落語「心中時雨傘」の舞台を歩く
   

 

 古今亭志ん生の噺、三遊亭圓朝作「心中時雨傘」(しんじゅうしぐれがさ)によると。

 

 根津権現の祭りは勇壮だった。祭りの準備で屋台が出て、その上根津の遊廓の賑わいもすごかった。縁日の屋台の、ドッコイ屋と言うのがあった。ドッコイ屋は盤の中央に回転する棒がついていて、その先に針があってマス目の中に景品が書いてあり、当たると景品がもらえたが、なかなかカステラなどは当たらなかった。この家業のお初さんは歳が二十三で色白で小股の切れ上がったいい女であった。母親と二人暮らしであったが、嫁になると母親が生活できなくなるので断っていた、親孝行娘であった。
 根津の遊廓も大引けで、荷を片して下谷稲荷町の自宅に帰ってきた。

 慶応3年10月20日の本祭りの前の晩、帰り道、池之端から仲町を抜けて稲荷町に帰ってくるが、池之端に来た時は八つの鐘が鳴っていた。月夜の明るい夜であったが、根津の冷やかし帰りの3人組に呼び止められて、穴稲荷(あなのいなり)の暗闇に引きずり込まれかかった。だれか〜、と叫んだが誰も来なかった。
 その時二十五、六の男が助け出してくれたが、殴った勢いで相手は倒れ、打ち所が悪く死んでしまった。落ち着いて、助けてくれた相手を見ると同じ町内の、型金という型屋の金三郎であった。お初を送りながら、「とんでもない事をしてしまった」と心の中でつぶやいていた。お初の家でお茶をご馳走になり、今日のご恩のお返しに一緒になりたいというお初。伝馬町送りになったら困るので一緒になれないが、10年でも20年でも待つというお初であった。
 翌朝、金三郎は昨夜の喧嘩後を見に行ったら死骸を前に大勢の野次馬がいた。帰ってきて布団に潜り込んでいたら、大家が来て、お初が人殺しで引っ張られて行ったという。本当の事を大家に打ち明け、北の奉行所、浅野肥前守に願書をしたため訴え出た。

 仲間の訴えで捕まえたが、調べると二人とも私がしましたと言うので、牢屋に下げて新たに調べると、被害者は博打打ちのならず者でお尋ね者だった。奉行は状況から見て、悪さをする不届き者だから、「捨て置け」との一存で二人は帰ってきた。大家が仲に入って二人は夫婦になって、母親と3人、仲のいい生活が始った。
                                                  <序・終わり>

 11月、大家が来て頼むには、酉の市の売り子が足りなくなったので、二人で手伝って欲しいとの要望で、手伝って完売してしまった。その帰り道、下谷広徳寺の辺りで火事が出た。駆け戻り長屋に入ると母親が火中に取り残されていた。金三郎は濡れムシロをかぶって母親を助け出したが、今一歩の所で家が崩れ梁(はり)の下敷きになってしまった。鳶(とび)が飛んできて、二人を助けたが、金三郎は右肩を強く打ってしまった。
 その晩は大家さんの家に一晩やっかいになった。仲間や親方の世話で、山伏町に小さな家を借りてそこで暮らすようになった。
 お初は浅草寺の境内でドッコイ屋を始めた。金三郎は痛みが激しくなってきたので、名倉で診てもらうと右腕の骨が砕け治らないと言う。どっと寝込むようになって、どんどん体調が悪くなっていった。

 翌年の4月に母親が亡くなった。菩提寺もないので家主の日暮里・花見寺に納めた。残された二人は半年後の10月には仕事がれで暇な上に、金三郎の腕の痛みも増した。看病をすれば仕事に出られず、仕事に出れば看病が出来ず、困り果てていた。「俺さえ居なければ・・・、」という思いが募ってきた。
 「変な考えを起こさないでね」と言い残して、お初が仕事に出たが、そのスキに、石見銀山ネズミ取りがやって来て、友達の分もと3袋買った。お初は鼻緒が切れて不吉な予感がしたので、帰ってきたらこの状態。
 「痛い思いをして、何も出来ず、お初に迷惑を掛けているだけだから、殺してくれ」と、初めて心を語った。現実を見てみると何の方策も見いだせない。「死ぬんだね。だったら私も一緒に行くよ」とお初が言葉に出した。金三郎は必死に止めたが、「夫婦というものは、元気だから残ればいいと言うものではなく、最後まで二人で居たい」。お初の決意は固かった。

 明くる日、道具いっさいをバッタに売り払い、こざっぱりとした身なりで、家主や回りには病気養生の為田舎に引っ越すと挨拶した。お礼参りや暇乞いやらを浅草寺に参拝し、そこから出る時には陽は暮れ始めていた。
 時ならぬ雨で、白張りの番傘を1本買い求め、近所の天麩羅屋で夕食を済ませ、ひとつ傘に入って歩くと、娑婆ともこれでお別れかと思うと鹿島立ちの心境になった。これから誓願寺裏に出て、松葉町から坂本に出て、お諏方神社の境内に上がってきました。日暮里花見寺の垣根が壊れているところから墓地に入り、母親の墓にこれからの事を報告、人の気配を感じたのでお諏方様に戻って暗がりの中にいたが、手に当たるものがあった。
 矢立であった。最後に何か書き残せとのお諏方様のお告げではないのかと、番傘の裏に書き止めた。
 ”わたしたちはふうふもの、どうかいっしょにうめてください。十一がつ二十一にち 金三郎、初”としたためた。
 このままでは薬が飲み込めないので、お諏方様の御手洗(みたらし)を柄杓で貰い、薬を飲んで、にこりと笑って旅立った。お初三十の秋であった。
 「こぼれ松葉は枯れて落ちても夫婦ずれ」日暮里花見寺に残る心中時雨傘の終わりでございます。
                                                       <完>


「諏方神社裏の雨の景」明治初め頃の写真。 開化写真鏡〜写真からみる幕末から明治へ〜大和書房刊
2011.8.追加
 

1.池之端(いけのはた) 
 根津(町)の南側、不忍池(しのばずのいけ)畔にそって北から池之端七軒町(現在・池之端二丁目)、不忍池の真西に池之端茅町(または下谷茅町とも。同・池之端一丁目)、不忍池南側に池之端仲町(同・上野二丁目の北側)の三町があります。仲町通りは江戸時代の表通りです。

仲町;(池之端仲町)寛永5年(1628)に寛永寺門前町として起立した。町名の池之端については、不忍池のほとりにあることから付けられたが、仲町の由来については不詳である。  町内に吹貫横丁という不忍池の南側から本町を南北に縦断した道があった。池面を渡る北風が吹貫けたのでこの名があるという。吹貫横丁を境にして、東側を東仲町、西側を西仲町と俗に称していたようだ。  また、仲町は商人町として古くから発達してきた。錦絵、竹作工、筆墨硯、袋物、茶をはじめとする店が立ち並び大変賑わっていた。中では「錦袋圓」(きんたいえん)と称する薬を売っていた薬屋は有名であった。これらの店が並ぶ道は、江戸時代から明治年間まで、上野と本郷を結ぶ道として賑わった。現在は池之端仲町通りという。  明治5年(1872)、仲町は福成寺を合併し町域を広げ、昭和39年(1964)の住居表示の実施で、西側一部が池之端一丁目になり、残り大部分が上野二丁目となった。(台東区まちしるべより)
 落語「なめる」で登場の「宝丹」を売り出している守田治兵衛商店はここ仲町にあります。

根津の遊廓(ねづのゆうかく);文京区根津一丁目根津神社南側。75話「札所の霊験」で歩いたところ。文京区根津1丁目にあるツツジで有名な根津神社があります。第六代将軍徳川家宣(いえのぶ、1662〜1712)が生まれた産神様として大事にされた。家宣は宝永2年(1705)壮麗な社殿(国宝)を建立した。
 このため建設に従事する職人目当てに繁華街が形成されていった。のち、明治15年ごろ吉原を抜いて東京第一の遊郭となった。ところが隣には東京大学が出来て文教地域になり根津の遊郭の引っ越しが真剣に考えられるようになった。明治20年5月、江東区洲崎が埋め立てられたのを期に、その地に21年9月引っ越し開業をした。後年、品川遊郭の一部も加わり東京一の繁栄を極め栄えた。
75話「札所の霊験」より孫引き

穴稲荷(あなのいなり。あないなり);台東区上野公園4−17 花園稲荷神社の俗称、五條天神と同居。お初が手籠めにされかかったところ。  古くからこの地に鎮座し、忍岡稲荷(しのぶがおかいなり)が正しい古称ですが、石窟の上にあった事から穴稲荷とも俗称されていました。お穴様の小社は、古書に弥佐衛門狐と記され、寛永寺が出来る時、忍岡の狐が住む処が無くなるのを憐み、住みかの穴を造り、その上に社を祀ったと云われます。
 幕末、彰義隊の戦(上野戦争)では最後の激戦地として、穴稲荷門の戦として知られています。
 のち、明治6年篤志家によって再興され、花園稲荷と改称。五條天神社が現地に移り、社殿も南面して新しく造営され境内も一新された。
  社地は約二千坪(約6600u)あったが、現在は五條天神と併せて約一千坪になりました。

下谷稲荷町(したやいなりちょう);お初さんと母親が長屋に住んでいたところ。 台東区東上野四〜五丁目両南側、旧名・北稲荷町。明治5年、下谷稲荷町は現在の浅草通りで南北に分けられるとともに、この地は永昌寺、広徳寺ほか6ヶ寺の寺地を合併して下谷北稲荷町が誕生した。そして明治44年に下谷の2字をはずして北稲荷町となった。(台東区まちしるべより)
 落語家・翁家さん馬や八代目林屋正蔵が長屋に住んでいたので有名で、俗に稲荷町の師匠と言えば正蔵を指した。また広徳寺の門前を広徳寺前と言い、落語の舞台にも多々登場します。

山伏町(やまぶしちょう);下谷稲荷町を火事で焼け出され、3人が移り住んだところ。
 明治2年(1869)に下谷山伏町とあらため、さらに明治10年には隣接する武家屋敷等を合併した。その後、明治44年に下谷の2字をはずして山伏町となった。山伏町は昭和40年の住居表示制度で大部分が台東区北上野二丁目となり、山伏公園(北上野二丁目−9)が残る。(台東区まちしるべより)

浅草寺(せんそうじ);詳しくは落語22話「船徳」、23話「付き馬」、76話「ぼんぼん唄」、109話「猿後家」、115話「粗忽長屋」等をご覧下さい。

日暮里・花見寺(にっぽり_はなみでら);荒川区西日暮里3−7、谷中の江戸百景の一つ、いつも季節の花々が咲き誇っていたところから別名花見寺とよばれている。修性院には、谷中七福神中唯一実在の人物で9〜10世紀の中国にいた禅僧「布袋様」が祀られている。修正院、妙隆寺(合併して現在は修性院)や青雲寺は境内の庭園に四季の花々を植え、「花見寺」と呼ばれている。
 荒川区教育委員会掲示板より

  

左;名所江戸百景 「日暮里寺院の林泉」 広重画 花見寺・修性院を描く。 修性院でいただいた絵葉書
右;名所江戸百景 「日暮里諏訪の台」 広重画 諏方神社境内と急な地蔵坂(現存)。遠景に筑波山

■諏方神社;(すわじんじゃ)荒川区西日暮里3−7。信濃の国(長野県)上諏訪神社と同じご神体を祀る。元久(げんきゅう)2年(1205)豊島左衛門尉経泰(つねやす)が信州諏訪から勧進し、社殿を造営したと伝る。
 三代将軍徳川家光に慶安2年(1649)社領五石を与えられ、日暮里・谷中の総鎮守として広く信仰を集めた。また町火消し九番組「れ組」の崇拝を受け、狛犬・鳥居などが寄進されている。
荒川区教育委員会掲示板より

■誓願寺裏(せいがんじ_うら);台東区西浅草二丁目 江戸時代の頃、この地は高い石垣の本願寺と路を隔てて北にあったことから、北寺町と称されていた。
 明暦3年(1657)の大火後、神田須田町にあった誓願寺は門前町とともにこの地へ移ってきた。この誓願寺は、浄土宗京都知恩院の末寺で、田島山快楽院誓願寺といったことから、明治2年に誓願寺の山号にちなみ浅草田島町と称した。明治5年、誓願寺の西辺部に接する下級武士の屋敷と北西部にある安行寺を合併し町域を広げた。(台東区まちしるべより)
 請願寺境内にあった田島神社は、八幡神社(台東区西浅草2−14−5)と名を変え現存しています。元禄13年(1700)大分県宇佐八幡宮から分社したものです。境内には「田島の里・誓願の梅」の立て札と梅の木が植えられていました。
  第50話落語「唐茄子政談」で歩いたところ。

■松葉町(まつばちょう);台東区松が谷一丁目の一部と・二・三丁目 明治2年(1869)、それまであった浅留町と浅草坂本町に付近の門前町がひとつになってできた。町名は、新寺町の名主 高松喜内の「松」と坂本町名主 二葉伝次郎の「葉」をとって名付けられた。
 寛永19年(1642)、この地域に「通し矢」で有名な京都東山の三十三間堂にならって浅草三十三間堂が建てられた。元禄11年(1698)に勅額火事といわれる大火に見舞われお堂は焼失したが、深川で再建(*1)されたことから跡地に下谷あたりの寺院が移転して寺院街を形成した。そしてこれらの寺院に門前町が開かれるに伴って、新寺町と呼ばれるようになった。(台東区まちしるべより)
*1;深川で再建された三十三間堂は第180話落語「おさん茂兵衛」で歩いています。

■坂本(さかもと);台東区下谷1〜2丁目の内 入谷交差点の西側の街で、入谷の鬼子母神があります。南側には落語「黄金餅」で有名な万年町(下谷山崎町)やその東側には3人が住んでいた小さな街、山伏町があります。坂本を抜けて、鶯谷、日暮里を抜けて、諏方神社の境内に入っていきます。

 

2.不忍池(しのばずのいけ)
 台東区上野公園西側に位置する池。徳川三代将軍家光は天海僧正に命じて寛永寺を建てさせた。江戸城鬼門の位置に、京都比叡山を模して東叡山寛永寺を上野の山に創建。その足元の不忍池を、琵琶湖に見立て中央に島を設け竹生島より弁天様を勧請した。それが今の弁天堂です。池は弁天島を中心に3分割され、南の蓮池、西のボート池、北側の上野動物園の管理池に成っています。
 第176話「猫怪談」、第127話「唖の釣り」で歩いたところです。また、「ねぎまの殿様」で池之端を歩いています。

 不忍池を中心に北西に根津神社、西に池之端七軒町、茅町、南に仲町、東に上野の山(森)、その一角、不忍池が切れる辺りに穴稲荷があります。今でも深夜を過ぎると人通りが途絶え寂しいところですが、仲町だけはネオンが輝いた歓楽街です。

 江戸高名会亭尽 下谷広小路 東叡山麓河内楼上酒宴之図」 歌川広重画 不忍池池畔の有名な会席料理屋。窓の奥に見えるのが不忍池、右側に弁天島が望める。

 

3.言葉
ドッコイ屋;ドッコイ屋は盤の中央に回転する棒がついていて、その先に針があってマス目の中に景品が書いてあり、当たると景品がもらえたが、なかなかカステラなどは当たらなかった。 子供用ルーレット。
右図。江戸生活図鑑 笹間良彦著 2012.10.絵図追記

大引け;(おおびけ)遊廓の登楼締め切り時間。中引けが深夜九つ、大引けが八つです。大引けになると大戸を引いて、お客は取りません。お茶を挽く遊女が出たり、冷やかしは帰らざるを得ません。
冷やかし」については、第183話「蛙の女郎買い」で説明しています。

八つ;現在の深夜2時ごろ。一刻(とき)は2時間で、深夜0時を九つと言って、数が減っていきます。八つ=2時、七つ=4時、明け六つ=6時となります。応用問題、夜10時は何と言いますか? TVの雑学問題で出題されますからしっかり覚えてね。答えは「四つ」です。出来ましたか? 時刻の数え方は落語「時蕎麦」に有ります。

小股の切れ上がった;(小股が切れ上がる)女のすらりとした粋なからだつきをいう。広辞苑
全体の印象を言い、部分的な褒め言葉ではありません。 

伝馬町送り;伝馬町とは江戸に牢獄があった町名、小伝馬町から来ています。伝馬町だけで牢獄を意味し、そこに送られる事を言います。ま、人を殺めたら帰ってくる事は絶望です。

■北の奉行所、浅野備前守;北町奉行所は今の東京駅八重洲口北側の構内に銘板がはめ込まれています。もう一つは有楽町数寄屋橋際に南町奉行所があり、交代で役を務めていました。

  浅野備前守は35代目の奉行で名を長祚(ながよし、読みが各説有り定まらない。文化13年(1816)6月9日生 - 明治13年(1880)2月17日没)といいます。文久2年(1862)10/17〜文久3年(1863)4/16 にかけ6ヶ月間、北町奉行を勤めた。

 右;現在の東京駅八重洲口、グラントウキョウ・ノースタワー低層階にある大丸(デパート)の1階奥の壁面に都教育委員会の碑がはめ込まれています。

酉の市;(とりのいち)11月の酉の日に鷲(オオトリ)神社(大鳥神社)で行われる祭礼。初酉の日を一の酉といい、順次に二の酉・三の酉と呼ぶ。三の酉まである年は火事が多いと言い伝わる。特に東京千束三丁目の鷲神社の祭礼は名高く、縁起物の熊手などを売る露店で浅草辺までにぎわう。おとりさま。酉のまち。 広辞苑
左写真; 06.11.04.撮影 「東京千束三丁目の鷲神社の一の酉」
 写真をクリックするとその様子が見られます。

;(とび)=火消し。後年建築現場で身のこなしを生かして足場上の仕事をするようになり、鳶職の地位が確立された。逆に鳶職が火消しを勤めたとも言われる。

名倉;整骨院名倉(なぐら)医院。本家は足立区北千住五丁目で当時の面影を残した建物で盛業しています。骨つぎと言えば名倉と言われるほど、関東一円にその名を知られていた名医。名倉家は、秩父庄司畠山氏の出で享保年中(1716〜)千住に移り、明和年間(1764〜)に接骨医を開業したと伝わる。現在、江戸時代から昭和中期まで盛業時の医院の建物が保存されていて、昭和59年12月区登録記念物(史跡)とした。かって、名倉医院の周辺には、患者が宿泊して加療できる6宿屋があって、その主人が名倉医院で治療に当る医師及び接骨師を兼ねていた。当時門前の広場では、名医の名倉へと遠来よりわざわざ治療に訪れた患者さんの駕籠や大八車がひしめいていた。(足立区教育委員会)
 ここから分かれた分院は各所にあり「名倉」を名乗っています。当時、名倉で「ダメ」と言われたら、他に頼るところはありません。屋根から落ちて直ぐ連れてきたのに、「落ちる前に連れてこい」と言うような、手遅れ医者とは根本的に違います。

石見銀山ネズミ取り;(いわみぎんざん−)江戸時代、石見国笹ヶ谷鉱山で銅などと共に採掘された砒石(ひせき)すなわち硫砒鉄鉱(砒素などを含む)を焼成して作られた殺鼠剤(ねずみ捕り)であり主成分は亜ヒ酸。単に「石見銀山」や「猫いらず」とも呼ばれ、広く使われた。実際の「石見銀山」では産出されなかったが、その知名度の高さにあやかるため「笹ヶ谷」とは呼ばなかった。毒薬として落語・歌舞伎・怪談などにも登場する。
 砒素化合物は一般に猛毒であり、毒物及び劇物取締法により厳しく取り締まられ、幼児・愛玩動物・家畜などが誤食すると危険なため現在では殺鼠剤としては使われていない。また笹ヶ谷鉱山は既に廃鉱となっている。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)
 ヒ素の化合物(As4O6)はいずれも有毒で、致死量は0.1g(1円アルミ貨の1/10)と言われる。
 右図;石見銀山ネズミ取りの売り子。江戸生活図鑑 笹間良彦著
2012.10.絵図追記

鹿島立ち;かしま‐だち、 鹿島・香取の二神が、天孫降臨に先だち葦原中つ国を平定した吉例に基づくとも、また、辺防の軍旅に赴く武人・防人(サキモリ)が、鹿島神宮の前立(マエダチ)、阿須波神に途上の安全を祈ったともいう故事から、旅行に出で立つこと。かどで。出立。 広辞苑

白張りの番傘;番傘=竹骨に紙を張り油をひいた、粗末な雨傘。コウモリ傘に対して和傘。 番=粗末な物、または、常用品の意を表す。
ここでは、白紙を張っただけの無地の傘。

■娑婆;(しゃば)苦しみが多く、忍耐すべき世界の意。人間が現実に住んでいるこの世界。現世。

■矢立;墨壺に筆を入れる筒の付いたもの。帯に差し込みなどして携帯する。江戸時代に使われた、携帯筆記具。現在の万年筆?

み‐たらし【御手洗】;(ミは敬意を表す接頭語) 神社の社頭にあって、参詣者が手や口を浄める所。みたらい。手水(チヨウズ)をつかうこと。  広辞苑

 ☆各出典を要約、加筆、修正を加えています。


 舞台の根津・下谷・浅草・諏方台を歩く

 今回は二話分の分量があり、歩く所が多いので、最後まで付いてきてくださいね。

 まず、お初さんが店を出した根津から自宅・稲荷町までを歩きます。
 地下鉄千代田線「根津駅」で下車し信号二つほど北に行くと、根津神社の入口交差点に出ます。左に入ると、右手に大きな鳥居と根津神社の石柱が現れます。入ると、境内左手に向ヶ丘に上がる斜面を利用したツツジの花壇が見事に刈り込まれています。春の季節には見事な花が咲き誇り、根津神社の名物になっています。
 正面には瓢箪池と中央の橋を渡ると国宝の山門が構えています。その奥にやはり国宝の本殿が煌びやかに建っています。先ずは本日の行程の安全と皆様のご多幸を祈願して、先ほどの鳥居まで戻ります。その前面の街なみが過日の遊廓を形成していた家々です。6年前「札所の霊験」で、訪れた時はそれらしい建物が複数残っていたのですが、今回はそれらの建物は超近代的な洒落たマンションに様変わりしていました。残念(?)な思いで池之端に向かいます。

 根津は小じゃれたお店が沢山ありますが、池之端まで来ると大きなビルの中の店々が迎えてくれます。
 右手の池之端一丁目には「横山大観記念館」、「旧岩崎邸庭園」があり、左手の不忍池には上野動物園や水上音楽堂があります。その音楽堂の前の道を渡ると池之端仲町です。奥は歓楽街を形成していますが、仲町通りは老舗や飲食店が並んで賑やかです。陽の高い内に来るには勿体ないところです。
 不忍池が終わるあたりに「下町風俗資料館」があり、不忍池伝いに北に進むと弁天島に行く小さな四つ角に出ます。右に曲がって、直ぐの信号を渡って左に行くと上野の森に上がっていく坂があります。上がった中程左に「五條天神社」と「花園稲荷神社」入口が現れます。

 花園稲荷神社は俗称「穴の稲荷」と呼ばれていて、本殿から見て左手の額堂の裏に狐の穴と穴稲荷の小さな社があります。神社で聞くと洞窟の上に小窓が開いていて、そこから見える社が穴の稲荷の原型だと言います。と言う事はここには穴の上の社、穴の横の社、花園神社本殿の3ヶ所に同じ神様が住んでいると言います。毎夜遊び回っているのでしょうか。
 上野の山自体が静かなところですし、その斜面の木々の間にひっそり建っているのは確かです。深夜に連れ込まれたら、今でも助けは来ないでしょう。でも、当時は寛永寺のお花畑があったので昼は見通しの良い、美しいところだったのでしょう。

 上野の山を下って正面(中央通り)に出ます。御徒町の松坂屋(デパート)からここまでが上野広小路と呼ばれたところです。左に曲がりJR上野駅のガードをくぐりると、ここら辺りを上野山下と呼ばれ、現在は上野駅とその駅前広場になって上空を大きな遊歩道が架かっています。その遊歩道を渡りながらガードの向こうの上野の山に建つ西郷さんの銅像を見つけて感心したり、昭和通り上から稲荷町を眺めたり、金三郎とお初さんが歩いたであろう道を思い浮かべています。
 終着の稲荷町は広徳寺跡に台東区役所や警察、消防、安定所などの公的機関が集まっています。その先稲荷町交差点(角に永昌寺)までが稲荷町と呼ばれたところです。先代正蔵が住んでいた長屋は駐車場になっていますが、隣の翁家さん馬の家には今でも奥様がお住まいになっています。ここにも時代が動いているのが良く分かります。
 ここまでが、お初さんが根津神社から自宅・稲荷町までの帰りの道筋です。

 これから金三郎とお初さんが浅草寺から諏方神社までの鹿島立ちの心境で歩いた道をなぞります。

 浅草寺を後に宝蔵門を抜けて伝法院の南側を西に向かって歩きます。ここで天ぷらを食べて番傘を買ったのでしょう。今でも食べ物屋さんやお土産屋さんが多く並んでいます。浅草寺を出る所が浅草六区と言われ、興行街があったりして賑やか、落語の定席浅草演芸ホールでは客の呼び込みに余念がありません。
 国際通りを渡ると、田島町(現・西浅草二丁目)になります。合羽橋と大きな看板が道路を横断しています。左側一帯が請願寺があったところで、その裏側になるので請願寺裏と呼ばれていました。請願寺の寺領内にあった田島神社が、八幡神社(西浅草2−14)と名を変えて町の人達に愛され続けています。請願寺裏を抜けると食器の商店街・合羽橋商店街で、食べ物関係の品物は全て揃うという街です。その通りを渡って松葉町に入ります。
 今は松が谷と町名を変えていますが、松葉公園や創立105年を迎えた区立松葉小学校があります。 この町には江戸に玉川上水を引いた兄弟の墓がある正徳寺(松ヶ谷2−3)や、河童寺(*1)と言われる曹源寺(松ヶ谷3−7)があります。この街を抜けると北側(右手)に二人が先ほどまで住んでいた山伏町(現・北上野二丁目の一部)が有ります。山伏公園と名が残っていますが、二人の歩調に合わせ真っ直ぐ上野の山に突き当たります。現在は昭和通りを横断してJRの線路に突き当たり右に線路伝いに曲がります。曲がった先、一帯が坂本(現・下谷一、二丁目)と呼ばれた所です。言問通りに出て左に曲がると日暮里から西日暮里に抜けられます。

*1 河童寺の伝承;文化年間(1804〜)、この地の住人で雨合羽商の合羽川太郎(合羽屋喜八)が住んでいた。この付近は低地で雨が降ると洪水になって、人々は困っていた。川太郎は私財を投じて排水工事に着手したが、難工事でなかなか完成しなかった。この時、かって川太郎に助けられた隅田川の河童が手伝い割堀が完成した。合羽橋商店街の南北に走る道は、その割堀の跡で、商店街の中央に有った橋を合羽橋と言いました。この河童を見ると運が開けたと言います。見たい人だけクリック

 日暮里駅でJRを西に横切ると、そこは高台になっていて諏方台と呼ばれました。左に曲がると谷中で、天王寺や谷中霊園が有ります。右には月見寺として有名な本行寺、上野戦争で敗軍をかくまったので山門の扉に鉄砲を撃ち込まれ、その弾痕が残る大黒天の経王寺があります。その壁伝いに右に曲がると、その道が諏方台通りといいます。その道を進むと、右側にお寺さんが並んでいます。最初が毘沙門天の啓運寺、立派な山門を持った養福寺、諏方神社の別当寺だった雪見寺の浄光寺が並んでいます。浄光寺の先が諏方神社で、諏方台から眺める景色は雄大です。眼下の大動脈の鉄道線路、その上を行き交う列車には見飽きる事がありません。
 浮世絵にもある諏方神社境内の地蔵坂は、階段が付いていて自転車でも通れないような急坂ですが、結構人通りのある坂道です。その脇の立派な御手洗(みたらし)は暗く沈んで、もの悲しさが伝わってきます。

 戻って、浄光寺前の下り坂が名前通り東京でも実際に富士山が望めるという富士見坂があります。その右側一帯、第一日暮里小学校を含め道を挟んだ諏方神社までが修性院の寺領だったのが、今では富士見坂を下った右側に縮小されてこの地に張り付いています。修性寺で、花見寺の事を聞くと、「今はこの大きさになってしまい、花は桜の木があるだけです」と話されていました。修性寺の浮世絵葉書を貰い受けました、ありがとうございます。
 修性寺を出て奥(北)に歩いていくと青雲寺の参道が現れその奥に「青雲禅寺」反対側に「花見寺」の碑が建っています。ここでも草花はなく桜の木が数本あるだけです。その先、表通りを右に曲がれば、そこは西日暮里の駅です。

 二人と母親が埋葬された墓はどちらかの花見寺です。両花見寺は山門(正面)が坂下の道から入るようになっています。両花見寺とも諏方神社前の小径まで墓があった大きなお寺さんですから、諏方神社から見れば裏まで回ってまた、坂を上がって墓まで行くより、神社側の破れ垣根を潜っていった方がどれだけ近道であったか想像が付きます。

 落語ってハッピーエンドで終わるのがセオリーですが、この噺のように心中で最後を迎えると、心が重くなって、やり切れない空しさが残ります。江戸の時代でなく、十分とはいえないが福祉や医療の備わった現在に生きている喜びを実感します。
地図

 下谷地図  地図をクリックすると大きな地図になります。 
写真
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根津神社

根津神社;(文京区根津一丁目)
 国宝の社殿を構えるツツジの名所。お初さんが屋台を開いていたところ。
 六代将軍徳川家宣(いえのぶ、幼名・綱豊)がこの地で生まれ産土神(生まれた地の神様)であった根津神社を、綱豊が江戸城に移った後、屋敷跡に華麗な神社を安永3年(1706)造営した。また根津神社前に町屋を作った。

根津遊廓跡

根津の遊廓跡;(文京区根津一丁目根津神社南側)
 根津神社前に作られた町屋が発展して遊廓が形成され明治の初めには吉原を抜いて一番の遊所となった。
 写真でも分かるとおり、突き当たりの崖上に大きなフェンスが見て取れます。その中が東京大学で、この嬌声が聞こえる隣同士となり、明治20年5月、江東区洲崎が埋め立てられたのを期に、引っ越しした。

弁慶鏡ヶ井戸

池之端茅町の「弁慶鏡ヶ井戸」;(台東区池之端一丁目6)
 不忍池真西にある池之端一丁目。ここには境稲荷やその隣には名水、弁慶が見つけたという、弁慶鏡ヶ井戸が残っていて、今でも水を汲む事が出来ます。
 この町には横山大観の邸宅跡や三菱創始者岩崎弥太郎の邸宅跡があります。どちらも記念館になっていて観る事が出来ます。

池之端仲町

池之端仲町;(台東区上野二丁目の一部)
 江戸時代本郷三丁目から湯島天神前の坂を下ってきてこの町中を通過するのがメイン街道だったのです。そのため、老舗などが多く残っていて、古さと新しさが混在しています。並行して走る一角は大人の遊び所となっています。

穴稲荷;(あなのいなり、台東区上野公園4−17) 花園稲荷神社の俗称
 寛永寺草創の頃、狐が住む所を奪われ、その為穴蔵を作ってやって、その上に社を乗せたのが始まりだと言われています。写真は本殿の花園神社。穴の上の稲荷は写真をクリックすると見られます。

山下

上野山下;(台東区JR上野駅前)
 上野駅前の歩道橋からJRガードを見ています。ガードの向こうは小高くなった上野の山です。その山の上にガードの上越しに西郷さんの銅像が見えます。
 見えない? それは貴方のパソコンが悪いから。・・・ん、私も見えない(汗)。

稲荷町

下谷稲荷町;(台東区東上野四・五丁目南半分)
 広徳寺を初め寺が多く集まっていた所ですが、広徳寺の跡を台東区役所や警察署が占拠しています。
 広徳寺の門前は賑わった所で、広徳寺門前と言われた所です。

浅草六区;(台東区浅草一・二丁目の西側)
 浅草寺の境内を明治の初め公園と見なし、その中を6区分し、この地を六区と定めた。この六区が興行街として栄え、映画、演劇、落語、講談、軽演劇等で有名になり、ロッパやエノケン、渥美清などを輩出し、その後のお笑い界を牽引した。その中に落語定席・浅草演芸ホールもあります。現在、区の呼称は無くなりましたが、六区だけは言われ続けています。

田島町;(台東区西浅草二丁目)
 浅草寺を西に出ると、国際通りをはさんで合羽橋という道路に出ます。請願寺がこの左手一帯にありました。丁度、請願寺の裏手にあたりますので、請願寺裏と言われた所です。しかし現在は請願寺もなくなり、商店街と町屋の混在した街なみに変身しています。

松葉町;(台東区松ヶ谷一丁目北側と二・三丁目)
 松葉小学校と松葉公園にその名をとどめています。この地は河童に助けられたために、河童にまつわるものが多くありますが、河童寺を出た所に可愛い河童が愛嬌を振りまいています。
説明板に、「ここが台東区のまん中、つまり『ヘソ』と言われている」

山伏町;(台東区北上野二丁目中央)
 火事に焼け出され3人はここで新しい生活に入った。小さな町域でその南に、稲荷町があります。旧町名は山伏公園(北上野2−9)にその名をとどめています。
この西に落語「黄金餅」の出発点、万年町(下谷山崎町)が有ります。

坂本;(台東区下谷一・二丁目)
 JRに突き当たり右に曲がって、その先一帯が下谷で、一丁目には言問通りに面して、朝顔市でも有名な鬼子母神が有ります。
写真は言問通りで日暮里方向を見ています。

諏方神社;(荒川区西日暮里3−4)
 金三郎・お初さんの終焉の場所です。
 表の道に平行して境内の小径を入ると右側に本殿があります。また、カメラを構えた右側には浄光寺の山門があります。今でも、切っても切れないあいだ柄です。
写真をクリックすると6枚組の写真です。

富士見坂;(荒川区西日暮里3−7と8の間の坂)
 現在でも富士山の見える坂として有名ですが、よほどの天気に恵まれないと眺望は無理でしょう。街灯に富士山をあしらっていますが、写真のその辺りに見る事が出来ます。富士山の大きさと位置はこの様です。その視線上に大きな建物が出来ないように地元の人達は願うのみです。
 坂を下った右側の墓地が合併前の妙隆寺の墓です。

修性院;(荒川区西日暮里3−7)
 富士見坂を下って、突き当たりを右に曲がると、直ぐ修性院の門前に出ます。花見寺のひとつです。桜の木が2〜3本あるだけのこぢんまりとしたお寺さんで、七福神の一人布袋様の方が有名かも知れません。お寺の塀にはメタボな腹をつきだした布袋さんの絵が描かれています。

青雲寺;(青雲禅寺。荒川区西日暮里3−6)
 ここも花見寺の一つで、修性院とお隣どうしです。ここも谷中七福神の恵美寿(恵比寿)が祀られています。

                                                     2009年12月記

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