落語「心中時雨傘」の舞台を歩く 古今亭志ん生の噺、三遊亭圓朝作「心中時雨傘」(しんじゅうしぐれがさ)によると。
根津権現の祭りは勇壮だった。祭りの準備で屋台が出て、その上根津の遊廓の賑わいもすごかった。縁日の屋台の、ドッコイ屋と言うのがあった。ドッコイ屋は盤の中央に回転する棒がついていて、その先に針があってマス目の中に景品が書いてあり、当たると景品がもらえたが、なかなかカステラなどは当たらなかった。この家業のお初さんは歳が二十三で色白で小股の切れ上がったいい女であった。母親と二人暮らしであったが、嫁になると母親が生活できなくなるので断っていた、親孝行娘であった。 慶応3年10月20日の本祭りの前の晩、帰り道、池之端から仲町を抜けて稲荷町に帰ってくるが、池之端に来た時は八つの鐘が鳴っていた。月夜の明るい夜であったが、根津の冷やかし帰りの3人組に呼び止められて、穴稲荷(あなのいなり)の暗闇に引きずり込まれかかった。だれか〜、と叫んだが誰も来なかった。
仲間の訴えで捕まえたが、調べると二人とも私がしましたと言うので、牢屋に下げて新たに調べると、被害者は博打打ちのならず者でお尋ね者だった。奉行は状況から見て、悪さをする不届き者だから、「捨て置け」との一存で二人は帰ってきた。大家が仲に入って二人は夫婦になって、母親と3人、仲のいい生活が始った。 11月、大家が来て頼むには、酉の市の売り子が足りなくなったので、二人で手伝って欲しいとの要望で、手伝って完売してしまった。その帰り道、下谷広徳寺の辺りで火事が出た。駆け戻り長屋に入ると母親が火中に取り残されていた。金三郎は濡れムシロをかぶって母親を助け出したが、今一歩の所で家が崩れ梁(はり)の下敷きになってしまった。鳶(とび)が飛んできて、二人を助けたが、金三郎は右肩を強く打ってしまった。
翌年の4月に母親が亡くなった。菩提寺もないので家主の日暮里・花見寺に納めた。残された二人は半年後の10月には仕事がれで暇な上に、金三郎の腕の痛みも増した。看病をすれば仕事に出られず、仕事に出れば看病が出来ず、困り果てていた。「俺さえ居なければ・・・、」という思いが募ってきた。
明くる日、道具いっさいをバッタに売り払い、こざっぱりとした身なりで、家主や回りには病気養生の為田舎に引っ越すと挨拶した。お礼参りや暇乞いやらを浅草寺に参拝し、そこから出る時には陽は暮れ始めていた。
「諏方神社裏の雨の景」明治初め頃の写真。 開化写真鏡〜写真からみる幕末から明治へ〜大和書房刊
1.池之端(いけのはた)
■仲町;(池之端仲町)寛永5年(1628)に寛永寺門前町として起立した。町名の池之端については、不忍池のほとりにあることから付けられたが、仲町の由来については不詳である。
町内に吹貫横丁という不忍池の南側から本町を南北に縦断した道があった。池面を渡る北風が吹貫けたのでこの名があるという。吹貫横丁を境にして、東側を東仲町、西側を西仲町と俗に称していたようだ。
また、仲町は商人町として古くから発達してきた。錦絵、竹作工、筆墨硯、袋物、茶をはじめとする店が立ち並び大変賑わっていた。中では「錦袋圓」(きんたいえん)と称する薬を売っていた薬屋は有名であった。これらの店が並ぶ道は、江戸時代から明治年間まで、上野と本郷を結ぶ道として賑わった。現在は池之端仲町通りという。
明治5年(1872)、仲町は福成寺を合併し町域を広げ、昭和39年(1964)の住居表示の実施で、西側一部が池之端一丁目になり、残り大部分が上野二丁目となった。(台東区まちしるべより)
■根津の遊廓(ねづのゆうかく);文京区根津一丁目根津神社南側。75話「札所の霊験」で歩いたところ。文京区根津1丁目にあるツツジで有名な根津神社があります。第六代将軍徳川家宣(いえのぶ、1662〜1712)が生まれた産神様として大事にされた。家宣は宝永2年(1705)壮麗な社殿(国宝)を建立した。
■穴稲荷(あなのいなり。あないなり);台東区上野公園4−17 花園稲荷神社の俗称、五條天神と同居。お初が手籠めにされかかったところ。
古くからこの地に鎮座し、忍岡稲荷(しのぶがおかいなり)が正しい古称ですが、石窟の上にあった事から穴稲荷とも俗称されていました。お穴様の小社は、古書に弥佐衛門狐と記され、寛永寺が出来る時、忍岡の狐が住む処が無くなるのを憐み、住みかの穴を造り、その上に社を祀ったと云われます。
■下谷稲荷町(したやいなりちょう);お初さんと母親が長屋に住んでいたところ。 台東区東上野四〜五丁目両南側、旧名・北稲荷町。明治5年、下谷稲荷町は現在の浅草通りで南北に分けられるとともに、この地は永昌寺、広徳寺ほか6ヶ寺の寺地を合併して下谷北稲荷町が誕生した。そして明治44年に下谷の2字をはずして北稲荷町となった。(台東区まちしるべより)
■山伏町(やまぶしちょう);下谷稲荷町を火事で焼け出され、3人が移り住んだところ。
■浅草寺(せんそうじ);詳しくは落語22話「船徳」、23話「付き馬」、76話「ぼんぼん唄」、109話「猿後家」、115話「粗忽長屋」等をご覧下さい。
■日暮里・花見寺(にっぽり_はなみでら);荒川区西日暮里3−7、谷中の江戸百景の一つ、いつも季節の花々が咲き誇っていたところから別名花見寺とよばれている。修性院には、谷中七福神中唯一実在の人物で9〜10世紀の中国にいた禅僧「布袋様」が祀られている。修正院、妙隆寺(合併して現在は修性院)や青雲寺は境内の庭園に四季の花々を植え、「花見寺」と呼ばれている。
左;名所江戸百景 「日暮里寺院の林泉」 広重画 花見寺・修性院を描く。 修性院でいただいた絵葉書
■諏方神社;(すわじんじゃ)荒川区西日暮里3−7。信濃の国(長野県)上諏訪神社と同じご神体を祀る。元久(げんきゅう)2年(1205)豊島左衛門尉経泰(つねやす)が信州諏訪から勧進し、社殿を造営したと伝る。
■誓願寺裏(せいがんじ_うら);台東区西浅草二丁目 江戸時代の頃、この地は高い石垣の本願寺と路を隔てて北にあったことから、北寺町と称されていた。
■松葉町(まつばちょう);台東区松が谷一丁目の一部と・二・三丁目 明治2年(1869)、それまであった浅留町と浅草坂本町に付近の門前町がひとつになってできた。町名は、新寺町の名主
高松喜内の「松」と坂本町名主 二葉伝次郎の「葉」をとって名付けられた。
■坂本(さかもと);台東区下谷1〜2丁目の内 入谷交差点の西側の街で、入谷の鬼子母神があります。南側には落語「黄金餅」で有名な万年町(下谷山崎町)やその東側には3人が住んでいた小さな街、山伏町があります。坂本を抜けて、鶯谷、日暮里を抜けて、諏方神社の境内に入っていきます。
2.不忍池(しのばずのいけ)
不忍池を中心に北西に根津神社、西に池之端七軒町、茅町、南に仲町、東に上野の山(森)、その一角、不忍池が切れる辺りに穴稲荷があります。今でも深夜を過ぎると人通りが途絶え寂しいところですが、仲町だけはネオンが輝いた歓楽街です。
「江戸高名会亭尽 下谷広小路 東叡山麓河内楼上酒宴之図」 歌川広重画 不忍池池畔の有名な会席料理屋。窓の奥に見えるのが不忍池、右側に弁天島が望める。
3.言葉
■ドッコイ屋;ドッコイ屋は盤の中央に回転する棒がついていて、その先に針があってマス目の中に景品が書いてあり、当たると景品がもらえたが、なかなかカステラなどは当たらなかった。
子供用ルーレット。
■大引け;(おおびけ)遊廓の登楼締め切り時間。中引けが深夜九つ、大引けが八つです。大引けになると大戸を引いて、お客は取りません。お茶を挽く遊女が出たり、冷やかしは帰らざるを得ません。
■八つ;現在の深夜2時ごろ。一刻(とき)は2時間で、深夜0時を九つと言って、数が減っていきます。八つ=2時、七つ=4時、明け六つ=6時となります。応用問題、夜10時は何と言いますか? TVの雑学問題で出題されますからしっかり覚えてね。答えは「四つ」です。出来ましたか? 時刻の数え方は落語「時蕎麦」に有ります。
■小股の切れ上がった;(小股が切れ上がる)女のすらりとした粋なからだつきをいう。広辞苑
■伝馬町送り;伝馬町とは江戸に牢獄があった町名、小伝馬町から来ています。伝馬町だけで牢獄を意味し、そこに送られる事を言います。ま、人を殺めたら帰ってくる事は絶望です。
■北の奉行所、浅野備前守;北町奉行所は今の東京駅八重洲口北側の構内に銘板がはめ込まれています。もう一つは有楽町数寄屋橋際に南町奉行所があり、交代で役を務めていました。
浅野備前守は35代目の奉行で名を長祚(ながよし、読みが各説有り定まらない。文化13年(1816)6月9日生 - 明治13年(1880)2月17日没)といいます。文久2年(1862)10/17〜文久3年(1863)4/16 にかけ6ヶ月間、北町奉行を勤めた。
右;現在の東京駅八重洲口、グラントウキョウ・ノースタワー低層階にある大丸(デパート)の1階奥の壁面に都教育委員会の碑がはめ込まれています。
■酉の市;(とりのいち)11月の酉の日に鷲(オオトリ)神社(大鳥神社)で行われる祭礼。初酉の日を一の酉といい、順次に二の酉・三の酉と呼ぶ。三の酉まである年は火事が多いと言い伝わる。特に東京千束三丁目の鷲神社の祭礼は名高く、縁起物の熊手などを売る露店で浅草辺までにぎわう。おとりさま。酉のまち。 広辞苑
■鳶;(とび)=火消し。後年建築現場で身のこなしを生かして足場上の仕事をするようになり、鳶職の地位が確立された。逆に鳶職が火消しを勤めたとも言われる。
■名倉;整骨院名倉(なぐら)医院。本家は足立区北千住五丁目で当時の面影を残した建物で盛業しています。骨つぎと言えば名倉と言われるほど、関東一円にその名を知られていた名医。名倉家は、秩父庄司畠山氏の出で享保年中(1716〜)千住に移り、明和年間(1764〜)に接骨医を開業したと伝わる。現在、江戸時代から昭和中期まで盛業時の医院の建物が保存されていて、昭和59年12月区登録記念物(史跡)とした。かって、名倉医院の周辺には、患者が宿泊して加療できる6宿屋があって、その主人が名倉医院で治療に当る医師及び接骨師を兼ねていた。当時門前の広場では、名医の名倉へと遠来よりわざわざ治療に訪れた患者さんの駕籠や大八車がひしめいていた。(足立区教育委員会)
■石見銀山ネズミ取り;(いわみぎんざん−)江戸時代、石見国笹ヶ谷鉱山で銅などと共に採掘された砒石(ひせき)すなわち硫砒鉄鉱(砒素などを含む)を焼成して作られた殺鼠剤(ねずみ捕り)であり主成分は亜ヒ酸。単に「石見銀山」や「猫いらず」とも呼ばれ、広く使われた。実際の「石見銀山」では産出されなかったが、その知名度の高さにあやかるため「笹ヶ谷」とは呼ばなかった。毒薬として落語・歌舞伎・怪談などにも登場する。
■鹿島立ち;かしま‐だち、
鹿島・香取の二神が、天孫降臨に先だち葦原中つ国を平定した吉例に基づくとも、また、辺防の軍旅に赴く武人・防人(サキモリ)が、鹿島神宮の前立(マエダチ)、阿須波神に途上の安全を祈ったともいう故事から、旅行に出で立つこと。かどで。出立。 広辞苑
■白張りの番傘;番傘=竹骨に紙を張り油をひいた、粗末な雨傘。コウモリ傘に対して和傘。 番=粗末な物、または、常用品の意を表す。
■娑婆;(しゃば)苦しみが多く、忍耐すべき世界の意。人間が現実に住んでいるこの世界。現世。
■矢立;墨壺に筆を入れる筒の付いたもの。帯に差し込みなどして携帯する。江戸時代に使われた、携帯筆記具。現在の万年筆?
■み‐たらし【御手洗】;(ミは敬意を表す接頭語)
神社の社頭にあって、参詣者が手や口を浄める所。みたらい。手水(チヨウズ)をつかうこと。
広辞苑
☆各出典を要約、加筆、修正を加えています。
今回は二話分の分量があり、歩く所が多いので、最後まで付いてきてくださいね。
まず、お初さんが店を出した根津から自宅・稲荷町までを歩きます。
根津は小じゃれたお店が沢山ありますが、池之端まで来ると大きなビルの中の店々が迎えてくれます。
花園稲荷神社は俗称「穴の稲荷」と呼ばれていて、本殿から見て左手の額堂の裏に狐の穴と穴稲荷の小さな社があります。神社で聞くと洞窟の上に小窓が開いていて、そこから見える社が穴の稲荷の原型だと言います。と言う事はここには穴の上の社、穴の横の社、花園神社本殿の3ヶ所に同じ神様が住んでいると言います。毎夜遊び回っているのでしょうか。
上野の山を下って正面(中央通り)に出ます。御徒町の松坂屋(デパート)からここまでが上野広小路と呼ばれたところです。左に曲がりJR上野駅のガードをくぐりると、ここら辺りを上野山下と呼ばれ、現在は上野駅とその駅前広場になって上空を大きな遊歩道が架かっています。その遊歩道を渡りながらガードの向こうの上野の山に建つ西郷さんの銅像を見つけて感心したり、昭和通り上から稲荷町を眺めたり、金三郎とお初さんが歩いたであろう道を思い浮かべています。
これから金三郎とお初さんが浅草寺から諏方神社までの鹿島立ちの心境で歩いた道をなぞります。
浅草寺を後に宝蔵門を抜けて伝法院の南側を西に向かって歩きます。ここで天ぷらを食べて番傘を買ったのでしょう。今でも食べ物屋さんやお土産屋さんが多く並んでいます。浅草寺を出る所が浅草六区と言われ、興行街があったりして賑やか、落語の定席浅草演芸ホールでは客の呼び込みに余念がありません。
*1
日暮里駅でJRを西に横切ると、そこは高台になっていて諏方台と呼ばれました。左に曲がると谷中で、天王寺や谷中霊園が有ります。右には月見寺として有名な本行寺、上野戦争で敗軍をかくまったので山門の扉に鉄砲を撃ち込まれ、その弾痕が残る大黒天の経王寺があります。その壁伝いに右に曲がると、その道が諏方台通りといいます。その道を進むと、右側にお寺さんが並んでいます。最初が毘沙門天の啓運寺、立派な山門を持った養福寺、諏方神社の別当寺だった雪見寺の浄光寺が並んでいます。浄光寺の先が諏方神社で、諏方台から眺める景色は雄大です。眼下の大動脈の鉄道線路、その上を行き交う列車には見飽きる事がありません。
戻って、浄光寺前の下り坂が名前通り東京でも実際に富士山が望めるという富士見坂があります。その右側一帯、第一日暮里小学校を含め道を挟んだ諏方神社までが修性院の寺領だったのが、今では富士見坂を下った右側に縮小されてこの地に張り付いています。修性寺で、花見寺の事を聞くと、「今はこの大きさになってしまい、花は桜の木があるだけです」と話されていました。修性寺の浮世絵葉書を貰い受けました、ありがとうございます。
二人と母親が埋葬された墓はどちらかの花見寺です。両花見寺は山門(正面)が坂下の道から入るようになっています。両花見寺とも諏方神社前の小径まで墓があった大きなお寺さんですから、諏方神社から見れば裏まで回ってまた、坂を上がって墓まで行くより、神社側の破れ垣根を潜っていった方がどれだけ近道であったか想像が付きます。
落語ってハッピーエンドで終わるのがセオリーですが、この噺のように心中で最後を迎えると、心が重くなって、やり切れない空しさが残ります。江戸の時代でなく、十分とはいえないが福祉や医療の備わった現在に生きている喜びを実感します。
根津神社
根津の遊廓跡;(文京区根津一丁目根津神社南側)
池之端茅町の「弁慶鏡ヶ井戸」;(台東区池之端一丁目6)
池之端仲町;(台東区上野二丁目の一部)
穴稲荷;(あなのいなり、台東区上野公園4−17) 花園稲荷神社の俗称
上野山下;(台東区JR上野駅前)
下谷稲荷町;(台東区東上野四・五丁目南半分)
浅草六区;(台東区浅草一・二丁目の西側)
田島町;(台東区西浅草二丁目)
松葉町;(台東区松ヶ谷一丁目北側と二・三丁目)
山伏町;(台東区北上野二丁目中央)
坂本;(台東区下谷一・二丁目)
諏方神社;(荒川区西日暮里3−4)
富士見坂;(荒川区西日暮里3−7と8の間の坂)
修性院;(荒川区西日暮里3−7)
青雲寺;(青雲禅寺。荒川区西日暮里3−6)
2009年12月記
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