落語「操競女学校・お里の伝」の舞台を歩く
三遊亭円生の噺、圓朝作「操競女学校・お里の伝」(みさおくらべ_おんながっこう・おさとのでん)によると。
圓朝による新作落語は極めつきの名作ぞろいで、現代まで継承されている。圓朝が活躍したのは明治で、古典落語の代表とされる「芝浜」と「文七元結」、「お若伊之助」「心眼」「福禄寿」「元犬」「黄金餅」「親子酒」「大仏餅」「鰍沢」、怪談では「怪談牡丹燈籠」「真景累ヶ淵」「怪談乳房榎」「札所の霊験」、また「双蝶々」「江島屋騒動」「心中時雨傘」「塩原多助一代記」「安中草三」などを創作した。また海外文学作品の翻案は「死神」「名人長二」があります。私のホームページにも多くの圓朝作品が有るのが分かります。
近代の日本語の祖ともいわれ、近代日本語の特徴の一つである言文一致体を一代で完成させた。圓朝は自作の落語演目を速記にて記録し公開することを許した。記録された文章は新聞で連載され人気を博した。これが作家二葉亭四迷に影響を与え、1887年「浮雲」を口語体(言文一致体)で書き、明治以降の日本語の文体を決定づけた。 2.操競女学校(みさおくらべ-おんながっこう)
■お民の伝;貞享元年(1684)、松平安芸守家来の一柳源兵衛は江戸詰出立の送別会で、酒癖の悪い余湖弥市兵衛を斬り殺してしまう。切腹の道具を自宅へ取りにやると、妻のお民は驚く様子もなく刀を渡す。一柳は切腹し、はてる。兄の奥進八郎はお民の再婚を勝手に決めてしまうが、お民は断固断る。その為、兄が切腹を迫られる。結果、お民は夫の墓前で自害してしまう。
■お蝶の伝;冬原長助は酒癖が悪く永井伊賀守から閑を出される。花輪村の西福寺の助けで生計をたてている。長助はお市を後妻にもらうが、お市にたきつけられ長助は2人の子供の手習いの弁当に毒を盛り毒殺を計る。しかし、西福寺の大心はいつにない弁当に不審をいだき毒を見破る。大心はお市を戒めるが、かえって娘お蝶を折檻。お蝶を風呂で煮殺そうとする所を大心が救う。お蝶は父を思い、お市をかばうが長助は事実を知り、お市を斬ろうとする。実家に逃げたお市はここでも戒められ、もう一度長助と暮らす事になる。お市と情夫の勇次は邪魔な長助を殺害する。寝床で様子を聞いたお蝶は自分たちの殺害計画も知り、縁の下の草履を勇次に取らせるスキに殺害。逃げるお市を親の敵と追いかけ、弟と仇討。殿の耳に入り冬原家を再興する。
■お里の伝;一番内容が豊かな、この噺。 ■お婉(えん)の伝;出羽本庄、上杉家の浪人林主殿は浪人していたが医者林玄丹となる。享保18年(1733)本多主膳の娘を治し、お抱え医者となり豊かになった。悪党赤ん坊金次と薬研安が強請(ゆすり)に来るが玄丹柔術で懲らしめ追い返す。1月4日、悪党連中は玄丹をニセの往診依頼で蔵前へおびき出しといて、その留守宅に仲間2人を誘って4人組で押し入る。おえんは強盗の片手間に強姦の計画を聞き、妹を押入に隠し声を出さないように言いつけ、自分は真っ暗な玄関に隠れ、出てきた4人を次々と斬り取る。(志ん生の録音が残る)
3.本所割下水(墨田区亀沢・北斎通り)
墨田区を東西に走っている割堀が2本。北側を北割下水と言い、今の春日通りの本所二丁目から大横川、今は埋め立てられて、大横川親水河川公園までとその先東の横十間川(天神川)まで繋がっていた割堀です。
圓朝は本所南二葉町23番地(現・墨田区亀沢3−20)にあった旗本下屋敷跡500坪を買い取り、明治9年から20年まで移り住んだ。庭は、割下水から水を引いて池をつくり、多摩川の橋材を用いて庵室の柱とするなど、圓朝の生涯のうちで贅沢で工夫を凝らした邸宅だったといいます。この後、新宿に移り住みます。
■麹町表三番町;三百石を取る旗本・師範永井源助屋敷地。
永井源助屋敷;江戸時代の五番町に永井奥之助(1864年地図)、同地に永井貞之助(1858年地図)の屋敷が有ります。番町に、似た永井の姓がここに有りました。永井源助の末裔でしょうか。現在の一番町5にあたります。 ■芝・新シ橋;(しば・あたらしばし)京極備中守上屋敷。千代田区・日比谷公園の西側の道路を200m程南下した、千代田区霞が関1−4と港区西新橋1−3に挟まれた所。お堀は埋め立てられて、両方ともビルになっています。その間にあったのが「新シ橋」で当然橋はありません。ここから東に行った所にあるのが「新橋」で、「新シ橋」とは違います。新シ橋から南下すると愛宕山、「黄金餅」で歩いた、”新シ橋の通りを左に折れて、愛宕山の裾を回り込んで天徳寺・・・”と言われた道です。
京極備中守上屋敷;(港区虎ノ門一丁目3〜8)その道順の、新シ橋の道を左に曲がった右角にあります。讃岐丸亀藩(香川県)京極佐渡守五万千五百石、上屋敷六千三百坪が有ります。実際は噺の備中守と切り絵図(地図)の佐渡守の違いがありますが、事実とすれば佐渡守、フィクションとすれば備中守になるのでしょうか。別の資料によると、備中守ではなく備前守高久だと言います。あらら、またまた混乱してきました。 ■仇討ち;虎ノ門金刀比羅宮縁起の栞から引きますと、讃岐丸亀城主生駒将監の剣術指南番・田宮氏の一子坊太郎は、乳母お辻の水垢離をとっての参拝に、金比羅大権現の御利益にあずかり、父君の敵・堀源太左衛門を討ち、めでたく遺恨を晴らしたるは劇、浄瑠璃、講談に人の知るところなり。
4.言葉
■懸想(けそう);異性におもいをかけること。恋い慕うこと。求愛すること。けしょう。でも、人妻に懸想してはいけません。
■ご進物お取り役;江戸幕府の職制の一つで、進物取次番頭(進物番)=大名・旗本からの進物等を取り扱う役で、小性(小姓)組書院番より選任する。留守居支配の職で、御三家御三卿その他の家門からの献上進物を
受け取り、取次番をして表使の方へ廻送し、また大奥の贈物を使番から引き受け、取次番に命じて配達を取り計らう役職です。
■用人;江戸時代、大名・旗本の家で、家老の次に位し、庶務・会計などにあたった職。広辞苑
■新陰流;旗本・永井源助が道場を持っていた使い手。新陰流兵法は、流祖上泉伊勢守信綱が足利時代末期・戦国の世に創始した、日本の剣術を代表する流派です。
■今井田流;親の敵、岩淵伝内は今井田流の使い手であった。江戸時代栄えた剣法の一流派。
5.江戸時代の捕縛・裁判権
舞台の割下水と虎ノ門を歩く
岩淵伝内が隠れ住んでいた本所割下水、ご進物お取り役・坂部安兵衛屋敷跡を訪ねます。
虎ノ門に行きます。
行きすぎました。西新橋一丁目交差点を南に渡った西側が讃岐・丸亀藩主京極佐渡守上屋敷です。現在は銀行を含むオフィスビルが林立し、地下鉄駅も真下にあって便利なところです。万治3年(1660)に讃岐の金刀比羅大神を江戸藩邸に勧請し、邸内神としました。その後、延宝7年(1679)現在の虎ノ門に移します。金比羅人気が高まった文化年間(1804〜18)に京極家では毎月10日に限り一般の参詣を許し、大変賑わいました。その金比羅さんは落語「みそ豆」で歩いた虎ノ門の金比羅神社で、ビジネス街に根を下ろしています。
地図
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2010年7月記
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