落語「文七元結」の舞台を歩く

  
 

 柳家小三治の噺、「文七元結」(ぶんしち もっとい)によると。
 

 本所達磨横丁に住む左官の長兵衛が今日も博打に擦られて帰ってくると、十七の娘”お久”がいないという。お長屋中が探したが分からない。吉原の佐野槌(さのづち)から使いが来て女将さんが呼んでいるから直ぐ来て欲しいと言う。お久さんは当家にいるから同道してと言うが、尻切れ半纏1枚しか着ていないので、無理矢理女房の着物をはぎ取って、吉原へ。

 佐野槌に着いてみると、女将の脇にお久がいた。 博打が過ぎて家財道具は無くなり、借金がかさんで夫婦げんかは絶えず、どうしようもないので、女将さんから説教してくれと言う。話を聞いて50両の金を貸し渡す。その替わり、お久の身体は預かって女一通りの事は習わすが、来年の大晦日を1日でも過ぎると見世に出して、客をとらせるよ。娘が言うには、その金で帰りに変な所に寄ったりしないで、お母さんに親切にしてよ。涙ながらにお久に礼を言いながら、見世を後に花川戸から大川の吾妻橋へ。

 「こんちきしょー、待ちやがれ、危ねぇじゃねーか!」、「助けると思ってその手を放してください」、「欄干から手を離せ!」、「吉原で間違いでも起こしたのか」、「そんな事では無いのです。私は横山町のベッコウ問屋で”近江屋”の若い者です。本日小梅の水戸様から掛け金の50両を集金したが、枕(マクラ)橋でスリ取られてしまったのです。ご主人様には弁解のしようがありません」、「死んだって金は戻らないだろう」、「分かりました」、「行くぞ〜」。・・・(@_@)! 「コラ!待て!飛び込むな!  俺はここから離れられなくなってしまった。どこからか借りてきて渡せよ。何処にもいないか。死ぬ事以外に考えられないか。・・・俺って男は金には縁がないのかな〜。・・・50両ここにあるから持っていけ!」、「そんな大金もらえません」、「やりたかないよ。だってお前は死ぬんだろ、娘は死にやしない。変な目で見るなよ。こんな格好の者に50両は持っている事は無いよな〜。この金は先ほど娘が吉原に身を沈めて作ってくれた金だ。やるから、何かの折には、吉原の方に手を合わせてやってくれ」。横殴りに殴りつけて金を置いていった。「本当に50両入っている。ありがとうございます。」

 文七が店に帰ってきて50両を差し出すと、既に50両は店に届いていた。碁好きの文七が夢中で楽しんでいたので、置き忘れたのも分からなかった。自分の勘違いを悟り、吾妻橋の一件を思い出しながらご主人に話をした。みんなを寝かせて、番頭は吉原の佐野槌へ。

 翌朝、文七とご主人は挨拶の為、達磨横丁に。途中の酒屋で角樽を買い求め、家を尋ねると「そこの夫婦喧嘩をやっている家だから直ぐに判りますよ」。
 喧嘩の最中に訪ねて来た。裸同然の女房を枕屏風に隠し、昨日金をやった、文七と再会、主人も訳を話し、お礼を言った。50両を返すと言うが、江戸っ子のやせ我慢で受け取れないと、つっぱているが、奥から女房が袖を引くので受け取る事になった。「この金のおかげで昨日から寝ていないんです」。
 近江屋さんは文七の親代わりになって欲しい。それから、人が困っている時に自分を犠牲にまでして、助ける心意気に感服し、親戚付き合いをして欲しいとお願い。話がまとまり、こんなおめでたい事なので、お酒を差し上げたい。それから肴も差し上げたい。「待ってください、酒は好きだから喜んでいただくが、肴は塩だけで結構」。肴は真新しい駕籠に乗って、文金高島田、着飾ったお久だった。近江屋に身請けされて自由の身に。過ぎたる肴と、裸同然の女房と三人して抱き合って涙した。

 これが縁で、文七とお久は夫婦になり、麹町に小間物屋を出した。後年、文七が工夫を凝らした元結をあみ出し、後々文七元結、文七元結と持て囃されたという。
 


1.文七元結
 人情噺「文七元結」 (ぶんしち もっとい)、三遊亭円朝の佳作。この噺の内容は良く出来ていますので、大師匠の高座はみな感動ものです。志ん生、円生、彦六、志ん朝、今更私ごときが言うまでもなく、それぞれに秀逸で感動ものです。
 中でも、私が一番感動したのは、まだ柳家小さんと談志が仲違いをする前に開かれた”親子会”(すなわち小さん、談志の二人会)での談志の文七元結。師匠の小さんは力みが無く、相手を立てる余裕と、それなりの良さがありましたが、談志の師匠なんてナンダという、若さと力と迫力があった。ナミダと笑いとで顔がくしゃくしゃになって感動していたのを今でも鮮烈に思い起こす事が出来ます(それ以来、出来が悪い時や来ない時があっても、談志フアンです。ははは)。その時の”音”は残ってはいないのでしょうね。
 小三治のCD(90分近い熱演)が大変素晴らしいので、今回はこれを取り上げました。

右図;「三遊亭圓朝像」鏑木清方画(重要文化財)
東京国立近代美術館蔵

 ある落語家さんが弟子に聞かれました「こんな大事な大金を見ず知らずの人間に渡せるものでしょうか」、「それが解らなければ、この噺をしなくていい」。いい逸話ではありませんか。約4〜500万円の大金です。生きるか死ぬかの瀬戸際で、それが出来る人情をまだ持ち合わせていた、長兵衛さんは左官屋で大成したでしょう。

 蛇足になりますが、三遊亭円生が亡くなる直前、最後の口演が行われたのが、(千葉県)習志野文化ホール(サンペデック・ホールのこけら落とし)でした。昭和54年10月6日、当日円生自身が体調不良を感じ、長演が出来そうにもなく、お客さんに迷惑を掛けるのを恐れ短い噺「桜鯛」(殿様小噺で、殿様の出てくる噺のマクラに使うもの。)で降りてきました。その直後楽屋で倒れ、救急車の要請になったのです。この時の予定の出し物はこの「文七元結」と、「江戸の四宿」(「四宿の屁」)でした。感無量です。スケジュール帳を見ると、ビッシリと公演が詰まり、亡くなる前、1ヶ月の行動を見ると、日本全国を歩いています。休みは2日間のみでした。一日寝ていたと書かれています。

■桜鯛概略
 お殿様の料理は冷たいのが常態で、焼き物の鯛も冷たいのでお飾りのように箸を付けることはなかった。
 たまたま、この日は箸を一つ付けた。ところが殿様「替わりをもて」とおっしゃった。お飾りの鯛なので、調理方では予備が有ろうはずはない。とっさにお付きの御家老が「庭の築山が綺麗でござりまする」と声を掛けて、殿様が庭を見た隙に鯛を裏返して、「替わりの鯛が参りました」。
 殿様納得して、またひと箸付けて「替わりをもて」。これには御家老も困った。今度は裏返すことが出来ない、裏返せば先ほどの箸跡が出てしまう。困っていると、殿様が言った「もう一度、築山を見ようか」。殿様先ほどからお見通しであった。

 

2.本所達磨横丁
 
第50話「唐茄子屋政談」で、墨田区みどり図書館で館員の皆さんのご協力により確定された場所。
 
「唐茄子屋政談」から再引すると。場所は、古地図で言うと、浅草から吾妻橋を渡り南側”南本所馬場(ばんば)町、または馬場町”と”北本所表町”の間を南北に走る横丁。北はT字路で突き当たり(裏側、最勝寺)。現在の墨田区東駒形1丁目、本所1丁目の清洲通り東側を南北に平行に走っている道(本所1丁目11、12、13、24、29、の西側を南北に走る道)。しかし、現在は南北方眼状に道が整備されていますが、当時は弓なりになった道なので、今とピッタリ付合させる事が出来ません。
 この名称は俗名、または通称で正式地名ではないので、切り絵図などには載っていないのです。位置確定には墨田区みどり図書館で館員のご協力により「江戸府内町名俚俗名等切図集覧」より見つける事が出来ました。ありがとうございました。
 「唐茄子屋政談」でも出てくる苦労人の叔父さんもここ達磨横丁に住んでいます。達磨を作っている人が多いからとか、達磨(下等な売春婦)がいたからとか、達磨の絵を得意とした葛飾北斎が住んでいたから、等いろいろな説があります。

角樽(つのだる);ご祝儀、お祝い事に使う酒樽。柄樽(えだる)とも言った。角(ツノ)のような1対の大きく高い柄をつけた、黒または朱塗りの祝儀用の樽。古くは長方形で、上の四すみに把手があった。(右図 ;月桂冠のホームページより)
 

3.細川の屋敷(墨田区吾妻橋1−23)  吾妻橋東詰め、ウンチ(?)の彫刻(フランスの著名なデザイナー、フィリップ・スタルク氏によるもので、屋上の「炎のオブジェ」は、躍進するイメージの心の象徴だそうです)が上に乗ったビアホールやアサヒビール本部、墨田区役所が有るところです。ここの、細川若狭守下屋敷の中間部屋で開かれる博打で、長兵衛は負けて帰ってきた。町奉行の手が及ばないので盛んに賭場が開かれた。負けて裸になった者は尻切れ半纏が支給された。見れば直ぐに負けて帰ってきた事が分かった。 それを腰巻きも着けていない、女房に着せてもお尻丸出し、前に回ったら・・・、おぉ正視出来ない。長兵衛だって八口の開いた着物を着て出掛けるなんて、相手は驚くだけでしょう。 逆に言えばそのぐらい博打に毒されていたのです。

吉原の佐野槌;江戸から明治、昭和まで続いた政府公認の遊廓。浅草の北側、現・台東区千束四丁目に有って、最盛期には3〜4000人の遊女が吉原に居た。佐野槌は、ここの江戸町一丁目に入って左手に有った大見世。落語世界のフィクションかと思っていましたが実在の見世だったのです。これだけの大見世の女将ですから、言う事もハッキリ言いますが、出すものもしっかり出します。遊びの知らない(?)番頭さんでも迷わずに直ぐに行けたのでしょう。
 

「明治吉原細見記」斉藤真一著 「新吉原細見全図」著者作図部分 明治10年5月の吉原  10年05月追記

 

4.小梅の水戸様
 
向島から押上にかけて一帯を小梅と言った。水戸屋敷(向島1丁目全域)の庭園部分が今の隅田公園(向島1−3)で、小梅別邸は下屋敷であった。上屋敷は文京区の後楽園です。後楽園については落語第55話「孝行糖」で詳しく説明します。
 隅田公園の説明板から引用すると、元禄6年(1693)に建設され、南は北十間川(源森川)、西は大川(隅田川)に面し、6万6千平方メートル(2千坪)の敷地を有し、南北200m東西300m、墨田区大小名屋敷で最大の規模を誇った。ここには蔵奉行、水主、鷹匠が住んで、御船蔵が置かれ、船、材木が保管された。
明治になって、一時政府の管理下に置かれたが、以後水戸家の本邸が置かれた。しかし関東大震災で壊滅的な被災を受けて、二百数十年の歴史を閉じた。昭和6年公園として復興したが大戦によりまた被災、昭和52年墨田区が全面的に手を入れ現在至った。、
 一帯の小梅という地名は、今はありませんが、公園の北側には小梅小学校が有りますし、東には小梅橋と名前が残っています。

■枕(マクラ)橋 小梅の水戸屋敷を出て直ぐ南で渡る橋。源森川が大川(隅田川)にそそぐ所に架かっていた橋。名前と場所は現存します。その先、大川に架かる橋が吾妻橋です。左を見ると、長兵衛が通っていた賭場、細川の屋敷が有ります。
 

5.吾妻橋(あずまばし)これも、第50話「唐茄子屋政談」で、説明済みなので、そちらをご覧下さい。

■横山町のベッコウ問屋”近江屋”さん。横山町(中央区日本橋横山町)には、文楽の噺の中に出てくる「富久」の幇間久蔵が火事で駆けつけた、越後屋さんの旦那が住んでいた所です。今は衣料問屋が多く集まっています。文七は金を持って吾妻橋を渡り終わって左折、川沿いに江戸通り(蔵前通り)を南下すると2kmちょっとで横山町です。
 

6.元結(“もとゆい”または“もっとい”、“もとぎ”とも言う)
 日本最大の産地は長野県飯田です。
 信州、飯田水引の始まりは、元禄年間(1700年頃)のこと。美濃から招かれた紙漉き職人・桜井文七なくして語ることはできません。

■元結とは男性のチョンマゲや女性の日本髪の元を束ねて紐で結わえて固定します。この、糊で固く捻ったこよりで製した紙紐が元結です。当時、非常に弱く扱いにくかった為、文七はそこで修行を積みながら元結改良に日夜苦心を重ね、遂に光沢のある丈夫な元結造りに成功、販路を江戸に求めると、たちまち髪結床から注文が殺到、これを契機に江戸に卸問屋を開業して後、「文七元結」の名で国中の評判になりました。

■水引とは、パルプを原料とした和紙で紙芯を作り、直接着色したり、蒸着フィルム、飾糸を巻いて仕上げたもので、贈答品や祝儀袋に使われる紅白(金銀等)の紙の紐です。
 水引の歴史は古く、飛鳥時代、聖徳太子の命を受け隋国(中国)に渡った小野妹子が帰朝の際、隋国より日本の朝廷に贈られた贈り物に麻を紅白に染め分けた紐状のものが掛けてあったといわれ「クレナイ」と呼ばれた。
 ところが断髪令によって元結の需要は激減し、代わって副業だった水引と水引工芸が産業として、発展を遂げることになったのです。飯田市の代表的産業となっています。

 この歴史から見ると、主人公の文七さんと開発者の桜井文七さんは別人で、噺の主人公がこの逸話の中に潜り込んだようです。

 


 舞台の吾妻橋東を歩く
 

 8月は旧暦で言う「四万六千日」が有る月、お暑い盛りです。
 隅田川の上も涼しさなどは何処へやら、ゲンナリして口で息をしながら歩いています。身投げのしたくなる吾妻橋上ですが、夏の炎天下、それも蜃気楼のごとく揺らいでいます。浅草側から渡り始めると正面にアサヒビール本部ビルが見えます。ジョッキに注がれたビールのイメージでビルはビールゴールド、屋上はアワで盛り上がっています。隣の黒いビルはレストランで、屋上には巨大なウンチ(?、誰でもソー思うでしょう。観光バスのガイドさんですら、そー言います)の彫刻が乗っています。ここが賭場の開かれた”細川の屋敷跡”です。

 レストランで出来立て生ビールは後にして、墨田川に沿って左に曲がり、道なりに進むと出たところが”枕橋”。下の川は源森川(北十間川)で、今でも屋形船が多数もやってあります。左の欄干中程に当時の枕橋の様子がレリーフとして埋め込まれています。この墨提通りは上部の首都高速と同じく交通量の激しい道です。桜の時期は花と車と人で大変です。橋を渡り右側一帯の木立が隅田公園。
 この隅田公園が当時の”水戸家の下屋敷跡”です。門は墨提通りに面していて、吾妻橋には2分ぐらいでしょう。明治になって天皇陛下も遊びに来たと、碑には書いてあります。大きな広場と、池を中心にした回遊式の日本式庭園になっています。都内では珍しいくらいに水鳥が飛来していたり、蝉の鳴き声がうるさいくらいです。夏休みの今日ですから、セミ取りの子供が駆けずり回っています。収穫は大漁のようです。

 

地図

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写真

それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。

本所達磨横丁(駒形橋東側に南北に伸びた路。本所1丁目11.12.13.24.29.の西側を南北に走る道)
大きなビルやケバケバした雰囲気のない、静かな下町の民家が集まった、良き街並みの横町です。
 中央正面に見えるのは賭場跡のアサヒビール、ここから賭場までは大した距離ではありません。今日も負けに行く長兵衛さんでした。

吾妻橋
この橋の上で、50両を投げつけて身投げを助けた所です。橋の上からは長兵衛が賭場に通った細川の屋敷跡(アサヒビール)が見えます
 橋を渡って左に行くと枕橋を渡って、水戸様の下屋敷です。

細川の屋敷(墨田区吾妻橋1−23)
吾妻橋を渡った東詰めのアサヒビールのビルが有るところが細川屋敷跡です。このビルはビールジョッキをイメージしているので、ビールのゴールドと、上部は泡です。隣はウンチ(?)のディスプレーのレストラン

枕(マクラ)橋隅田公園とアサヒビールの間の源森川に架かる橋、道路は墨提通り)
現在の枕橋欄干に埋め込まれた当時の風景レリーフ。
クリックすると現在の橋。
源森川は今でも船溜まりになっていますし、川に平行して東武鉄道が走っています。
その先右側の木立が、隅田公園です。  

小梅の水戸様(墨田区向島1−3)
水戸下屋敷跡、現隅田公園。当時の庭園の様子を回遊式に復元してある。池の向こうに見える高層建物はアサヒビールの隣に建つ墨田区役所です。
夏休みなので、子供もセミ取りに夢中です。

                                                        2002年8月記

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