落語「真景累ケ淵・宗悦の長屋」の舞台を歩く
三遊亭円生の噺、圓朝作怪談「真景累ケ淵・宗悦の長屋」(しんけいかさねがふち・そうえつのながや)によると。
2.真景累ケ淵(しんけいかさねがふち)
1.「宗悦の長屋」;真景累ケ淵の発端の噺。昭和34年の円生・落語研究会での録音から。 原文1〜5章 2.「深見新五郎」;深見の長男新五郎は江戸に戻って、家の状態を知り命を絶とうとするが、質屋の下總屋惣兵衞に助けられる。そこでよく働き信用も着いたが、女中のお園(宗悦の次女)が働いていた。新五郎はお園に気があったが、お園は虫ずが走って嫌がった。 3.「豊志賀の死」;根津七軒町に住む富本の師匠豊志賀は、三十九で男嫌いだが、出入りの二十一になる煙草屋新吉と年が離れているがいい仲になる。実は豊志賀は宗悦の長女・志賀、新吉は深見の次男。弟子の若いお久との仲を邪推したせいか、顔に腫物が出来、どんどん腫れてくる。看病に疲れた新吉が、たまたま外でお久と出くわす。鮨屋の2階に上がると、急にお久の顔が豊志賀のようになり、あわてて勘蔵の家に戻ると豊志賀が来ている。勘蔵にしっかり看病するように小言され、駕籠に乗せて戻ろうとすると、豊志賀が死んだという報せ。そんな事はないと駕籠を見ると無人。豊志賀の家には、新吉の妻を7人まで取り殺すという書き置きがあった。 15〜20章
4.「お久殺し」【土手の甚蔵】;8月、豊志賀の墓参で出会った新吉とお久、その場で下総へ駆け落ち。日が暮れた鬼怒川を渡ると累ヶ淵。お久が草むらの鎌で足を怪我し、手当てしていると豊志賀の顔になった。新吉は夢中で鎌でお久を惨殺。雷雨が襲ってきた、殺人を目撃した土手の甚蔵(じんぞう)と格闘、落雷の隙に逃げた。逃げ込んだ家がその甚蔵の家。兄弟分になったので打ち明けろと言うので話をすると、甚蔵は強盗だと思ったのが新吉は文無しと知り落胆する。 21〜26章
5.「お累の婚礼」;お久の葬儀が村の宝蔵寺であったので影ながら墓参をする。そこで出会った江戸から戻った二十位のお累が江戸者の新吉に恋慕。実はお累はお久の従姉妹で、父親は宗悦の死骸を捨てた三右衛門であった。甚蔵は、質屋三蔵の焼き印がある鎌をネタにお累の兄・三蔵から10両強請(ゆすり)取る。その晩、お累の部屋にヘビが出て、逃げた拍子に煮え湯で顔に大やけどを負う。新吉をお累の婿にという縁談が成立。しかし甚蔵は、新吉に借金があると30両を三蔵からまただまし取る。婚礼の晩、お累の顔の変わりように驚くが、これも豊志賀の因縁と心改める。その晩ヘビが出てお累の元に這ってきて、煙管で頭を叩くと消えた。お累は怖さで新吉にしがみついた。たった一晩でお累が身重に。
27〜32章 6.「勘蔵の死」;お累と夫婦仲も良かった。勘蔵が危篤との報せが入った。8月26日江戸に出て勘蔵の前に座った。勘蔵は、新吉が深見家の次男で私が伯父と言って育ててきた。また、新五郎という兄が居るという。胸の支えも取れて、カツオで熱いご飯が食べたいという。数日後眠るように大往生した。 7.「お累の自害」;お累に嫌気がさしお賤(しず)と密通。都々逸に「浮き名立ちゃそれも困るし 世間の人に知らせないのも惜しい仲」。お累からやんわり忠告するが乱暴して聞き入れない。お累は「女は亭主に付くもの別れません」と、お累に三蔵は30両の手切金で縁切り。その金で遊び続ける新吉。 8.「聖天山」;新吉は三蔵の仕送りも絶え家も売り払ったが、村の爪弾きになっている。ちょくちょくお賤の家に転がり込んでいた。情がある事の証拠に、お賤の頼みで新吉は名主の惣右衛門を細引きで首を絞め、絞殺。遺言状にお賤には金を付けて江戸に返して、新吉は一人で湯灌をすることになった。首のアザを隠すためだが、湯灌を手伝った甚蔵が二人の殺人に気づいた。そのまま遺体を埋葬した。博打で大負けしたので甚蔵はお賤に金の無心にやって来た。30両の無心で、夕方金は持参するとひとまず返した。二人で相談した結果、お賤にたきつけられ、新吉は聖天山(しょうでんやま)に金を埋めたと偽り、2人で掘りに行く。スキを見て甚蔵を崖から突き落とす。お賤の家に戻って安心していると、手負いの甚蔵が襲いかかった。これをお賤が鉄砲で射ち殺した。 46〜53章
長い噺の中程になります。円生はここまでしか演じていませんが、後半も同じ分量で地元での因縁話が延々と続いていきます。 ★登場人物が入り乱れて劇中を歩き回りますが、皆様は分かりましたか。ここで再度紹介しておきましょう。
★一話、一話が60分を超える長編で、これをまとめるだけで数話分のエネルギーを使ってしまったような感覚です。それも落とし話ではなく怪談ですから、気が滅入る事はなはだ大きく、疲れも溜まります。また、円生は圓朝の速記を下敷きにしていますが、中に間違いがあって円生が修正して演じています。ライブでお客様が入ったホール落語の録音と筋が違うのが分かります。ここでは円生百席から採っていますが、当然速記本とも違いがあります。
3.根津七軒町 ■喜連川(きつれがわ)様のお屋敷;五千石・喜連川左馬頭様のお屋敷(現在の台東区池之端2−1忍岡小学校北側)その脇に秋葉の原があった。 ■小日向服部坂(こひなた_はっとりざか);小日向水道町に千二百石・服部権太夫の屋敷が有ったので服部坂。そこに深見新左衛門の屋敷があった。現在の文京区小日向2−16元第五中学校を横切っている坂。小日向神社に抜ける坂道。 ■谷中日暮里の青雲寺(せいうんじ);荒川区西日暮里3−6、恵比寿を祀る谷中の江戸百景の一つ、いつも季節の花々が咲き誇っていたところから別名花見寺とよばれている。隣、修性院には、谷中七福神中唯一実在の人物で9〜10世紀の中国にいた禅僧「布袋様」が祀られている。落語「心中時雨傘」で訪問したお寺さん。 ■深川網打場(ふかがわ_あみうちば);深川岡場所で有名だった所の一つで、網打場(江東区門前仲町1−13)と呼ばれた所。お熊はここで働いていた女。詳しくは落語「おさん茂兵衛」の岡場所を参照してください。 ■下谷大門町(したや_だいもんちょう);勘蔵が深見の二歳になる次男新吉を連れて行った所。下谷大門町という地名はなく、上野北大門町及び、上野南大門町が見受けられます。貧しい長屋住まいだと言う事ですので、下谷長者町の隣、上野南大門町の間違えではないでしょうか。現在の台東区上野三丁目6〜7にあたります。
4.言葉
■小普請組(こぶしんぐみ);禄高2百石以上3千石以下の役職がない旗本および御家人。元来は幕府に建築・土木の造営、小修理があったとき人足を出して工事を助けたのが、人足の代わりに禄高百石から小普請金を納めた。
■葛籠(つづら);衣服を入れる、アオツヅラの蔓で編んだかご。後には竹やヒノキの薄板で作り、上に紙を貼った。つづらこ。
5.累ケ淵
累の話は、江戸時代初期、常総市を舞台に60年にわたって繰り広げられた、親が子を、夫が妻を殺害に至るという陰惨な出来事で、最後に死霊となって取り憑いた累と助を、当時、飯沼弘経寺(ぐぎょうじ)の遊獄庵にいた祐天上人が法力を以ってこれを除霊したというのであるが、日本版「エクソシスト」の話が怪談ものとして広く世に知られるようになったのは、150年後の「色彩間苅豆」が上演された文政4年(1821)のことといわれます。 舞台の池之端七軒町と小日向服部坂を歩く 皆川宗悦・志賀・園がひっそりと暮らしていた地が池之端七軒町です。上野・不忍池西端にあり、東の上野公園、西の東京大学に挟まれた谷間の街で、北には根津神社があります。不忍池と池之端七軒町の境を走る道路が不忍通りですが、当時は無く七軒町の街中を曲がりくねって縦断していました。この七軒町の町屋の中に親子が住んでいたのです。 皆川宗悦が殺された深見新左衛門の屋敷があったのが、小日向服部坂上です。服部坂は、坂の上左側にあった服部権太夫屋敷があったのでこう呼ばれています。この屋敷の後地に明治2年小日向神社が移転してきました。坂の上り口は第五中学校(注)の校舎と体育館に挟まれていますので、坂上を学校専用の歩道橋が連絡しています。自転車でも降りて通る急な坂道ですが、上がりきって小日向神社を左に見ながら道なりに曲がると、その先は嘘のように平らな場所に出ます。住宅街のど真ん中という感じで、深見新左衛門が刃傷沙汰を起こしたなんて想像すら出来ない穏やかな住宅地です。
神田川まで戻り古川橋を渡って、江戸川橋に向かいます。神田川は別名江戸川とも呼ばれ橋の名も江戸川橋と言います。橋を渡って川に沿って西に江戸川公園の中を歩きます。この神田川は江戸市中に水を供給する為に開削された神田上水で、この先に水を分流した取水口跡があります。この町を関口と言い、先程の坂下の街を水道(町)と言います。取水口跡(右写真)は明治34年に廃止され、現在は遺構としてその形を留めています。神田川には多くの鯉が群遊していて、両岸には桜が植裁されていますので、お花見の時分は素晴らしい景観になる事でしょう。 それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。 2010年8月記 |