縦に7列有るので7条袈裟と言います。

 

着用状態の袈裟(東京江東区、天台宗・自性院にて)
上記の袈裟を着けたところです。鐶がないので紐同士を直接結び着用します。左肩に乗せ右脇の下に通して前で結びます。右肩はどんな時にも出ています。

冬用袈裟(東京江東区、天台宗・自性院にて)
冬用の7条袈裟です。厚手の生地に裏が付いて、夏用から比べると重くなっています。この他にあいものも有り、サラリーマンの背広のように幾つも所持していますので、与太さんが来ても平気で貸し出しが出来ます。ただ、狐落としだけに使ってくださいね。

 

輪袈裟(東京江東区、天台宗・自性院にて)
通常の袈裟が簡略化された物です。これもサラリーマンのネクタイのように千差万別いろいろ有ります。
 種類も袈裟をたたんで首に巻いたような、折袈裟、写真の輪袈裟、下の部分が離れて、紐で結ぶ半袈裟などがあります。四国巡礼でお遍路さんがしているのが、半袈裟です。

吉原大門跡から仲の町を見る(台東区千束4丁目33)
大門跡から仲の町を見ています。右側元・松葉屋跡今はマンション

仲の町から大門跡を見る(台東区千束4丁目23から)
吉原の中心から大門跡を見ています。
吉原は何処に行っても男の歓楽街です。でも、その中にマンションがあって子供達がそこから通学しています。

料亭「金村」(台東区千束4丁目16)
仲の町の中央にある料亭金村。吉原当時から、ただ1件残った最後の料亭です。江戸の粋さを残しています。

桜鍋の「中江」、天ぷら「伊勢屋」(台東区日本堤一丁目9)
土手通り 大門交差点の近くにある2店の老舗の料理屋さん。右角が天ぷらの老舗「土手の伊勢屋」、創業は明治22年。
左の馬肉料理、別名、桜鍋の「土手の中江」、創業明治38年です。
http://www.nakaerou.com/~sakuranabe/tenpo.html
両店とも創業100年以上経ちます。凄いですね〜。

                                                        2005年5月記

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