落語「双蝶々」の舞台を歩く

  
 

 六代目三遊亭円生の噺、「 双蝶々(ふたつちょうちょう)」によると。
 

 八百屋の長兵衛の倅・長吉は、小さいころから手に負えない悪で、店の物はかっさらう、賽銭は盗む、悪い事については頭が良くまわった。あるとき継母のお光に 寿司を食べるからと銭をせびり、もらえないとなるとお膳を蹴飛ばして表へ飛び出してしまう。あげく、仕事を終えてもどってきた長兵衛に嘘八百の告げ口をしてお光を困らせ、夫婦げんかにまで発展させる。
 長兵衛は初め、長吉の言い分を信じお光を殴りつけるが、大家の仲裁で事実を知る。真っ当になるよう長吉をお金を扱わない黒米問屋下谷山崎町の山崎屋に奉公に出す。
<序; 「小雀長吉」>

 悪さをするくらいだから目端も利いてよく働いた。奉公先で長吉の悪さは収まったかに見えた。十八のとき、悪友の長五郎と組んで稲荷町の広徳寺前で盗みを働き、そこを風呂が遅いのを不審に思って付けてきた番頭の権九郎に目撃された。
 権九郎は店に戻った長吉を呼びつけ、盗みを白状させ叱りつけたが・・・、一転態度を変え、若旦那と争っている吉原の花魁を身請するために二百両必要だという。ご主人の金庫から残りの百両という金を盗み出せと強要する。
 長吉はしかたなく言われた通りに、ご主人夫婦の寝室にお腹が痛いと仮病を使い入り込み、タンスの薬箱ならぬお金を引き抜き、薬をもらって引き下がってきた。盗んだ金を権九郎にむざむざ持っていかれるのが惜しくなり、待ち合せの場所で番頭権九郎を殺し、奥州路に逃げようかと独り言を言っているのを小僧の定吉に聞かれてしまった。口封じのために掛け守りを買ってやるから寸法を測らせろと言って、首を絞めて殺してしまう。番頭との約束の九つの鐘を聞いて逐電する。<中; 「小雀長吉」>

 正直・長兵衛夫婦は倅の悪事を知り、世間に顔向けが出来ないと逃げるように湯島大根畠の長屋を引き払って流転の日々を送る。本所馬場(ばんば)町の裏長屋に越したころ、遂に長兵衛は腰が立たない病になってしまった。内職だけでは病人を養っていけず、お光は内緒で袖乞いをして一文二文の銭を稼ぎ、なんとか食い繋いでいる。
 浅草の観音様に全快祈願のお百度を踏むからと偽り、夜、隅田川縁の多田薬師石置き場で、袖を引く物乞いをしていた。北風強くみぞれ混じりの中、たまたま奥州石巻から父の様子を探しに出てきた長吉の袖を引き、二人はひさびさの対面を果す。長吉は子供の時分、お前に辛く当たったのも親父を取られたように思ったからで、今では申し訳無いと思っている。 と告げる。

 長吉はお光に連れられ、腰の立たない父を見舞う。50両の金を渡し元気で暮らすように言うが、長兵衛は悪事から手を洗えと言葉を重ねたが、最後は長吉をゆるし、涙ながらに今生の別れを告げる。 奥州では50人程の子分がいて自分だけ足を洗う事は出来ないと言う。追われる身である事を察した長兵衛はもらい物の羽織を渡し、江戸から無事出られるようにと願った。

 雪の降る中、後ろ髪を引かれる思いで長屋を去った長吉は、吾妻橋を渡るところでついに追手に取り囲まれ、御用となる。<下; 「雪の子別れ」>

 


1.双蝶々
 
この話は三遊亭圓朝作と言われていますが、それ以前からあったとも言われます。道具仕立てで演じられたもので、一朝老人(三遊亭一朝。どうしてこの人だけは老人と言われるのですかね。)に、先代円生が教わっているのを脇で聞いていて覚えたものだと、円生はマクラで語っています。全編1時間半の長演でした。
 前半を「小雀長吉」、後半を「雪の子別れ」と言います。

 歌舞伎にも同じ題名の話がありますが、内容は全く違うものです。

 

2.舞台
湯島大根畠(文京区湯島2−12、17)
 最初家族が住んでいた所 。湯島は落語の舞台で何回か出てきた湯島天神が有る町です。町名と言うより、大根畠が多く通称その様に呼ばれていたのでしょう。今ではビルばかりで畠は何処にもありませんが、当時は有ったのでしょう。八百屋の長兵衛さんが住むには ネーミングがピッタリの所だったのでしょう。落語「初天神」、「柳田格之進」に湯島天神の記述があります。
 「大根畠」は しっかりと有りました。文京区湯島2丁目の中央にあり、新町屋と言われた町で、明治5年湯島新花町となって、昭和の住居表示変更までその様に呼ばれていました。町内を俗に”大根畠”または”お花畑”と言った。
 湯島天神のまわりには陰間茶屋*が多く、岡場所は2ヶ所で、この大根畠と新大根畠(新畑とも言われた)であった。大根畠は先ほどの説明通り新町屋で、新大根畠(新畑)は湯島切通坂町、現在の文京区湯島2丁目の北側(湯島天神西側)に有った。ここには”新花公園”(湯島2−31)という小さな公園があります。

*陰間茶屋;男色を売る茶屋。陰間を抱えて客の求めに応じて歌舞・音曲を奏し、宴席に侍らせた家。男色楼。寛永寺や谷中あたりの坊さんが愛用したと伝わっています。

 ■稲荷町・広徳寺前(台東区東上野4丁目 台東区役所跡) この広徳寺南側門前の道を広徳寺前と言った。この道は現在の 駒形通り(浅草通り)に合致します。長吉が奉公に行った山崎屋はここから数分の所です。

この公徳寺があった地域は昭和の中頃まで稲荷町と呼ばれていました。勘の鋭い人は「ああ!あの正蔵(彦六)師匠が住んでいた長屋があった所だな」と思われたでしょう。その通りですが、今は取り壊されて駐車場になっています。二軒長屋の手前には落語家・翁家さん馬が住んでいます。
 ここから、台東区役所の建物が身近に見えます。

下谷山崎町(もと万年町。現、東上野4丁目 、北上野1丁目) 長吉が奉公に出た玄米(くろごめ)問屋・山崎屋が有った所。落語「黄金餅」で西念と金兵衛が住んでいた長屋があった所もここです。

本所馬場(ばんば)本所1丁目・東駒形1丁目) 両親が今 、隠れ住んでいるところ。落語「文七元結」、唐茄子屋政談で歩いた所です。達磨横町の隣と言うかそこが馬場町です。早い話が馬場町に達磨横町 (丁)があります。
 
文七元結」から再引すると。場所は、古地図 (切り絵図)で言うと、浅草から吾妻橋を渡り南側”南本所馬場(ばんば)町、または馬場町”と”北本所表町”の間を南北に走る横丁。北はT字路で突き当たり(裏側、最勝寺)。現在の墨田区東駒形1丁目、本所1丁目の清洲通り東側を南北に平行に走っている道 (本所1丁目11.12.13.24.29.の西側を南北に走る道)。 しかし、現在は南北方眼状に道が整備されていますが、当時は弓なりになった道なので、今とピッタリ付合させる事が出来ません。
 この名称は俗名、または通称で正式地名ではないので、切り絵図などには載っていません。
 「唐茄子屋政談」でも出てくる苦労人の叔父さんもここ達磨横丁に住んでいます。達磨を作っている人が多いからとか、達磨(下等な売春婦)がいたからとか、 達磨の絵を得意とした葛飾北斎が住んでいたから、等いろいろな説があります。

多田薬師石置き場東駒形1丁目15)  母親お光さんが物乞いをしている所。江戸切り絵図で見ると、馬場町には「多田薬師・東江寺(東漸寺と記載された切り絵図は誤記です)」が隅田川よりに有った。落語「七面堂」で紹介したところです。お光さんは長屋の近所の薬師の道で袖を引いていた事になります。ここから浅草観音様(浅草寺)へは 5〜10分位で行けるはずです。その距離ならお百度を踏みに行ってもおかしくはなかったでしょう。
 多田薬師は震災で焼失し、現在は
葛飾区東金町(ひがし かなまち)2−25−12に移転、現存します。

 江戸名所図会「多田薬師堂」(東江寺) 手前の川が隅田川、左に東江寺、その河岸の道で袖を引いていた。 2010年10月追加
 
吾妻橋(墨田区吾妻橋と台東区浅草を結び隅田川に架かる橋)  長吉が召し捕りに囲まれる所。親の馬場町は隅田川の東側です。奥州に逃げ延びるには吾妻橋を渡り対岸の浅草から北に抜けて、日光街道に抜けるのが一般的です。その先、日光街道に架かった橋が千住大橋です。父親長兵衛は江戸の外れ、千住大橋までは逃げ延びてくれと願ったのですが、隅田川を渡った所で御用となります。

 最新遊覧船「ヒミコ」が吾妻橋をくぐって浅草の乗船場に到着です。

 

3.くろごめ【黒米・玄米】問屋
まだ精白してない米。げんまい。
では、げん‐まい【玄米】とは、(「くろごめ(黒米)」に当てた漢字の音読) 籾殻(モミガラ)を除いただけで、精白してない米。広辞苑による。それを取り扱う問屋さん。
 
地方から江戸に上納されてきた米は精米が施されていない玄米です。お米を販売、流通経路に乗っているのは全てこの玄米です。消費者の手に渡る一歩手前で精米されて白米となります。この問屋はかなり大きな資産と力を持っていた事でしょう。
 蔵前に札差しという商人がいて、全国各地から集められた年貢米が彼らによって現金化されて、江戸中、または全国にまた還流していきました。江戸の庶民や商店の奉公人達は白米が食べられる贅沢人種でもあったのです。
 貝のお汁だと思っていたのが、実は自分の目玉が映っていたと言うほど貧困な食生活ですが、主食だけはお米を食べる事が出来ました。御店(おたな)の奉公人や吉原の女性達も主食については贅沢をしていました。全国的には麦は良い方で、粟、ヒエが主流の頃です。

掛け守り;掛け守りを買ってやるが、首からかけるのでその紐の長さを測ってやると騙し、小僧の貞吉を殺めてしまう。
 現在、神社仏閣でのお守りは綺麗な錦の袋入りで授けていますが、江戸時代(近世)は、木札、紙札で授けていたのを、守り札を入れて首からかける「掛け守り袋」を別に作るか、買うかして肌身につけていたものだそうです。
 人形町の「高虎」では、おしゃれな小物入れにして、大きめサイズの掛け守りを売っています。
 某化粧品会社の、展示会で肌守りを見ました。女性、特に花魁などが腕に肌守りをつけている錦絵などもありましたが、色っぽくてよござんした。花魁などは、お守りよりは起請文を入れていたといいます。いいですねェ。

<福田典夫氏資料提供> 
 

4.お百度(おひゃくど)
  「百度参り」の略。「お―を踏む」
ひゃくど‐まいり【百度参り】 (マイリ)
 社寺に参り、その境内の一定の距離を百回往復し、そのたびに拝すること。お百度参り。百度回り。百度詣で。
 頼みごとをかなえてもらうためなどで、同じ所へ幾度も通うこと。ひゃくど‐もうで【百度詣で】 (マウデ)。

広辞苑より

 お光さんは亭主長兵衛の腰の立たないのを、「腰が立ちますように」と願を掛けて、お百度を踏んだ。と言う口実にして、実際は手前の馬場町の多田薬師で袖を引いていた事になります。ここから浅草観音様(浅草寺)へは5〜10分位で行けるはずです。その距離ならお百度を踏みに行ってもおかしくはなかったでしょう。息子・長吉、亭主長兵衛にどんな事があっても、一途なお光さんが健気でもあり、愛おしくも有ります。
 


  舞台の吾妻橋近辺を歩く
 

  本所馬場町を訪ねます。当然今の地名ではありませんから、下調べをして出掛けないと行き先不明で戻ってこなければなりません。しかしこの地は何度か訪ねていますので、今回は気が楽です。例の「達磨横町」がここだからです。それと「多田薬師」はここには現存しませんが、場所の確定は出来ています。どちらも現在は整備された街になって、達磨横町も多田薬師も有りません。

 この街を抜けて北に出ると、そこは隅田川に架かる「駒形橋」です。今回は橋の右側を渡る事にしました。その上流に「吾妻橋」が有るからです。ここから眺める吾妻橋は赤く塗られ、橋の上にはアーチ等がないすっきりした橋です。右手(東側)にビールジョッキの形と色をしたアサヒビールの建物と例の有名な彫刻を乗せたビアホールが望めます。左手(西側)には船宿とその橋向こうに隅田川遊覧船の船着き場があります。今まさに最新遊覧船「ヒミコ」が吾妻橋をくぐって浅草の乗船場に到着です。http://www.suijobus.co.jp/himiko_ship/index.html
 ここからはビルで囲まれて、浅草寺は見る事が出来ません。
 渡りきったところに「駒形堂」が有ります。この駒形堂から橋の名前がでています。駒形堂の前の交差点を渡り、右を見ると突き当たりが浅草寺正面入り口「雷門」です。いつ行っても人が沢山出ています。流石浅草寺。

 この橋を渡っている駒形通り(浅草通り)または仏壇通りと言われるほど仏壇屋が多い通りで、2kmも行かないでその先JR上野駅に突き当たります。その手前右(北)側に台東区役所が有ります。そこが主人公・長吉が悪さをした「広徳寺前」です。この広徳寺南側門前の道を広徳寺前と言 われたところで、長吉が奉公に行った山崎屋はここから数分の所です。

 下谷山崎町は長吉が奉公に出た黒米問屋 ・山崎屋があったところで、今では当然その面影は有りません。

 

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

 稲荷町・広徳寺前(台東区東上野4丁目 台東区役所跡)
台東区役所がその跡で、区役所の東端に小さなベンチだけの公園があります。「広徳児童公園」と言います。その一角に、この碑が建てられています。

 

下谷山崎町(もと万年町。現、東上野4丁目、北上野1丁目)
写真は東上野4丁目です。地上げの頃は都内でも有数の激戦地で、至る所に虫食い状態の空き地が有りましたが、今ではそこに素敵なマンションが建ち並んでいます。
談志曰く「当時貧乏人が多く住んでいた」と言っていますが、今はその面影はありません。

本所馬場(ばんば)本所1丁目・東駒形1丁目)
落語「文七元結」、唐茄子屋政談で歩いた所です。達磨横町の隣と言うかそこが馬場町です。早い話が馬場町に達磨横町 (丁)があります。その説明写真は南北に見ていますが、この写真は東西に見ています。

多田薬師石置き場東駒形1丁目15
馬場町には「多田薬師・東江寺(東漸寺と記載された切り絵図は誤記です)」が隅田川よりに有った。落語「七面堂」で紹介したところです。
 多田薬師は震災で焼失し、現在は
葛飾区東金町(ひがし かなまち)2−25−12に移転、現存します。

吾妻橋
この橋にも何回も来ている、落語歴史上有名な橋です。下流の駒形橋から望んでいます。有名なジョッキの形をしたアサヒビールとウンチ(失礼)の彫刻を乗せたビアホールレストランが望めます。

浅草
台東区側に 駒形橋を渡り駒形堂の前から見ると、前方正面に浅草寺のシンボル「雷門」が見えます。浅草橋、蔵前から歩いてくると、突然視界が開け雷門が現れます。善男は観音様を参拝し、その裏のご存じ「吉原遊郭」に向かう事になります。
 長吉は雷門を抜けて、吉原の先日光街道に出て、千住大橋を渡るつもりだったのでしょう。

湯島大根畠
文京区湯島2−21にある霊雲寺派総本山「霊雲寺(れいうんじ)」の本堂正面から見下ろしています。当時はこの様な大らかな風景が続いていたのでしょうが、今はバックに見られるようにビルが建ち並んでいます。

湯島大根畑の「かずら」
凌霄花 (のうぜんかずら)。夏の花「のうぜんかずら」が咲き乱れています。オレンジ色が夏の花らしく強烈な印象を与えます。
 
「霊雲寺(れいうんじ)」の塀越しに顔を見せる夏の花です。

                                                              2004年7月記

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