落語「名人長二」の舞台を歩く

  

 五代目古今亭志ん生の噺、「名人長二(めいじん_ちょうじ)」によると。
 

 これは享和(きょうわ)二年に十歳で指物師(さしものし)清兵衛(せいべえ)の弟子となって、文政(ぶんせい)の初め廿八歳の頃より名人の名を得ました、長二郎(ちょうじろう)と申す指物師の伝記でございます。

 およそ当今、美術とか称えまする書画彫刻蒔絵(まきえ)などに上手というは昔から随分沢山ありますが、名人という者はまことにまれなものでございます。通常より少し優れた腕前の人がひと勉強いたしますと上手にはなれましょうが、名人という所へはたゞ勉強したぐらいでは中々参ることは出来ません。自然の妙というものを自得せねば名人ではございません。此の自然の妙というものは以心伝心とかで、手をもって教えることも出来ず、口で云って聞かせることも出来ませんゆえ、親が子に伝えることも成らず、師匠が弟子に譲るわけにもまいりませんから、名人が二代も三代も続くことは滅多にございません。 落語界では三遊亭圓朝という師匠は本当の名人で、500人の弟子を抱えていました。さてこの長二郎と申す指物師は無学文盲の職人ではありますが、仕事にかけては当時無類と誉められ、江戸町々の豪商(ものもち)はいうまでもなく、大名方の贔屓(ひいき)をこうむったほどの名人で、其のこしらえました指物も御維新前までは諸方に伝わって珍重されて居りました。 そのうえ、道楽はせず恵まれない人に施しをするのを唯一の楽しみとしていました。

 蔵前の坂倉屋助七(さかくらや すけしち)という大店に出入りしない者は一人前といえないぐらい力を持っていた。そこから長二に仕事の依頼をすると断られた。主人が丁重に出直し謝って、銘板・桑板を支給して頑丈で見てくれのイイ仏壇を作ってもらった。しかし100両という大金を請求され、娘・お島が止めるのを聞かず、騙ってると疑って坂倉屋は才槌で叩いたが壊れなかった。長二は持って帰ると言い張ったが坂倉屋は人を疑う事がいけないと言うのが良く分かったから、千両で置いていってくれと懇願したが、手間の百両だけ持って帰っていった。その見事さにお島は惚れ惚れと見送った。

 長二は自分の背中に指の先の入る程の穴があるのを、九歳(こゝのつ)の時初めて知って母に尋ねると、母は泣いて答えません。自分も其の理由を知らずにいた処、十一月職人の兼松と共に相州の湯河原で湯治中、温泉宿へ手伝に来た婆さんから自分は棄児(すてご)であって、背中の穴は其の時受けた疵である事が分かります。長左衛門夫婦は実(まこと)の親でなく、実の親は名前は分らないが、自分達の悪い事を掩(おお)わんがために棄てたのであるという事を初めて知った。実の親の非道を恨み、養い親の厚恩に感じて、養い親のため仏事を営み、菩提所の住持に身の上を話した。その時、幸兵衛に面会したのが縁となり、其の後いろいろの注文をして過分の手間料を払い、ひとかたならず贔屓にして、度々尋ねて来る様子が如何にも訝(おか)しくあった。

 殊に此の四月、亀甲屋幸兵衛夫婦尋ねて来た時、 幸兵衛の妻お柳が急病をおこし、また此の九月柳島の別荘が出来上がり招かれ、余儀なく身の上を話して、背中の疵を見せると、お柳が驚いて癪(しゃく)を発した様子などを考えると、お柳は自分を産んだ実の母らしく思える手を廻して幸兵衛夫婦の素性を探索すると、間違いなさそうでもあり、また幸兵衛が菩提所の住持に自分の素性をくわしく尋ねたとの事を聞き、幸兵衛夫婦も自分を実子と思ってはいるが、棄児にしたかどがあるから、今さら名のりかねていたのだろう。よそながら贔屓にして親しむのに相違ないと思う折から、去る九日(こゝのか)の夕方(ゆうかた)夫婦して尋ねて来て、親切に嫁を貰えと勧め、その手当に五十両の金を遣るというので、もう間違いはないと思った。
 自分から親子だとのってくれと迫った処、お柳は顕(あら)われたと思い、びっくりして逃出そうとする、幸兵衛は其の事が知れては身の上と思ったと見え、自分を気違だの騙(かたり)だのと罵(のゝし)りこづきまわして、お柳の手を取り、逃帰ったこんな人から、一文半銭たゞ貰う謂(いわ)れがないから、跡に残っていた五十両の金を返そうと二人を追いかけ、先へ出越して待っている押上堤で、図らずお柳と幸兵衛の話を立ち聞き正(まさ)しく実の母親と知った飛出して名ってくれと迫るを、幸兵衛が支えて、粗暴を働き、短刀を抜いて切ろうとするゆえ、これを奪い取ろうと悶着の際、両人に疵を負わせ、遂に落命させた。

 外泊などはしない長二が珍しく酔って、親方の家を訪ねてきた。親方の作った茶箪笥にケチを付けて、壊れるような物を作っているようでは大したことはないと、毒づき、持ってきた槌で叩くと木っ端みじんになった。こんな親方の下で弟子だと言われたくないと啖呵を切って、縁切り状を書いて出ていった。
 その明くる日に、奉行所に出頭し親殺しだと自首して裁きを受ける事になった。仔細を話すと親の恥が出るので、話せないからこのまま処刑して欲しいと言うばかりであった。周りの者の話を聞くと身柄良く、親思いで長二の悪いところは何処にもなかった。残された50両の金子から、金取りが目的だろうと追求され、そんな卑しい事ではないと、一点の偽りなく事の顛末(てんまつ)を申し立て た
 親方に累が及ぶのを心配し縁切り状を書いたり、長二が品行良く名人だと分かり、名人は国の宝だというので、どうしても奉行は助命したかったが、親殺しの罪状が盾になってどうしても罪状を消す事が出来なかった。
 たまたま奉行の屋敷に行儀見習いに来ていた
坂倉屋助七の娘お島、名を改め島路(しまじ)からも長二の気っぷの良さについて聞かされていた。

 調べていくと、亀甲屋の元の主人は半右衛門で、女房お柳は経師屋の幸兵衛と密通していた。出入りの医者に薬をもられ”病死”し、後添えとして幸兵衛が入り込んだ。全てお柳、幸兵衛、女中、医者が100両で、ぐるになって仕掛けた殺人だった。
 長二は半右衛門とお柳の実子であったので、後添えの幸兵衛は親殺しにならないが、お柳は実の母親だったので死罪は免れなかった。そこで中国の故事を調べると、離縁をした女房が死んだが、息子には喪につかせなかった。その理由として離縁した女房は他人だから喪服は着せないと言う事であった。奉行はその話から、実夫半右衛門は死んだ世界で、自分を殺したお柳を離縁しているであろうから、既に母親ではない。この事から親殺しにあたらないと裁決した上に、親の仇を討ったとして褒美を授けた。

 

 長講お付き合いをいただき有り難うございます。 
 この話は志ん生も5話に分けてCDに残しています。約2時間半掛かります。そこからこの噺を起こしました。
 


  志ん生はここで終わっていますが、噺には続きがあって、

 奉行が島路に戯れとして、長二と一緒にならないかと持ちかけた事がある。周りの者は羨ましく想ったが、「我が家は商家、釣り合いが取れませんから」と好きではあったが、きっぱりと断ってしまった。
 長二が奉行所から無事帰れる事になった上、浅草鳥越片町亀甲屋の一人息子なので、亀甲屋の主人となった。
 また、公儀から指物御用達を仰付けられ、長二郎は名前を幼名の半之助と改め、非業に死んだ実父半右衞門と、悪人なれど腹を借りた縁故により、お柳の菩提を葬(とむら)うため、紀州の高野山へ供養塔を建立した。
 或日、奉行の筒井侯のお屋敷へ伺いますと、殿様が先日腰元島路の申した口上もあれば、今は職人でない長二郎ゆえ、島路を彼方(かれかた)へ遣わしては いかがとの仰せに助七は願うところと速かに媒酌を設け、亀甲屋方へ婚姻の儀を申入れました処、長二郎も喜んで承知いたしたので、文政五午年(うまどし)三月一日(いちにち)に婚礼を執行(とりおこな)い、夫婦睦(むつま)じく豊かに相暮しましたが、夫婦の間に子が出来ませんので、養子をもらい、長二郎の半之助は根岸へ隠居して、弘化(こうか)二巳年(みどし)の九月二日(ふつか)に五十三歳で死去いたしました。墓は孝徳院長譽義秀居士(こうとくいんちょうよぎしゅうこじ)と題して、谷中の天竜寺に残っています。

 

1.三遊亭圓朝作「名人長二」の速記本「序」より 

 三遊亭圓朝子、曾て名人競と題し画工某及女優某の伝を作り、自ら之を演じて大に世の喝采を博したり。而して爾来病を得て閑地に静養し、亦自ら話術を演ずること能わず。然れども子が斯道に心を潜むるの深き、静養の間更に名人競の内として木匠長二の伝を作り、自ら筆を採りて平易なる言文一致体に著述し、以て門弟子修業の資と為さんとす。今や校合成り、梓に上せんとするに当り、予に其序を需む。予常に以為く、話術は事件と人物とを美術的に口述するものにして、音調の抑揚緩急得て之を筆にすること能わず、蓋し筆以て示すを得るは話の筋のみ、話術其物は口之を演ずるの外亦如何ともすること能わずと。此故に話術家必しも話の筋を作為するものにあらず、作話者必しも話術家にあらざるなり。夫れ然り、然りと雖も話術家にして巧に話の筋を作為し、自ら之を演ぜんか、是れ素より上乗なる者、彼の旧套を脱せざる昔話のみを演ずる者に比すれば同日の論にあらず。而して此の如きは百歳一人を出すを期すべからず。圓朝子は其話術に堪能なると共に、亦話の筋を作為すること拙しとせず。本書名人長二の伝を見るに立案斬新、可笑あり、可悲あり、変化少からずして人の意表に出で、而かも野卑猥褻の事なし。此伝の如きは誠に社会現時の程度に適し、優に娯楽の具と為すに足る。然れども是れ唯話の筋を謂うのみ。其話術に至りては之を演ずる者の伎倆に依りて異ならざるを得ず。門弟子たるもの勉めずんばあるべけんや。若し夫れ圓朝子病癒ゆるの日、親しく此伝を演せば其妙果して如何。長二は木匠の名人なり、圓朝子は話術の名人なり、名人にして名人の伝を演す、其霊妙非凡なるや知るべきのみ。而して聴衆は話の主人公たる長二と、話術の演術者たる圓朝子と、両々相対して亦是れ名人競たるを知らん。
  乙 未 初 秋

http://www.aozora.gr.jp/cards/000989/files/1489.html  より

 

 指物師の職場。江戸東京博物館のジオラマより。江戸指物は上方の指物と違い、飾りっ気は無いが質実堅牢、使いやすさが基本です。2012.5.追加

 

2.親方・清兵衛
 文政の頃江戸の東両国大徳院(だいとくいん)前に清兵衛と申す指物の名人がござりました。是は京都で指物の名人と呼ばれた利齋(りさい)の一番弟子で、江戸にまいって一時(いちじ)に名を揚げ、箱清(はこせい)といえば誰知らぬ者もないほどの名人です。当今にても箱清の指した物は好事(こうず)の人が珍重いたすことで、文政十年の十一月五日に八十三歳で歿しました。墓は深川亀住町(かめずみちょう)閻魔堂(えんまどう)地中(じちゅう 、注)の不動院に遺(のこ)って、戒名を參清自空信士(さんせいじくうしんし)と申します。この清兵衛が追々年を取り、六十を越して思うように仕事も出来ず、女房が歿(なくな)りましたので、弟子の恒太郎(つねたろう)という器用な柔順(おとな)しい若者を養子にして、娘のお政(まさ)を娶(めあ)わせましたが、恒太の伎倆(うでまえ)はまだ鈍うございますから、念入の仕事やむずかしい注文を受けた時は、皆(みん)な長二にさせていました。

注;地中(じちゅう)=地中とは書かず寺中と書きます。寺中とは塔頭(たっちゅう、唐音。「塔中」とも書く)のことで、一山内にある小寺院。大寺に所属する別坊。寺中(ジチユウ)。子院。わきでら。の事です。

東両国大徳院(だいとくいん、墨田区両国2−7、回向院裏)前
 親方清兵衛が住んでいた所。

 平成25年新築なった大徳寺。両国陵苑として再生しました。現在の流行で、この建物内にお墓が詰まっています。 平成25年4月追記

深川亀住町(かめずみちょう)閻魔堂(えんまどう)寺中(じちゅう)の不動院
 閻魔堂(法乗院、江東区深川2−16)、親方清兵衛の墓所、戒名は參清自空信士(さんせいじくうしんし)。
閻魔堂のホームページ http://www.enma.or.jp/ 

 

3.長二 (長二郎)
 
長二は両親とも亡りましたので、煮焚をさせる雇婆(やといばあ)さんを置いて、独身で本所〆切(しめきり) に世帯を持って居りましたが、弟子を置きませんから、下働きをする者に困り、師匠の末の弟子の兼松(かねまつ)という気軽者を借りて、これを相手に仕事をいたして居りますところが、誰いうとなく長二のことを不器用長二と申しますから、どこか仕事に下手なところがあるのかと思いますに、そうではありません。仕事によっては師匠の清兵衛より優れた所があります。
 是は長二が他の職人に仕事を指図するに、なんでも不器用に造るがいい、見かけが器用に出来た物に永持(ながもち)をする物はない、永持をしない物は道具にならないから、うわべ は不細工に見えても、十百年(とッぴゃくねん)の後までもこわれないように拵えなけりゃ本当の職人ではない、早く造りあげて早く銭を取りたいと思うような卑しい了簡で拵えた道具は、どこにか卑しい細工が出て、立派な座敷の道具にはならない、是は指物ばかりではない、画(え)でも彫物(ほりもの)でも芸人でも同じ事で、銭を取りたいという野卑な根性や、他(ひと)に褒められたいという 、おべっかがあってはいい事は出来ないから、そんな了簡をうッちゃって、魂を籠めて不器用に拵えて見ろ、きっと美い物が出来上るから、不器用にやんなさいと毎度申しますので、遂に不器用長二とあだなをされる様になったのだと申すことです。

本所〆切(しめきり)
 長二の住まい。枕橋の架してある堀の奥のところ、枕橋は元、源森橋とも言い、堀は源森川と言います。吾妻橋を渡って、すぐ土手づたいにアサヒビールの建物に沿って行くと、出たところが枕橋( 旧名源森橋)です。渡った右が隅田公園で、元水戸屋敷が有ったところです。落語54話「文七元結」で歩いた所で 、本所〆切はその堀の奥、今の水戸街道源森橋付近。

天竜寺
 長二の戒名、孝徳院長譽義秀居士(こうとくいんちょうよぎしゅうこじ)として、谷中の天竜寺にあります。
 天竜寺と同名のお寺さんは東京に3ヶ所ありますが、全て同名異寺です。また、天龍寺も1ヶ所ありますが、同じく違っています。谷中には天竜寺と言うお寺さんはなく、天竜院というお寺さんが有りますが、ここも違います。で、現在、天竜寺は所在不明です。 お判りの方がいらっしゃったら教えてください。

 

4.亀甲屋幸兵衛夫婦別荘
 浅草鳥越片町亀甲屋の別荘が柳島に新築されました。柳島は今の墨田区と江東区の接する柳島橋の両端にあった地名です。ここには有名な法性寺 、別名「柳島妙見堂」(墨田区業平5−7−7)があります。落語44話「中村仲蔵」で歩いています。
  鳥越から柳島の別荘に来るには隅田川の吾妻橋を渡って、真っ直ぐ向かうと本所
〆切を通り、押上、柳島に通じます。

左の写真は柳島橋の欄干にはめ込まれたレリーフで「柳島妙見社」です。江戸時代は郊外の閑静な所だったのがよく分かります。

 
5.
押上の土手
 舞台の本所〆切と柳島の中間にあり、京成と東武電車、地下鉄が合流して「押上駅」を形成しています。浅草通りに平行して北十間川が流れています。と言うより開削された運河ですが、この土手で事件は起こったのでしょう。



  舞台の北十間川を歩く
 

  大川(隅田川)に架かる吾妻橋を浅草から渡ってくると、目の前にウンチ(?失礼)の彫刻を乗せたアサヒビール・ビアホールの黒い建物が見えてきます。左手にはビールジョッキを形取ったアサヒビールの建物が見えます。その交差点を左に隅田川沿いに進むと、出た所が枕橋です。枕橋は造られた当時は「源森橋」と呼ばれていましたが、北側の水戸屋敷に引き入れられた水路に架かる橋とペアになって、いつの頃から二つ枕から「枕橋」と呼ばれ、水戸屋敷の橋は無くなっても、現在に伝わっています。その東側に掛かる水戸街道の橋を今「源森橋」と、命名されています。その近辺が「本所〆切」と言う地名です。ここに主人公の長二が住んでいました。当然今訪れてもその雰囲気は皆無です。

 そこから東に源森川(北十間川)づたいに1km程行くと、押上駅に出ます。浅草通りと平行したこの川は両岸を護岸工事されコンクリートの垂直な土手です。わずかながら上部に空間があり、そこに植裁された緑が殺風景さを救っています。当然、当時は自然の土手があったのでしょう、夜は暗く人通りもない寂しい所だったのでしょう。

 江戸時代からの名刹柳島妙見堂がその先(西)に有ります。ここから500m程です。この近辺が「柳島」と呼ばれた所です。近くには萩寺や亀戸天神などがあります。

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

  それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

  

東両国大徳院前(だいとくいん、墨田区両国2−7−6、回向院裏)
 親方清兵衛が住んでいた所。 両国回向院の真裏(南側)に有ります。今はプレハブ小屋の仮本堂で、看板がないと何処かの工事現場事務所と間違えそうです。この前の道が大徳院前です が、西側には大徳院門前町という小さな町がありましたのでそこを指しているかも知れません。

 

深川亀住町閻魔堂(江東区深川2−16)
 親方清兵衛の墓所。戒名を參清自空信士(さんせいじくうしんし) 。
 この閻魔様は日本最大の座像で、ハイテク閻魔で有名。手前の賽銭ボックスに賽銭を投入するとライトアップされ大きな声で説話をしてくれます。

深川亀住町閻魔堂 、法乗院
 
「髪結い新三」の舞台がこの近くの「黒亀橋」(富岡橋)で、遠景に閻魔堂が描かれています。今はこの下に流れていた油堀川が埋め立てられて、上部には高速道路が走っています。なので、今はこの橋は有りません。

本所〆切(しめきり。墨田区業平1−19辺り)
 枕橋から見た源森橋方向。奥の白い橋が源森橋で、その近辺を「本所〆切」と言った。川は源森川でカメラ背部で隅田川に接しています。写真の左側を高架で東武線が走り、その左側(写真の外側)に水戸屋敷だった隅田公園があります。

柳島
 「柳島妙見様」前の道(浅草通り)を押上方向を見ています。この道の右側に平行して北十間川が流れています。今はこの道の右側に建物が続いていますが、当時は静かな郊外で土手が続いていたのでしょう。

「柳島妙見様」(墨田区業平5−7−7)
 法性寺 、別名「柳島妙見様」です。落語44話「中村仲蔵」で歩いています。 柳島の旧町名はこの妙見様と前の柳島橋に残っています。

押上の土手
 
浅草通りから押上に行くには北十間川を渡らなくてはなりません。その橋「京成橋」の上から本所〆切方向(西)を望んでいます。
 この右手に、新東京タワー(東京スカイツリー)が建つ、建設地です。


                                                    2004年10月記

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