落語「福禄寿」の舞台を歩く

  
 

 六代目 三遊亭円生の噺、「福禄寿」(ふくろくじゅ)によると。
 

  深川万年町に福徳屋萬右衛門さんがいた。本名福田さんですが福徳が備わっているので回りが福徳屋と言い、自然とその屋号になってしまった。九十八まで生きて、子供が18人いた。十三人が実子で五人を養子として預かった。長男を六太郎弟を福次郎、と言った。

 長男は派手好みで大きな事ばかりやったがどれも永続きせず身代限りになった。俗に言う倒産です。弟はまじめで商売熱心、信用あつく身代を増やし親以上になっていた。兄は頼る所がないので仕方なしに弟の所で無心しては倒産を繰り返していた。その為弟の所には行きにくくなっていた。

 暮れの28日、雪の晩、親類縁者を集めて両親を歓待したが長男が居ないのが気になった。お祝いの後、貧相な格好をした長男が母親の離れに庭から訪ねてきた。金の無心であった。今度こそは最後の無心だからと弟から300円都合してくれと言う。母親がこんこんと説教するが運が悪いと逃げてしまう。26回目の無心だから母親も、もう福治郎には言えないと言う。
 そうしていると福治郎が廊下に見えた。六太郎をコタツの中に隠し、部屋に入れると、誰か暮れに困っている人が居たら自由に使って良いと、300円のお金を差し出した。併せて灘の生一本の銘酒を置いて、これから忘年会に出掛けるからと部屋をあとにした。
 コタツから六太郎を出すと、兄にやれとばかりお金を置いていったと母親が嘆いた。金を受け取り、酒を5合ばかり飲んで帰って行った。
 雪の外に出ると、母親に注意されたように、やはり転んでしまった。この金で遊びに行こうか、それとも福島に行ってそこでパッと使おうか考えていた。

 福治郎が外に出ると、下駄の間に何か挟まった。よく見ると母親に預けたフクサ包みであったので、とって返して母親の所に駆けつけた。何か泥棒でも入ったかと案じたが、六太郎に渡したと分かり安堵した。そのつもりで渡した金であったが、人間、分限があって、欲しい欲しいと思っていてもお金の方から飛び出して、自分の所に戻ってくるのは妙なものである。
 1升袋は一升以上は入らない。お兄さんは小さい器なのに大きな事ばかりしているもので、身代限りを続けるのでしょうね。と話していると、兄が戻ってきた。今の話を全部外で聞いていた。自分の分限を初めて知ったと言う。

 悟った六太郎は今までの事を詫びて10円だけ借りて福島県に旅立ち、荒れ地を開拓し、なにがしかの資本を得た。北海道に渡って、亀田村を開墾し、立派に成功した。円朝作福禄寿でございました。

 



1.福禄寿
 
福禄寿と言えば通常七福神の一人で、 星宿の神、南十字星の化身ともいわれて長寿をつかさどる人望福徳の神です。一説には中国の宗の時代、嘉祐年間に実在した道士であったと言われています。福禄寿は背丈が低く頭がきわめて長く、白髪童顔の姿にして、年齢数千歳とも言われています。ひげを蓄え、杖の先に巻物を結わえて 、長寿の象徴鶴を従えて、幸福と長寿の福徳を授ける神様といわれています。

 ここでは、福は幸福、禄は俸禄、寿は長寿。円生も噺の中で言っていますが、なかなかこの全てが備わるのは難しいと。誰もがこのようになりたいと、もがいているのですが天分の所がありますので、全ての人が、とはいきません。

 

2.深川万年町(江東区深川1丁目)
 深川(ふかがわ)  慶長初期(1596〜1614)、江戸がまだ町づくりを始めたばかりのころ、深川八郎右衛門という人が、摂津の国(現・大阪府)から移住して、小名木川北岸一帯の開拓を行い、この深川の苗字を村名としました。これがこの地一帯の名称となりました。現在の深川は、昭和16年、亀住町と和倉・万年町・冬木町の一部を合併して名付けました。(江東区ホームページから)

 隣の冬木町に福徳屋萬右衛門さんのモデルになったと思われる豪商が住んでいました。その名を上田直次と言って、材木商を営んでいました。上田家は屋号から冬木屋と名乗り三代目冬木屋弥平次の時、広大な庭と池を造りその中央に弁財天を祀った。紀伊国屋や奈良屋のように豪遊をせず江戸末期まで身代を崩さず、茶の湯や尾形光琳など文化面に多大の援助をした。今、冬木屋は無くなったが、上田家を隆盛に盛り上げた冬木弁天(江東区冬木22−31)は邸内神から町の神様になった。

 噺の中では万年町を舞台にしていますが、本当はどこでも良かったように思われます。しかし、話の内容からどこかおめでたい町名の所が必要であったのでしょう。そこで”万年町”となったのでしょう。他に候補地としては、”長者町”今の台東区上野3丁目JR沿いの所。 同名の”万年町”台東区北上野1丁目南側。”大富町”中央区新富町。”本銀(ほんしろがね)”中央区室町3丁目。等いくつか有ります。他に末広町(江東区)、高砂町(中央区)、永富町(千代田区)、福富町(台東区)、万(よろず)町(中央区)、等の候補地もあります。大きい所では六万坪町(江東区)なども有ります。

 

3.三遊亭円朝
 
作者円朝については、第48話「お若伊之助」に詳しく記述されています。

 

4.北海道・亀田村
 
現在の北海道函館市亀田。明治の始め亀田村と呼ばれた。五稜郭は亀田村の一部であったが、函館に吸収されて約半分になってしまった。明治32年の事であった。昭和40年代に亀田村から亀田町になり、まもなく亀田市になった。48年隣市函館と合併し亀田市は函館市となった。
 幕末期の記録では「一本木 亀田、箱館の境也」(「蝦夷日誌」『函館市史』史料1)、「(亀田村)より七丁許過て一本木村と云ふ、家数わづか四、五軒なり、是より七、八丁にして箱館の入口」(「松前紀行」『函館市史』史料1)などとあって、「一本木」が箱館と亀田村の境界地帯として箱館の外と位置付けられている。明治に入ると、箱館戦争時の記録に、箱館を占拠していた榎本武揚(えのもと たけあき)ら旧幕府脱走軍は「(明治元年:1868)11月より一本木町端に関門を建、夫より大森浜手の処迄木戸を拵、箱館の出入の者壱人改に致す」(「箱館軍記」『函館市史』史料2)とあり、一本木は箱館の区域内という認識が生まれ、箱館の町域の東端は一本木の町端から大森浜を結ぶ線と位置付けられている。(函館市史 通説編第2巻より)
 「開拓使事業報告」によれば、「永禄5年(1562)畑地開墾を以て北海道の嚆矢(こうし。かぶらや=ものの始まり)とす、すなはち亀田郡亀田村是なり」とあり、亀田村では五穀を作ったというのと野菜を播種すという両様の記録もあり、その細部については不明であるが、いずれにしても北海道の農業の起源と見てよいであろう。しかし、これらも当時の状況地形から見て農業の専業ではなくコンプ採りも兼ねていたものと思われる。松前郡では永禄(1558〜1569)以後、皆宅地のそばに野菜を作ったとあり、天正16年(1588)近江国の建部七郎右エ門が野菜種子の行商人となって松前に渡ったともいう。(北海道立道南農業試験場 70年史より)

 


 

  舞台の深川万年町を歩く
 

 万年町は今の深川1丁目です。落語第62話「刀屋」でこの間歩いた”佐賀町”は仙台堀川に沿って隅田川方向(西側)200m先です。万年町は仙台堀川の南側で二つ目通り、今の清澄通りに面しています。その通りに架かっている橋が海辺橋。その橋の南西際に”採茶庵”(さいとあん)跡(深川1丁目−10)が有ります。芭蕉がここから、元禄2年奥の細道の旅に船で旅立った所です。言い忘れています、万年町の情景はごく普通のマンションが多い町並みです。

 この町の隣、清洲通りを渡った目の前に、この噺の題名になった深川七福神”福禄寿”のお堂があります。双修山・心行寺(深川2−16−7)の境内です。そして、ここから直ぐの所にある冬木弁天に足を向けます。
 小林清親画”武蔵百景之内より深川ふゆき弁天”の版画に引かれてここにも立ち寄る事にしました。深川七福神・冬木弁財天(冬木22−31)で、明治の初めまで、冬木屋という材木商の屋敷に祀られた邸内神でした。老木が茂り大きな池に臨む弁天様は江戸の中期から冬木屋と冬木町を守る神様でしたが、今は池は無く、敷地も狭く社がかろうじて残ったと言う感じです。ここの弁天様は裸弁天と言って、素裸です。今日はご開帳の日ですので、よく見る事が出来ます。30cm位の本尊です。普通の弁天様は琵琶を持って薄衣を羽織っていますが、何度も言いますが裸弁天ですから何も持っていません。裸ではかわいそうですから着せ替え人形のように、着物を着せてあります。12年に一度この着物を着せ替えるそうです。その時、行きます?

 

地図

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写真

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深川万年町(江東区深川1丁目)
深川1丁目は写真に写してどうという町ではありません。どうしてもみたい方は”ここ”をクリックしてください。
 採茶庵(さいとあん)(深川1丁目−10)、松尾芭蕉の門人鯉屋杉風の持ち家で、三百坪の邸内に採茶庵を建て、楽しんでいたが芭蕉もしばしばこの庵に遊んだ。ここで、「白露も こぼさぬ萩の うねりかな」と詠んでいる。元禄2年奥の細道の旅にここから旅立った所です。

福禄寿お堂
福禄寿は七福神の一人で、頭が長く、短身。ひげを蓄え、杖の先に巻物を結わえて鶴を従えている、幸福と長寿を授ける神様です。
 深川七福神の一つで、双修山・心行寺(深川2−16−7)の境内に有ります。

冬木弁財天
實永年間に日本三弁天の一つ、琵琶湖の弁天様の出開帳のおり、上田直次の夢枕に弁天が立ち「ここにとどまり衆生を救済す」とのお告げで、屋敷にこの弁天を祀った。以後、冬木屋という屋号で材木商を営んだ。江戸の火事によって豪商になり、三代目の時、この地に移って、下記の版画のような邸宅を構えた。ここから町名も冬木町となった。紀伊国屋や奈良屋のように豪遊をせず江戸末期まで身代を崩さず、茶の湯や尾形光琳など文化面に多大の援助をした。冬木屋は無くなったが、邸内神から町の神様になった。

  

小林清親描く 「”武蔵百景之内より深川ふゆき弁天”の版画
明治17年の作品、深川七福神で有名な冬木弁財天(冬木22−31)の雪景色の作品です。大振りの松と大きな池とそこに遊ぶカモを雪の中に描いています。この雪景色の中から、話の福禄寿のイメージがふくらめば良いのですが・・・。

                                                                                                     2003年2月記

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