落語「真景累ケ淵・宗悦の長屋」の舞台を歩く
   

 

 三遊亭円生の噺、圓朝作怪談「真景累ケ淵・宗悦の長屋」(しんけいかさねがふち・そうえつのながや)によると。
 

 根津七軒町に住む五十六七になる鍼医(はりい)・皆川宗悦が住んでいた。金貸しもしていて五両一分で貸し付けていた。この小銭が貯まっていくのを楽しみにしていた。女房は亡かったが姉十九・志賀(後の豊志賀)、妹十七・園の二人がいた。

 12月20日朝から雪が降りそうな天気であった。娘が引き留めるのを、小日向服部坂に住む小普請組・深見新左衛門宅へ借金の取り立てに行った。新左衛門は酒が切れない飲み方で、その上酒癖が悪かった。貧乏していて、すり切れた畳の上で一杯やっていた。3年越しのお金だから日を切って返済の目処を立てて欲しいとの要求に、払えないの一点張り。お互い言葉が先走り、「殺すなら殺してみなさい」、その気は無かったが、大刀を引き抜き宗悦を斬り殺ろしてしまった。
 驚いた新左衛門は下男に葛籠(つづら)を買いにやり、死体を油紙に包んで、それに入れ、用人の三右衞門に言い含め5両の金を持たせ死体を捨てた後は在の下総に帰るように言いつけた。

 葛籠を背負って、雪が降り始めた町中に出たが、ウロウロしていると根津七軒町の喜連川(きつれがわ)様のお屋敷の手前に、秋葉(あきは)の原があって、そこの自身番近くに捨てて逃げてしまった。
 雪も止んだ翌朝、近くに住む上方の欲張りがそれを自分の物にしたく、家主に引き取り書を書いて貰い、自分の長屋に持ち込んだ。夜になるのを待って開けようと酒を飲んでいたが酔っぱらって寝込んでしまった。
 それを見ていた隣の駕籠屋二人組が夜それを持ち出した。二人で山分けにするから、良い悪いは別に順番に取り出せば恨みっこ無しと、暗い中葛籠の中に手を入れた。油紙が出てきて不思議がっていたが、頭があった。カツラだよ、顔のようだよ、能面で高価なものだよ。しかし、出てきたのは血だらけの宗悦の死骸。ビックリして飛び出す二人組に、目を覚ました上方者が「葛籠がな〜ぃ、ドロボウ〜〜!」。
 長屋者がそろって、駕籠屋の部屋を覗いて見ると葛籠があった。中を改めると宗悦の死骸。近くに住む宗悦の娘に知らせが入り、死骸を引き取った。
 これから訴えになりましたが、葛籠にしるしも無い事でございますから何者の仕業とも知れず、大家さんが親切に世話を致しまして、谷中日暮里の青雲寺(せいうんじ)へ野辺送りを致しました。これが怪談の発端でござります。宗悦の祟りで深見の家が潰れ、おいおい因縁が絡んで怪談になっていきます。


上図;「葛籠を担ぐ男」熈代照覧部分 中央を歩く男の担ぐ荷物が葛籠。右の按摩が面白い。


 
1.三遊亭圓朝
 初代三遊亭圓朝(さんゆうてい えんちょう)、(天保10年4月1日(1839年5月13日) - 明治33年(1900)8月11日)は、幕末から明治期に活躍した落語家。本名は出淵 次郎吉(いずぶち じろきち)。
右図:「圓朝肖像」 岩波文庫「真景累ケ淵」より
 圓朝による新作落語は極めつきの名作ぞろいで、現代まで継承されています。圓朝が活躍したのは明治で、古典落語の代表とされる「芝浜」と「文七元結」、「お若伊之助」「札所の霊験」「心眼」「福禄寿」「元犬」「黄金餅」「親子酒」「大仏餅」「鰍沢」、怪談では「怪談牡丹燈籠」、この噺「真景累ヶ淵」「怪談乳房榎」、また「双蝶々」「江島屋騒動」「心中時雨傘」「塩原多助一代記」「安中草三」「操競女学校」などを創作した。また海外文学作品の翻案は「死神」「名人長二」があります。私のホームページにも多くの圓朝作品が有るのが分かります。
 大看板となった圓朝は、朝野の名士の知遇を得、禅を通じて山岡鉄舟に師事した。茶道、建築、築庭、歌道、和歌、俳句、書画、骨董(目利き)等に才能を発揮し、幽霊画の収集(台東区・全生庵で収蔵)でも名をはせた。
圓朝、本所での住まいは、第48話「お若伊之助」にあります。
新宿での住まいは、第8話「文違い」にあります。
墓は全生庵(ぜんしょうあん、台東区谷中5−4−7)にあります。第48話「お若伊之助」に写真があります。
 二代目がいますが、襲名前に亡くなってしまったので、実質圓朝と言えば、出淵の圓朝だけを指します。


2.真景累ケ淵(しんけいかさねがふち)
 旗本が金貸しで鍼医の皆川宗悦を切り殺したことを発端に両者の子孫が次々と不幸に陥っていく話(下記落語概要1〜8の部分)と、後半名主の妻への横恋慕を発端とする敵討ちの話を組み合わせています。全97章から成る長編怪談。安政6年(1859)の作で二十一歳円朝の処女作と言われています。当初の演目は「累ヶ淵後日の怪談」。明治20年(1887)から21年にかけて、小相英太郎による速記録がやまと新聞に掲載。題名も「真景累ケ淵」とし明治21年に単行本が出版された。真景=神経を掛けています。
 円生の落語、「円生百席」(CBS-SONY)から粗筋を追うと、

1.「宗悦の長屋」;真景累ケ淵の発端の噺。昭和34年の円生・落語研究会での録音から。 原文1〜5章
通常ここで終わらず、宗悦殺しの終わりまで演じられて「宗悦殺し」と言う演目になります。
 【宗悦殺し】年が変わって、深見の奥方は宗悦の死から体調優れず、深川網打場からお熊を仲働きに採用。お熊に手が着いて妾状態で懐妊。深見の妻が鍼治療アトが悪化、12月20日久しぶりに来た按摩が、治療中宗悦の姿に見えた。思わず斬りつけると妻だった。按摩は何処にも居なかった。
 深見は刀を抜いて隣家に乱入、その騒動で殺され、家は改易。お熊は産んだ子と深川へ。門番の勘蔵は深見の二歳になる次男新吉を連れて下谷大門町へ散った。 6〜8章

2.「深見新五郎」;深見の長男新五郎は江戸に戻って、家の状態を知り命を絶とうとするが、質屋の下總屋惣兵衞に助けられる。そこでよく働き信用も着いたが、女中のお園(宗悦の次女)が働いていた。新五郎はお園に気があったが、お園は虫ずが走って嫌がった。
 お園はたまたま病気になって、寝ていたが新五郎はかいがいしく看病をした。全快したその部屋に忍び込んで情を交わそうとしたがダメであった。後日蔵の奥に香の物を取りに行った暗がりに新五郎が忍び寄ってお園を押し倒して上から押さえつけると、下にあった押し切りに身体を切られ、お園は絶命した。ヤケになって刀と店の100両を盗んで逃亡。仙台に身を隠していたが3年後江戸に戻り、本所松倉町で武家時代世話をしていた下働きの家を探し当て、ワラジを脱いだ。そこの女房が鰻を誂えるからと出掛け、手先の亭主に知らせ、捕り物になるが2階から逃げようと飛び降りる、とそこに有った押し切りで足を切り捕まってしまった。お園の命日であった。 8〜14章

3.「豊志賀の死」;根津七軒町に住む富本の師匠豊志賀は、三十九で男嫌いだが、出入りの二十一になる煙草屋新吉と年が離れているがいい仲になる。実は豊志賀は宗悦の長女・志賀、新吉は深見の次男。弟子の若いお久との仲を邪推したせいか、顔に腫物が出来、どんどん腫れてくる。看病に疲れた新吉が、たまたま外でお久と出くわす。鮨屋の2階に上がると、急にお久の顔が豊志賀のようになり、あわてて勘蔵の家に戻ると豊志賀が来ている。勘蔵にしっかり看病するように小言され、駕籠に乗せて戻ろうとすると、豊志賀が死んだという報せ。そんな事はないと駕籠を見ると無人。豊志賀の家には、新吉の妻を7人まで取り殺すという書き置きがあった。 15〜20章
右図;やまと新聞に掲載された予告の押し絵。大蘇芳年画。岩波文庫「真景累ケ淵」より。一番怪談らしい場面です。

4.「お久殺し」【土手の甚蔵】;8月、豊志賀の墓参で出会った新吉とお久、その場で下総へ駆け落ち。日が暮れた鬼怒川を渡ると累ヶ淵。お久が草むらの鎌で足を怪我し、手当てしていると豊志賀の顔になった。新吉は夢中で鎌でお久を惨殺。雷雨が襲ってきた、殺人を目撃した土手の甚蔵(じんぞう)と格闘、落雷の隙に逃げた。逃げ込んだ家がその甚蔵の家。兄弟分になったので打ち明けろと言うので話をすると、甚蔵は強盗だと思ったのが新吉は文無しと知り落胆する。 21〜26章 

5.「お累の婚礼」;お久の葬儀が村の宝蔵寺であったので影ながら墓参をする。そこで出会った江戸から戻った二十位のお累が江戸者の新吉に恋慕。実はお累はお久の従姉妹で、父親は宗悦の死骸を捨てた三右衛門であった。甚蔵は、質屋三蔵の焼き印がある鎌をネタにお累の兄・三蔵から10両強請(ゆすり)取る。その晩、お累の部屋にヘビが出て、逃げた拍子に煮え湯で顔に大やけどを負う。新吉をお累の婿にという縁談が成立。しかし甚蔵は、新吉に借金があると30両を三蔵からまただまし取る。婚礼の晩、お累の顔の変わりように驚くが、これも豊志賀の因縁と心改める。その晩ヘビが出てお累の元に這ってきて、煙管で頭を叩くと消えた。お累は怖さで新吉にしがみついた。たった一晩でお累が身重に。  27〜32章

6.「勘蔵の死」;お累と夫婦仲も良かった。勘蔵が危篤との報せが入った。8月26日江戸に出て勘蔵の前に座った。勘蔵は、新吉が深見家の次男で私が伯父と言って育ててきた。また、新五郎という兄が居るという。胸の支えも取れて、カツオで熱いご飯が食べたいという。数日後眠るように大往生した。
 下総への戻り道、菊屋橋で雨が強くなり駕籠で亀有へ向かうが、うたた寝をしている間に駕籠が小塚原へ着いた。道が違うので千住で泊まるからやってくれと頼んだが、駕籠屋の大きな声で目を覚ますと小塚原であった。駕籠を降りて歩き出すと男に呼び止められて落とし物だと迷子札を差し出された。その男は兄新五郎だった。世話になっている三蔵は私と白州で争った仲、そ奴とは別れて私と盗賊になれ。嫌なら殺すと刃物で刺され唸っていると、駕籠屋に起こされた。そこはやはり小塚原。獄門の札に新五郎の凶状が書かれ、豊志賀の妹お園殺しを知る。羽生に帰り着くと男の子が生まれた。顔を見ると先程の兄そっくりで、抱く事も出来ず、顔を背けるのみだった。 
 新吉は何をするのも出来ず、ふさぎこんでいた。宝蔵寺の住職の薦めで無縁墓を掃除していた。そこで名主惣右衛門の妾、お賤(しず)に会う。実はお賤は深見の妾であったお熊の娘、それは新吉の妹に当たる。新吉が貸本屋をしてた時分会った事があった。名主惣右衛門屋敷に行って初めて惣右衛門に会い、3両と帯・着物をいただいて、これからちょくちょく来るように親切に言われた。 33〜38章

7.「お累の自害」;お累に嫌気がさしお賤(しず)と密通。都々逸に「浮き名立ちゃそれも困るし 世間の人に知らせないのも惜しい仲」。お累からやんわり忠告するが乱暴して聞き入れない。お累は「女は亭主に付くもの別れません」と、お累に三蔵は30両の手切金で縁切り。その金で遊び続ける新吉。
 窮状を見ていられずお累を見舞う三蔵であった。あまりにも遊び続け、全て家財を売り尽くし、食事も出来ず、薬も与えられず痩せ細っていた。赤子の為にも蚊帳を持ち込んだ下男は泣くだけであった。金に困った新吉が帰ってきて、蚊帳をお累の生爪ごと引きはがし、赤子には煮え湯をかけて殺す。その晩、お賤の家で飲み交わした。夜中、人が訪ねてきた、土砂降りの中子供を抱えた、それはお累の霊であった。村人の知らせで戻るとお累は鎌で自害していた。 39〜46章

8.「聖天山」;新吉は三蔵の仕送りも絶え家も売り払ったが、村の爪弾きになっている。ちょくちょくお賤の家に転がり込んでいた。情がある事の証拠に、お賤の頼みで新吉は名主の惣右衛門を細引きで首を絞め、絞殺。遺言状にお賤には金を付けて江戸に返して、新吉は一人で湯灌をすることになった。首のアザを隠すためだが、湯灌を手伝った甚蔵が二人の殺人に気づいた。そのまま遺体を埋葬した。博打で大負けしたので甚蔵はお賤に金の無心にやって来た。30両の無心で、夕方金は持参するとひとまず返した。二人で相談した結果、お賤にたきつけられ、新吉は聖天山(しょうでんやま)に金を埋めたと偽り、2人で掘りに行く。スキを見て甚蔵を崖から突き落とす。お賤の家に戻って安心していると、手負いの甚蔵が襲いかかった。これをお賤が鉄砲で射ち殺した。 46〜53章

 長い噺の中程になります。円生はここまでしか演じていませんが、後半も同じ分量で地元での因縁話が延々と続いていきます。

★登場人物が入り乱れて劇中を歩き回りますが、皆様は分かりましたか。ここで再度紹介しておきましょう。
・皆川宗悦(みながわそうえつ) 江戸・池之端七軒町に住む鍼医・高利貸
・豊志賀(とよしが)        皆川宗悦の長女・お志賀
・お園(おその)          皆川宗悦の次女
・深見新左衛門(ふかみしんざえもん) 江戸・小日向服部坂上に住む酒乱の小普請組・旗本 
・新五郎(しんごろう)       深見新左衛門の長男。小塚原で獄門
・新吉(しんきち)         深見新左衛門の次男
・三右衛門(さんえもん)     深見家の下男。七軒町に皆川宗悦の死骸を捨て、羽生に逃げ帰る
・勘蔵(かんぞう)         深見家の門番。新吉を育てる
・お熊(おくま)            深見新左衛門に深川から来た妾。晩年尼に
・下総屋惣兵衛(しもうさやそうべい) 谷中七面前の質屋の主人。新五郎と園の雇い主
・お久(おひさ)          総門口の小間物屋羽生屋三五郎の娘。豊志賀に最後までいた弟子
・土手下の甚蔵(じんぞう)   お熊の子。マムシの甚蔵と呼ばれ羽生の博打打ち
・三蔵(さんぞう)         羽生村の質屋。三右衛門の息子で累の兄、お久の伯父
・お累(おるい)          顔面やけどを負った三蔵の妹。新吉の妻で自害
・惣右衛門(そうえもん)      羽生村名主
・お賤(おしず)          名主惣右衛門の妾。深見の妾であったお熊の娘。賤とはいやしいという意。

★一話、一話が60分を超える長編で、これをまとめるだけで数話分のエネルギーを使ってしまったような感覚です。それも落とし話ではなく怪談ですから、気が滅入る事はなはだ大きく、疲れも溜まります。また、円生は圓朝の速記を下敷きにしていますが、中に間違いがあって円生が修正して演じています。ライブでお客様が入ったホール落語の録音と筋が違うのが分かります。ここでは円生百席から採っていますが、当然速記本とも違いがあります。

 

3.根津七軒町
根津七軒町(ねづ_しちけんちょう);皆川宗悦が住んでいた。上野不忍池西側の台東区池之端二丁目の一部。正しくは池之端七軒町と言い、文京区の根津二丁目にまたがっています。落語「阿武松」で錣(しころ)山喜平次の相撲部屋があったところ。根津神社南側の地で、落語「心中時雨傘」でも歩いたところです。

喜連川(きつれがわ)様のお屋敷;五千石・喜連川左馬頭様のお屋敷(現在の台東区池之端2−1忍岡小学校北側)その脇に秋葉の原があった。
喜連川;栃木県東部にある町。東北自動車の宇都宮インターチェンジ東の山中ですが、別荘地や鮎の釣りで名が高い。

小日向服部坂(こひなた_はっとりざか);小日向水道町に千二百石・服部権太夫の屋敷が有ったので服部坂。そこに深見新左衛門の屋敷があった。現在の文京区小日向2−16元第五中学校を横切っている坂。小日向神社に抜ける坂道。

谷中日暮里の青雲寺(せいうんじ);荒川区西日暮里3−6、恵比寿を祀る谷中の江戸百景の一つ、いつも季節の花々が咲き誇っていたところから別名花見寺とよばれている。隣、修性院には、谷中七福神中唯一実在の人物で9〜10世紀の中国にいた禅僧「布袋様」が祀られている。落語「心中時雨傘」で訪問したお寺さん。

深川網打場(ふかがわ_あみうちば);深川岡場所で有名だった所の一つで、網打場(江東区門前仲町1−13)と呼ばれた所。お熊はここで働いていた女。詳しくは落語「おさん茂兵衛」の岡場所を参照してください。

下谷大門町(したや_だいもんちょう);勘蔵が深見の二歳になる次男新吉を連れて行った所。下谷大門町という地名はなく、上野北大門町及び、上野南大門町が見受けられます。貧しい長屋住まいだと言う事ですので、下谷長者町の隣、上野南大門町の間違えではないでしょうか。現在の台東区上野三丁目6〜7にあたります。

 

4.言葉
五両一分;高利貸しの金利、5円で25銭の月利息が掛かる。100円で5円の月利=年利60%=元利合計160円。これは単利で転がした時ですが、現在は毎月精算するので複利計算で一年後は元利合計で約180円。この時代には4ヶ月単位で一区切り、それを越えると複利で貸したが、書換料を取られ、複利より高利になった。1年後には倍にはなったでしょう。100円借りて200円返す様なものです。それも3年もほっておくなんて・・・。
 時の幕府は宗悦を含め、盲人に対しては特例として高利で貸す事を認めていた。

小普請組(こぶしんぐみ);禄高2百石以上3千石以下の役職がない旗本および御家人。元来は幕府に建築・土木の造営、小修理があったとき人足を出して工事を助けたのが、人足の代わりに禄高百石から小普請金を納めた。

葛籠(つづら);衣服を入れる、アオツヅラの蔓で編んだかご。後には竹やヒノキの薄板で作り、上に紙を貼った。つづらこ。

 

5.累ケ淵
累ヶ淵(かさねがふち);茨城県常総市(旧・水海道市=みつかいどうし)羽生町724 の法蔵寺裏手辺りの鬼怒川沿岸。三遊亭円朝の怪談噺や四代目鶴屋南北作の歌舞伎などで知られる。法蔵寺には累(るい)の木像をはじめ、累の一族を弔った墓があり、常総市の指定文化財に指定されている。
宝蔵寺の写真はhttp://nats12.cool.ne.jp/NATS/KANTO.1/Kasane/Kasane_01.html および02に有ります。

 累の話は、江戸時代初期、常総市を舞台に60年にわたって繰り広げられた、親が子を、夫が妻を殺害に至るという陰惨な出来事で、最後に死霊となって取り憑いた累と助を、当時、飯沼弘経寺(ぐぎょうじ)の遊獄庵にいた祐天上人が法力を以ってこれを除霊したというのであるが、日本版「エクソシスト」の話が怪談ものとして広く世に知られるようになったのは、150年後の「色彩間苅豆」が上演された文政4年(1821)のことといわれます。
 また、祐天上人が除霊儀式に用いたという数珠(じゅず)、累曼陀羅(まんだら)、木像なども同寺に保存されています。


 舞台の池之端七軒町と小日向服部坂を歩く

 皆川宗悦・志賀・園がひっそりと暮らしていた地が池之端七軒町です。上野・不忍池西端にあり、東の上野公園、西の東京大学に挟まれた谷間の街で、北には根津神社があります。不忍池と池之端七軒町の境を走る道路が不忍通りですが、当時は無く七軒町の街中を曲がりくねって縦断していました。この七軒町の町屋の中に親子が住んでいたのです。
 喜連川のお屋敷は今の不忍通りに面してありましたが、ルネッサンスタワー上野池之端という長い名前の超高層マンションになってしまいました。目印としては良いのですが江戸の趣はまったくありません。また、当然ながら、秋葉の原というスペースも見付かりませんし、その様なお宮もありません。喜連川屋敷の正面は上野動物園ですが、ここも明治に入ってから不忍池の北面を埋め立てて造成されたものです。どんどん江戸が遠くなっていきます。
 20年後宗悦の長女志賀はこの地で、富本の師匠豊志賀として名をはせていたのが、何の因果か加害者・深見新左衛門の次男・新吉と親子ほど歳の離れた二人がじっこんになってしまいました。
 同じ圓朝作「牡丹灯籠」の発端、萩原新三郎の住まいもここの隣町です。圓朝は、よほど怪談にふさわしい場所と思っていたのでしょう。

 皆川宗悦が殺された深見新左衛門の屋敷があったのが、小日向服部坂上です。服部坂は、坂の上左側にあった服部権太夫屋敷があったのでこう呼ばれています。この屋敷の後地に明治2年小日向神社が移転してきました。坂の上り口は第五中学校(注)の校舎と体育館に挟まれていますので、坂上を学校専用の歩道橋が連絡しています。自転車でも降りて通る急な坂道ですが、上がりきって小日向神社を左に見ながら道なりに曲がると、その先は嘘のように平らな場所に出ます。住宅街のど真ん中という感じで、深見新左衛門が刃傷沙汰を起こしたなんて想像すら出来ない穏やかな住宅地です。
(注);第五中学校は2009年3月末で七中と合併し音羽中学校として転出しています。その空き校舎は筑波大学に貸し出されています。文京区役所教育委員会説明

 神田川まで戻り古川橋を渡って、江戸川橋に向かいます。神田川は別名江戸川とも呼ばれ橋の名も江戸川橋と言います。橋を渡って川に沿って西に江戸川公園の中を歩きます。この神田川は江戸市中に水を供給する為に開削された神田上水で、この先に水を分流した取水口跡があります。この町を関口と言い、先程の坂下の街を水道(町)と言います。取水口跡(右写真)は明治34年に廃止され、現在は遺構としてその形を留めています。神田川には多くの鯉が群遊していて、両岸には桜が植裁されていますので、お花見の時分は素晴らしい景観になる事でしょう。
 取水口には若き松尾芭蕉がここで働いていました。その業績を偲んで芭蕉庵があります。
 この先神田川の上流、蛍で有名な落合がありますが、現在では絶滅しています。神田川のここ関口には日本庭園を持つ椿山荘で毎年夏には蛍を見る事が出来ます。
 神田川の上流直ぐそこには早稲田大学があり、「高田の馬場」で安兵衛の仇討ち現場を見た所でもありますし、「乳房榎」で歩いた高田砂利場、面影橋、南蔵院があります。「道灌」でも、面影橋や山吹の里の碑、甘泉園公園などがあります。

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

小日向服部坂

小日向服部坂(文京区小日向2−16元第五中学校跡)
 目白通りに平行して東西に走る神田川。別名江戸川に架かる古川橋を渡って直ぐのところに小さな交差点があります。そこを上がる坂が服部坂。写真正面の坂。

小日向服部坂上

坂部安兵衛屋敷跡 (文京区小日向服部坂上)
 上記、服部坂を上がりきると左に明治の始め引っ越してきた小日向神社があります。左にクランク状に曲がると、台の上の平地になります。そこが服部坂上で、深見新左衛門の屋敷がありました。

池之端七軒町(台東区池之端二丁目の内)
 下記の不忍通りから一歩西に入った路地ですが、当時の上野から根津に抜ける幹線道路でした。ここら辺はお寺さんが多いのですが、町家もあって池之端七軒町と呼ばれていました。右側に忍岡小学校があり創立135年だと看板が出ていました。ここに宗悦一家が住んでいたのです。

喜連川屋敷跡(台東区池之端二丁目1ルネッサンスタワー上野池之端・超高層マンション)
 写真右側の角のマンションが喜連川屋敷跡です。左奥に延びているのは不忍通りで、その先に超高層マンションが建設中で、通りの左側が不忍池です。

不忍池から見た喜連川屋敷跡(中央右側のマンション)
 不忍池の弁天堂が右側に見えますが、その対岸に位置する喜連川屋敷跡に建つ超高層マンションですが、遠くからでもその場所が分かります。その左側に建設中の超高層マンションも見えます。

上野北大門町(台東区上野三丁目6&7)
 下谷大門町? 秋葉原北側の街ですが、何の変哲もない街なのでどちらを向いても写真になりにくい。写真の奥にJR山手線が通過している場所で、北(左)側が御徒町駅で、右側が秋葉原駅です。

谷中青雲寺(荒川区西日暮里三丁目6)
 臨済宗の寺院で浄居山と号する。江戸時代の中頃より「日暮らしの里」と呼ばれ、庶民に親しまれてきたこの地は、四季折々の花を楽しむことができた。この青雲寺と隣の修性院は花見寺と言われた。境内には滝沢馬琴の筆塚の碑や硯塚の碑、狂歌師安井甘露の碑などがあります。

                                                    2010年8月記

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