落語「居残り佐平次」の舞台を歩く

   落語「品川心中」の舞台を歩く

 

一.「居残り佐平次」 
 円生の落語で聞きたい噺をある落語フアンクラブでアンケートしたら1位「御神酒徳利」、2位「掛け取り漫才」、3位にこの「居残り佐平次」となった。そのぐらい円生の出来は良かった。

 六代目三遊亭円生の「居残り佐平次」(いのこりさへいじ)によると、

 品川の遊郭(貸座敷)で4人の仲間と安すぎる割まい1円ずつ出し合ってどんちゃん騒いで、朝早く帰ってくれと言い出す。その金を母親に渡し佐平次だけが居残るという。自分は体が悪く、ここ品川の貸座敷で転地療養をするという。翌日勘定催促に来た若い衆を煙に巻いて、朝湯に行ってしまい、戻ってくると酒の催促と「荒井屋の中荒(中串)かなんかとって貰おうじゃないか、白焼きでこうやって、それと蒲焼きを、それを熱いおまんまの上に乗せてウナ茶漬けなんかでやろうじゃないか」と。
 裏を返しに4人は金を持って遊びに来るのを、こうやってつないで待っていると、また騙して遊び。次の日、銭がないと言い出し自分から布団部屋に引き下がり”居残り”を始めるが・・・。

全編要約文


二.「品川心中」
 五代目古今亭志ん生の「品川心中」(しながわしんじゅう)によると、

 品川新宿(しんしゅく)には有名な貸座敷、土蔵相模(どぞうさがみ)、島崎、お化け伊勢屋などが有った、と言っている。
 噺では白木屋の板頭の”お染”は紋日前だというのに移り替えが出来ず思案の末、死のうと思ったが、ただ死ぬのでは金が無くて死んだと言われるのもしゃくだから、心中ということで相手を捜すと、貸し本屋の金蔵さんが候補に挙がり、呑んだり食ったりいろいろ最上のサービスでもてなしたが、金蔵さん・・・。

全編要約文

右図;「貸本屋」七福神大道伝より 国立国会図書館蔵 貸本屋の金蔵さんは、普段仕事ではこの様な格好でお得意を回っていた。粋な商売だと言われた。2010年追記

 



1.品川新宿

「東海道分間絵図」菱川師宣画 中央右小橋の所が品川新宿本陣、川は目黒川。右側上部に泉岳寺

 東海道五十三次の最初の宿場、品川新宿(しんしゅく)は第一京浜から八ツ山橋を渡り、旧東海道を下ると、歩行新宿(かちしんしゅく、北品川1丁目)、北品川宿(北品川2丁目)、目黒川を渡って南品川宿(南品川1丁目)の三区画に分かれていて、約1.5キロメートルの長さがあった。板橋、千住、内藤新宿(しんじゅく)の四宿のひとつで、官許の吉原の”北里”または”北国”と対抗し”南郭”または”南国”、単に”南”と称して、幹線街道の東海道の最初の宿駅として栄えた。


品川青楼遊興」(三枚続き)豊国画 寛政年間 東京国立博物館蔵

 遊女屋は旅籠屋、遊女は飯盛り女として届けられていた。江戸時代末の最盛期には約90軒の貸座敷があり、千人以上の飯盛り女が居た。関東大震災の時も被害が出ず盛況したし、昭和の初めには貸座敷は43軒あった。戦後も八ツ山橋よりが一部被災したが復興し面影を残したが、しかし、残念ながら(?)昭和33年3月に売春禁止法が施行されてから、この遊里も消滅した。         


品川潮干狩りの図」(三枚続き)広重画 女も子供も遠浅の海岸で貝捕りを楽しんでいます。

品川の海;品川は遠浅で潮干狩りが楽しめる海でした。金さんがカナズチであろうが、絶対に水死するような深さはなかった。水平になってもがき苦しんでも、立ち上がれば、上図のように膝小僧までの水位だった。

白木屋;裏の海岸に海から舟で来る客のため、桟橋を備えていた貸座敷は「島崎楼」しか無く、ここが舞台であったのであろう。また、「居残り佐平次」の舞台もここだと言われています。
          
板頭;吉原以外の遊女屋(貸座敷=女郎屋)でナンバーワンを張っていた遊女。吉原では御職(おしょく)と呼ばれたが、後には岡場所でも言った。
        
紋日(もんび);もの‐び【物日】ともいわれる。
(1)祭日・祝日など特別な事の行われる日。

(2)遊郭で、五節句(一年五度の節供。人日(じんじつ=正月七日)・上巳(じょうし=三月三日)・端午(たんご=五月五日)・七夕(しちせき=七月七日)・重陽(ちょうよう=九月九日)の称。)などの祝日や、毎月の朔日(ついたち)・十五日など特に定めてあった日。この日は遊女は休むことが許されず、休むときは、客のない場合でも身揚(ミアガリ)(水揚げ分を身銭を切って納める事)をしなければならなかった。紋日。売り日。役日。(広辞苑より)
           
移り替え;季節の衣替え。この日は遊女達にご馳走し、祝儀をはずんで、初めて衣替えが出来た。逆に言うと、40両以上の金が掛かり、若いときはスポンサーがいろいろ都合してくれたが、三十を越えるとなかなか思うようには出来ず、若いこ(遊女)達はとっくに移り替えを済ませているのに、有力な客の居ないこ(遊女)は何時までも今までの着物で居なければならなかった。それは彼女たちの最大の屈辱であって、何が何でも季節の衣替えが必要であった。

■噺の中に出てくる「荒井屋」は歩行新宿に有って、品川だけでなく、芝あたりまで江戸前の味との評判が高かった鰻屋。当時八ツ山橋から島崎楼との中程に有り、客はその前を通り、島崎楼に入った。今も北品川1−22−4で鰻屋として盛業中。箸袋の裏に”落語「居残り佐平次」で語られています荒井屋のうなぎを御召しあがり下さい”と印刷されていた。

         
2.「居残り佐平次」のオチについて。元来のオチは「ひとをおこわにかけやがって」と主人が怒ると、若い者が「旦那の頭がごま塩だから」と落とす。
 この「おこわ」は赤飯(せきはん)のことで、「おこわにかかる」は人をだます。一杯くわせることで、赤飯のごま塩と御主人の白髪混じりの頭とをかけたものだが、現代では分からないオチの一つになってしまった。(私も分からず、国語辞典を引いてしまった)
 立川談志はこのオチを、主人が表から返すというので、「あんなやつ裏から返したらどうなんです」と若い者が言うと、主人は「あんなやつに裏を返されたらあとが怖い」と変えた。上のオチより数段あか抜けして分かりやすい良いオチになった。
 ここでも解説、水商売で遊ぶとき、初めての時は「初会」、二度目に行くことを「裏を返す」、三度目からが初めて「なじみ」となって、常連さんとなる。この事にかけて二度もこられたら大変だという旦那の気持ちが伝わってくる。このオチも昭和33年3月に吉原が無くなって40年以上経つ今、若者には通じづらくなってきた。
 郭の世界で使われる言葉、事象がますます遠いものになってきた。残念。
 


  舞台の品川新宿を歩く
 


東海道五十三次之内 品川」 安藤広重画 日本橋から約8km、朝焼けの中の品川宿入口

 JR線または京浜急行 「品川」 駅で降り国道1号線に沿って八ツ山橋の上へ。八ツ山橋と言っても、下に川が流れているわけでなく、流れているのはJRの線路で、東海道本線、京浜東北線、横須賀線、山手線、新幹線が平行して走る大動脈です。
 ここから右側の道路を入ると、旧東海道、品川宿の入り口です。京浜急行の踏切を渡るとそこは商店街。道幅も昔のままで狭いが、当時とすれば大変広かったのであろう。品川宿はここから1km以上続く大きな宿場町だが、今は宿場町としての面影は無い。きれいに整備された一方通行の道路と商店街が続くが寂しそう。地元の人に聞くと、やはり遊郭が有った時で、今は当時の賑わいは当然無い。しかし、遊郭は無くなったが当時から続く和菓子屋、下駄屋、仕出し屋、雑貨屋、料理屋等がその当時の場所で今も営業を続けています。
 また、京浜急行の終点が今の北品川(品川宿の入口)で止まっていたが、JRの品川まで伸延されてからは、下車客は無くなり人の動きもなくなった。それが一番の衰退原因だと地元の人は言います。

 踏切を渡り家数で7,8軒先の左手海側、料理屋「ほ志乃」(元料理屋「三徳」)、隣のクリーニング店元 日本料理の台屋「松田屋」。台屋とは仕出をしてくれる料理店、楼閣に料理を出前をした)が有った所。その隣、小さなマンション(北品川1−3−19大沢ビル)の所に噺の主役「島崎楼」が有った。間口は大して広くなかったが奥行きがあり当然海際まで有った。土地を切り売りしたせいか、今その奥は大きなマンションが建っている。
 その先路地を越えて同じく左手に見えるファミリーマートの手前「ローヤルガーデン品川」マンション(北品川1−22)が「土蔵相模」(ファミリーマートが跡だと説明していましたが訂正します)跡です。この辺りに楼閣が特に多く引手茶屋も有った。有名な遊郭の多かった所は歩行新宿(かちしんしゅく、北品川1丁目)で、北品川宿、目黒川を渡った南品川宿には、宿は沢山あったが楼閣は数えるほどしかなく、大見世(おおみせ)は無かった。北品川宿には本陣を構え、品川宿の中心を成していた。本陣跡は「聖蹟公園」として活用されています。

 「品川心中」の心中し損なった金蔵さんが這い上がってくる
”八ツ山”(噺によっては隣りの芝の海岸)は八ツの頂があった山で、今の八ツ山橋から第1京浜国道の向かい側まで有ったが、削り取られJRは川底みたいな所を走っているし、国道は平らな所になってしまい面影はなく、名前だけが残っている。その土は外国の”黒船”から江戸を守るための、お台場になった。当時は御殿山(左図:北斎)と並び樹木の半分は桜で、その為、桜の名所として有名だった。今はマンションや橋梁、交差点名にその名を残しています。

 この品川宿を書くにあたり歴史的部分、楼閣の場所の確定、及び当時の写真は秋山勝三著「品川宿遊里三代」青蛙房、及び「品川遊郭史考」品川三業組合発行から引用または参考にさせていただいた。感謝。また品川区教育委員会の資料により、厚みの加わった事に感謝。御礼。

 2009年、品川新宿は明るさを取り戻したように見受けられます。内情は分かりませんが、シャッター通りの悲惨な商店街と違い、元気があります。
 また、JR品川駅東側の再開発工事が完了し、一大高層ビル群の誕生となりました。品川駅そのものも、新幹線の最初の停車駅となり、東京駅まで戻ってから関西方面に出かける余分な手間暇が無くなりました。
 東海道の最初の宿場町として栄えた品川も、現在では産業、経済を支える大手企業の集中する街に変貌しています。

地図

    地図をクリックすると大きな地図になります。

写真

それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。2000年頃の撮影

八ツ山橋のプレート
この橋を渡り旧東海道の品川宿に入ります。
金蔵さんが這い上がってくる”八ツ山”はこの辺りで有ったのであろうか。
「島崎楼」の後に建つマンション(大沢ビル,北品川1−3−19)。
左の写真をクリックすると当時の島崎楼が見られます。
「土蔵相模」跡(北品川1−22)
左の写真をクリックすると当時の相模楼とそこの遊女の浮世絵が見られます。ファミリーマート手前。
旧東海道の下にあった海岸(目黒川の一部)が今でもわずかだが船溜まりとして残っている。
真正面4階建ての白いマンションが元「相模楼」跡。
廓の下に広がっていた遠浅の江戸湾は現在運河の突き当たりになっています。上記場所から写真を撮り直しています。目線は少し右側を見ています。
 今は品川駅東側が再開発されて、遠景には高層ビル群が写っています。手前の船溜まりは昔ながらの風情を残しています。
2007年8月撮影、追記。
「居残り佐平次」で「荒井屋の中荒(中串)かなんかとって貰おうじゃないか、白焼きでこうやって、それと蒲焼きを、それを熱いおまんまの上に乗せてウナ茶漬けなんかでやろうじゃないか」と佐平次が言う台詞があるが、その荒井屋(北品川1−22−4)が2,3引越の後ここに移り昔通り鰻を焼いている。
鰻もビールも親父もよかった。
上記の荒井屋さんは閉店して世代が変わってしまいました。
今は「連」という食事と飲み物が楽しめます。
2007年8月撮影、追記。
旧東海道、宿場町から海側へはダラダラっと坂道で下って海に出ます。今は海は埋め立てられて道になってしまいましたが、往時の地形が残っています。
2007年8月撮影、追記。

                                                 初版:1999−2000年頃記
                                                 全面改訂版:2009年6月記

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