落語「五人廻し」の舞台を歩く
   

 

 古今亭志ん朝の噺、「五人廻し」(ごにんまわし)によると。
 

 江戸で安直に遊べる遊郭では、廻しと言って花魁は一夜に複数の客を取った。お客もそれを承知で見世にあがった。あがるとマッチ箱のような小さい部屋が並んでいて、その一つに通される。薄暗い行灯が一つと枕元にたばこ盆があるだけの何の飾り気もない部屋で花魁が来るのを待っていた。ちらりと顔を見せただけで朝になったとか、顔も見ずに寝られない夜を過ごす事もあった。

 裏を返しに来たのに、江戸っ子の職人風の男がぼやいている。上草履の音がするので狸寝入りを決め込んでいると、通り過ぎてしまった。妓夫(ぎゅう)が来たのでさんざん嫌みを言って玉代を返せと迫った。これも吉原の法だと言って逃げようとするので、吉原の成立から見世の数、花魁の人数から犬の数まで分かると啖呵を切った。間もなく花魁は来るだろうからと、ほうほうの体で妓夫は逃げ出した。

 若い衆と呼ばれて顔を出すと畳を上げて捜し物をしている。紛失物だから一緒に探してくれと言う。何を紛失したのか聞くと、昨夜買った花魁がどっかに行って見つからないと言う。わしを無理矢理あげておいて料理は取るし、さんざん飲んで金使わして顔も見せない。日本橋の在(ざい=田舎)から来ている江戸っ子で、肥だめ担ぐにも真鍮のたががハマったもので担ぐお兄さんだ!

 喜瀬川さんへ喜瀬川さんへと探していると、キザな(酢豆腐に出てくるような)若旦那風のお客に呼び止められた。玉(ぎょく)を返せとか女が来ないなどと言うのは、野暮の極みだという。ところで、若い衆さんが遊びに行った折り、姫が待っていた方が良いか居ない方が良いか、それを聞きたい。喜瀬川花魁は間もなく来ます。で、玉代を返してほしい。

 無骨な浪士風の男から声が掛かった。無理矢理登楼したが未だ遊女は来ない。玉代を返して初めて民主主義になるのではないか。明け方までに遊女が来なかったら、爆裂弾を仲間と一緒に投げ込むであろう。

 喜瀬川さんへ喜瀬川さんへ、え〜〜喜瀬川さんへ。

 喜瀬川から声が掛かった。田舎出(木兵衛大尽風)の男に喜瀬川はべったり居着いていた。大尽は早く廻ってやれと言う。喜瀬川は玉代を返して帰って貰えばいいから、お大尽に4人分の金を出させた。妓夫の喜助にも心付けを渡させ、喜瀬川も「私にも50銭おくれよ」とねだった。
「やらない事はないが、ほれ取っておけ」、「ありがとう。これを貰ったら、私の物だね」、「そうだ」、
「じゃぁ、今度はお前さんに上げるよ」、「俺が貰ってどうするんだい」、
「お前さんも他のお客さんと一緒に帰っておくれよ」。

 

 割床」 三谷一馬画 江戸吉原図聚 小見世では部屋に屏風で仕切って何組も放り込みました。


 喜瀬川という花魁はよほど木兵衛さんが嫌いだったのでしょうね。落語「お見立て」で自分は死んだ事にして、墓にまで連れ出してしまって、逢わなかったのですから。
 

1.郭の女たち

 
 新吉原 江戸切り絵図から  

 <吉原遊郭の誕生> 徳川幕府公許の遊廓として吉原が誕生したのは、元和元年(1617)のことだと伝えられていますから、今からざっと390年前のことになりましょうか。そのころの江戸は、まだ野原の中に、遊女屋があちらに2軒、こちらに3軒というふうに散らぱっていたといいます。ところが、庄司甚内という茶屋の主が、徳川家康が江戸に幕府を開いて以来、江戸の町が年々賑わってきたので、遊女屋を一か所に集めて遊廓をつくることを考えついたのでした。
  一日も早く江戸の町の基礎がためをしようとしている幕府に対して、遊廓という特別区域の設置を願い出た庄司甚内という人の才覚に、私は感心せずにはいられません。

 この願いが出されて7年後、条件付きで許可されます。場所は日本橋堀留1丁目辺りのアシが生える湿地帯です。アシ原を縁起を担いでヨシ原→「吉原」とし、遊女屋17軒、揚屋24軒で始まった。
 後に明暦の頃、ここから浅草寺北側に引っ越した。日本橋を元吉原とよび淺草北を新吉原と呼んだ。

 <吉原の見世> 全町三万坪といわれた区域ですのに、引手茶屋を通さなければ上がれない”大見世”、”張見世”といって、格子の中で遊女が客の名指しを待っている”中見世””小見世”、それより値段の安い”河岸見世”と、遊女の質も値段もさまざまあって、上は大名、豪商から、一般武士、農民、職人、商人などそれぞれの身分や経済力にふさわしい遊女を求めに、駕籠に乗ったり馬に乗ったり、舟を使ったりして、江戸の男達は吉原通いをしたのです。
 
乗り物を使うのは金持ちのお客達で、大部分のお客は歩いてきました。これを「吉原通い」と言います。

 <吉原行き おヨシさんの吉原行きはその周旋所で決まり、六年の年季奉公と四百円の前借金の取り決めが交わされました。それから、親の承諾書、戸籍抄本、遊廓に身を預ける理由、を記した書類が父親から周旋人に渡され、おヨシさんは吉原に行くことになりました。
 その日になると母親は、辛い目に遭わせるといって涙を流しましたが、18歳のおヨシさんは辛いとも悲しいとも思いませんでした。吉原に行って腹一杯ご飯が食べられるのが何よりもうれしかりたし、きれいな着物を着たり、ムシロではなく綿の入った布団に寝られるというのもありがたく、弟や妹たちの食べ物を減らす心配もなく、そしてそのどれよりも、父親のほっとしたような顔を見られたのがうれしかったのでした。これで、父親と母親に少しでも親孝行ができてよかったと思ったそうです。
 その朝、綿入れのはんてんを着た、汚れた顔の女の子が二人、駅に待っていて、一緒に東京に連れていってと周旋人に頼むんだそうです。「あんたたち、何歳か」と周旋人がきくと、「十二だ」と答える顔がどこから見ても子どもで、大きくなったら連れてくから、と言いきかせるのが一苦労だったのだそうです。子どもたちは、吉原へ行けぱいい着物が着られ、ごはんが腹いっぱい食べられるというのをどこからか聞いて、朝早くから駅に来て周旋人を待っていたのでした。汽車に乗ってからもおヨシさんは、子どもたちの汚れた顔やはんてんが目にちらついてならなかったそりです。
 こうしてお∃シさんの昔話を思い返していますと、おヨシさんはやはり家を救ったのだとも、おヨシさんの身売りしか家を救う方法がなかったのだ、とも思えてくるのです。あのころは、農業の技術も今のようには進んでいませんから、冷害に遭うと、農家はもう、ひとたまりもありません。家族がその日その日に食べるお米もありません。しかも、農家の救済制度もできていません時代でした。

 <年季明け> 年季があけると、花魁は警察に廃業届を出し、自由の身になります。貸座敷では赤飯を炊き、尾頭つきの魚でこれを祝ったものです。
 年季あけと同時に馴染みのお客と結婚する人も随分いました。相手は大工さんとか左官屋さんで、一緒にそば屋を始める、なんていう話も聞きましたが、花魁は貧しい家に育って小さいうちから苦労していましたし、見世にいても贅沢することがなく、辛抱がいいし、それに何より、所帯を持てたことがありがたくてならなかったから、一生けんめい旦那につくして、いい女房になったんだそうです。
 また、年季があけないうちに身受けをされる花魁もなかにはいました。まだ借金として残っている分を、身受けする旦那が全部支払って、自由の身にしてくれます。このときには、身受けをしてくれる旦那さんが、番頭さんから、おばさん、下新、膳部の人など、見世で働いている人たちに、ご祝儀を包んで、お赤飯に尾頭つきの”お披露目”の宴を張ったものでした。

 <吉原芸者> 昔といえば、もともと正式に芸者とよぶことができたのは、吉原の芸者に限られていました。昭和の初期には、柳橋、新橋、赤坂、日本橋、深川などの芸者衆は、吉原の芸者に一目おいて、吉原の芸者が白の半襟を使っていたので、色を少しかけた半襟にしていたものです。
 よく、芸者衆が「わたしたちが芸を磨いてこられたのは、花魁さんたちのおかげよね」と言っていますが、私もそのとおりだと思うんです。吉原には花魁という、身体を売る人たちがいましたから、芸者は芸だけを売ればいいので、その分、厳しく芸を磨くことができたのでした。
 芸がまだ一人前でないときは玉代が半分だというので、こういう人たちを半玉とよんでいましたが、この半玉が芸者として一人だちをするとき、お披露目をします。そのときには必ず旦那がつくものと思ってる方があるかもしれませんが、吉原では自前なんです。水揚げをしないんですね。ですから、道具や着物、お披露目の費用は借金をして、自分で作ります。
  ”褄(つま)をとる“という言葉がありますでしょう。これは芸者や花魁の着物は裾が長く、ひきずるので、手で、着物の裾を引き上げて、ひきずらないようにして歩くことをいいますが、右棲をとるのは、花嫁と寝所に行く花魁の着付。芸者は寝所とは縁がありませんから、それで左棲をとるというのでございます。
 芸者衆のことを”綺麗どころ”なんていいますけれど、実際は色香を売るのではなく、芸を売る人達ですから、お化粧も控えめ、服装なども花魁と違って地味でした。これは花魁をひきたてるためでもあったのです。「そのころの吉原芸者って、どんな感じだった?」って先日人さまから聞かれましたが、「そうねえ、花魁が匂うような牡丹なら、芸者は、凛とした竹ね」とお答えしました。

<吉原最後の日> 誤解があるといけないのでおさらいを、売春防止法は昭和32年4月1日から施行されました。ただし、刑事処分は一年後の33年4月1日からとなっていました。ですから、その前日33年3月31日が吉原の火が消えた日、と誰でも言いますし、落語家も小説家もそのように言ってきましたが、事実は違ったのです。何軒かの例外を除いて、吉原は33年2月28日に店を閉じたのです。俗に江戸時代一晩に千両落ちたという繁華街が金銭ずくでなく一月早く店を閉めたのです。その翌日から吉原は歩くのも恐い真っ暗な街に変貌してしまったのです。(09年4月追記)

この項、 「吉原はこんな所でございました」 吉原”松葉屋”女将・福田利子著(主婦と生活社)より抜粋

「青楼二階の図」歌川国貞画 文化10年(1813)3月 江戸東京博物館蔵


2.
吉原の言葉
■廻し
;この噺のポイントになる事で、一人の花魁が複数のお客を取る事。関西では廻しは取らなかったというが、関東では廻しを取るのが常識でした。上級の見世では1対1の豪遊が出来、花魁の部屋には家庭と同じ箪笥や火鉢があってご主人と女房という楽しみ方が出来た。当然朝まで同床して送り出してくれた。見世の格が下がると、お客を取っておきながら、忙しい時や気が乗らない時やいやな客の時は廻りきれなかった。同じ玉代で、廻ってくれなかった時は”振られた”という。 特に暮れや新年、お盆、直ぐ裏でおこなわれるお酉様、お花見時はラッシュアワーですから、時間待ちは当たり前、ゆっくりしたい時は「その時を外してね」と言われます。

大引け;お引けと言って、四ツ(午後十時)には大門が閉まって、以後は脇の潜戸を利用した。午前0時を中引けと言い、午前2時を大引けと言ったが、今考えると以外と早い時間に大門がしまったのですね。八ツ(午前2時)には見世も大戸を立てます。これが大引け、以後原則として客は取りません。この時鳴った時の鐘の音が”追い出しの鐘”と言われた。
 証券取引所で使われる、取引時間の最後を”大引け”と言うのはここから来ています。

上草履;見世は普通、2階に部屋があって1間(2m弱)巾以上の広い廊下があり、遊女達は草履を履いて行き来していた。その足音がパタリパタリと寝ずに待っている客達に響いた。その辛さはたまらなかったでしょうね。

妓夫;(ぎゅう)妓夫太郎、若い衆(わかいし)と呼ばれ客引きからお客の世話までこなした。歳を取っていても”若い衆”と言う。芸者さんでも、どんなに年取っていても、”お姉さん”です。たとえ歯がガタガタ言ってもです。客の支払いが足りないと家まで付いて行って集金までした。
 「宵に格子ですすめた牛(ぎゅう)は、今朝はのこのこ馬になる」と言われた。

玉代;(ぎょくだい)花魁との遊行費。一晩遊ぶと玉代+飲食費+おばさんや妓夫の心付けが必要であった。

裏を返す;一流の見世で遊ぶとき、
一会目を”初会”(しょかい)と言い、この時は挨拶だけで花魁はツーと帰ってしまう。
   「初会には壁へ吸い付く程座り」 (古川柳)。
   <お客は緊張して部屋の壁際に小さくなって、花魁の来室を待っていた。>
二会目を”裏を返す”といって、最初の時と同じように挨拶と少し長めのお話だけで、やはり帰ってしまう。
三会目”馴染み”になって、花魁がOKすれば初めて帯を解いてくれた。
   「帯ひもをといて付き合う三会目」 (古川柳)。
 これ以後は馴染み客になって、真夫(まぶ)気取りになって通いずめることになる。ただ、二流三流になると、はじめから遊んで貰えた。
 我々も赤提灯で遊ぶ時、最低3回以上通わないと、お馴染みさんと呼んでくれません。イイですか、初めて行って「この店は馴染みだ」なんて、絶対言ってはいけません。

青楼座敷」(三枚続き)豊国画 天明8年(1788) 東京国立博物館蔵 吉原大見世の二階大広間

 絵図の左に男衆が捧げて持っているのが、台屋から運ばれた料理です。鯛の生き造りが飾り物と一緒に盛りつけられています。高いんでしょうね、とは言いません、ここは粋の世界ですから。

 ここの広間で芸者、幇間をあげて、ドンチャン遊び、それから各花魁の部屋に流れていきます。直ぐに部屋に行きたがるのは無粋で野暮と言います。
 


  舞台の吉原を歩く

  ついに夜の吉原に侵入です。取材費が出ていないので、ま、表通りの外だけですが・・・。

 仕事の帰り道(断らなくても良いものを)早い時間の夜の吉原を見て(撮影して)来ました。
 人が歩いていません。シャッターが閉まっているお店があります。寒さのせいばかりでなく、世の中の寒さの影響も大いにあるでしょう。ある店の客引きが言ってました「まだ一人も入っていない」と、まだ夜の7時頃ですが、外の北風のように冷たい風が吹いています。やたらと空車のマークを付けたタクシーが目立つ吉原です。それにしても土曜日の夕方、”冷やかし”すらいません。

 吉原の街はおおざっぱに言って、大門(おおもん)から入って手前半分がネオン輝くお風呂屋さん街(判らない人は男の人に聞いてください。私はシャイですから説明しません)になっていて、奥の半分はマンションや商店が建ち並ぶ普通(?)の町に変貌しています。昼間はランドセルを背負った子供達が歩いていますが、夜になると歩行者が絶え、歓楽街には不釣り合いの暗さになります。

 この吉原の中に男女5人組の新社会人らしきグループが紛れ込んでいます。女の子も男子も喜々としてネオン街を眺めています。時代が変わったのでしょうか。心配になります。
 で、声を掛けました。「何しに来たの」、この声にいぶかしそうな視線が走りました。カメラを持って撮影している私を見て、初めて同類と見てくれたのでしょう。「こやつは、客引きでも、(~_~メ)でもないな」と 。安心した顔になり「見返り柳前の老舗『天麩羅屋』で食事をして、探索にこの中に紛れ込んできた」のだと言います。「ここがどういう所だか知っていますか?」、「知ってま〜す」女の子が楽しそうに言いました。「分かっていらっしゃるのなら見学する所ではないので、早くここから出た方が良いですよ」、「雷門はどちらですか」。あらら、何も分かっていない若者達なのです。「今、食事をした通りまで戻ってタクシーを拾うかバスに乗りなさい」と言うのが精一杯です。見返り柳まで送ってさよならしましたが、明るい時ならいざ知らず、知っているとは言いながら、何も知らない若者に恐怖心さえ覚えます。

 今の吉原は札幌の”すすきの”なみの開けた歓楽街になっていたのでしょうか。私の認識が古いのでしょうか。
吉原のペナントには”安全で安心な街 よしわら”と、うたっていますが。
 

地図

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写真

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吉原の夜(台東区千束4)
衣紋坂(五十間通り)。土手通りの見返り柳から入ってきて、突き当たりが大門跡。突き当たりパトカーが止まっている所が交番で、松葉屋跡(茶のタイル張りマンション)です。
衣紋坂はS字形に曲がっていました。それは直接吉原が覗けないようになっていたのです。公衆トイレが外から直接、中が覗けないのと同じです。

吉原の夜
大門(おおもん)前。中央の通りが仲之町(仲之町通り)で、吉原一番のメインストリート。どうしたんでしょうね、冷やかしすらいません。右手前(写真外)が松葉屋跡です。
道路は普通蒲鉾型になっていて両脇に下水が走っています。当時の吉原は道路の真ん中がくぼんでいて、雨水は中央に集まってきますので、そこに下水が一本走っていました。

吉原の夜
松葉屋跡を背中に写真を撮っています。仲之町の奥を覗いています。
吉原は地図を見ると判るように碁盤の目になっていますが、その道は南北を指さず45度傾いて郭が出来ています。これは、見世でどの様に布団を敷いても、北枕にならないのです。

吉原の夜
入って右側の江戸(町)一丁目を仲之町から覗いています。
吉原中央のメインストリートは歩道が付いています。そこから枝分かれした道には、歩道はありません。

吉原の夜
入って左側の上記反対方向、江戸(町)二丁目を仲之町から覗いています。
お店の前には客引きのお兄さんが立っていますが、店の前を通過すると、袖をつかむような深追いしたり、隣店まで越境する事は有りません。しかし、次の店のお兄さんから声が掛かります。

吉原の夜
千足4丁目交差点(吉原中央)の仲之町から今来た大門方向を見ています。
お兄さん達は、銀座の宝飾店に立っているドアマンのように、愛想は凄く良く、キビキビとお客をこなしていきます。

吉原の夜
千足4丁目交差点(吉原中央)から横を覗いた所ですが、右か左かどちらだか似た光景なので判らなくなっています。
ネオンの瞬く街は旧吉原のここまで。その先は水道尻といわれ、突き当たりでしたが、今は吉原神社やお酉(とり)様が行われる鷲(おおとり)神社に抜ける事が出来ます。また、遊郭を取り巻いていた掘も有りません。

                                                                  2009年2月記

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