落語「江島屋騒動」の舞台を歩く
   

 

 五代目 古今亭志ん生の噺、「江島屋騒動(えじまやそうどう)」によると。
 

 深川の佐賀町に住む、倉岡元庵(くらおか・げんあん)と言う医者が亡くなった。残された女房のお松と娘のお里(さと)は医者が出来ないので、故郷の下総の大貫(おおぬき)村に引き下がった。

 村の権右衛門が訪ねてきて、「名主の源右衛門からの頼みで、息子の源太郎が見初めてしまったのでお里を嫁にくれ」との依頼であった。娘の幸せになる事だからと思ったが、貧乏なので嫁に出せない。名主の方では母親ともに面倒を見るという。その上、支度金として50両出すという。
 婚礼は早いほうがイイという。婚礼衣装は誂えていたら間に合わないので、古着にする事にした。天保2年9月江戸に出て、芝神明の祭りを見て、芝日陰町の古着屋街の大きな店構えの江島屋に入った。婚礼衣装や普段着を45両2分で買い求め、船便で送らせた。

 婚礼は10月3日に決まった。権右衛門が仲人だとやって来た。花嫁は馬に揺られて名主宅まで行くのが当時の習慣であった。歩き始めると雨が降りだし、着く頃には濡れ放題に濡れてしまった。
 どの家でもその晩、嫁に飯の給仕をさせた。7〜80人もの来客にかいがいしく飯盛りをしていたが、酒が回ってきて、着物を触る奴や裾を踏んづけて眺める奴が出てきた。そこにお替わりの声が掛かったので、「ハイ」と立ち上がると、婚礼衣装はのり付けされたイカモノで下半身が取れてしまった。ワァーッとみんなは笑ったが、お里はそこに泣き崩れてしまった。名主は怒って「破談だぁ、やめたー。」と言う事で、婚礼は破談になり家に帰ってきた。

 お里さんが居ないので探しに行くと、十七になるお里は神崎(こうざき)の土手に恨みの着物の片袖をちぎって、柳に掛けて身を投げてしまった。その死骸も上がらなかった。

 江島屋はイカモノを随分売って儲け、4間間口の袖蔵付きの立派な店舗を構えていた。店の者はみんなそれを知っていたが、儲けにつながるので誰も黙っていた。
 ある時、番頭の金兵衛が商売で下総へ行って、佐倉から奥の方へ行った藤ヶ谷新田で、雪の中、道に迷って夜も深くなり、やっと田圃の中のボロ小屋を発見、ここに寝かせて貰う事になった。歳は六十七、八の老婆が一人、白髪をおどろに乱して、ガリガリの頬で、あばらが出ていて、あわせのボロを一枚素に着ているだけであった。まるで一つ家の鬼婆ぁとはこの婆さんの事かと思われ、ふるえた。
 煙くて目を覚ますと、婆さんは囲炉裏に友禅の切れ端をくべて何か字を書いて箸で突き刺し、壁に貼った紙には5寸釘が打ち付けてあり、持った石でガチンと叩きつけていた。あまりにも形相がスゴイので訳を聞くと、「芝日陰町江島屋にだまされ娘の婚礼は流れ、死んでしまった」、と言う。なんと自分の店の事であった。そこの者全員をのろい殺す為にやっていると言う。灰の中に「目」の字を書いて、箸で突いて盲目にして、壁の紙は受取で、店を潰してやりたいと念じている。
 驚いた番頭は夜の明けるのも待ちきれず、江戸に戻ってきた。

 店に「忌中」の札が下がっていた。聞くと奥様が急死したと言う。通夜の晩に小僧が2階から落ちて死んだ。その3日後、仲働きが包丁につまずき、それが元でまた葬儀が出た。

 日が暮れて、雨も降ってきた。商品を調べたいと主人は番頭を呼んで、蔵に行った。蔵の中に女物の着物が積んであった。番頭がその上を見ると、島田に結った若い女が立っていた。よく見ると腰から下がスッとない。蔵には入りたくないと言う。その上「イカモノはいけません。旦那」と言ってしまった。
 藤ヶ谷新田での婆さんの事を詳しく主人に話して、「江島屋を盲目にしてやる」との話しもした。「灰に目の字を書いたところに箸をタァッと刺すと、」と言うと、旦那は痛い痛いと言って、「金兵衛さん本当に刺さないでくださいよ」と言った。「いえ、話だけで何もやっていません。で、つまりね、目の字を書いて振り袖をビッと裂いて中にくべて『おのれ、江島屋』、ガッとね」。「あ!痛い。やだよ番頭さん、両の目が見えなくなった」。
 植え込みを見ると、藤ヶ谷新田で見た痩せ枯れ果てた婆さんが、濡れたまんまでスゥーッと来て、縁側にヒョイと上がってくるのを見た。金兵衛は「ワァ〜ァッ」と目を回してしまった。

 江島屋が潰れるという一席の噺でございました。

 


 この噺は三遊亭圓朝が、明治2年(31歳)のころ創作した怪談話です。正式な演題は「鏡ヶ池操松影」(かがみがいけ・みさおのまつかげ)といい、原典は15席にもおよぶ長編で、ストーリーは複雑に絡みます。
 この花嫁の前半の明るいところと、後半のお里の入水から破れ家の老婆の呪いあたりが代表的な場面。志ん生が好んで演じた夏の演題で、上下2席分を続けて演じています。

  作者三遊亭円朝については、第48話「お若伊之助」に詳しく記述 しています。

 

1.鏡ヶ池(台東区清川1−27)
 この池は玉姫(玉姫神社)の悲話の他に、遊女と若い僧侶の悲話(釆女塚)、梅若丸と母花子の悲話(妙亀塚)と悲しい話がまつわる池。
 鏡ヶ池のあった浅茅(あさぢ)ケ原は、現在の橋場と清川のあたりを指した。「江戸名所図会』によると、鏡ヶ池の面積は、文政(1818−29)の頃、約500平方メートル、現在の地図と照合すると、清川1−27南側にあったという。

江戸時代の鏡ヶ池
 この地に砂夫長者といわれる分限者が住んでいた。その娘玉姫は、恋する若者に失恋し、近くの鏡ヶ池に身を投げて死んでしまった。この悲恋の玉姫を祀ったのが玉姫稲荷だという。
  この辺りは、浅茅が原と呼ばれたところで、中世の頃は荒涼とした原野であり、湖沼も多くたくさんの水鶏(くいな)が棲んでいた。ここには古い奥州街道が走っていて、浅草橋から今戸を通り、橋場の渡しで常総国に出るのである。
  奥州街道の橋場松並木には妙亀堂がみえる。人さらいにさらわれた息子、梅若丸を探し求めて、はるばる京からこの地に来て、愛児の死を知った母は、この地に草庵を結び冥福を祈った。母は出家し妙亀と名乗った。
  妙亀堂の道の反対側に鏡ヶ池がある。この池は明治18年頃埋め立てられたという。

(台東区ホームページより)

 玉姫神社(たまひめじんじゃ。台東区清川2−13) 玉姫という娘が悲恋の末、近くの鏡ヶ池に身を投げたという。この玉姫を祀ったのが始まり。
 と言われているが、神社側の説明によると、正慶2年(六百余年前)新田義貞、鎌倉の北条高時を追討の際当社に参拝し、戦勝を祈願せし時、稲荷大神の像を瑠璃(るり)の宝塔に納めせしより玉秘め(玉まひめ)の名起こる。と、記述されていて、どこにも玉姫の事には触れていません。

 ■釆女(うねめ)塚碑(台東区清川1−13。鏡ヶ池跡南隣、出山寺境内) 江戸時代の初期、寛文年間(1661−72)新吉原雁金(かりがね)屋の遊女「采女」に心を寄せた若い僧侶が、師から固く制され悩んだ末、雁金屋の前で自害してしまった。
 采女は悲しんで浅茅(あさぢ)ケ原の鏡ヶ他に身を投げた。時に十七才。翌朝、草刈りの人たちが
  「名をそれとしらずともしれさる沢の あとをかがみが池にしずめば」
としるした短冊を見つけ、采女とわかり、塚に葬った。(采女塚碑説明板より)

 ■妙亀(みょうき)( 台東区橋場1−28) 妙亀塚は謡曲『隅田川』で知られる梅若伝説に由来する、梅若丸の母は貞元元年(976)人買いにさらわれたわが子を追って隅田川のほとりでその死を知る。そして妙亀尼と称し霊を弔うが、悲しみのあまり鏡ヶ池に身を投げた。
 辞世「かくはかり我が面影は変わりけり浅茅が池の水かかみ見て」の言葉を残して入水しました。妙亀塚はその妙亀尼の墓であると言われる。落語「松葉屋瀬川」で梅若堂を紹介。

 ■(うば)ヶ池(台東区花川戸2−4花川戸公園内東部) 現在は花川戸公園に跡碑と人工池が残るだけですが、隅田川に注いでいた大きな池。一ツ家の伝説で有名 。

 「姥ヶ池」の由来と言う『一ツ家』の伝説が有ります。これは、昔、この地に若くて綺麗な娘とそのお婆さんが住んでいて、旅人を家に呼び入れては夜中に石で頭を割って殺し、金品を奪っていました。999人殺め、後一人と言う時にこれを見ていた隣の浅草寺の観音様が、旅人になって泊まった。老婆はいつもの様に殺したつもりが、朝になってみると愛する娘を殺していた。嘆き悲しんで、罪を報いて近くの池に身を投げてしまい、その池を「姥ヶ池」と言う様になったと言われます。この池がこの近くに有ったが、明治24年に埋め立てられて当時の池はありません。
(公園説明板より) 位置的には同じ所になります。

 ■橋場(はしば)
  橋場は江戸時代から根岸と並んで風流で雅趣に富んだ土地柄で、大名や大店の寮(別荘)が隅田川河岸に並んでいた。江戸名所図絵にも「都鳥ノ名所ナリ」と描かれ、付近の浅茅が原には水鶏が多く棲んでいた。
  また今戸から橋場にかけては有名な料理屋が多かった。橋場の柳屋、今戸橋の有明楼、吉野橋の八百善などは高級料理屋として、華族や文人などが出入りしていた。
  維新後もこの土地柄は続き、皇族.華族や財界の大物の屋敷が建ち並んでいた。川沿いの今戸方面から北へ、細川護成、大河内子爵(高崎藩主)、小松宮彰仁親王、郷誠之助男爵(日本商工会議所会頭)、有馬頼寧伯爵(久留米藩主)、三条実美(太政大臣)などの屋敷がずらりと並んでいた。 (台東区説明版より)


2.
芝神明の祭り(港区芝大門1-12-7、正式名;芝大神宮)
 平安時代、寛弘2年(1005)創建された、関東の伊勢神宮として栄えた。毎年9月11〜21日まで行われる「だらだら祭り」として有名です。特に16日は例大祭のピークです。またこの時、生姜が売られ目の予防と、その生姜を食べる事によって風邪を防ぐ、と言われています。 今年(2005.9月11〜21日)は創建1000年を迎えるので、壱千年記念大祭が盛大に行われます。第13話落語「富久」でも歩いた所です。
写真をクリックすると大きなカラー写真になります。

だらだらと だらだらまつり 秋淋し 万太郎

 ■芝日陰(しば-ひかげ)町江島屋;現在の港区新橋2〜6丁目 、第一京浜国道西側に平行する道が、俗に言う芝日陰町です。古着屋が多くて、江島屋のようなイカモノ商売を手がけている店が多かったようです。
 着物というものは反物を誂えて仕立てて着るものです。着物屋さんに誂えたのでは時間が掛かりますので、今で言う既製品で間に合わせようとしたものです。古着屋と言っても、仕立て済みの新品同様の高価な物から本当の古着までいろいろありました。しかし、あくどい店では相手の無知を良い事に、今回のようなイカモノで蔵を建てるような店もあったのでしょう。
モノクロ図版;『古着屋』、「江戸見世屋図聚」 三谷一馬著 中央公論社より
江島屋とは違いますが、この様な店構えで営業していたのでしょう。


3.
深川の佐賀町
 ■佐賀町
(さがちょう。江東区佐賀町)永代橋の東詰北側の町。かつてこのあたり一帯は海岸の干潟でしたが、埋立地として寛永6年(1629)に開発された深川猟師町八か町のうちで、はじめは開発者の名をとり藤左衛門町、次兵衛町といった。その後、両町の地形が肥前の佐賀港に酷似しているところから佐賀町と改められました。水運が盛んだった時、倉庫の町として発展、三井倉庫は有名で江東区佐賀 2−8に今でも有ります。水運が盛んであった往時をしのばせる水辺の光景で、水彩都市江東区の原風景でもあります。

 ■倉岡元庵;この噺の中で登場人物の名前を、圓朝は実在の人物の名を使用しています。
  「江島屋騒動」を作る前の年に、朝太郎という長男をもうけていたが離婚をしています。その時の妻の名前を「お里」、その実父の名を「倉岡元庵」と言った。また、医者・倉岡元庵はここでは描かれていませんが、悪人として描かれています。 別れた相手方に相当嫌な思いをしていたのでしょうね。


4.
神崎(こうざき)の土手(千葉県香取郡神崎町)
 
成田から北に上がった利根川沿いの町です。土手とは利根川の土手を指します。
香取郡神崎町;北を利根川に接し、西に下総町、東に佐原市、南に大栄町に接しています。人 口約6,700人(平成17年)
  神崎には隣同士に2軒の有名な造り酒屋があります。寺田本家鍋店です。

 ■下総(しもふさ)の大貫村(千葉県香取郡神崎町大貫);大貫村には大貫陣屋があった。比高30mほどの天神山の下には陣屋時代の町並みの一部が残こされている。慶長4年(1599)、大貫村周辺の15カ村三千石が藤堂高虎の弟、正高に与えられたのが陣屋の始まり。その後、元和5年(1619)、津藩藤堂氏の領有となり明治まで陣屋は続いたという。
 力のある名主と言っていますので、大貫陣屋の主をモデルにしていたのかも知れません。

 ■佐倉から奥の方へ行った藤ヶ谷新田千葉県柏市藤ヶ谷新田。沼南(しょうなん)町が柏市と今年合併して今は柏市ですが、東葛飾郡沼南町 藤ヶ谷新田が元の住所です。手賀沼の南側に位置する町。近くにガーデン藤ヶ谷ゴルフレンジ(ゴルフ場)があります。落語では佐倉の奥だと言っていますが、間違いではないでしょうか。 柏(藤ヶ谷新田)は松戸と我孫子に挟まれた場所で、佐倉からでは30kmは有りますので、迷って行き着く所ではありません。でも、昔の人は健脚だから・・・。
 写真は藤ヶ谷新田の田畑。こんな人気の無い中に、ぽつんと一軒のあばら屋があったのでしょう。写真をクリックすると大きなカラー写真になります。

 ■一つ家の鬼婆;噺の中で、お松さんが鬼婆のようになって、呪い殺そうと祈っている姿を番頭が見て、「一つ家の鬼婆の様だ」と震え上がります。圓朝の高座ではこの場面の鬼婆は本当に怖かったと云い伝わっています。この鬼婆は”1.”で説明した姥ヶ池の鬼婆の事です。


5.イカモノ
【如何物】 (「いかさまもの」の略)
 1.にせもの。まがいもの。「―をつかまされる」
 2.(主に食べ物について) 普通と違った妙なもの。
いかもの‐し【如何物師】にせ物を作ったり売ったりする人。いかさまし。
(広辞苑)

 志ん生は噺の中で、このイカモノの着物は糊付けされただけのもので、雨に当たった為に、糊がはがれて下半身が取れてしまった。通常婚礼衣装は2度着る物ではないので、このようなイカモノを混ぜて大儲けしていた。
 仲間内で「あいつの着ている物は江島屋ではないか」、なんてぇ事を良く言ったものです。私も苦しい時に着物の裾が破けて、仕方がないのでスソを切ってしまい、袴を着てごまかした。だから横からまくってみると、「江島屋じゃねぇか」なんて言う事がよくありましたもんで・・・。

 


  舞台の浅草北・芝神明・佐賀町を歩く

 浅草寺の北側、鏡ヶ池跡に行きます。ここら辺りは中小工業が多かったところで、今でもその名残があります。江戸切り絵図(古地図)で探すと鏡ヶ池は台東区清川1−27の一画になります。埋め立てられて100年以上経ちますので、今の状況から推測する事も出来ません。この上に建った建物も3代目、4代目の建物になるのでしょう。
 その真南の赤く塗装された出山寺境内に采女塚があります。元禄9年(1696)正月に詠んだ、宝井其角(きかく)の句碑「草茎をつつむ葉もなき雲間哉」の句碑もあります。
 前の一方通行の道は古い奥州街道ですが、ここを渡った一本奥の場所に妙亀塚があります。ここは三方を細い道に囲まれた公園状の中央に小山のように土盛りされた塚があります。妙亀塚はその妙亀尼の墓であると言われています。頂上部の板碑との関係は分かっていないと言われる。そこにも 造花ですが手向けられているのには心温まります。
 玉姫稲荷神社は鏡ヶ池跡から北に2−3分の所にあります。かなり大きなお宮さんで、口入稲荷が同じ境内に鎮座しています。

 一ツ家伝説で有名な鬼婆が居ると言われる、花川戸公園の姥ヶ池を訪ねます。浅草寺の東側、二天門の交差点を隅田川方向に曲がります。都立産業会館の大きなビルの向こうに花川戸公園があります。その一番先に現代の顔になった姥ヶ池と祠があります。江戸切り絵図で調べても大きさ位置は同じぐらいです。頭を割ったという石も浅草寺の末社で今も保存されています。どんな石なのでしょう。ここには「花川戸助六」の碑や「履物問屋街発祥の地」碑が建っています。
 その石とは、巾およそ30cm、横およそ12cm、高さおよそ10cm、黒色のちょうどソラ豆を大きくしたような石です。この石は豆と同じように中央が少しくぼんでいます。この石で殺したのではなく、石枕だったと言い「姥宮枕石」と記録されています。妙音院蔵、淺草寺本堂再建50周年記念で展示され、ガラスケースの上から目測したもの。妙音院(みょうおういん、浅草2−31−3)は浅草寺の子院。撮影禁止なので写真はありません。
「姥宮枕石」の項、08年11月追記。

 浅草を後に芝神明を訪ねます。JR浜松町で降りて東京タワーが見える方向に歩き出します。第一京浜に出たところが「大門」交差点。間違っても”おおもん”とは読まないでください。おおもんと読むと吉原になってしまいます。ここは”だいもん”です。右奥に芝神明が有ります。今は静かですが、壱千年祭を迎える準備が刻々と進んでいるようです。境内には日光から贈られた千年杉が置かれていました。祭事と何処かでリンクするのでしょう。千年に一回の祭りを9月に見に来る事にしましょう。

 芝日陰町江島屋はここから新橋方向に歩いて行くと、第一京浜の西側の道で、その道中が芝日陰町にあたります。新橋と大門に挟まれたごく普通の町並みで、当然 (?)古着屋、洋服屋、衣料品店は一軒も有りません。

 永代橋を渡った左側の街が佐賀町です。色気のある街ではありませんので、夏の暑さに負けないように、水でも買って早々に引き上げる事にしましょう。

 

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。  

写真

それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

鏡ヶ池跡(台東区清川1−27)
裏に回ると民家や小さな工場が混在しています。ここに住んでいる人達は夏涼しくて良いかも知れませんよ。(ゴメン、ジョークです)

玉姫稲荷神社(台東区清川2−13)
玉姫と関係がありそうな無さそうな不思議な神社。宮司さんに聞いてみました。本殿の前に由来書があるのでお持ち帰り下さい。との優しいお言葉でいただいてきましたが、その件については何も記述がありません。気弱の私は戻る事も出来ず帰ってきました。(-_-;)嗚呼

釆女(うねめ)塚碑(台東区清川1−13。出山寺境内) 
碑は、文化元年(1804)大田南畝ら文人たちによって建立。第二次世界大戦で火をあびて、一部剥落しています。

妙亀(みょうき)(台東区橋場1−28)
妙亀塚の上に建つ板碑。妙亀塚はこんもりと山状になった部分で、この板碑が彼女のものかどうか、判明していません。彼女のものと信じましょう。

姥ヶ池(台東区花川戸2−4 花川戸公園内)
今はこの花川戸公園に復元されています。まるで昔話の世界が今でもここに有るようです。
池の中央には小さな島があり祠が二つあります。一つは姥ヶ池福寿稲荷大明神、もう一つは姥宮沙竭羅龍王の幟がはためいています。

芝日陰町
国道15号線・第一京浜国道です。写真奥が新橋、手前左奥が芝神明、後ろが品川に至ります。この国道の左側に平行に走る裏道が俗に言われた芝日陰町です。どうしても見たい方はここをクリック

芝神明(港区芝大門1-12-7、正式名;芝大神宮)
静かなたたずまいの江戸のお伊勢さんです。この神社の裏には芝増上寺があり、その向こう隣には東京タワーが見下ろしています。

深川の佐賀町
永代橋上から望んだ佐賀町です。昔は倉庫の多い事で有名でしたが、最近では普通の街になってきました。

                                                       2005年8月記

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