落語「操競女学校・お里の伝」の舞台を歩く
   

 

 三遊亭円生の噺、圓朝作「操競女学校・お里の伝」(みさおくらべ_おんながっこう・おさとのでん)によると。
 

 麹町表三番町に三百石を取る旗本・永井源助は人望にも篤く剣術にも優れ新陰流の道場も持っていた。讃岐・丸亀の京極備中守の藩中で村瀬東馬は純朴で永井源助に剣術の指南を受け旧友でもあった。村瀬の朋友、関根本右衛門の遠縁に当たる十六歳のお里をここで奉公させて欲しいと願い出た。給金より剣術の指南を願って置いていった。お里はよく働き、頭も良く、剣術もめきめきと上達した。元禄13年に奉公に上がり、3年を過ぎた時には免許が取れるまでになっていたし、奉公先にも可愛がられた。

 元禄15年12月15日雪も上がって天気も良かった。読売が出て赤穂浪士の討ち入りがあって、敵(かたき)討ちの本懐が達せられたという。それを聞いてお里はホロリと涙を流した。
 永井源助はこれを見て、お里から話を聞くと、「父は京極備中守の家臣尼崎幸右衛門で、上役の岩淵伝内が母に懸想。お里三歳の時、父が不在の折り母を手込めにしようとしたが、父親が帰宅口論になったが、抜き打ちざま殺害、母は『夫の敵』と岩淵伝内を追って脇差しを投げ打ち左肩にキズを負わせた。しかし、父は刀の柄に手を付けられず、『武士の恥』と尼崎の家は没収、その秋に母も亡くなった。その時『男の子なら仇討ちも出来るのに・・・』と言い残した。九歳の時その話を聞き、ここで稽古をしていた。」それなら教え方が違うと道場に出た。習う方も教える方も一心ですから、翌春に免許皆伝になった。

 岩淵伝内を探し、江戸にいる事が分かったので、江戸屋敷に奉公に出た。そこに居無いとなると次の屋敷にと、奉公替えして探した。3年の間に75軒屋敷を替えた。二十一になっていた。
 75軒目は本所割下水でご進物お取り役・坂部安兵衛屋敷であった。二十六の殿様と二十一という若い夫婦に、五十一になる小泉文助という用人と、中働きの四十三のお滝が切り盛りしていた。
 お里は奉公に入った正月の七草。七草の行事も終わって酒好きの文助に充分に呑んで良いとの殿様からのお言葉、酌人にお里を付けた。

 お里は美人だから、わしの女房にならんかと文助は酔いの中から漏らした。目元、口元お前に似た女に恋をした。その女の為に苦労した。今から19年前、わしも三十三の若さだった、その女に惚れた。その時も七草で、亭主が出掛けたのを幸いに、女に強引に迫ったが、亭主が帰ってきてわしを後ろ倒しにした弾みに柱に頭を強く打ち付けた。上役に無礼であると、刀に掛けてもこの女は貰い受けると言うと、そやつも武士の刀に掛けてもやらないと言った。
 この話はやめて、他の話にしようと、文助は話をはぐらかすが、お里とお滝の誘導で、また話し出した。一太刀で切り捨てた。その事に後悔していると、出し抜けに女が「夫の敵」と脇差しを抜いて斬りかかって来たから、逃げ出した。その時脇差しを投げられ、左肩に突き刺さり、こんな恐い事はなかったが、城を抜け出し国からも逃げだした。国元を聞くと、讃岐丸亀京極備中守の藩中で働いていた。なかなか言わなかったが、旧名、岩淵伝内で三百石を取った立派な侍だと口を滑らせ、諸肌脱いで傷口を見せた。悔しさがこみ上げてきたが、師範の永井は敵に巡り会っても絶対手出しをしてはいけないと、言いつかっていた。岩淵伝内は今井田流の使い手だから、わしが助太刀をするからと、強く言われていた。

 翌朝、お暇をいただいて永井の元に走った。直ぐに永井、村瀬から京極備中守の殿様に話が届いた。殿様は召し捕れと言い、坂部安兵衛の了承を受け召し捕り、芝新シ橋の京極備中守上屋敷において殿様御前で仇討ちとなった。
 両名、殿の前で挨拶するかと思っていたら、岩淵は突然お里に斬りかかってきた。みなは驚いて、切られたかと思ったら、免許皆伝だけあって咄嗟によけた。両名上段に構えたが、小娘だと思っていたら、初めて”出来る”と思って油断なく構えた。その内に岩淵がわざとスキを作った、とは思わずお里は斬り込み刀を合わせたが、引き際に額にわずかの切り傷を負った。すかさず殿から「待て!」が掛かった。師範の永田が間に入って、時間を稼いでいる間薬を付けて額に二重の鉢巻きをして戻ってきた。キズを負うと度胸が付いて、撃ち合いが大きくなった。攻め込むと岩淵後ろに下がるところ、師範永田が後ろで気合いを掛け下がらせないようにしている。お里より後ろに気を取られるようになった。激しく打ち込むお里に小指を切られ、なおも後退。岩淵胸を突かれ転倒。そこを「親の敵」とトドメを刺すと皆の歓声がどっと上がった。殿も小膝を叩いて感心。家の再興と二百石を加増、二百三十石になった。
 村瀬の息子金之丞を迎えて夫婦になり、尼崎家再興。孝女お里の伝でした。

 


 
1.三遊亭圓朝
 初代三遊亭圓朝(さんゆうてい えんちょう)、(天保10年4月1日(1839年5月13日) - 明治33年(1900)8月11日)は、幕末から明治期に活躍した落語家。本名は出淵 次郎吉(いずぶち じろきち)。
 歴代の名人の中でも群を抜いて巧いとされる。また、多くの落語演目を創作・翻案し、落語中興の祖と言われる。人情噺や怪談噺などの分野で独自の世界を築いた。あまりの巧さに嫉妬され、師匠二代目圓生から、圓朝が演ずるであろう演目を師匠圓生らが先回りして演じ、圓朝の演ずる演目をなくしてしまった。たまりかねた圓朝は他人が演ずることはできない、自作の演目を口演するようになり、多数の新作落語を創作した。

 圓朝による新作落語は極めつきの名作ぞろいで、現代まで継承されている。圓朝が活躍したのは明治で、古典落語の代表とされる「芝浜」と「文七元結」、「お若伊之助」「心眼」「福禄寿」「元犬」「黄金餅」「親子酒」「大仏餅」「鰍沢」、怪談では「怪談牡丹燈籠」「真景累ヶ淵」「怪談乳房榎」「札所の霊験」、また「双蝶々」「江島屋騒動」「心中時雨傘」「塩原多助一代記」「安中草三」などを創作した。また海外文学作品の翻案は「死神」「名人長二」があります。私のホームページにも多くの圓朝作品が有るのが分かります。
 大看板となった圓朝は、朝野の名士の知遇を得、禅を通じて山岡鉄舟に師事した。茶道、建築、築庭、歌道、和歌、俳句、書画、骨董(目利き)等に才能を発揮し、幽霊画の収集(台東区・全生庵で収蔵)でも名をはせた。
圓朝、本所での住まいは、第48話「お若伊之助」にあります。
新宿での住まいは、第8話「文違い」にあります。
墓は全生庵(ぜんしょうあん、台東区谷中5−4−7)にあります。第48話「お若伊之助」に写真があります。

 近代の日本語の祖ともいわれ、近代日本語の特徴の一つである言文一致体を一代で完成させた。圓朝は自作の落語演目を速記にて記録し公開することを許した。記録された文章は新聞で連載され人気を博した。これが作家二葉亭四迷に影響を与え、1887年「浮雲」を口語体(言文一致体)で書き、明治以降の日本語の文体を決定づけた。


2.操競女学校(みさおくらべ-おんながっこう)
 頼 山陽が書いたものを、圓朝が人情噺として作り直したものです。旗本などの子女に対して操教育を目的とし、構成されたものといい、円生はマクラで「お民の伝」、「お蝶の伝」、「おえんの伝」、この噺「お里の伝」だと言っています。
 注:頼 山陽(らい さんよう、安永9年12月27日(1780年1月21日) - 天保3年9月23日(1832年10月16日))は江戸時代後期の歴史家、漢詩人、文人。芸術にも造詣が深い。また陽明学者でもあり、大塩平八郎に大きな影響を与えた。

お民の伝;貞享元年(1684)、松平安芸守家来の一柳源兵衛は江戸詰出立の送別会で、酒癖の悪い余湖弥市兵衛を斬り殺してしまう。切腹の道具を自宅へ取りにやると、妻のお民は驚く様子もなく刀を渡す。一柳は切腹し、はてる。兄の奥進八郎はお民の再婚を勝手に決めてしまうが、お民は断固断る。その為、兄が切腹を迫られる。結果、お民は夫の墓前で自害してしまう。

お蝶の伝;冬原長助は酒癖が悪く永井伊賀守から閑を出される。花輪村の西福寺の助けで生計をたてている。長助はお市を後妻にもらうが、お市にたきつけられ長助は2人の子供の手習いの弁当に毒を盛り毒殺を計る。しかし、西福寺の大心はいつにない弁当に不審をいだき毒を見破る。大心はお市を戒めるが、かえって娘お蝶を折檻。お蝶を風呂で煮殺そうとする所を大心が救う。お蝶は父を思い、お市をかばうが長助は事実を知り、お市を斬ろうとする。実家に逃げたお市はここでも戒められ、もう一度長助と暮らす事になる。お市と情夫の勇次は邪魔な長助を殺害する。寝床で様子を聞いたお蝶は自分たちの殺害計画も知り、縁の下の草履を勇次に取らせるスキに殺害。逃げるお市を親の敵と追いかけ、弟と仇討。殿の耳に入り冬原家を再興する。

お里の伝;一番内容が豊かな、この噺。

お婉(えん)の伝;出羽本庄、上杉家の浪人林主殿は浪人していたが医者林玄丹となる。享保18年(1733)本多主膳の娘を治し、お抱え医者となり豊かになった。悪党赤ん坊金次と薬研安が強請(ゆすり)に来るが玄丹柔術で懲らしめ追い返す。1月4日、悪党連中は玄丹をニセの往診依頼で蔵前へおびき出しといて、その留守宅に仲間2人を誘って4人組で押し入る。おえんは強盗の片手間に強姦の計画を聞き、妹を押入に隠し声を出さないように言いつけ、自分は真っ暗な玄関に隠れ、出てきた4人を次々と斬り取る。(志ん生の録音が残る)

 

3.本所割下水(墨田区亀沢・北斎通り)
 坂部安兵衛屋敷にひそむ岩淵がここにいた。当時の本所三笠町一丁目と二丁目に「御賄方大縄地」があります。ここに坂部安兵衛屋敷が有ったのでしょう。今の墨田区亀沢四丁目12〜14と23〜25です。
注:大縄地(おおなわち)=武家に屋敷地を与える時、個々に与えず、その支配組に一括して与え、組内で割り振りした地域。

 墨田区を東西に走っている割堀が2本。北側を北割下水と言い、今の春日通りの本所二丁目から大横川、今は埋め立てられて、大横川親水河川公園までとその先東の横十間川(天神川)まで繋がっていた割堀です。
 南側を南割下水と言い、今の亀沢1丁目(江戸東京博物館横)から大横川とその先、東の横十間川(天神川)まで繋がっていました。横十間川は今でも水をたたえていますが、両割下水は既に埋め立てられて道になっています。前に言いましたが北割下水は”春日通り”となっていますし、南割下水はJRの北側、葛飾北斎が生まれた所なので”北斎通り”と呼ばれています。(第68話「化け物使い」より) 割下水、写真もここにあります。
 単に割下水というと、通常は南割下水を指す事が一般的です。この割下水の回りには葛飾北斎を始め、三遊亭圓朝河竹黙阿弥が住んでいました。圓朝は自宅近所に舞台設定した事になります。

 圓朝は本所南二葉町23番地(現・墨田区亀沢3−20)にあった旗本下屋敷跡500坪を買い取り、明治9年から20年まで移り住んだ。庭は、割下水から水を引いて池をつくり、多摩川の橋材を用いて庵室の柱とするなど、圓朝の生涯のうちで贅沢で工夫を凝らした邸宅だったといいます。この後、新宿に移り住みます。
 道路(割下水)の路地先、マンション前(亀沢2−11)に「河竹黙阿弥終焉の地」の標柱が建っています。河竹黙阿弥(文花13年(1816)〜明治26年1月)は歌舞伎作家として350余の作品を残して78才でここで亡くなりました。
教育委員会が立てた両説明板より

麹町表三番町;三百石を取る旗本・師範永井源助屋敷地。
 麹町(こうじまち)は町屋で東は江戸城半蔵門から西に甲州街道沿いに一丁目〜十丁目、四谷御門を抜けて十三丁目まで有った長く繋がる町です。この街並みの一〜十丁目(四谷御門内)北側に広がる地域が番町(ばんちょう)と呼ばれる江戸城守護の武士が詰める旗本屋敷群があります。
 番町は町屋と違って町の名は無く、通りに名前が付いていました。その西側半分を南から北に五番町、裏二番町、表二番町、裏六番町、表六番町、土手三番町、三番町、東に表四番町、裏四番町、東から南に下って新道一番町、新道二番町、堀端一番町、麹町に出る所が五番町になります。
あらら、表三番町が抜けています。抜けているのは私の頭と表三番町ですが、この表三番町は無いのです。

永井源助屋敷;江戸時代の五番町に永井奥之助(1864年地図)、同地に永井貞之助(1858年地図)の屋敷が有ります。番町に、似た永井の姓がここに有りました。永井源助の末裔でしょうか。現在の一番町5にあたります。
 もう一軒、表六番町に500石・永井佐渡守屋敷があります。現在の四番町8にあたりますが、噺の永井は300石取りだと言うので、佐渡守ではないでしょう。

芝・新シ橋;(しば・あたらしばし)京極備中守上屋敷。千代田区・日比谷公園の西側の道路を200m程南下した、千代田区霞が関1−4と港区西新橋1−3に挟まれた所。お堀は埋め立てられて、両方ともビルになっています。その間にあったのが「新シ橋」で当然橋はありません。ここから東に行った所にあるのが「新橋」で、「新シ橋」とは違います。新シ橋から南下すると愛宕山、「黄金餅」で歩いた、”新シ橋の通りを左に折れて、愛宕山の裾を回り込んで天徳寺・・・”と言われた道です。

京極備中守上屋敷;(港区虎ノ門一丁目3〜8)その道順の、新シ橋の道を左に曲がった右角にあります。讃岐丸亀藩(香川県)京極佐渡守五万千五百石、上屋敷六千三百坪が有ります。実際は噺の備中守と切り絵図(地図)の佐渡守の違いがありますが、事実とすれば佐渡守、フィクションとすれば備中守になるのでしょうか。別の資料によると、備中守ではなく備前守高久だと言います。あらら、またまた混乱してきました。
 ここの讃岐丸亀藩主京極高和が領地・讃岐の金刀比羅(ことひら)大神を、万治3年(1660)に三田の江戸藩邸に邸内社として勧請、その後延宝7年(1679)、現在の虎ノ門1−2に移します。金比羅人気が高まった文化年間に京極家では毎月10日に限り一般の参詣を許し、大変賑わった。落語「みそ豆」で歩いた金比羅さんです。

仇討ち;虎ノ門金刀比羅宮縁起の栞から引きますと、讃岐丸亀城主生駒将監の剣術指南番・田宮氏の一子坊太郎は、乳母お辻の水垢離をとっての参拝に、金比羅大権現の御利益にあずかり、父君の敵・堀源太左衛門を討ち、めでたく遺恨を晴らしたるは劇、浄瑠璃、講談に人の知るところなり。
この噺に一脈通じるところがあります。

 

4.言葉
読売;瓦版。江戸時代、社会の重要事件を瓦版一枚摺りとし、街上を読みながら売り歩いたもの。ま た、その人。今日の新聞の役目を果したが、のちには歌謡風に綴り、節をつけて読み歩くようになった。広辞苑
 瓦版は政治的な物は禁止されていて、幕府の目が光っていたので、主に火事、心中、敵討ちが題材になっていた。しかし、各大名の留守居役は江戸の出来事を報告するのが仕事でそのネタを欲しがった。外神田の藤岡屋由蔵は古本屋のかたわら情報を帳面に記し、ネタひとつを96文で売っていた。天保改革から幕末まで記されたその帳面を「藤岡屋日記」といい、今では市井の様子を知る貴重な資料になっています。
上図;「読売」熈代照覧(きだいしょうらん)部分 江戸東京博物館蔵 幕府の目がうるさいので深編み笠で顔を隠し、瓦版の最初だけを読み聞かせながら売った。

懸想(けそう);異性におもいをかけること。恋い慕うこと。求愛すること。けしょう。でも、人妻に懸想してはいけません。

ご進物お取り役;江戸幕府の職制の一つで、進物取次番頭(進物番)=大名・旗本からの進物等を取り扱う役で、小性(小姓)組書院番より選任する。留守居支配の職で、御三家御三卿その他の家門からの献上進物を 受け取り、取次番をして表使の方へ廻送し、また大奥の贈物を使番から引き受け、取次番に命じて配達を取り計らう役職です。

用人江戸時代、大名・旗本の家で、家老の次に位し、庶務・会計などにあたった職。広辞苑

新陰流;旗本・永井源助が道場を持っていた使い手。新陰流兵法は、流祖上泉伊勢守信綱が足利時代末期・戦国の世に創始した、日本の剣術を代表する流派です。
上泉伊勢守は上州(群馬県)の人で、幼少より香取神道流・小笠原流軍法軍敗・禅等を修行し、長じては愛洲移香斎より陰流の教えを受け、特にその中より人性に自然・自由・活発なる「転(まろばし)の道」を抽出して、 ここに新陰流を創始しました。
 その後、二世柳生石舟斎は新陰流を更に整備し、その子柳生宗矩が徳川将軍家師範となり、さらに尾張藩に兵法師範として仕官した。近代剣法への改革を成した三世柳生利厳、および柳生厳包、新陰流中興の祖柳生厳春、尾張藩剣術教導総裁を勤めた柳生厳周、近衛師団師範として活躍した柳生厳長、その補佐役を勤めた渡辺忠敏を経て、 現在では渡辺忠成が、流祖以来多くの先師が加味伝承させてきた新陰流の技法を完全な形で伝えております。
新陰流ホームページより

今井田流;親の敵、岩淵伝内は今井田流の使い手であった。江戸時代栄えた剣法の一流派。
 剣客には、上杉家から派遣された武士で、吉良家の家老小林平八郎。吉良邸討ち入りの際に活躍した吉良家の剣客。
 落語国では、「安中草三」に出てくるでっぷり肥った見上げるような坊さんで、正願寺の玄道和尚。金持ちで、安中の女郎屋に小金を貸し、剣術は今井田流の免許取り。
お若伊之介」ではお若が預けられてしまう、根岸にいる伯父が、今井田流の道場主でもある高根晋斎。
三軒長屋」の妾宅の両側に住む鳶頭政五郎と反対側の楠運平橘正猛。楠が今井田流指南です。
真景累ヶ淵」の中に、市ヶ谷の一刀流の剣術の先生が今井田流指南です。

 

5.江戸時代の捕縛・裁判権
 江戸の三奉行所は町奉行・寺社奉行・勘定奉行が有った。勘定奉行は幕府直轄地の民治・財政・訴訟を扱い、諸国の郡代・代官を支配した。幕府の主に租税徴収や全国の幕府領や関八州の訴訟を取り扱い、財務財政徴収を司った。
 寺社奉行は全国の寺社の行政司法、僧侶・神官などの監督、他に楽人(がくじん=雅楽を奏する人)・検校(けんぎょう=盲人の最上級の官名)・連歌師(連歌をよくする人)・碁将棋所・古筆見(こひつみ=古筆の真偽を鑑定すること)なども監督した。また、関八州以外の旗本領地の訴訟裁判を受け持っていた。
 町奉行は江戸市中の武家地と寺社地を除いた町地を支配し、その行政・司法・立法・警察・消防などを司った。北町奉行と南町奉行が有った。
 あれれ、どうしたのでしょう、大名・武家屋敷の逮捕・訴訟・裁判権はどこの奉行の範疇なのでしょうか。噺の中にあったように、各大名の屋敷内の事は直々に、その藩に即した方法で自分で裁いたのです。各藩は治外法権の外国だったのです。京極備中守の殿様が自分の屋敷内で外部にとらわれずに自由裁量の下で裁きが出来たのです。今の日本国内でも外国大使館・公使館や米軍基地内はその国の法律で裁かれ、治外法権になっているのと同じです。

 


 舞台の割下水と虎ノ門を歩く

 岩淵伝内が隠れ住んでいた本所割下水、ご進物お取り役・坂部安兵衛屋敷跡を訪ねます。
 JR総武線両国駅と錦糸町駅の北側に平行に走る北斎通りに行きます。ちょうど両駅の中程に三ツ目通りが南北に横切っているその右側の地がそうで、北斎通り北側に面しています。ここは大縄地ですから、その中の何処に有ったかは分かりませんが、現在は通りに面したところはマンションやオフィスビルが並んでいますが、中に入ると昔ながらの零細企業の鉄鋼関係の町工場が多くあります。
 三ツ目通りを横切って両国北側にある江戸東京博物館方向に移動です。この博物館と先程の坂部安兵衛屋敷跡との間に三遊亭圓朝の旧居跡があります。圓朝が住んでいた地は北斎通りに面し、ここの水を庭に取り入れ山水の趣がある庭園と、建物を造り、圓朝の住居の中では一番贅を尽くしたものだったと言われています。ここに10年ほど住み新宿に転宅します。現在はオフィスビルなどになっています。
 北斎通りは区でも力を入れて美化に取り組み、電線の地中化を図り、通りには洒落た街路灯や北斎の浮世絵が並んでいます。誰が見ても北斎の為(?)の道路だと分かります。圓朝住居の西隣には河竹黙阿弥が住んでいて、彼は歌舞伎作家として350余の作品を残して78才でここで亡くなりました。
 突き当たりの江戸東京博物館は直ぐそこにあります。その隣には相撲の本拠地、国技館があります。

 虎ノ門に行きます。
 外堀通りと新シ橋の通りが交差する、西新橋1丁目交差点に立ちます。外堀通りには新橋から来た地下鉄銀座線の虎ノ門駅があります。
 この交差点から北側に向かうとビルの二つ先の右側にエネオスガソリンスタンドが桜田ビルの1階に有ります。このスタンドが堀を埋め立てた跡の地に建てられたもので、通りの反対側にある大同生命ビルも堀跡のビルです。この両ビルに挟まれた地に新シ橋があったのです。堀跡のスタンドの東隣が日本の清酒を束ねている日本酒造組合中央会です。ここに行くと週替わりで新しい名酒に巡り会えると言われています。その先が日本競馬会のビル、・・・話を戻します。
 新シ橋の北側は飯野ビルで、東京落語会が開催されていたイイノホールがあったことで有名ですが、現在は老巧化が進んで、立て替え工事の真っ最中です。その先が日比谷公園から、二重橋が見える皇居外苑になります。日比谷公園の道を渡った弁護士会館の地は大岡越前の住居跡です。
 新シ橋に戻って南下すると、落語「黄金餅」の道筋で愛宕山に出ます。交差点東は新橋駅に出ます。西に行けば正面に日本最初の超高層ビル・霞ヶ関ビルが見えます。溜池から赤坂見附交差点に通じます。右手側は中央官庁街、国会議事堂や首相官邸もここに有ります。

 行きすぎました。西新橋一丁目交差点を南に渡った西側が讃岐・丸亀藩主京極佐渡守上屋敷です。現在は銀行を含むオフィスビルが林立し、地下鉄駅も真下にあって便利なところです。万治3年(1660)に讃岐の金刀比羅大神を江戸藩邸に勧請し、邸内神としました。その後、延宝7年(1679)現在の虎ノ門に移します。金比羅人気が高まった文化年間(1804〜18)に京極家では毎月10日に限り一般の参詣を許し、大変賑わいました。その金比羅さんは落語「みそ豆」で歩いた虎ノ門の金比羅神社で、ビジネス街に根を下ろしています。

地図

   地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

本所割下水跡(墨田区亀沢・北斎通り)
 南割下水の現在の情景ですが、葛飾北斎がこの地に住んでいたので、北斎通りと命名されています。
 写真は西を見ていますが、突き当たりの両国・江戸東京博物館が遠望できます。

坂部安兵衛屋敷跡 (墨田区亀沢4丁目12〜14&26〜28)
  当時の住所で「本所三笠町一、二丁目御賄方大縄地」の一画に坂部屋敷があったのでしょう。割下水に面した現在の三ツ目通りと、北斎通りが交わる所です。

三遊亭圓朝旧居跡(墨田区亀沢3丁目20)
  上記坂部屋敷から西に200mも離れていない所に作者、三遊亭圓朝が住んでいました。写真右側の茶色いビルがその跡です。左側の白いビルの右奥(亀沢2−11)に「河竹黙阿弥終焉の地」の標柱が建っています。河竹黙阿弥(文花13年(1816)〜明治26年1月)は歌舞伎作家として350余の作品を残して78才でここで亡くなりました。

永井源助屋敷跡(千代田区一番町13一番町東急ビル)
 表三番町は無いと言いましたが、同名の屋敷がここにありますので、そこを尋ねました。永井貞之助屋敷跡がここで、地下鉄半蔵門線の半蔵門駅の出入り口がここにあります。

新シ橋跡東(港区西新橋1−3東京桜田ビル。1F・エネオスガソリンスタンド)
 写真左側の大通りが新シ橋の通りで、自動車が止まっているあたりに新シ橋があった。右側の茶色いびるが堀の跡に建ったビルで、1Fがガソリンスタンドになっています。その左は下記写真。

新シ橋跡西(千代田区霞が関1−4大同生命霞ヶ関ビル)
 上記右側に対して、左側は堀も埋め立てられてビルになっています。そのビルは大同生命霞ヶ関ビルです。この元新シ橋が区境になっていますので、千代田区と港区が接近しています。

新シ橋京極備中守上屋敷跡(港区虎ノ門1丁目3〜8)
 上記新シ橋からビル一つ南の外堀通りの、西新橋一丁目交差点右向こう角に有ったのが京極備中守上屋敷でした。外堀通り右突き当たりが日本最初の超高層ビルとして有名な、霞ヶ関ビルです。京極屋敷内に金刀比羅宮を勧請し祀られていた。

                                                    2010年7月記

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