落語「高田の馬場」の舞台を歩く

  
 

 三遊亭金馬の噺、「高田の馬場」(別名;仇討ち屋)によると。
 

 浅草観音の境内で、がまの油売りをする姉弟。客寄せの口上を述べている。
「さぁ〜て、お立ち会い。ご用とお急ぎのない方は…。陣中膏がまの膏薬。さぁ、持ち出したるは四六のガマ。四六、五六はどこでわかる。前足の指が四本後ろ足が六本、これを名付けて四六の ガマ。住めるところははる〜かこれより北にあたる 35里筑波山の麓だ、お立ち会い。おんばこという露草をくらって成長する。油をとるには四方に鏡を張り、下に金網を敷いてその中にガマを追い込む。ガマは己の姿が鏡に映るのを、己と己の姿に驚 き、じりり、じりりと脂汗を流す。これを、下の金網に抜き取って、三・七、二十一日間、柳の小枝をもって、とろ〜りとろ〜りと煎じつめて、出来上がったのがこの油。…、ここに取りいだしたる刀、鈍刀とは言え、ここにある半紙 を、1枚が2枚、2枚が4枚、4枚が8枚、8枚が十と6枚、十と6枚が三十と2枚、三十と2枚が六十と4枚、六十と4枚が1束と28枚、フゥ〜(手の中の半紙を吹き上げながら)雪降りの景。この様に切れる刀でも、この膏薬を付けるとたちまち切れなくなる」。そのうえ切り傷、古傷にも薬効があると言う。

 それを見ていた人だかりの中から、年の頃は六十前後の侍が油売りに声をかけた。二十年前に受けた古傷に、がまの油が効くか、と尋ねる。傷を見ないとわからぬと油売りの男がこたえると、背中に受けた古傷を見せ、昔、不義を働こうとして受けた傷であると懴悔話をする。
 それを聞いた、油売りの姉弟は、武家の名前をきくと「岩淵伝内」と名乗る。「すわ、親の仇、我こそは…二十年前に貴様に討たれた…、」と仇名乗りをあげ 、姉は「親のかたきぃ〜!」。境内は騒然となった。岩淵伝内は「観音の境内を血で汚すわけにはいかぬ」と、翌日牛込高田馬場で巳の刻に果たし合うことを約して去っていく。

 これを見ていた者たちから噂が噂を呼んで、次の日、高田馬場は仇討見物の客でごったがえした。臨時のかけ茶屋まで出る大にぎわい。
 誘い合わせて仇討を見に来た男たちが、茶屋に入り一杯やりながら刻限を待っていたが始まらない。巳の刻をとっくに過ぎた頃、くだんの侍が徳利をならべてすっかり酔っぱらっているのを発見。
 その武士に訳を尋ねると、岩淵伝内は仮の名前、自分は仇討ち屋である、と言う。がまの油売りは自分の子ども達、狐につままれたような心もちの男に、
「ああしておけば、本日ここに人が出る。茶店の上がりの二割をもらって楽く〜に暮らしておる」。
 


 

1.高田の馬場跡(新宿区西早稲田3−1&2〜12&14で囲まれた長方形の土地)
 
馬場は寛永13年(1636)に造られたもので、旗本達の馬術の練習場であった。
 また、穴八幡神社に奉納する為催された流鏑馬(やぶさめ)が行われ、将軍の供覧に入れた所でもある。
 享保年間(1716〜1753)には馬場の北側に松並木が造られ、8軒の茶屋が有ったと言われる。土地の農民が人出の多いところを見て、茶屋を開いたものと思われる。
 また、馬場の一角、茶屋町通りに面したところは堀部安兵衛が叔父の菅野六郎左衛門の決闘の助太刀をしたとされるところで、水稲荷神社
(西早稲田3−5−43)の境内には「堀部武庸加功遺跡之碑」が建っている。
(平成3年11月記 新宿区教育委員会説明板から)

 右図;名所江戸百景「高田の馬場」広重画  図をクリックすると大きくなります。 09.09図追加

高田の馬場の流鏑馬(”やぶさめ” 新宿区指定無形民族文化財、新宿区西早稲田2−1−11穴八幡神社内)
 享保13年(1728)徳川将軍吉宗が世嗣のホウソウ平念祈願のため、穴八幡神社へ奉納した流鏑馬を起源とし、以来将軍家の厄除けや若君誕生の祝いに高田の馬場で流鏑馬が奉納された。
 明治維新以降中断し、昭和9年に皇太子(現天皇)誕生祝いの為再興され、数回行われたが、戦争の為中断。昭和39年流鏑馬の古式を保存する為、水稲荷神社境内で復活し、昭和54年からは都立戸山公園内に会場を移し、毎年10月10日高田馬場流鏑馬保存会により公開されている。
 
(平成4年記 新宿区教育委員会説明板から)

 流鏑馬とは走る馬の上から弓をつがえ、矢を的に適中させる武術。見ていると手放しで馬上から弓矢を使い的を狙って射抜く様は感嘆に値します。
  やぶさ‐め【流鏑馬】(広辞苑より)
騎射の一種。馬上で矢継ぎ早に射る練習として、馳せながら鏑矢(カブラヤ)で的を射る射技。的は方板を串に挿んで3所に立て一人おのおの3的(ミツマト)を射る。平安末期から鎌倉時代に武士の間で盛行。現在は、神社などで儀式として挙行。三的。
 
 やぶさめ  写真提供 NHK
 

2.堀部安兵衛(新宿区西早稲田3−5−43 水稲荷神社境内)
 「堀部武庸加功遺跡之碑」を補完する為に書かれた説明板「高田馬場堀部安兵衛助太刀の由来」より、
 安兵衛の本姓は中山氏、越後新発田に生まれる。実父彌次右衛門は溝口信濃守の家来で、一族は家老上士の身分家柄であったが、故有って浪人した。父没後、19才の時江戸に出て、小石川牛天神下の剣客堀内源左衛門に師事し、たちまち高弟を抜いて実力を現した。師の代稽古を勤める様になっていた。 四国の松平左京太夫の家臣、菅野六郎左衛門 と親交し叔父甥の義盟を結んだ。たまたま菅野と同僚の茶坊主、村上庄左衛門と不和、決闘の事を生じ、安兵衛を訪ね決別、後の事を頼んだ。敵は武芸自慢の村上三兄弟。安兵衛は義叔父に助勢のため、菅野若党、ぞうり取りと同道して決闘の場に臨んだ。
 元禄7年(1694)2月11日巳の上刻(午前11時半頃)村上庄左衛門一人馬場末に待ちかまえ、二兄弟は木陰に身をひそめ、左右より菅野を襲い討たんと謀っていた。安兵衛は菅野を護衛して進み、躍り出た弟三郎右衛門と切り結び、これを倒し、次いで駆けつけた敵中津川祐見をも斬る。菅野と村上は互いに傷つき闘っていた。菅野老人危うしと見た安兵衛は血刀をふるって、庄左衛門を斬り伏せた。家来とともに菅野を介抱して帰る途中、絶命した。
 安兵衛の武勇の誉れを聞いた播州赤穂藩江戸留守居役堀部彌兵衛が安兵衛を招待対面して、その人物に惚れ込み、人を介して再三交渉の末、娘”ほり”の婿養子になる。かくて安兵衛は浅野家馬廻役二百石勤仕となる。その後数年を経て、浅野内匠頭、吉良上野介殿中刀傷事件が起こり、内匠頭切腹、御家断絶。武士道の忠義心に凝る堀部父子は大石内蔵助を盟主とする赤穂四十七士と共に吉良邸に討ち入り、名高き元禄快挙を遂げた。元禄16年2月4日幕命により身柄預け先の松平邸
(落語「井戸の茶碗」で説明の細川邸)で切腹。行年34才。法名を「刃雲輝剣信士」。高輪泉岳寺に葬られている。これとは別に表忠墓碑は堀部家菩提寺の万年山青松寺(港区)に在る。
(昭和43年記 中央義士会説明板より抜粋、行田さん個人が建てた碑なので史実的に間違いもあったので、修正してここに書き改めたとある)

 「堀部武庸加功遺跡之碑」とは、彼の本名を堀部安兵衛武庸(ほりべやすひょうえたけつね)と言います。最初の4文字は彼の名前で、加功とは助太刀するとの意味です。”安兵衛助太刀の場所の碑”とでも言うのでしょう。

  過去の事ですからどちらが正しいか分かりませんが別説があります。<義士外伝から>
 決闘の当日、叔母から知らせを受けた安兵衛は八丁堀(中央区)から鍛冶橋、竹橋、飯田橋、改代町(新宿区)、馬場下、高田馬場と10km以上走りに走った。途中改代町16番地の松の根方で一休みしたので、その松を”安兵衛腰掛けの松”とよばれた。馬場下の酒屋で息継ぎに一升酒を飲んで馬場に駆けつけたが、時既に遅く、村上一派は祝杯の真っ最中。斬り込もうとしたがタスキが無く、落ちている”お縄”で代用しようとしたが、見物人の中の娘が「仇討ちにお縄は不吉」と言って、着けていた赤いしごきを安兵衛に。赤いタスキをした安兵衛は八人を斬り倒し、仇を討った。その娘”お幸”は浅野家の家臣、堀部弥兵衛の娘で、安兵衛は堀部家の婿養子になった。

 写真;創業1678年頃創業の老舗「リカーショップ小倉屋」(新宿区馬場下町3)。安兵衛が升酒をあおった店で5合升で3杯飲んでから駆けつけたと言う。当時の酒はアルコール度数がもの凄く低かったので水代わりに飲まれたのであろう。その宝物の升は銀行の貸金庫にしまわれている。
毎日新聞2007.12.16日曜くらぶ「池波正太郎を歩く」より引用。店主栗林昌輝さんと酒升。
 

3.浅草奥山
 浅草寺本堂の西側裏手一帯の場所。昔、浅草公園(境内)を分けた時五区と言われたところ。今でも六区は有名で、興行街として賑わっていて、この六区という名前が残った。今の奥山は浅草寺に因む記念碑や小屋がけの飲み屋や、駐車場があってさびれた雰囲気がただよう所ですが、当時は両国広小路と並ぶ繁華街でもあった。吉原に抜ける近道でもあったが、ここで楽しんで帰る男達も結構いた。なぜ?・・・、それは23話、落語「付き馬」の解説”奥山”をご覧下さい。
 

4.四六のガマ
 
解説が最後になってスイマセン。 ところで、がまの油のガマといえば四六のガマですが、実は四六のガマっていうのは、そんなに珍しいものではありません。というよりも、四六でないガマって存在しないのです。 という 事は、ガマ(=ヒキガエル科)は前足の指が4本、後ろ足の指が6本あるのが特徴です。すなわちガマは全て四六のガマなのです。
手品のネタをばらしたみたいで、写真載せようと思っていたのですが、ヤーメタ。
 昔、筑波山に行った事があり、その時四六のガマを見ているのですが、ここだけにしか生息していない、醜いガマだと記憶していたのは一体何だったのでしょう。子供の時分はよくガマを捕って遊んだものですが、指の数までは観察した事がありませんでした。
 がまの膏は今でも筑波山名物で売られています。軟膏で切り傷、肌荒れ、ひび、しもやけに効能があるようです。がまの膏の主成分は馬脂(ばーゆ)です。この馬脂が肌に良いようです。でも、ガマを鏡に追い込んで・・の様な造り方は昔からしていません。
 落語「蝦蟇の膏」で詳しく解説しています。
 


  舞台の高田の馬場跡を歩く
 

 早稲田通りの五差路交差点”西早稲田”を北に路地を入ると右が2番地、左が1番地。ここから西に長方形の地形が続き13,14番地で囲まれた所が「高田馬場跡」です。先ほどの路地の先、四つ角に新宿区が建てた説明板に書いてあります。馬場跡の北側を通る道が、8軒の茶屋が有ったところから”茶屋通り”と言いますが、何処にもその表示はありませんが、地元の人に聞くと「そうです」と力強く答えてくれます。通常の商店街でもないので表示板もないのでしょう。
 高田馬場が明治に入って管理を委託されていた、茶屋の1軒、行田家に払い下げられた。その行田さんが安兵衛の討ち入りを見物していたので、後年「堀部武庸加功遺跡之碑」をこの通りの3−1−12に建てた。土地売却の為、水稲荷神社に昭和46年に移設された。行田さんの本家も分家もこの通りに今もあります。水稲荷の境内に行くには馬場説明板の北側、マンション郡の端を廻りながら抜けていくと、出たとこが境内の入り口 (裏口?)。その道の甘泉園よりの大通りに出る所にあります。
 茶屋通り中程の北側に数年前までお風呂屋さん”安兵衛の湯”(3−4−8)が有ったが、今ではマンションになってしまった。南こうせつとかぐや姫が歌う『神田川』、”♪二人で行った横町の風呂屋・・・”がここであった。作詞者の喜多条忠さんが早稲田大学在学中に”♪小さな石けんカタカタ鳴った”ように、通っていた。お風呂屋さんの西田さんもこの近所に住まわれています。

 安兵衛腰掛けの松は、今何処にもその跡はありませんし、マンションの中に埋め込まれてしまったのでしょう。隣のお寺さん「田中寺」(新宿区改代町)の御住職さんに伺いましたが、話は知っているが見た事がないと言われます。
 酒をあおった安兵衛ですが、高田の馬場は目と鼻の先。そこで酒をあおっていないで走ったら、既に到着しているはずです。安兵衛も人の子、恐かったのでしょうか。それとも、喉がカラカラ。

 

地図

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写真

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高田の馬場跡(新宿区西早稲田3)
写真中央に高田の馬場跡の説明板。左の一方通行の出口の道が茶屋通り。奥に向かって左手が馬場跡です。

茶屋町通り
茶屋通り中程の旧家の商店。左側のマンションが元”安兵衛の湯”があった所。商店の数より住宅の数の方が勝っている様です。表通りの早稲田通りに行けば、コンビニもマクドナルドも本屋も有りますから。

  

堀部安兵衛の碑(水稲荷神社境内)
「堀部武庸加功遺跡之碑」
撰(せん=文章)漢学者信夫恕軒
筆 日下部東作
篆額(てんがく=上部横書きの題字)元老西園寺公望
という蒼々たる碑で、なかなか読み下せない (^_^;

穴八幡(新宿区西早稲田2−1)
高田の馬場は穴八幡神社に奉納する為催された流鏑馬(やぶさめ)が行われ、将軍の供覧に入れた所。
馬場跡、西早稲田交差点から歩いて東に1〜2分の所にあります。

浅草奥山
今は浅草の境内で一番静かな所でしょうが、
 当時、『【銘酒屋】明治時代、銘酒を飲ませることを看板にし、裏面で私娼を抱えて営業した店。【矢場】(表面は楊弓店を営みながら矢取りの女に売春をさせていたことから) 淫売屋。【楊枝店】江戸、浅草寺境内にあった床見世で、楊枝やお歯黒の材料などを売り、また、ひそかに売色もした。』(全て広辞苑から)と言うほどの、所であった。
 今は仮設小屋のような所で、おでん屋、一杯飲み屋、古着屋、祭り物屋などが、店を開いている。

                                                         2002年8月記

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