落語「乳房榎」の舞台を歩く

  
 

 六代目 三遊亭円生の噺、「怪談 乳房榎」(ちぶさ えのき)によると。
 

  秋本越中守に仕えまして250石を取っていた武家で三十七になる文武両道な間与島伊惣次がいた。趣味で始めた絵が有名になって武家を辞して”菱川重信”という絵師になってしまった。妻の”おきせ”と生まれたばかりの”真与太郎”と三人で柳島に移り住んでいた。おきせは二十四の絶世の美女。夫婦仲も良かった。

 本所・撞木橋(しゅもくばし)近くに住む二十九になる浪人”磯貝浪江”は重信の弟子になった。良く気が付き絵も上手かったので評判は良かった。宝暦二年五月南蔵院から天井画の龍を頼まれたので、じいやの”正介”を伴って泊まり込みで描き始めた。浪江は留守宅に毎日のように訪ねてくるようになった。
 ある日仮病を使って泊めて貰ったが、夜更けに起き出し横恋慕していたおきせにせまったが、激しく抵抗された。息子を殺すと脅されて、一度との約束でいやいや枕を交わした。が、二度三度と度重なると浪江に好意をいだくようになった。悪縁で、そのうちおきせの方から誘うようになっていた。浪江はおきせは自分のものになったが、絵を描き上げて重信が帰ってきたらこの仲は終わってしまうので、帰ってこない算段を考えた。

 浪江は高田の南蔵院に手土産を持って陣中見舞いに訪ねて行った。重信も喜んで天井画の雌龍、雄龍をみせた。素晴らしい出来で、あと雌龍の片腕を描き上げれば完成と言うところまで仕上がっていた。
 じいやの正介を連れだして茶屋に誘って一時の贅沢をさせた。5両という金を正介に与え、叔父甥の仲になりたいので、その為の金だからと受け取らせ、親戚同士の杯を交わした。隠し事はなしと、おきせとの密通を打ち明け、重信殺しを手伝えと脅迫した。断れば殺すと脅されてやむなく承諾する。重信殺しの計画を打ち明け、他言したら寺に踏み込み全員を殺すからと念を押される。

 寺に戻った正介は有名な落合の蛍見物に重信を誘いだした。来てみると大きな蛍が飛び交う様は見事であった。飲めない重信に酒を飲ませて、雨が来るのを警戒して早めに切り上げ、帰り路にかかった。田島橋のそばまで来ると、浪江は竹槍で重信を刺し、ひるんだところを正介の助太刀で隙を作り、一太刀で命を奪った。

 寺に逃げ戻った正介は、「田島橋の所で先生が狼藉者に襲われて命が・・」と報告するが周りのものは取り合わない。そのはず、重信は普段通り絵を描いていた。どう考えても不思議だったので中を覗き込んでみると、最後の雌龍の片腕を描き上げ落款を押しているとこであった。
 「正介、何を覗く !」との声で「わぁ!」と、後ろに倒れ、明かりも消えたところに和尚一同飛び出して来て訳を聞く。
 明かりを点けて中にはいると、重信の姿はなく、雌龍の片腕は描き上がり、落款はべっとりと濡れていた。
 怪談乳房榎でございます。

 


 

 「怪談牡丹灯籠」、「真景累ケ淵」と並ぶ三遊亭円朝の代表的な怪談噺の傑作。

1.前半「おきせ口説き」、後半「重信殺し」からなっていますが、続きがあって、

 おきせは、不義を働きながらも、重信の非業の死を知って悲嘆にくれる。おきせは浪江と再婚し、やがて、おきせは浪江の子を身ごもる。
 馬鹿正直で小心者の正介は、今度、浪江から重信の子真与太郎を殺害すするように脅される。迷いに迷ったが、結局、浪江に言われたとおり、四谷角筈村十二社の大滝の滝壺に真与太郎を投げ込む。滝壺から、真与太郎を抱いた重信の亡霊が現れ、正介をにらんで言う。「かりそめにも、主を殺せし大悪人。…この真与太郎を養育し、敵を討って、鬱憤をはらさせろ」 。正介は重信の亡霊の言葉を聞いて改心する。
 浪江からもらった二十両の金を懐に、正介は真与太郎を連れて、生まれ故郷の練馬の在、赤塚村へ隠れ住み、松月院という寺の門番に落ち着く。
 正介は旧知の新兵衛から夢枕に現れた白山権現の霊験を聞く。松月院の境内に乳房の形をした榎のコブからしたたり落ちる甘い雫が、乳房の病を治し、乳のでない女も乳が出るようになるという。しかも、その雫は、乳のかわりとなって、子どもを育てるという。正介は榎の雫を乳代わりにして与え真与太郎を育てる。 そのうわさ話が江戸中に広まり、その雫を求めに多くの人が参拝に来た。
 その頃おきせは浪江の子を産んだが、乳が出ないので育たず死なせてしまった。その頃から乳房にはれ物が出来て苦しむようになった。浪江の使いの者が松月院に榎の雫を授かり来て、正介と再会してしまうが口止めをして帰したが、浪江に渡す時この話を漏らしそうになって、早々に退散する。その晩重信の亡霊のたたりで乳房の醜いはれものが痛みだし、狂い死にする。
 葬儀を終わらせた浪江は、正介と真与太郎が生きていることを知り、再び亡き者にしようと松月院に現れる。重信の亡霊に助けられた正介と五歳になった真与太郎によって 、浪江は仇を討たれる。 正介は髪を落とし、廻国をして亡き人々の回向をした。
 真与太郎は、長じて真与島の家督を継ぐことを許される。
(円朝口上筆記より要約)

  ここまで来ると、題名の「乳房榎」が分かってきます。円生もここまで演った記録が残っていません。実はこの噺の続き部分の方が全体の半分もあって、長い噺なのです。 連続ドラマのように何回かに分けて演じられました。
 名前の漢字(あて字)は全て口上筆記の漢字を使っています。

押し絵;上記2枚とも、口上筆記「怪談乳房榎」圓朝作 国立国会図書館蔵


2.柳島
 
主人公重信の住まいがあった所。現在同名の地名はないが、柳島橋(墨田区業平5−7の東)、柳島小学校(横川5−6)として名前が残っている。44話「中村仲蔵」で出てきた柳島の妙見さまが有った周辺の地名。現在、業平、横川の東側一帯の地名。
 柳島は当時の江戸の東の片隅、絵を描きに行った南蔵院は西のハズレ、今では電車に乗れば30分もあれば行けますが、当時は日帰りは難しかったでしょう。日帰りしたとすれば仕事はまず出来ないでしょう。そのような距離です。
 

3.本所・撞木橋(しゅもくばし=墨田区緑4−3から同区江東橋1−4の間で大横川に架かる橋)
 
磯貝浪江の住まいがこの近所にあった。 大横川は埋め立てられて親水公園になって、今は橋は有りません。道路は有るので、場所は確定することは出来ます。44話「中村仲蔵」で舞台になった”報恩寺橋”はこの川に架かる北に五つ先の橋です。 撞木橋から重信の住まい柳島まで直線で約2kmです。歩いて約30分の距離です。
 

4.高田砂利場 南蔵院(豊島区高田1−19−6)
 
天井画を描いた寺、真言宗豊山派 大鏡山薬師寺南蔵院と言います。 永和2年(1376)室町時代に開山した。ここには彰義隊九士の首塚、山吹の里弁財天石碑、相撲年寄りの片男波(かたおなみ)、粂川(くめがわ)、雷(いかずち)、音羽山、二子山、花籠の墓があります。
 本堂は昭和に改築されて鉄筋コンクリートの頑丈な建物になってしまいました。当然、雌龍雄龍の天井画は有りません。
 高田砂利場は神田川から北にかけて良質の砂利が採れたのでこの付近を俗に砂利場と言った。

  図版;名所江戸百景より「高田姿見のはし俤(おもかげ)の橋砂利場」 広重画

  今の都電通りから面影橋を見ています。奥には南蔵院が描かれています。その前の奥につながる道を俗称「ジャリバ」と言われた。絵の黄金色は稲で氷川田圃と言われた所。正面に柵に囲まれた氷川社(現存)が描かれています。
 

5.落合 田島橋(新宿区下落合1−5から同区高田馬場3−6の間で神田川に架かる橋)
 
蛍の名所であった。現在、もう少し東の椿山荘(文京区関口)ではこの季節になると庭に蛍を放して蛍見物をさせるのが恒例になっています。丘陵や谷や川(神田川)があって、自然に恵まれ蛍の名所になっていた。江戸切り絵図(江戸地図)によっても南蔵院が 江戸の西の果てです。その外の郊外に当たる落合は神田川と妙正寺川が落ち合うので落合と言われた、と円生が言うとおり自然に恵まれた地で有ったのでしょう。
 宝蔵院からここまで約1km強あります。歩いて15〜20分の距離です。
 

6.角筈 十二社(じゅうにそう)権現( =熊野神社。新宿区西新宿2−11−2)
 
十二社の熊野神社は室町時代の応永年間(1394〜1428)に中野長者と呼ばれた鈴木九郎が、故郷である紀州の熊野三山より十二所権現をうつし祀ったものと伝えられる(別説有り)。円朝も話の中で、「十二社は”じゅうにしゃ”が訛って”じゅうにそう”になって、これが正式名称になってしまった」、と言っています。
 十二社の西側には昭和43年まで大きな池があり、ボートや屋形船が出て楽しませ、岸辺には料理屋が出来て賑わった。最盛期には料亭、茶屋約100軒、芸妓約300人を抱えた花柳界に発展した。今は道路とその向こう側のビル群になって、道路は青梅街道と甲州街道を結ぶ幹線になっています。
 十二社の東側には玉川上水が南北に通り、北側の崖が切れた所で滝になって神田上水に合流していた。”江戸名所図絵”に熊野の滝”萩の滝”として描かれている。高さ3丈 (9m=3階のひさしの高さ)、幅1丈(3m)有ったと言われる。今は新宿中央公園の外周道路になっています。他にいくつか有った滝も淀橋浄水場が出来た時に埋められてしまった。 今はその浄水場もなく、新宿副都心となって都庁や高層ビル群の街になっています。
モノクロ写真;「十二社の滝」幕末の頃 ベアト写真集 明石書店刊 横浜開港資料館編 2011.8.追加

 
 「よつや十二そう」 葛飾北斎画
 

7.赤塚村 松月院(板橋区赤塚8−4−9)
 曹洞宗(禅宗) 万吉山宝持寺松月院と称します。宝暦4年(1754)に本堂が再建されたそのままに現在まで伝わっている。総檜造りの品のいい本堂です。宝物館”松宝閣”に納められた宝物も素晴らしく、歴史と内容の濃さが伺えるお寺さんです。
 乳房の形をしたコブがある榎と、その根方に白山権現の小さな祠が有った。その甘い樹液に薬効があった。落語のこの噺のモデルになったお寺さんです。ここに噺の正介と重信の息子真与太郎が隠れ住んでいた。記念碑もあります。
 


 

  乳房榎の舞台を歩く
 

 まず赤塚村 松月院(板橋区赤塚8−4−9) を訪ねました。樹木が生い茂り植木屋さんの手が入った落ち着きぶりは流石です。この赤塚という地名は境内に小さな古墳が有ったところからきています。昭和の初め頃の写真を見ると、周りは雑木林と畑ばかりでその中に松月院だけが建っていました。しかし、歴史と徳川家の庇護の元、書画、骨董、出土した土器などの美術品が所蔵されています。その為の宝物館を持ち、わざわざ私一人だけのために開館してくれました。帰りには円朝口上筆記本「怪談乳房榎」の冊子までいただきました。ありがたいことです。この本から近所にお住まいの久保二三男氏が劇中の正介の子孫だと言われています。昔、親戚が講釈師の所に奉公に行った時、この地の昔話を語りそれが劇中のモデルになったのではないかと言われています。久保氏は怪談乳房榎保存会の会長をやっています。その努力で記念碑が建ちました。また、寺の説明では昭和61年4月移植された四代目の”榎”も有りましたが、今は有りません 、との事です。

 主人公重信が雌龍雄龍の天井画を描いたとされるお寺、高田砂利場 南蔵院(豊島区高田1−19−6) に足を向けます。都電終点早稲田から一つ目、面影橋の停留所から神田川を渡ります。右手に過日来たことのある”山吹の里の碑”(42話「道灌」)を見ながら進むと左側に高田氷川神社、その先右側に南蔵院(どちらも江戸切り絵図に載っています)が見えます。ここは山門前に「名作怪談乳房榎 ゆかりの地」という看板が出ています。境内はこぢんまりとしていますが、手入れの行き届いたお寺さんです。この日は法事があって忙しそうにお客さんが出入りしていましたので取材は遠慮しましたが、本堂は昭和の時代に建て替えられて、当然天井画はありません。改築される前も天井には既に絵の具が剥落(?)して、何も認められなかったそうです。

 蛍の名所、落合 田島橋(下落合1−5から高田馬場3−6の間で神田川に架かる橋) を訪ねました。神田川は巨大なU字溝のように岸辺は垂直なコンクリートで深さ10m位は有るでしょうか、川底もコンクリートで固められて、これでは生物は暮らすことが出来ないでしょう。ただただ水を流す事だけのための水路でしか有りません。その上に架かった橋は現代のコンクリート橋。橋の両岸には洒落た校舎の東京富士大学が有り、若い人たちが大勢行き来しています。学園祭の真っ只中の様です。これだけの人と建物があったら蛍も幽霊も出られないし、この地で絶滅したことでしょう。当時を思い起こさせるのは、細い道がクネクネと走り、昔のあぜ道がそのまま舗装されてビルが建ち並んでしまったのでしょう。車はすれ違う事が出来ませんから、一方通行の道ばかり、目的地に着くのはパズルより難しい。

 滝があった角筈(つのはず)十二社(じゅうにそう)権現(=熊野神社。新宿区西新宿2−11−2) 。新宿中央公園の西側に有る神社です。角の交差点は熊野神社前、通りは十二社通り、名前は入り乱れています。滝も大池も今はありませんが、境内には小さなコンクリート製の池と模擬滝が水音を響かせています。ここに赤子を投げ込んでも頭が出てしまうでしょう。
 子供と言えば自転車に乗った幼稚園ぐらいの男の子が泣きながら坂を下りてきました。滝から這い上がって来たにしては濡れていません。声を掛けるとなおさら顔をくしゃくしゃにして、「お母さんが・・、居ない」、迷子になってしまったようです。熊野神社前の交番に連れて行って一件落着。いつの時代も親から離された子供は悲しいものです。この親は呼び出されて、ビックリして交番に駆けつけるでしょうが、噺の真与太郎はそうはいきません。

 

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 今回は大きすぎて申し訳ありません。

写真

それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。

本所撞木橋(しゅもくばし)
磯貝浪江がこの近所に住んでいた。
現在川が埋め立てられて、地べたになってしまい橋はない。その脇にある説明の碑が鐘撞堂のミニュチアが乗った説明版になっています。江戸時代この近くに鐘撞堂(刻の鐘)が有って俗に撞木橋と言われたのが正式名称になってしまった。

高田砂利場 大鏡山南蔵院
噺では天井画を描いた寺現在はその面影は全くない。なぜなら当時の木造の本堂は無く、コンクリート造りの本堂しか有りません。創作話ですから、モデルに使っただけで、実際そのような事は無かったと思われます。夢を砕いて申し訳有りません。

   

落合 田島橋
蛍見物の名所。現在は当時の面影は全くありません。蛍も当然居ません。
神田川と、細い道と丘陵地が当時を思い起こさせるのみです。

     

角筈 十二社(じゅうにそう)権現熊野神社
古くからの由緒ある神社で、今も木々に囲まれ神秘性を秘めています。神社としての力もあるのでしょう、全てに手が込んだ造りと綺麗に整備されたお宮が素晴らしい。それもその筈、氏子は東京でも一,二を争う繁華街、新宿の盛り場とビル群をテリトリーにしています。その中で早い七五三のお宮参りが切れずに続いています。

左図は江戸名所図絵から「十二社の滝」の錦絵 二代歌川広重 文久2年(1862)作

赤塚村 松月院(板橋区赤塚8−4)
「乳房榎記念碑」は壇信徒会館駐車場、松月院前バス停の前に有ります。その直ぐ前が柵になっているので上手く写真が撮れません。柵の間からかろうじて撮れたのがこの写真です。影は桜の葉が映っています。
松月院本堂は菊花展の開催されている境内を抜けた奥に有ります。

                                                                                                           2002年11月記

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