落語「阿武松」の舞台を歩く
 

  
 六代目三遊亭円生の噺「阿武松(おおのまつ)」によると、
 

 能登の国鳳至群七海村から江戸へ相撲取りを目指して出てきた長吉が、観世新道の武隈(たけくま)文右衛門に弟子入りし小車と言うしこ名を貰う。
 たが、大飯ぐらいで破門になり、国に帰る道中、戸田の渡しで身を投げようと思った。貰った1分の金を生かすつもりで板橋の平尾宿へ戻り、橘屋善兵衛の旅籠に投宿する。
 今生の食い納めと食うわ食うわ、余りにも食いっぷりが良いので善右衛門が覗きに行き、事情を聞き、同情して新しい親方を紹介すると言う。

 翌朝出かける。巣鴨の庚申塚を抜け、本郷追分けを通り、根津七軒町の親方、錣(しころ)山喜平次の所に改めて入門し、錣山の出世名・小緑のしこ名を貰う。 毎年お米も贈ると言ったが、親方は食べるのも仕事の一つだから、いらないと言う。その代わり、出世したら化粧まわしなどを贈って、贔屓にして、やってください、と暖かい言葉と、稽古が始まった。
 驚くほど早い出世で、入幕して小柳長吉と改名。文政五年、蔵前八幡の大相撲で元の師匠武隈とのわりが出て、おまんまの敵と対峙。この取り組みが、長州侯の目にとまり阿武松と改名、六代目の名横綱にな った。
 



1.
板橋宿
 
品川、千住、内藤新宿の江戸四宿のひとつで、中山道の最初の宿場。JR板橋駅を降り、JRと交差する旧中山道を左(西北)の方に行くと、広い国道17号線・今の中山道をまたぎ、王子新道に出る。ここまでが平尾宿(板橋1,3丁目)で、そこから石神井川に架かる板橋までが中宿(板橋区仲宿)。その先、環七の手前”縁切り榎”までが上宿(板橋区本町)。江戸より離れたところが上宿とは、中山道が最終的には京都に繋がっているので、京に近い方を上と呼んだ。この三宿で板橋宿または下板橋宿と言った。近くに上板橋宿があり、これは平尾追分(国道17号線との交差点から北に少し入った辺り)で分岐し、西に向かう脇川越街道が始まり、大山駅の近くを抜けて、池袋から来る川越街道に合流。東武東上線に沿って行くと、上板橋駅の南辺りにあったので、区別するためこう呼ばれた。江戸から2里半、宿の長さは20町9間(2.2km、板橋区教育委員会説。1町は60間、109m強)とも15町49間(1.7km)とも言われ、旅籠54軒あった。中宿には飯盛り女がいて遊里としても賑わった。中宿には本陣が有り、家数573軒有ったという。 江戸四宿の内では規模が一番小さかった。大きさでは千住。遊里の華やかさでは品川が一番。
 舞台はJR板橋駅に近い平尾宿である。
 

2.戸田の渡し
 
身を投げようと思っていた「戸田の渡し」は、戸田川(荒川)を渡るための渡し。板橋区舟渡(ふなと)と対岸の埼玉県戸田市川岸(かわぎし)の間を繋いだ。両岸の町名を見ると、なるほどと思わせる。今は戸田橋という大きな鉄橋が架かっているし、下流のすぐ隣には新幹線とJR埼京線が平行して走っている。 平尾宿から約6km。
 橋の上に「日本橋から16km」という現在の標識が建っている。
 

3.観世新道
 
武隈文右衛門に入門した「観世新道」は、今の銀座3丁目の西側の通り。当時弓町と呼ばれていた南側。銀座に部屋を構えていたとは、今の感覚からすると大変なものであった? 
 円生は
橘屋善兵衛に「京橋の武隈さん」と言わせている。京橋は銀座1丁目に架かる橋。
 

4.巣鴨の庚申塚
 
旧中山道を平尾宿から江戸に上ってくると約1.7kmの所にある。その先約600mの所に有名なとげぬき地蔵が有る。
 庚申塚とは 庚申待ちの祭神を祀った塚。多くは、青面金剛と三猿を彫った石などを立てる。
 また、庚申待とは(「庚申祭(こうしんまつり)」の変化)干支(えと)の庚申(十干と十二支とを組み合わせたものの第五七番目。かのえさる。)にあたる日の夜に行なう祭事。祭神として仏教では青面金剛、神道では猿田彦をまつるが、本来は、中国の道教における「守庚申(庚申の夜に眠ると、三尸(さんし)の虫が体内からぬけ出してその人の罪科を天帝に告げ口するという信仰から、その夜は潔斎して眠らず三尸の昇天をはばむ)」の行事がわが国に伝わり、それに仏教と神道とが混交して独特の民俗的祭事になったという。庚申講が組織され、祭事は講中の家を輪番に回って行なう。終わると酒食がでて、夜明けまで宴が続き、江戸以来、庶民の社交の場でもあった。庚申。庚申会(こうしんえ)。《季語・新年》  広辞苑
 

5.本郷追分
 さらに上ってくると岩槻街道(本郷通り)にぶつかり、その三つ又の交差点が本郷追分である。右に曲がれば都心に、左に曲がれば、王子から岩槻に至る。ぶつかる少し手前に追分け1里塚が有った。突き当たりの屋敷が加賀100万石の藩邸で今の東大であり、有名な赤門もここに有る。突き当たりの町名、”弥生”は弥生土器の出土した所としても有名。追分けとは道の二つに分かれる所。分岐点。
 

6. 根津七軒町
 
根津七軒町の親方、錣(しころ)山喜平次の所に改めて入門した所は、上野不忍池西側の台東区池之端2丁目の一部。正しくは池之端七軒町と言い、文京区の根津2丁目にまたがっている。この七軒町は一つの固まりでは無く、屋敷の角、門に飛び地のように路に沿って数カ所有る。本郷追分けから見て、ちょうど加賀屋敷の裏手に当たる。今は言問通りが有るので直ぐだが、当時は大きな加賀屋敷が有って横切れなかったので、大分迂回せざるを得なかったであろう。
 

7.蔵前八幡
 現在、蔵前神社(台東区蔵前3−14)と言い、ここでたびたび相撲興行が行われた。今は狭くて人々が集まれるだけの境内が無い。
 江戸城鬼門除けとして五代将軍綱吉が京都山城国より石(いわ)清水八幡宮を勧進奉斎したのが始まりで、昭和26年3月蔵前神社と名を変えている。
 相撲とは縁が深く、天明年間には、大関谷風や関脇小野川が、寛政年間には大関雷電などの名力士もここで活躍した。天明2年(1782)2月場所7日目、安政7年(1778)以来実に63連勝中の谷風が新進の小野川に「渡し込み」で敗れた一番は江戸中を騒がせた。現在の『縦番付』は宝暦7年10月、当神社で開催された本場所から始まった。宝暦11年(1761)10月場所より従来の勧進相撲が『勧進大相撲』になり、その後の「全勝負付け」も現存している。明治時代には「花相撲」も行われた。
 勧進大相撲が宝暦7年(1757)10月に始まり文政と約70年の間に、ここで23回行われ、両国回向院、深川八幡宮、とここ石清水八幡宮が三大拠点の一つであった。 
 落語の舞台「元犬」で歩いたところです。
 

8.中山道(中仙道
 東山道の中央部を縦貫する街道。江戸時代には五街道(江戸を起点とする主要な五つの街道で、東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道。)の一つに数えられ、江戸日本橋から上野(かみつけ・群馬県)・信濃(長野県)・美濃(岐阜県南部)の諸国を経由して草津(滋賀県草津市)に至り東海道に合流した。木曾11宿を経るため木曾路・木曾街道とも呼ぶ。碓氷・福島に関所が置かれていた。宿駅は板橋から蕨・浦和・大宮を経て、高崎・軽井沢・下諏訪・塩尻・妻籠(つまご)・馬籠(まごめ)・関ケ原・愛知川(えちがわ)などを通り守山に至る67駅。東海道に対し東山道と呼ばれた。
 

9.阿武松緑之助
 親方2人と共に実在の人物で、文政から天保にかけて相撲界を背負ってきた名力士で、六代目の横綱を張った人物。
 相撲協会調べでは、寛政3年(1791)能登の国鳳至群七海村生まれ。文化2年、15才で最初に武隈文右衛門に弟子入り、文政11年春、入幕11場所(年2場所)目で横綱免許を受けた。この時38才。幕内通算140勝、31敗、8預かり、24引き分け、1無勝負。優勝5回。 身長5尺8寸(176cm)、体重37貫(138.7kg)。天保6年(1835)10月場所を最後に引退。嘉永4年(1851)12月没する。享年60才。 墓地は玉泉院(江東区三好1−4)に有ります。
 文政13年の上覧相撲で、7代目横綱の稲妻雷五郎に再三「待った」をして、じらして勝った。落語にも「ひと仕事をして戻ってみると、まだ仕切直しをしていた」というのがある。このため借金を催促されて待ってくれと頭を下げると、「阿武松でもあるまいし」と混ぜっ返すのが流行語になった。また、 このため江戸っ子からは好まれなかった。


六代目 阿武松緑之助 
  歴代横綱とは、深川八幡の横綱碑から、 

 實永元年、  初代 明石志賀之助
 享保2年、    二代 綾川五郎次
 享保6年、    三代 丸山権太左衛門
 寛政元年、   四代 谷風梶之助
 寛政元年、   五代 小野川喜三郎
 文政10年、 六代 阿武松緑之助  (相撲協会と襲名年度が違う)
 文政11年、 七代 稲妻雷五郎
         
 と、続いて現代の 67代 武蔵丸光洋まで、67名の横綱が出た。別格として無類大関雷電為右衛門がいた。

 

◆ここからは落語と現実との違いについてだが、大飯ぐらいで破門というのは後世の落語の世界での作り話で、師匠の武隈は阿武松が入門した文化2年に引退していて、遺恨相撲はあり得ないことになる。残念(なにが!)。
 



 舞台の板橋宿を歩く。
 

 JR板橋駅を降り、JRと交差し、駅前広場の右手に走る道が旧中山道。右に曲がると踏切を渡り都心に向かい、巣鴨庚申塚、とげ抜き地蔵、本郷追分けと続く。左に曲がり、狭い商店街を抜けると、 上部に首都高速道路が走る、現在の広い国道中山道と斜めに交差する。渡ると、夕方からは歩行者天国となる一方通行の入り口に板橋宿のアーケードが迎え入れる。歩き始めるとまもなく右に「観明寺」が見える。この寺の裏に広大な加賀藩の下屋敷(別荘のようなもの)が有った。その時の小さいが赤門がここに移築され現存している。また、明治の頃成田山のお不動さんを招致し開帳したため大変な賑わいを見せたので、この通りを別名「不動通り」と呼ばれるようになった。今は不動通り商店街と名が残った。この寺の少し手前が平尾追分けであった。観明寺から間もなく右手に「花の湯」が有り、ここが脇本陣の跡である。人通りの多い商店街を歩いて行くと、王子新道との交差点に出る。
 王子新道は左に曲がると直ぐの所に、上部には首都高速道路が2段に建つ国道中山道が平行して走っており、車両がブンブン走っている。右に曲がると、文字通り王子に抜ける。ここまでが平尾宿で、ここから先板橋までが、中宿。本陣もあり、遊里もここを中心に有り、賑わいを見せていた。今はこの交差点が、この道筋の中心地の様相を呈している。

 仲宿商店街を歩いて行くと、遍照寺があり、そこに馬つなぎ場跡がある。その先、右側大きなスーパー・ライフが有り、ここが板橋宿の中心、本陣跡である。そうかそうかと思いながら行くと、石神井川とそれに架かる「板橋」に出る。石神井川は両岸切り立ったコンクリートで覆われ、ただ水が流れるだけの深い水路で、魚も住めないだろ〜な、と思うほどの水路。その上に、木製の色柄を模したコンクリート橋が架かっている。その橋名が「板橋」。宿場町の名前の由来になった橋で、その後の特別区の名前、板橋区もここから来ている。江戸時代は太鼓橋であったと言われ、その後3度掛け替えられた。橋のたもとに、「距 日本橋二里二十五町三十三間」「日本橋から十粁六百四十二米」と縦書きされた木柱の道標が建っている。
 板橋を渡り、本町商店街が上宿。上宿を歩いて行くと大木戸が有った。大木戸は夜になると治安維持の為に門を閉じて、一切の交通の流れを止めた。江戸の四宿全てに有った。その先、右手に「縁切り榎」が有る。ここまでが、板橋宿。その先は江戸ではなく、別の世界であった。現在はその先には人通りと車が多すぎる環状7号線が走る。

 縁切り榎(えのき)の由来はいろいろあるが、その一つ、”榎”と”槻”とが並んで立っていたので、続けて言うと、エンツキ(縁尽き)になり、縁が切れるという俗信が生まれた。もう一つは、享保年間に江戸で一代で豪商になった、油商伊藤身禄が富士の北側の道を開き、そこで入滅するため、ここで家族と縁を切って旅立ったので、縁切り榎と言うようになったと言う。どちらにしろ、縁が切れると言うことで、この榎の下を嫁入りや婿入り行列が通ると不縁になるとされ、行列はここを避けて通ったといわれる。
 文久元年(1861)、孝明天皇の妹、和宮が十四代将軍家茂に降嫁した時は、その榎の下を迂回したと言われる。和宮の結婚生活は5年に満たず、将軍の死で未亡人になった。そして、もと婚約者の有栖川宮はやがて東征大総督として江戸へ、薄幸の和宮は榎の下を通ったせいであろうか。他の宮家の婚礼の行列も、この榎の下を迂回したと言われる。
 この信仰は逆に、離婚を願う女性達をひきつけ、この榎に願掛けし、その木の皮を削って煎じて呑ませると、離婚されると信じられた。離婚の自由を持たない女達が、この榎の彼方に、自由な世界を夢見たのであろう。「板橋へ三行半(みくだりはん)の礼参り」という川柳がある。

 ここを舞台にした落語「縁切り榎」という噺がある。最近はあまり演じられない。

地図

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写真

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板橋宿入口
国道を越えて旧道の入り口に建つアーケード
商店街としても賑やかな旧「平尾宿」
くぐると間もなく、平尾追分け。今は何もない。
脇本陣跡
平尾追分けの先、右側に観明寺。その数軒先、
脇本陣跡に「花の湯」が有る。造りが何とも良き時代の
情感がする。
王子新道
王子新道
(じんみち今はしんどう)との交差点。
ここまでが平尾宿、この先が板橋まで中宿。
板橋の道標
板橋のたもとに建つ道標
「距 日本橋二里二十五町三十三間」
「日本橋から十粁六百四十二米」と縦書きされた
木柱の道標。
板橋
板橋」宿場の語源になった橋。また、区名にもなった。
木調の雰囲気を出した橋で、下を石神井川が流れる。
縁切り榎
板橋を渡って上宿。間もなく、縁切り榎
このこんもりとした、榎の陰気な雰囲気は何であろう。
ここを境に、江戸から別世界に。
庚申塚
旧中山道を江戸に向かうと、都電庚申塚駅の踏切を渡ると、
巣鴨庚申塚の交差点、その左角に社がある。
小さいながら参拝客は切れない。
昔はよしず張りの茶屋も有り、ここで一息ついて旅を続けた。
横綱碑
深川八幡の境内にある、横綱碑に刻まれた「阿武松」の字。
彫りが浅く写真では良く判らないが、長洲と刻まれている。
これは長州侯お抱えの力士を指すものと思われる。
今のスポンサー、後援者である。

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