落語「お若伊之助」の舞台を歩く
  

 

 古今亭志ん朝の噺、円朝作「お若伊之助」によると。


 

 日本橋石町に「栄屋」さんと言う大きな生薬屋さんがあった。そこの一人娘の”お若”さんは、十七で栄屋小町と言われるほどの大変な美人であった。お嬢さんが一中節を習いたいと言うので、頭・ 勝五郎に相談すると元武士で師匠の”菅野伊之助”を紹介された。またこの伊之助がキムタクを混ぜた様ないい男であった。女将の心配通り二人の中は親密になっていったので、手切れ金25両を渡して別れさせたが、お嬢さんは得心がいかなかった。気晴らしにと高根晋斎叔父さんの剣道場のある根岸御行の松近くに移されたが、毎日寝たり起きたりの生活をしていた。

 1年後のある晩、伊之助が訪ねてきた。今までの無沙汰をわびながら部屋に招き入れて・・・、それから毎晩旧交を温めていた。そのうちお嬢さんのお腹に変化が出た。無骨な剣術の先生でもこれは分かった。会いに来た伊之助を確認して、翌日 勝五郎を呼びだし、伊之助を処分してこいと言い捨てる。頭は伊之助の住まい両国まで走って 行って、裏切りを問いつめるが、「夕べは頭と吉原でいっしょだった」。聞いて根岸まで取って帰して、話をすると「茶屋に下がると見せて、籠でこちらに来たのでは?」。頭、 また立腹して、 両国に戻ってきた。問い詰めると「昨晩は一睡もしないで、頭と話をしていたではないですか」。納得して根岸へ駆け戻った。先生じっと考えていたが、今晩も来るであろうから一緒に見届けよう。と酒肴を振る舞って時間を待ったが、頭は昼間の走りでバタンキュウ。いつもの様に伊之助が部屋に入った。頭を起こし中を覗かせると、昨日は違うが、今日は伊之助だという。種子島に火種を詰めて引き金を引くと命中、伊之助は絶命した。

 死骸を改めると 伊之助ではなく大ダヌキであった。お若さんがあまりにも伊之助を慕うものだから狸が化けて毎夜通って来ていた。

 お若さんは月満ちて産んだのは双子の狸で、絶命して葬り 、塚を建てた。根岸御行の松のほとり、「因果塚」の由来でした。

 


1.御行の松(おぎょうのまつ、台東区根岸4−9−5西蔵院境外仏堂不動堂境内)
 江戸期から「江戸の大松」と人々に親しまれ、江戸名所図会や広重の錦絵にも描かれた名松。現在の松は三代目。
 初代の松は大正15年に天然記念物の指定を受け、高さ13.63m、幹回り4.09m、樹齢350年と推定された。枝は大きな傘を広げた様で、遠くからもその姿が確認出来たという。しかし、天災や環境悪化のため昭和3年に枯死。同5年に伐採した。
 二代目の松は昭和31年に上野中学校校庭から移植したが、これも枯死してしまい、昭和51年8月三代目の松を植えた。これは根付いてすくすくと伸びている。戦後、初代の松の根を掘り起こし保存。不動堂の中にこの根の一部で彫った不動明王像を祀り、西蔵院と地元の不動講の人々によって護持されている。不動明王像は下谷2丁目大工の桜田幸三郎さんが彫った40cmぐらいの像です。
 御行の松の名の由来に定説は無いが、一説には松の下で寛永寺門主輪王寺宮が行法を修したからとも、松の根方でいつも休んだからともいわれる。また、この地を”時雨が岡”といったところから、別名”時雨の松”とも呼ばれた。(大筋は台東区教育委員会説明板より)
 江戸名所図会でみると、当時はお堂の脇を王子、飛鳥山の麓を流れてきた清流、音無川が流れ、風光明媚な風情があり、静かな根岸の里です。
 写真は初代御行の松、流れる小川は音無川です。
 版画は明治初期の御行の松、山本松谷画

 落語の噺は創作で因果塚はどこにもありません。当然で、人間が狸の双子を産むわけがありません。安心した様な、ガッカリした様な・・・。
 

2.初代三遊亭円朝(1839〜1900)
 天保10年(1839)4月1日、音曲師の初代橘家円太郎長男として、江戸湯島切通町で産まれる。本名出淵 (いずぶち)次郎吉。7歳のとき、小円太と名乗り初高座を勤めた後、二代目三遊亭円生の門人になり、安政2年(1855)16才で真打ちとなる。芝居話で人気を博し、元治元年( 1864)から4年間にわたり東両国垢離場(こりば、現・墨田区両国)の昼席で真(しん)を打ち続けるほどの人気者となった。(概略台東区説明板による)
 明治9年(1876)秋、円朝は本所南二葉町23番地(現・墨田区亀沢2−12)にあった旗本下屋敷跡500坪を買い取り移り住んだ。 庭は、割下水(わりげすい=堀割)から水を引いて池をつくり、多摩川の橋材を用いて庵室の柱とするなど、円朝の生涯のうちで最も贅沢で工夫を凝らした邸宅だったといいます。また、三遊宗家の故藤浦富太郎の記憶によれば、庭の隅には方形萱葺き屋根を乗せた2坪半ほどの庵室があり、円朝は就寝・食事・入浴以外のすべての時間をこの庵室で過ごして創作を行っていたようであったとしています(『明治の宵』)。
 円朝は、新宿へ転居するまでの約19年間をこの本所南二葉町で過ごしましたが、ここで円朝作品のうちで最も有名な「怪談牡丹燈籠」「塩原多助一代記」の噺を速記本として刊行し、「松操美人生埋(まつのみさおびじんのいきうめ)」「鶴殺疾刃庖刀(つるころしねたばのほうちょう)」「月謡荻江一節(つきにうたうおぎえのひとふし)」などの噺を創作した。
 他に「真景累ケ淵」、「文七元結」等を創作した。本業以外にも多彩で、歌道、和歌、俳句、書画、骨董(の目利き)等にも秀でており、建築、作庭にも秀でていた。晩年、内藤新宿に自邸の数寄屋作りの建物や茶室をこしらえ、百坪当たりの枯山水の庭園は見事であった。 写真は第8話「文違い」に有ります。この当時は落語から離れて禅に興味を示していた。明治33年(1900)8月11日、下谷車坂の自宅にて死去した。 享年62才。墓石には山岡鉄舟筆による「三遊亭円朝無舌居士之墓」とある。晩年収集した”幽霊画”は有名で、命日には全生庵で公開される。
 なお、本所での住まいは、落語「化け物使い」に詳しく有ります。
 この噺「お若伊之助」も円朝作と言われています。
 

3.一中節(いっちゅうぶし)
 浄瑠璃の流派の一。延宝(1673〜1681)の頃、京都の初世・都一中の創始。早くから江戸にも伝わり、天明(1781〜1789)の頃以降は吉原を中心に伝承。曲風は渋く温雅で、伝統的に上品な浄瑠璃と見なされている。
 都一中(みやこいっちゅう、1650〜1724)とは、(初世) 一中節の家元。京都真宗明福寺の僧。本名、恵俊。還俗して浄瑠璃を習い、須賀千朴のち都太夫一中と称す。宝永(1704〜1711)の頃、文弥節・治太夫節などの浄瑠璃を採り入れて一中節を起した。 (広辞苑より)
 趣味人や上層階級に好まれ、江戸中期から末期に江戸を中心として栄えた。のち、この流派から豊後節が出、さらに常磐津、富本、清元、新内など軟派の浄瑠璃が派生した。都派のほか、菅野派、宇治派などの分派がある。 (小学館・国語事典から)
 
”菅野伊之助”は菅野派の中心人物・・・か?


4.その後のお若伊之助
 この噺は長い話で、紹介した落語部分は第一編だけで、「根岸お行の松 因果塚の由来」と言う全九編の大作です。圓朝の速記本から要約してみます。
 悪ダヌキは邸内に埋めてしまったが、 生まれたのはタヌキではなく、人間の双子であった。この二人の子供と、お若、伊之助の数奇な運命が描かれていきます。

■第二編 「双子を養子に」
 生まれた双子の男児に伊之吉と名づけ、女児にお米と名づけたいそう可愛がった。勝五郎の口利きで、伯父の高根晋斎
(しんさい)はお米を大阪の豪商越前屋佐兵衛に、伊之吉を森下の腕の立つ大工の棟梁芳太郎にそれぞれ養子に出した。お若についても、広い江戸には狸の子供を生んだということを知らないものもいるから、嫁に出そうと考えた。しかしお若はどんなに進められても承知しない。そして髪を切ってしまった。

三編  「伊之助と再会」
  高根晋斎の家から近くに西念寺という寺があり、お若はこの一角に小さい庵を構え、尼の暮らしを始めた。すると毎日毎日一中節の門付けが通って来る。これがいい男と評判。お若が見るとこれが別れさせられた本物・伊之助。これから高根晋斎の目を気にしながら、会うことに。焼けぼっくりに火がついた。

四編 「二人の仲が露見 」
 雨の強い日、二人は朝寝坊をしてしまった。道場の弟子が朝食を持ってきたが、直ぐに戸を開けず不審顔で帰っていった。間もなく頭の勝五郎が訪ねてきた。二人の行状を見て咎めたが、二人の熱い絆を聞かされると返す言葉もなく帰っていった。このままでは生木を裂かれるであろうからと、駆け落ちを決意する。行き先は子供の頃世話になっていた川崎の在と決め、今夜決行することにして別れた。昼過ぎ晋斎がぶらりとやってきて、会わせたいお客があるからと道場に連れ帰った。

■第五編 「駆け落ち行」
 逃げ出してきたお花と伊之助は新橋のステーションから神奈川に駆け落ちをすることにした。追っ手が来るといけないので二人は次の品川駅で落ち合うことにして、別々の車両で行ったが、品川駅で火事に遭遇、離れ離れになる。お若は行き先も聞いていない。追手の男は迫る、とにかくお若は神奈川で伊之助が待っているのではなかろうかと行くことにし、汽車に飛び乗る。神奈川まで来たが、伊之助も見当たらないし、行き先はわからない、その上また追手が迫る。ひじ鉄を食らわすと男は倒れ、逃げだすと 人にぶつかりこれが訪ねる人であった。後に伊之助が訪ねてきて再会する。

六編 「花里」    
 まもなく二人に子供が出来、岩次と名づけ神奈川で幸せに暮らし始めた。
 話変わって、品川に和国楼(わこくろう)という廓が在り、娼妓が20人ほどいるところで、全員粒ぞろい。中でも花里という花魁が実にいい女。日露戦争の頃で、軍艦が品川に着くと店は繁盛する。ここに通いつめるのが、森下の大工の棟梁芳太郎に養子に行った伊之吉である。二人は会った時から引き付けあうものがあった。運命の出会いである。

七編  「和国楼」
 花里はこんないい情夫(ひと)が出来たところに軍艦乗りの水兵、海上渡が身請けをするという。この男が結構な金持ちなのである。お見世は花里を身請けしてもらえばいいお金になるが、どうしても承知しない。先輩や楼主からもキツク言われるが首を縦に振らない。

■第八編 「見世抜け」
 しかし、身請けになってしまった。
 廃業祝(ひきいわい)には当人の顔は勿論でげすが、廃業(ひか)せるお客・海上の顔にもかゝるんですから、立派にして遣らねばならぬので、それは盛大な宴になった。
 先輩花魁の手引きで、その当夜伊之吉が店の裏に船を着け、見世抜けをする。その後、見世では警察に届け、伊之吉を調べてみたが、花里の行方は分からなかった。

九編  「終章」
 神奈川にいたお若伊之助は
二十年(ふたむかし)をすぎまして、二度目に生れた岩次と申す息子も十八歳と相成りました。鳶頭初五郎に間に入ってもらい、伯父の高根晋斎に生きている間に侘びをすることにした。鳶頭初五郎のいる下谷二長町に向かった。すると一方の驚きではない。というのは高根晋斎の家にあれ以来患って、20年家を出たことがない、お若さんがいるというのだ。以前伊之助が二人いたように目の前にいるお若も狐狸妖怪であると思ったのである。しかしどうみてもそんな怪しいところはない。伯父の高根晋斎も不思議に思ったが、変なところはない。二人のお若は伊之助に寄り添って、何の違和感も感じさせず、伊之助と話をするのであった。
 
そんなところへ男たちに追われ、屋敷に逃げ込んでくる二人の男女。これが和国楼から逃げてきた伊之吉と花里。見ると二人は瓜二つ。花里の素性を聞くと大阪の商人にもらわれたお米であった。 商売が没落して品川に身を落としたという。高根晋斎は和国楼にお金を出し清算したが、二人は兄弟のため結婚できない。その晩綾瀬川に二人は身を投げた。
 
高根晋斎は夜中考えた。離魂病(りこんびょう)という病があり、人の身体が分身し生活する。しかし分身した体がひとつの所に集ると死んでしまうということを古い本で読んだことがあった。あくる日 、伊之助と連れ立っていたお若は消えてしまい、病弱のお若は死に、伊之助もその夜首をくくって死んだ。残された息子・岩次は両親と兄妹の冥福を祈り、仏門に入り谷中へ一基の因果塚を建立した。
 
扨(さ)て永々続きました因果塚の由来のお話もこれで終りと致します。
「この項2007年9月追記」

 


  舞台の御行の松を歩く
 

 根岸4−9−5にある不動堂を訪ねる。堂、境内入り口に「ラジオ体操会場」の看板を下げた、町の中の小さな神社かと思うがこれが不動堂。入って正面が不動堂、昔の初代「御行の松」は境内のど真ん中に立っていました。今は左側に「三代目御行の松」。大きくはないが手入れの行き届いた素敵な松です。その左手に、順に「初代の根っこ」が屋根の下に展示 さ(祀られ)ています。大きな「御行松」の石碑。黒御影の 「薄緑お行の松は霞なり」の子規の句碑が並んで建っています。
 その左に、落語を聞いた地元の有志がジョークで創った「狸塚」と狸の焼き物が並んでいました。フッと笑える、ジョークです。 双子の狸と言う事で、2個の狸像が鎮座しています。

 ここからさほど離れていない所にある、全生庵(ぜんしょうあん、台東区谷中5−4−7)を訪ねました。JR山手線を挟んだ隣町にあります。この噺「お若伊之助」は落語界中興の祖、三遊亭円朝作と言われています。その円朝の墓がここに有ります。命日の8月11日には毎年落語家や関係者、フアンが集まって”円朝忌(まつり)”が行われますが、今日は静かでした。幽霊も蔵の奥深くに眠っている事でしょう。

 

地図

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写真

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御行の松(台東区根岸4−9−5)
不動堂に入ると、境内の左側に有ります。写真の右手外側にお堂があります(写っていません)。右から「御行の松」、根方にサツキが満開。主役の座を取り合っています。中央屋根の下に掘り出された「初代御行の松根」。左側、「御行松」の石碑。

「狸塚
上記「御行松」の石碑の左側に、最近創られた、狸の置物二体と「狸塚」の石碑。高さ30cm位の小さな物です。大きさ(小ささ)に遠慮が見て取れます。

 

「三遊亭円朝翁碑」
谷中、全生庵(台東区谷中5−4−7)、山門をくぐって右側に植木に囲まれて立っています。

「三遊亭円朝居士の墓」
上記谷中・全生庵、本堂を回り込んで裏側、手入れの行き届いた墓地の中に有ります。
向かって右側に、初代から四代・三遊亭円生の墓も併設されています。

  

初代三遊亭円朝住居跡
円朝は本所南二葉町23番地(現・墨田区亀沢2−12)にあった旗本下屋敷跡500坪を買い取り、明治9年から明治20年まで移り住んだ。 庭は、割下水から水を引いて池をつくり、多摩川の橋材を用いて庵室の柱とするなど、円朝の生涯のうちで贅沢で工夫を凝らした邸宅だったといいます。 この後、新宿に移り住みます。
 道路を渡ったその前、写真のマンション前(亀沢2−11)に「河竹黙阿弥終焉の地」の標柱が建っています。河竹黙阿弥(文花13年(1816)〜明治26年1月)は歌舞伎作家として350余の作品を残して78才でここで亡くなりました。

「石町」(こくちょう)
正式には本石町といい、俗に石町と呼ばれ、一丁目から四丁目まであった。今の住所で概略日本橋本石町3丁目、日本橋室町3・4丁目、日本橋本町3・4丁目に該当します。
 写真の場所は本石町三丁目、江戸で最初の「時の鐘」が有った所です。今の住所で、日本橋本町4−3にあたります。
 噺の中では絶世の美人栄屋小町のお嬢さんが住んでいた、生薬屋の栄屋が有った所。

                                                                         2002年6月記

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