六代目三遊亭円生の噺、「おさん茂兵衛」(おさんもへい)によると。
江戸落語としては上尾という舞台設定が珍しい。また、この様な男女間の痴話もの、週刊誌で書かれるような三流ゴシップものも講談以外で、落語になっているのも珍しい。続きがあるのか、ここでお終いなのか良く分からない噺です。そのせいか円生もあまりやらなかった噺です。おさんと茂兵衛さんは深川に戻ってご主人に頭を下げたのか、本当に行き先不明になってしまったのか・・・。ウブな男にいったん火が点くと大変です。
■「深川七場所」 ・裾継(すそつぎ);(江東区門前仲町2丁目10〜11赤札堂辺り)櫓下と並んで高速道路下、富岡橋跡までの一画にあった。 ・仲町(なかちょう);櫓下から東へ八幡様の参道までの一画(富岡一丁目8〜13)、及び、永代通りを渡った大横川(大島川)までの一画(富岡一丁目1〜7)。 ・石場;牡丹一丁目の一部。ここら辺を新石場と呼んだ。その南に古石場(町)があります。江戸時代千葉・鋸山から運ばれた石材をここに集積したので、この名がおこった。 ・新地;門前仲町から南へ黒船橋を渡り、次の交差点を左に曲がると上記石場に出るが、右に曲がり越中島一丁目の西端、または、永代一丁目川岸(当時は海岸だった)で、隅田川と大島川の合流点にあった。船で来る客が多かったので、一番利便性が良かった上、百歩楼、船通楼(旧・五明楼)、大栄楼などの高楼ができ、隅田川が一望でき風光明媚で江戸中心に近く繁盛した。 ・佃(つくだ);俗に”あひる”と呼称されていた。八幡宮正面、南の大島川に架かる巴橋(蓬莱橋・がたくり橋)を渡った左右、牡丹二〜三丁目の一部。現在の巴橋を渡った左側が佃町。 ・土橋;八幡境内を出た、東側(三十三間堂があった)汐見橋が架かる平久川(三十間川)までの一画(富岡二丁目)と、永代通りを渡った大島川までの一画(富岡一丁目24〜26)。 *
どの地域も吉原のように堀や厳密な境界線があった訳ではなく、重複したり、自然と次の呼び名の地区に入っていったりした。また、そのぐらい多くの花街が民家と渾然一体となって、散在したり集中したりしていました。
■辰巳と言われた深川周辺の岡場所には、深川七場所以外に、以下のような場所も有名でした。 ま、早い話、富岡八幡宮の回りは岡場所で囲まれていた事になります。しかし、当時は神社仏閣と遊廓は隣り合わせの、セットで参拝され、お互い持ちつ持たれつの関係にあったのが普通です。この八幡宮も江戸中期にはさびれていたのを、境内の中に茶店を置き、遊行させて人を集めたとも言われます。隅田川東部の開発を進める為、幕府は八幡宮とその周辺の岡場所を黙認していた時期があります。 2.上尾から桐生 ■桐生(きりゅう);群馬県桐生市。縮緬の名産地。中山道・上尾から北に桶川−鴻巣−熊谷から中山道を右にそれて太田−桐生。東京・日本橋から約100km弱。 3.縮緬浴衣(ちじみ_ゆかた)
■一膳飯屋;盛りきりの一膳飯を食べさせる簡易食堂。 ■品川で芸者;四宿の一つで、江戸の南、東海道品川宿で芸者として勤めていた。 ■30両;10両で首が飛ぶ時代の30両、大金です。1両8万円として、240〜250万円。縮緬買い出しの軍資金として持たされた元金であったが、おさんの為スパッと使い切ってしまった。 ■心変わり;本当の情とは何かが分かった時、大胆に一歩を踏み出してしまうのでしょう。落語「包丁」の清元の師匠”おあき”さんもその一人です。そうそう、落語「紺屋高尾」の高尾太夫ですら、真心にほだされて久蔵さんに押し掛け女房です。 ■半刻(はんとき);現在の1時間。”一刻”(いっとき)は(春分・秋分以外では)約2時間。その半分”半刻”は1/2ですから1時間。最小単位は”四半刻”(しはんとき)で30分です。江戸時代町方の全員が時計を持たないのでこれで充分。茂兵衛は一目惚れしたおさんと1時間のデートを30両で買ったのです。 舞台の深川七場所を歩く さぁ〜、八幡宮の回りにあったと言われる上の絵のような岡場所を尋ね歩きます。
閻魔様
三角屋敷跡 富岡橋跡の親柱 清澄通りに戻り南へ、高速の下にあったのが富岡橋跡です。親柱が残っていますが、江戸時代は黒亀橋より西に架かっていて、俗に閻魔堂橋と呼ばれていました。今の富岡橋と言っても埋め立てられて跡形はありませんが、その左手先にスーパー赤札堂が見えます。その赤札堂があったところが「裾継」(すそつぎ)跡です。その南、門前仲町の交差点までが「櫓下」(やぐらした)跡です。今立っている高速下の富岡橋の渡った右手が「網打場」跡です。網打場は深川七場所から、はずれて質が落ちたが、安く、地元漁師などが御贔屓にしたという。
網打場跡 一の鳥居跡 門前仲町の交差点 門前仲町の交差点を右に曲がり最初の路地角にある牛丼・松屋前の道路(永代通り)に有ったのが、八幡宮の「一の鳥居」跡ですが、どこにもその説明板も碑もありません。そうそう、この近所に紀伊国屋文左衛門が晩年、亡くなるまで住んでいたところ(その場所も不明)です。
黒船橋 成田山 仲町裏路地 その先、八幡宮境内の西側に入っていく道があります。その先、埋め立てられた油堀川に架かっていた橋が和倉橋、その先に幕府の賄い屋敷があって、その屋敷内に食器倉庫(椀蔵=わんぐら)があった。そこから和倉と呼ばれた。
巴橋、富岡側 ガタクリ橋(巴橋)牡丹側 八幡宮二の鳥居(入口) 今、岡場所もないので、ここで戻って、八幡宮の二の鳥居、参道入口に立ちます。突き当たりが本殿で右奥に横綱碑がありますが、その北側が二軒茶屋で有名だった「伊勢屋」が有った跡で、裏の数矢小学校辺りが同じ二軒茶屋の「松本楼」跡です。どこを探しても遺構も風情も説明板もありません。
二軒茶屋跡 八幡橋 深川入船町 右(東)に境内を出て回り込むと真っ赤な鉄の橋「八幡橋」に出ます。国指定の重要文化財で、東京最初の鉄橋で弾正橋と呼ばれ京橋に架かっていましたが、保存の為ここに移設され名前も八幡宮からこの様に名付けられました。渡った先の富岡二丁目が「三十三間堂」が有った場所で、その周辺も岡場所として賑わい、後年「土橋」と呼ばれたところです。 粋なお店は何軒もありますが、これだけ歩いても岡場所は残念(?)ながら、何処にもありません。もうここまで発展すると、岡場所が無くても八幡宮は成り立っていくでしょう。 上尾、桐生は茂兵衛さんに行ってもらったので、私は今回行きません。 地図 写真 「深川七場所」です。それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。
2009年9月記 |
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