落語「札所の霊験」の舞台を歩く

  
 

 六代目 三遊亭円生の噺、円朝作「札所の霊験(ふだしょのれいげん)」によると。
 

  本郷の六丁目に「糸紙問屋」の主人、富士屋七兵衛の妻が2人の子どもを残して亡くなった。寄り合いの帰り、根津の郭に無理矢理連れて行かれ、増田屋の”小増”が相方に付いた。彼女には真夫(まぶ)がいて、榊原藩の重役、中根善右衛門のせがれ善之進、24歳で苦み走ったイイ男であった。同藩の下級武士、水司(みずし)又市は27際で江戸に出てきて間もなく、小増を見初めたが振られ、真夫の善之進を斬り殺して逃げ去った。事件の後ふさいでいた小増であったが、初めて出た客が七兵衛で、面影が似ているので歓待し、七兵衛も回を重ねた。気心があって身請けをし、家に入れた。

 家には、下の子が”おすぎ”と言う2歳になる女の子で、上の子は男の子で”正太郎”7歳であった。7、8歳は憎まれ盛りで、母親の悪口を言いふらしていたので、つねられたりしたのでアザだらけになった。たまたま、訪ねて来たお婆さんが驚いて、家族の反対を押し切って連れて行ってしまった。

 まもなく火事を出した。富士屋火事と言って蔵も店も焼け落ち、自家出火だったので麻布の地に移ったが、9年後麻布の大火に合い文無しになってしまった。借金だらけで、住んでいる事も出来ず、おすぎを連れて3人で越中の高岡(富山県)に昔の奉公人を頼って移っていった。

 大工町で荒物屋を始めたが生活が苦しいので、七兵衛は行商を始め、女房お梅(小増)はお寺の下仕事などをして、なんとか暮らしていた。
 3年が過ぎて、総持寺の住職”叡善(えいぜん)”は四十にはなっていた。お梅を大切にして20両程の金も貸し与えていた。
 ある日届け物を寺に持って行った。誰もいないのでお梅に酒の相手をさせて話し始めた。13年前の事覚えているかと、語り始めた。「小増と言っていた頃、通ったが見向きもされず振られた水司又市はワシで、真夫を殺してここに逃げ延びて来たのだ」と。出家してこの様になったのもお前のお陰で、また煩悩が出てきた。人を殺すほどの男なので、逃げる訳にも行かず、グッと引き寄せられ、雨足も激しくなって・・・、(紙が破れてこの後、何だか分からないので飛ばして・・・)。心の中ではこの坊主はいけ好かないと思っていても、仕事で来なくてはならないし、来れば親切にしてくれる。そんな事が続くと三十のお梅もだんだん心が傾いていった。

 ある時にはお梅が忙しいと言って、7日も家を空けて寺に泊まり込んだ。流石の七兵衛も腹にすえかねて来てみると、離れで差しつ差されつしていた。それを見た七兵衛は借りもあるし、無理に心を静めて咳払いしながら入っていった。 和尚の弱みにつけ込んで、店を出すのだと50両の金を無心した。叡善は一緒に呑みたいからとお梅を酒買いにやって、二人だけになった。
 叡善は酒こなしだと言って庭に出て薪割りを始めたが、剣の道を究めた人だから小気味よくナタを振り下ろしていた。七兵衛も庭に降りて男同士の話を始めると、「ワシは不義をやっていない」と ナタを七兵衛の脳天に振り下ろし、死骸を縁の下に隠した。そこにお梅が帰ってきたが、一部始終を話し 、お梅の家に叡善は泊まり込むようになった。

 その頃、夜、寺が空くのを見つけて、博打が始まった。それを見つけた役人が踏み込んでみると博徒達は逃げ回ったが、その中の一人が縁の下に逃げ込んだ。先に逃げ込んだ人の帯をつかんで隠れていると、それを見逃さず引きずり出された。出してみると仲間ではなく恐ろしい姿の七兵衛であった。
 その為、叡善和尚の悪事が露見したという、札所の霊験でした。

 



1.
「札所の霊験」は
 
この噺は三遊亭円朝作、人情話で「敵討ち札所の霊験」と言われた。またの名を「猿小橋の仇討ち」と言います。今回は仇討ちまで話が及んでいませんので、表題の「札所の霊験」といいます。
 人情話なのでオチはありません。

 

2.猿小橋の仇討ち
  寛政10年(1798)10月12日、江東区深川、猿子橋辺りで、山崎みき・はる母娘が、夫であり父に当る彦作の仇、崎山平内を討った。平井仙龍に助太刀を仰いだものの、婚約者はるが十八歳のため評判を呼び、かわら版は「寛政このかたほまれかヾ見」と、「江戸深川敵討之記」の二種類確認できる。つまり平内の首を打落とし、仙龍にも褒美を給ったと報ずるのであるが、実際には、大勢留めに入ったため本懐を遂げ得ず、28日破傷風で平内死去。その4日前、仙龍は癪気で病死。褒美に授かってはいない。

  一方、「寛政このかたほまれかヾ見」も、はるの、弟がいる等、誤聞を含むが、平内が取押さえられたのは、正しい。共通するのは浅草観音の御利益を説く点で、『撰要永久録』等の公的記録には見えない。敵討のような大難事の成就には、神の助けなくては適わぬと言うのが、江戸人の心情なのであろう。明治33年刊の田辺南麟口演『寛政復讐山崎勇婦伝』など、講談の速記本が残るが、今もなお演ぜられているのは、三遊亭円朝作の人情咄『敵討札所の霊験』(『やまと新聞』明治20年6月26日より連載)。設定は史実と異なる。

http://www.um.u-tokyo.ac.jp/dm2k-umdb/publish_db/books/news/02/0205.html [かわら版の情報世界]より

 猿小橋(さるこばし)。江東区常盤1丁目に南北に六間堀が流れていたが、今は埋め立てられて道路になってしまった。 常磐1−9と常磐1−11の間に架かっていた橋。

 

3.衆徳山総持寺(富山県高岡市関町32)
031soujiji 叡善和尚が住職をしていて、七兵衛を殺したと言われる舞台のお寺さんです。14世紀中頃に赤丸村(現福岡町)に建てられた。 前田家二代藩主前田利長が、高岡城を築き(1609年)現在の高岡の町の基礎を作った頃に、現在地(高岡市関町)に移した。総持寺本堂は1702年に再建されたもので、本尊の大日如来座像は重要文化財。すずらんの寺として有名。
  高岡といえば国宝・瑞龍寺が有名だが、総持寺のような古刹が市内に多数残っています。

本堂写真; http://www.kimura-product.co.jp/toyama/toyama10.htm#soujiji  より
 

4.三遊亭 円朝 (1839.4.1〜1900.8.11)
 江戸から明治への転換期にあって、伝統的な話芸に新たな可能性を開いた落語家。本名は出淵次郎吉(いずぶちじろきち)。二代三遊亭圓生門下の音曲師、橘屋圓太郎(出淵長藏)の子として江戸湯島に生まれ、7歳の時、小圓太を名乗って見よう見まねの芸で高座にあがる。後にあらためて、父の師の圓生に入門。母と義兄の反対にあっていったんは落語を離れ、商家に奉公し、転じて歌川国芳のもとで画家の修行を積むなどしたが、後に芸界に復帰。17歳で芸名を圓朝に改め、真打ちとなる。まずは派手な衣装や道具を使い、歌舞伎の雰囲気を盛り込んだ芝居噺で人気を博すが、援助出演を乞うた師匠に準備していた演目を先にかける仕打ちを受けたのを機に、「人のする話は決してなすまじ」と心に決める。以降、自作自演の怪談噺や、取材にもとづいた実録人情噺で独自の境地を開き、海外文学作品の翻案にも取り組んだ。生まれて間もない日本語速記術によって、圓朝の噺は速記本に仕立てられ、新聞に連載されるなどして人気を博す。これが二葉亭四迷らに影響を与え、文芸における言文一致の台頭を促した。大看板となった圓朝は、朝野の名士の知遇を得、禅を通じて山岡鉄舟に師事した。

円朝、本所での住まいは、第48話「お若伊之助」にあります。
新宿での住まいは、第8話「文違い」にあります。
墓は全生庵(ぜんしょうあん、台東区谷中5−4−7)にあります。第48話「お若伊之助」に写真があります。

 

5.糸紙問屋
 
糸・紙、日用品、雑貨等を扱う日用品雑貨の卸 。

 麻布(あざぶ);現港区は芝区、麻布区、赤坂区が合わさって出来ています。その中央部分が麻布です。当時は淋しい所で、狸、狐は当たり前、熊や象まで出ました。熊や象はジョークですが、今は最先端のお洒落な都会に変身です。
  落語、第16話「黄金餅」の麻布絶口釜無村の木蓮寺はここにあります。

 

6.根津の郭
 文京区根津一丁目にあるツツジで有名な根津神社があります。第六代将軍徳川家宣(いえのぶ、1662〜1712)が生まれた産神様として大事にされた。家宣は宝永2年(1705)壮麗な社殿(国の重文)を建立した。
 このため建設に従事する職人目当てに繁華街が形成されていった。 のち、明治15年ごろ吉原を抜いて東京第一の遊郭となった。ところが隣には東京大学が出来て文教地域になり根津の遊郭の引っ越しが真剣に考えられるようになった。 明治20年5月、江東区洲崎が埋め立てられたのを期に、その地に21年9月引っ越し開業をした。後年、品川遊郭の一部も加わり東京一の繁栄を極め栄えた。
 今は根津(文京区根津)も洲崎(江東区東陽1丁目)もごく普通の町になっています。
 


  舞台の根津、本郷六丁目、猿小橋を歩く
 

  根津神社の正面を出た所に門前町が有りますが、ここの門前町はお土産屋さんや食べ物屋さんでは無く、遊郭があった。町の中は今はごく普通の住宅地ですが、当時を偲ばせるいくつかの建物が残っています。門前の杉本染物舗(根津1−21)の横壁に当時の状況を記したプレートが付いています。その文面を紹介しますと、

 「根津遊郭の跡地」 によると、根津八重垣町(昔は門前町と言った)から根津神社まで遊郭があった。そして昔根津は不寝と書かれていたようだ。小石川本郷と谷中の中間の谷間で、天保十有余年この根津に楼妓がいた事を記している。更に当時の江戸市中の風紀から見て一大改革が持たれ、俗に言う水野越前守の政策で一時沈静化した。明治維新になると、この根津の遊郭復帰は声高く叫ばれ公然と開業された。ところが東大が隣の本郷向岡に開設されるにおよび根津遊郭廃止論が大きく起こった。そして明治20年12月限りで廃止。その殆どは洲崎に移り又一部は吉原に移った。明治15年当局の調査によると吉原1019人、根津688人、品川588人の女性が居たと記されている。その繁栄ぶりが偲ばれる。
(昭和62年4月 文京歴史研究会掲示板より)

と、あります。東大は根津から見ると直ぐ隣の丘の上にあります。スポーツ選手の声が聞こえる距離です。不夜城が東大の真下に有ったのでは嬌声が筒抜けになってやはりマズイでしょう。 写真で見ても、坂の上にグラウンドのネットが見えます。

 本郷六丁目は今の本郷三丁目交差点北側(東大・赤門前)付近です。本郷通りに面した細長い町で今の町名と大体同じ辺りになります。

  「本郷もかねやすまでは江戸の内」 古川柳  (注)

 江戸を後に北に向かうと直ぐに右手が東大の校内になります。おおざっぱに言うと、ここが東大の左下角で、右上角がグラウンドでその先が根津です。本郷通りはその先で本郷追分けに出ます。左に行けば中山道(板橋へ)、真っ直ぐ行けば岩槻街道(飛鳥山へ)です。本郷三丁目交差点を左に曲がると坂を下りて後楽園に出ます。ここは巨人のホームグラウンド、ドーム球場と遊園地、クアハウスが有ります。本郷三丁目交差点を右に曲がると、さんざんおじゃました湯島天神と坂を下りると御徒町、上野に出ます。

(注)かねやす(文京区本郷2-40-11)

 兼康祐悦という口中医師(歯科医)が乳香散という歯磨粉を売り出し大変評判になり、祭のように賑わった。
享保15年に大火があり、防災上から町奉行大岡越前守は本郷三丁目から江戸城にかけての家は塗屋・土蔵造りを奨励し、屋根は茅葺きを禁じて瓦で葺くことを許した。江戸の町並みは本郷まで瓦葺きが続き、ここから先は板葺き・茅葺きの家が続いた。
その境目の大きな土蔵のある「かねやす」は目だっていた。

 芝神明前の兼康との間に元祖争いが起き、時の町奉行は、本郷は仮名で、芝は漢字で、との判決を行なった。それ以来、本郷は仮名で「かねやす」と書くようになった。参考:文京区教育委員会
現在、かねやすはレディースモード店となっています。

 猿小橋は江東区常盤一丁目交差点が猿小橋が架かっていた所ですが、目標になるものやそれらしいものは何一つありません。ただ、ここに猿小橋が有ったのかと言う程度です。ここから西に100mも 行かない所に”芭蕉記念館”が有ります。「古池や 蛙飛び込む 水の音」の句碑もここにあります。

 

地図

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写真

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猿小橋跡
南北に六間堀が 流れていた。昭和26年に埋め立てられて道路になった上に立っています。写真を撮っている常磐1丁目交差点が猿小橋が架かっていた所で、橋の欄干から六間堀の北を見ている感じです。
根津神社 (文京区根津1−28−9)
太田道灌が社殿を奉建。その後、宝永2年五代将軍綱吉は兄綱重の子綱豊(六代家宣)を養子に迎えた。氏神根津神社に屋敷地や社殿等を献納。天下普請と言われた、社殿、唐門、楼門、透塀が国宝(現重文)に指定されています。
境内には斜面を利用して、つつじヶ岡と呼ばれる、ツツジが有名です。
根津の郭跡
この道路の右側が上記の根津神社入り口です。正面が新坂(権現坂、S坂)と呼ばれる坂で、登った所に東大のグラウンドが有ります。左側の民家がある所が門前町で遊郭の有った跡です。手前の商家の壁に文京歴史研究会による「根津遊郭の跡地」という説明板が架かっています。左にはいるとその中心地になります。
そこには、当時を思い起こさせる旅館があります。その名を「上海楼」と言い、けばけばしい外装と雰囲気を辺りにまき散らしています。
洲崎(江東区東陽一丁目)
洲崎の中央の大通り(大門通り)を眺めています。当時の面影はありませんが、一歩中にはいると、当時使っていた建物が見あたります。当然別のお店が入っていますが、外壁にその名残が見えます。見世その1見世その2
本郷六丁目(文京区本郷五.六丁目で、本郷通に面した赤門前の町)
富士屋七兵衛一家が住んでいた所。写真は本郷三丁目交差点。
秋葉原電気街の西側神田明神下から、本郷通りを湯島一丁目で始まり二丁目が神田明神。その先六丁目まであります。六丁目を過ぎると、加賀様のお屋敷(現・東大)を右に見てその先、本郷追分けに出ます。左に行けば中山道(板橋へ)、真っ直ぐ行けば岩槻街道(飛鳥山へ)です。

                                                             2003年6月記

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