落語「山号寺号」の舞台を歩く
   

 

 八代目春風亭柳枝の噺、「山号寺号」(さんごうじごう)によると。
 

 商売となるとみな難しいが、芸人の中でも一番難しいのが幇間です。2時間でも3時間でも気が許せない商売で、相手の思っている事を先回りして行動しなければならない。
 頭が痛いと言えば、直ぐに医者を呼んでくる。先生が脈を取って首を傾げたら、葬儀社を呼んでくるとか・・・。逆に頭が働けば、こんなに面白い商売もない。

 町中で若旦那が幇間の一八を呼び止めた。一八「先日のご婦人は・・・いかが・・・」、若旦那「しぃ!」、「なにか手水で子供に下のお手伝いで?」、「バカ、下を見ろ。小僧を連れているんだ」。
 「今日はどちらに」、「観音様に」、「浅草寺ですね」、「観音様だ」、「浅草寺でしょ」、「観音様に行くんだ」、「若旦那のお言葉にしては・・・、あすこは金竜山浅草寺に安置奉る聖観世音菩薩、人呼んで観音様と言います。これを『山号寺号』と言います。例えば『金竜山浅草寺』、『萬松山泉岳寺』、『東叡山寛永寺』、『成田山新勝寺』、『三縁山増上寺』何処に行っても山号寺号はあります」、「それは恐れ入ったな。芸人に頭を下げるよ」、「そう!どこにも有ります」、「ここは下谷の黒門町。ここに有るか?どうだ」、「・・・くゥ〜」

 「私も無理を言う。芸人なんだから頭を使え。出たら100円祝儀をやろうじないか。出なかったら、首だ」、「それは大変だ。どこにでも有るというのは言葉のあやなんですよ。探しますよ。首がかかっているんですから」
 「有りました!あすこで、おかみさんが掃除をしています。『おかみさん(山)拭き掃除(寺)』」、「なるほど。芸人だ。祝儀の100円を。もう無いだろう」、「いえ、お金儲けします」
 「有りました。お婆さんが乳母車押してきたでしょ。『乳母(おんば)さん(山)子大事(寺)』」、「有るもんだね。あげるよ」。
 「有りました。『看護婦さん赤十字』」、「これはエライ事を言ったね。有るもんだね。やるよ」。
 「また有りました。『自動車屋さんガレージ』」、「なるほどね。有るもんだね」。
 「アリガトウございます。前をご覧なさい『時計屋さん今なん時』」、「ヒドいのが出てきたね。やるよ」。
 「隣に『洋服屋さん紺サージ』」、「エライ事言っちゃったな。やるよ」。
 「前に『洋食屋さんソーセージ』」、「やるよ」。
 「その向こうに『果物屋さんオレンジ』」、「しょうがないや」。
 「『お医者さん疣痔(いぼじ)』」、「汚いな。分かったよ。やるよ」。
 「綺麗に『高島屋さん左団次』」、「上手い。褒めてやるよ」。「『同じく小団次』」、「だめだよ」、「半分だけ」
 「ところで、懐にイッパイになっただろ」、「はい」、「今度は私がやろう。出した祝儀を全部私の掌に乗せなさい」。「乗せました」、「懐にグッと押し込んで、お尻をはしょって『一目散随徳寺』」、
「あ!『南無三しそん寺』」


 
 1.金竜山浅草寺
 (きんりゅうざん−せんそうじ)台東区浅草二丁目3番。都内最古の寺院。推古天皇36年(628)3月18日、檜前(ひのくま)浜成・竹成兄弟が隅田川で漁をしているとき、一躰の観音尊像を感得した。郷司・土師中知(はじのなかとも)はこれを拝し、聖観世音菩薩に深く帰依し、その後出家し、自宅を改めて寺となし、礼拝供養に生涯を捧げた。大化元年(645)勝海上人がこの地を訪れ、留錫され観音堂を建立し夢告により御本尊を秘仏と定め、以来今日までこの戒は厳守されている。その後、参拝の信徒が増すにつれて浅草も発展し、平安初期には浅草寺中興開山・天台座主三世慈覚大師円仁が来山され、秘仏を模して御前立の本尊を謹刻した。鎌倉時代には将軍家の帰依も厚く、外護者として著名な武将・文人の信仰を集め、徳川家康公により幕府の祈願所に定められてからは、江戸文化の中心として栄え、今日まで多くの参拝者が訪れ民衆信仰の中心地となっている。
 http://www.senso-ji.jp/ 浅草寺ホームページ
 落語「船徳」、「付き馬」、「ぼんぼん唄」、「粗忽長屋」、「猿後家」、「擬宝珠」、「四宿の屁」、「心眼」、「星野屋」などに詳しい。 
 

萬松山泉岳寺;(まんしょうざん−せんがくじ)港区高輪二丁目11番。慶長17年(1612年)に徳川家康が外桜田に門庵宗関を招いて創建。寛永18年(1641年)寛永の大火で焼失したが、徳川家光の命で、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷・今川の六大名により、現在の高輪の地で再建された。 元禄赤穂事件で有名な浅野長矩と赤穂浪士が葬られていることで知られ、現在も多くの参拝客が訪れる。また、毎年12月13、14日には義士祭が催される。また境内に、赤穂浪士ゆかりの品を所蔵している「赤穂義士記念館」がある。
 http://www.sengakuji.or.jp/ 泉岳寺ホームページ。
 http://ginjo.fc2web.com/84yodogorou/yodogorou.htm 落語「淀五郎」に詳しい。

東叡山寛永寺;(とうえいざん−かんえいじ)台東区上野桜木一丁目にある天台宗関東総本山の寺院。東叡山寛永寺円頓院と号する。開基(創立者)は徳川家光、開山(初代住職)は天海僧正、本尊は薬師如来。 徳川将軍家の祈祷所・菩提寺であり、徳川歴代将軍15人のうち四代家綱公、五代綱吉公、八代吉宗公、十代家治公、十一代家斉公、十三代家定公の6人が寛永寺に眠る。17世紀半ばからは皇族が歴代住職を務め、日光山、比叡山をも管轄する天台宗の本山として近世には強大な権勢を誇ったが、慶応4年(1868年)の上野戦争で主要伽藍を焼失した。
 http://ginjo.fc2web.com/190otominoteisou/otominoteisou.htm 落語「お富の貞操」に詳しい。

成田山新勝寺;(なりたさん−しんしょうじ)千葉県成田市成田1番地にある真言宗智山派の寺院。同派の大本山。本尊は不動明王。関東地方では有数の参詣人を集める著名寺院で、家内安全、交通安全などを祈る護摩祈祷のために訪れる人も多い。寺名は一般には「成田不動」あるいは単に成田山と呼ばれることが多い。
 歌舞伎役者の市川團十郎が成田不動に帰依して「成田屋」の屋号を名乗り、不動明王が登場する芝居を打ったことなども相まって、成田不動は庶民の信仰を集め、成田参詣が盛んとなる。
 http://www.naritasan.or.jp/ 成田山ホームページ。
 http://ginjo.fc2web.com/181nedoko/nedoko.htm 落語「寝床」に詳しい。

三縁山増上寺;(さんえんざん−ぞうじょうじ)港区芝公園四丁目7番、三縁山広度院増上寺、 浄土宗の七大本山の一つ。開山は酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)上人によって、現在の千代田区紀尾井町の地に創建されました。その後、文明2年(1470)には勅願所に任ぜられるなど、関東における浄土宗教学の殿堂となった。
 江戸時代の初め源誉存応(げんよぞんのう)が徳川家康の帰依(きえ)を受け、大伽藍(がらん)が造営された。以後徳川家の菩提寺として、また関東十八檀林(だんりん)の筆頭として興隆しました。
 徳川将軍・二代秀忠公、六代家宣公、七代家継公、九代家重公、十二代家慶公、十四代家茂公の、六人の将軍の墓所がもうけられています。
 http://www.zojoji.or.jp/ 増上寺ホームページ
 落語「鈴振り」、落語「首提灯」、落語「浜野矩随」に詳しい。
なお、初代家康公、三代家光公は日光東照宮に、十五代慶喜公は谷中の墓地に埋葬されている。

 

2.幇間
 タイコ(幇間)持ち、客の宴席に侍し、座を取り持つなどして遊興を助ける男。男芸者。遊客の機嫌をとり、酒興を助けるのを仕事とする男。また、人に追従してその機嫌取りをする者。 広辞苑

 現在では東京に数名、関西には1名しかおらず絶滅寸前の職業とまで言われ、後継者の減少から伝承されてきた「お座敷芸」が失伝されつつある。古典落語では江戸・上方を問わず多くの噺に登場し、その雰囲気をうかがい知ることができる。台東区浅草にある浅草寺の本坊伝法院には1963年に建立された幇間塚がある。幇間の第一人者としては悠玄亭玉介が挙げられる。 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

 昔はいろんな遊び方があったんだけど、もう今は駄目だね。みんな杜用族になっちやって、自分のお金で遊ぼうなんて人はいないんだ。今の男の人は、幸せのようで幸せじやあないね。遊びの味を味わおうったって、味わえないんだから。昔は遊びっていうと、お客について、五軒も六軒も歩いて回ったもんだ。居続けなんてのも、しょっちゅうだしね。今じや、宴会の時間なんて二時間で終わりなんて最初から決められているんだから。そんなの遊びじやないよ。女中さんも、板さんも終業時間が決まっているしね。郵便局と同じだよ。味気なんてありやしない。
最後の幇間と言われた師匠の本、「たいこもち玉介一代」悠玄亭玉介著 草思社より

一目散随徳寺;(いちもくさん_ずいとくじ)わき目もふらず(ずいとそのままにする意を寺の名めかして言った語) 後の事など構わずに跡をくらますこと。

南無三;仏・法・僧の三宝に帰依すること。何て言う広壮な事ではなく、驚いた時や失敗した時、また事の成功を祈る時に発する語。しまった。さあ大変だ。なむさん。

しそんじ(為損じ);やりそこなう。しそこなう。しくじる。

高島屋さん左団次;歌舞伎役者の名跡、市川左團次(いちかわ さだんじ)のこと。屋号は高島屋。

山号寺号;日本テレビの看板番組「笑点」の大喜利で使われる、山号寺号がこれです。「・・・さん、・・・じ」と言うのがこれです。

紺サージ;紺色のサージ。サージ(serge)とは、元絹毛交織を指したが、主に梳毛糸(ソモウシ)を用いて綾織とした服地をいう。近来、合成繊維も使われる。無地が多い。学生服にも使われる。広辞苑

 

3.下谷黒門町
 黒門町
と言う町名は無く、元黒門町、西黒門町、東黒門町の三町を合わせて俗に黒門町と呼ばれていました。明治2年から上野○黒門町と呼ばれていたが、明治44年に上野の二文字が無くなった。昭和39年(1964)住居表示の町名変更で現在の上野○丁目と変わった。

元黒門町;(もと-くろもんちょう)。台東区上野二丁目、不忍池東南に飛び出した街並みと、その南部。
 不忍池東南にはみ出した半島のような街には、映画館や飲食店、ホテルなどがあり、池側には台東区立下町風俗資料館(台東区上野公園2-1)があります。南の交差点を渡ると中央通りに面した鈴本演芸場を含めて、この地でした。

西黒門町(にし-くろもんちょう)。台東区西黒門町、現在の台東区上野一丁目。かつて文楽、今輔の自宅があった地。落語協会事務所(上野一丁目9−5)や講談の定席、本牧亭(上野一丁目11−9)が有ります。
 八代目桂文楽(落語協会元会長)はここ上野一丁目11−3(住居表示は建物に着く番号なので空き地ですから借りの番号を振っています)に住んでいた。”西”を取った「黒門町」という名は、文楽を指し示すもう一つの呼び名ともなった。で、文楽の事を黒門町の師匠と呼んだ。黒門とは寛永寺の表門のこと(落語「お富の貞操」に詳しい)。文楽旧宅の前には、五代目古今亭今輔(落語芸術協会元会長)の自宅(現・落語協会事務所)もあった。
 文楽最後の妻(5度目)は、30年間(最初の出会いから40年間)を文楽のために捧げたが、当時の文楽には正妻(4度目の妻)がいた。4度目の妻が亡くなった後、正妻となり、黒門町の家で文楽と共に暮らし、文楽の最期の一年を看取った。文楽の亡き後、未亡人は文楽との間に生まれた息子の待つ元の住まいに戻った。黒門町の家は住む人が居なくなり、売却された。現在、文楽の家があったところは未だ更地で、駐車場(?)になっています。 その斜め前に落語協会の事務所(今輔邸跡)があります。
 右図;上、今輔。下、文楽。「新イラスト紳士録」 山藤章二より

東黒門町;(ひがし-くろもんちょう)。台東区上野三丁目西側。
 西黒門町から見て、中央通りを挟んだ西側の地で、松坂屋の南から区境までの範囲。

 

4.私も見付けました。
  
・魚屋さん、アジ             ・お巡りさん、刑事          ・落語協会新会長さん、小三治

  
・焼肉屋さん、トラジ(店名。キキョウ) ・中華屋さん、バンバンジー    ・旅行業者さん、良い幹事

  
・揚げ物屋さん、ガスレンジ      ・食べ物屋さん、裏路地       ・花屋さん、パンジー

あっ! 私、まだ、ご祝儀もらっていないのですが・・・。

 


 舞台の黒門町を歩く

 上野公園を南に下ってくると、左手に広い中央通り、右手に不忍池東側を巡る道が出てきます。その右手の道と奥にある不忍池に挟まれたくさび形の狭い街と南側の街が元黒門町と言います。ここら一帯は映画館やホテル、劇場、飲食店が並びさながら場末の歓楽街のようです。映画館はポルノ系の成人映画が上映されています。
 黒門とは今下りてきた公園の出口にあった、寛永寺の正門の事で、真っ黒に塗られていたのでその様に呼ばれたと思われます。この門は江戸から明治になる時、官軍と彰義隊がここで戦争をして多くの犠牲者と、多くの寛永寺伽藍を焼失してしまいました。その黒門は砲弾跡の穴を残し、三ノ輪の円通寺に移設されています。
 現在、くさびの根元のところに台東区立下町風俗資料館があります。でもこの館は住所で言うと隣町になってしまいます。
 中央通りのT字形交差点で、不忍池南端の広い道を横断して、コンビニのサンクス側に立ちます。ここの地には落語「臆病源兵衛」、「お富の貞操」、「猫怪談」、「ねぎまの殿様」で何回か来ている所です。中央通りを南に池之端仲町の商店街アーケードを右に見ながら福神漬けの酒悦(しゅえつ)、隣の落語のメッカ鈴本演芸場、JTBが並んでいます。ここまでが、元黒門町の表通りです。 

 とことこと歩を進め、上野広小路の交差点を渡ります。目の前にお江戸上野広小路亭があって、落語芸術協会が寄席を開いています。左に松坂屋(デパート)が見えます。”洋服屋さん紺サージ”が置いてあるでしょうか。

 先程の上野広小路亭側(中央通りの西側)を歩きます。次の路地から西黒門町が始まります。その次の路地角に交番があって、猫の額と言うより、ネズミの額ほどの小さな公園があります。ここを右に曲がって街中に入っていくと、左角に料理屋かと見間違う、講談の定席本牧亭があります。右先には街の名を残す黒門小学校があり、子供達が走り回っていそうなのに、校庭には誰も居ません。
 先程の本牧亭を左に曲がり、最初の路地角の居酒屋、呑喜を右に曲がると、左手に落語協会事務所 http://www.rakugo-kyokai.or.jp/ が見えます。ここの2階では若手の落語会が開かれています。毎週土・日午後から黒門亭と名付けられて千円で開かれています。そんなに歴史は深くありませんが、既に4万人の来場者を記録しています。
 落語協会の建物がある場所は、五代目今輔師匠が住んでいた住宅跡地に建てられたものです。では八代目文楽師匠の住まいの跡地は、と言うと、事務所前の路地を抜ける右角の手前の空き地がそうです。現在は二階建ての木造建物はなく、更地になっていて砂利が引かれ自動車の駐車場として利用されているようです。二人の住宅環境は友達同士のように近く行き来が出来たのでしょう。また、チョットの相談事や借り物は融通し有ったのでしょうね。でも、両者とも両協会のトップだった人ですから、奥様同士は表面上のお付き合いだけだったのかも知れません。私の勝手な想像です。
 このように跡地だけを見ると文楽師匠より今輔師匠のほうが広い土地に暮らしていた事が分かります。

 表通りの中央通りに戻ります。松坂屋の店舗の切れた所から南部が東黒門町と呼ばれていた所です。路地で三つほど先で区が変わって千代田区になってしまいます。奥行きもなく、ホントに狭い一区画です。通りを渡って、東黒門町の街に入ると、安売りや呼び込みがあって、おすましの商店街と違って庶民的な街です。 
 その先、オットット、東黒門町を抜けてJR御徒町駅を抜けて東側の街、上野五丁目に入ってしまいました。ここから北一帯は並行輸入の街で、昨日まではロレックスを中心に腕時計の街でしたが、今は”貴石”の街になっています。いろいろな貴石で作られたイヤリング、指輪、ブレスレッド、ネックレス等が店を飾っていますが、やはり中心はダイアモンドです。ルイビトンやシャネル、クリスチャン・ディオールなどのブランド商品の店は探しても見付かりません。時代が変わったのでしょう。  

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。

中央通りにあった案内地図より。左が北になります。 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

元黒門町(台東区上野二丁目7、8&12、13、14)
 不忍池北に延びた街とその南にある街(写真)の二つを元黒門町と呼んでいました。今は不忍池に面して台東区立下町風俗資料館があります。

西黒門町(台東区上野一丁目)
 三ヶ所の黒門町の内、一番面積の広いところ。黒門小学校があり、商業地だけではなく人も住んでいます。昔ながらのお肉屋さんも八百屋さんも有ります。左写真をクリックすると八代目文楽や五代目今輔の住居跡も見られます。

東黒門町(台東区上野三丁目13〜18&23、24)
 松坂屋を南に下った地域で、賑わいは大したものです。

乳母さん子大事 (以下全て、上野一〜四丁目にて)
 「お母さん、子大事」

自動車屋さんガレージ
 自動車修理屋さんです。当然ガレージは付属していますよね。

時計屋さん今何時
 今の御徒町は並行輸入の時計屋さんが多くあります。ここと違って数十万円、数百万円の腕時計が並んでいます。

洋食屋さんソーセージ
 今、洋食屋さんというフレーズはあまり使いません。飲み屋さんでも、料理屋さんでもソーセージは出しますし、大元のお肉屋さんでは必ず置いてあります。

お医者さん疣痔
 あらら、痛いでしょうね。早く治って痛みが取れるといいですね。

果物屋さん、オレンジ
 八百屋さんなのでしょうか、果物屋さんなのでしょうか。

                                                    2010年8月記

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