落語「おさん茂兵衛」の舞台を歩く
   

 

 六代目三遊亭円生の噺、「おさん茂兵衛」(おさんもへい)によると。
 

 深川やぐら下は花柳界でも非常に勢いがあった。そこから縮緬浴衣の揃いを深川仲町呉服屋中島屋惣兵衛に注文があった。当時の産地は桐生だったので、女嫌いで堅物の二十五、六になる手代茂兵衛に30両持たせて使いに出した。

 江戸を発って3日目に上尾の宿に入った。中食に一膳飯屋に入ったが、中で働く二十一、二になる女性で、頭は櫛巻き化粧もなかったが実にイイ女であった。茂兵衛さんその女性が気になって発ち去る事が出来なかった。地元の三婦(さぶ)親分の事を小耳に挟み、その親分のところに頼みに行った。
 女嫌いの茂兵衛なのだが、生まれて初めて素敵な人だと思った。だから半刻(はんとき=1時間)でいいのでお茶を酌み交わしたいので、こちらで会わせて貰えないかと懇願した。
 その女性は品川で芸者をしていて、ここの祭りに来たが三婦親分の子分で金五郎がどうしてもと言って、親分に仲に入ってもらって夫婦になった。金五郎は質(たち)の悪い奴だし、子分の女房を紹介したとなると示しが付かないので、諦めろと言う。
 諦めきれず、裏に回って井戸に飛び込もうとして、親分に止められ、祭りでアイツも金が必要だから、この30両は預かるので、ここに泊まっていけという事になった。

 金五郎は女房おさんに質屋に2〜3日行って金を作ってくれと、言っているところに親分が来て、「半刻話をしてやって、命を助けてやったら30両の金が入る」やってくれるか。金五郎は乗り気だが、おさんは嫌がった。「出来れば2〜3日泊まって全財産巻き上げてこい」とまで言われた。女房を売ってまで、金をほしがる亭主に呆れるばかりであったが、親分に言い含められて出かけてきた。

 亭主・金五郎は金さえ入れば女房さえ切り刻むのと比べ、茂兵衛は「あのお金はご主人のもので、私は思いが遂げられたら死ぬ覚悟です。」と言われ、心が”雪と炭”程違うのに気付いた。道ならぬ事ではあるが、茂兵衛と一緒にいて、どうか3日でもいいから添い遂げたいと、おさんの心がここでがらりと変わった。手に手を取って逐電するという、おさん茂兵衛の馴れ初めです。
 


 江戸落語としては上尾という舞台設定が珍しい。また、この様な男女間の痴話もの、週刊誌で書かれるような三流ゴシップものも講談以外で、落語になっているのも珍しい。続きがあるのか、ここでお終いなのか良く分からない噺です。そのせいか円生もあまりやらなかった噺です。おさんと茂兵衛さんは深川に戻ってご主人に頭を下げたのか、本当に行き先不明になってしまったのか・・・。ウブな男にいったん火が点くと大変です。


1.深川仲町(ふかがわ なかちょう。江東区門前仲町)
 呉服屋中島屋惣兵衛の店があったところ。深川門前仲町を略して、門仲、仲町といった。富岡八幡の門前町で賑わっているところで、深川(辰巳)芸者で有名。深川には岡場所(吉原以外の遊所)が多く、仲町、新地、櫓下、裾継、石場、佃、土橋を「深川七場所」と呼んだ。なかでも、仲町はもっとも高級として知られていたが、深川七場所どこも二朱(2/16両、一万円)で遊べたという。
 八幡宮参道入り口にあった一の鳥居(門仲交差点西)から永代寺・富岡八幡宮前に向かって永代寺門前仲町、永代寺門前山本町、永代寺門前町、永代寺門前東町などと江戸時代は街が並んでいます。
 特に有名な料理茶屋として、八幡境内の松本、伊勢屋の二軒茶屋が知られており、天明時代(1781〜)には向島の葛西太郎、それから大黒屋孫四郎、真崎の甲子(きのえね)屋、百川楼と、ここ深川の二軒茶屋が五指に入る第一級の名店だったという。また、山谷・八百善、柳橋・万八楼(万屋八郎兵衛)、王子・海老屋・扇屋、向島・八百松、なども江戸名店のひとつでした。

「深川七場所」 
櫓下(やぐらした);(江東区門前仲町2丁目4〜9)永代寺門前山本町の地。現在の門前仲町交差点角から清洲通り東側の一画。火の見櫓があったので、「表やぐら」「裏やぐら」と呼ばれた岡場所があった。その北側、裾継と合わせて「三やぐら」と称した。 写真;黒船橋脇に建つ火の見櫓

裾継(すそつぎ);(江東区門前仲町2丁目10〜11赤札堂辺り)櫓下と並んで高速道路下、富岡橋跡までの一画にあった。

仲町(なかちょう);櫓下から東へ八幡様の参道までの一画(富岡一丁目8〜13)、及び、永代通りを渡った大横川(大島川)までの一画(富岡一丁目1〜7)。
 深川七場所の中で、天保時代(1830〜43)一番栄えたところ。永代通りの北側に尾花屋、通りの南側に梅本に山本の、有名な3軒の茶屋があった。天和年間に水茶屋が許され、女を置いたのが起源とされる。芸者総計七十七人、女郎六十八人がいたとされる。
 八幡境内本殿北東には、有名な二軒茶屋(料亭)があって、その二軒とは伊勢屋に松本であった。伊勢屋は現在の横綱碑がある奥辺り、松本は数矢小学校辺りにありました。 非常に高級で高かったので、庶民が簡単に入れるような料理屋ではなかった。
左図;「二軒茶屋」(部分) 江戸名所図会

石場;牡丹一丁目の一部。ここら辺を新石場と呼んだ。その南に古石場(町)があります。江戸時代千葉・鋸山から運ばれた石材をここに集積したので、この名がおこった。

新地;門前仲町から南へ黒船橋を渡り、次の交差点を左に曲がると上記石場に出るが、右に曲がり越中島一丁目の西端、または、永代一丁目川岸(当時は海岸だった)で、隅田川と大島川の合流点にあった。船で来る客が多かったので、一番利便性が良かった上、百歩楼、船通楼(旧・五明楼)、大栄楼などの高楼ができ、隅田川が一望でき風光明媚で江戸中心に近く繁盛した。

 
 
吾妻源氏 辰美の秋月」 国貞画 三枚画 辰美は辰巳、辰巳の花街・新地の情緒を表しています。
バックの島が佃島、隅田川が終わって江戸の海が広がっています。

(つくだ);俗に”あひる”と呼称されていた。八幡宮正面、南の大島川に架かる巴橋(蓬莱橋・がたくり橋)を渡った左右、牡丹二〜三丁目の一部。現在の巴橋を渡った左側が佃町。

土橋;八幡境内を出た、東側(三十三間堂があった)汐見橋が架かる平久川(三十間川)までの一画(富岡二丁目)と、永代通りを渡った大島川までの一画(富岡一丁目24〜26)。
 安永・天明(1772〜88)の頃には仲町と並ぶ賑やかさを誇っていたが、寛政の改革(1789)と津波によって大打撃を被り、三十三間堂が無くなったあおりをうけ、この場所も衰退した。
 富岡二丁目にあった平清(ひらせい。江戸訛りで、ひらせ)は、遊女を連れて飲食するなど、有名料理茶屋として明治39年8月まで続いた。

  * どの地域も吉原のように堀や厳密な境界線があった訳ではなく、重複したり、自然と次の呼び名の地区に入っていったりした。また、そのぐらい多くの花街が民家と渾然一体となって、散在したり集中したりしていました。

  
左;「深川楼」 春重(司馬江漢)画          右;「清月の月」 国芳画 雪の結晶柄の浴衣が綺麗

■辰巳と言われた深川周辺の岡場所には、深川七場所以外に、以下のような場所も有名でした。
 網打場(門前仲町1−13)、三角屋敷(深川1−5)、直助屋敷(三角屋敷近所)、井の堀(深川扇橋。水上娼婦である「船饅頭」があった)、大橋(新大橋東)、がたくり橋(巴橋)、こんにゃく島(霊巌島)、三十三間堂(富岡2)、中洲(日本橋中州)、深川入船町(牡丹3−33と木場1−1辺り)、深川おたび(新大橋2−21西光寺西・八幡旅所)、弁天(おたび北、一つ目橋南岸)、安宅(あたけ。深川おたび南)、深川常磐町(高橋北西)などがありました。もっと細かい花街等もこの地に散見されます。数え上げたら両の手・足の指を動員しても数え切れません。

 ま、早い話、富岡八幡宮の回りは岡場所で囲まれていた事になります。しかし、当時は神社仏閣と遊廓は隣り合わせの、セットで参拝され、お互い持ちつ持たれつの関係にあったのが普通です。この八幡宮も江戸中期にはさびれていたのを、境内の中に茶店を置き、遊行させて人を集めたとも言われます。隅田川東部の開発を進める為、幕府は八幡宮とその周辺の岡場所を黙認していた時期があります。
 しかし、この岡場所も寛政の改革(1789)に続き、天保の改革(1842)で完全に解体されてしまった。と言う事になっていますが、明治以降にもしぶとく生き残ったところもあります。

 

2.上尾から桐生
上尾(あげお);この噺の舞台。埼玉県上尾市。中山道を下ると−板橋−蕨−浦和−大宮(さいたま市)−上尾。中山道第5番目の宿です。東京・日本橋から約40km弱。本陣1、脇本陣3、旅籠41、総人口793、家数182があった。
 上尾夏祭りは、市内各町内で昔から神輿渡御や山車・引き太鼓などの祭り行事が行われており、現在は7月中旬上尾駅を周辺に八町内で盛大に行われています。中山道を中心に400もの露店やワゴンセールが実施されたり、市民による文化活動が披露され、多くの人出で賑わいます。この祭りにおさんは来て住み着いてしまったのでしょう。

桐生(きりゅう);群馬県桐生市。縮緬の名産地。中山道・上尾から北に桶川−鴻巣−熊谷から中山道を右にそれて太田−桐生。東京・日本橋から約100km弱。

 

3.縮緬浴衣(ちじみ_ゆかた)
 縮緬(ちりめん)
で作られた浴衣。縮緬の産地は小千谷(落語「名月八幡祭り」)と相場が決まっていると思ったが、「西の西陣、東の桐生」といわれ、絹織物では桐生は、かつては関東産地の雄として君臨していたが、最近では和装需要の減退とともに生産量は減少しているが、健在です。
元文3年(1738)西陣の織物師・弥兵衛と吉兵衛を桐生に招きます。そして西陣の技術「高機」(たかはた)を導入し、技術の指導を受けたのです。そして、翌年の元文4年2月3日(?)、西陣の技術を導入し、桐生で本格的な大量生産による高級絹織物の生産が始まり、生産量はそれまでの何倍にも膨れ上がり、技術面も向上し、京都中心の流通機構から脱し、独自に市場を開拓していきました。
 しかし、延享元年(1744)、西陣により桐生紗綾織りの移入を阻止され、さらに隣町からも様々な妨害を受けることとなり、桐生の人々は苦難の時を耐え忍ばねばなりませんでした。これらを打開するには、自らの技術発明が不可欠でした。そこで、天明3年(1783年)、岩瀬吉兵衛が水車の水力を使った「八丁撚糸機」(はっちょうねんしき)を開発して縮緬機全盛の基礎を築き、その後も様々な技術を自ら開発し、幕藩制社会の巨大な需用に応える紡績工業都市に発展していきました。
 桐生の名は益々広まり、江戸徳川文化の爛熟期に金襴緞子など高級美術織物として成長を続けました。明治維新は、桐生織物にもいち早く革新の息吹を与え、まず内地織物の生産と販売制度に革新をもたらし、輸出織物には欧州の染織技術を採用することになりました。
 桐生市桐生織物の歴史ホームページより抜粋

 

4.言葉
■頭は櫛巻き
;洗い髪を頭の後ろで2〜3回丸めて、笄(こうがい)で留めた簡易な髪型。下町の主婦など本髪結いまでの仮の髪型(右図)。見たままの美人であったから、朝起きたら隣でビックリするような事もありません。

一膳飯屋;盛りきりの一膳飯を食べさせる簡易食堂。

品川で芸者;四宿の一つで、江戸の南、東海道品川宿で芸者として勤めていた。

30両;10両で首が飛ぶ時代の30両、大金です。1両8万円として、240〜250万円。縮緬買い出しの軍資金として持たされた元金であったが、おさんの為スパッと使い切ってしまった。

心変わり;本当の情とは何かが分かった時、大胆に一歩を踏み出してしまうのでしょう。落語「包丁」の清元の師匠”おあき”さんもその一人です。そうそう、落語「紺屋高尾」の高尾太夫ですら、真心にほだされて久蔵さんに押し掛け女房です。

半刻(はんとき);現在の1時間。”一刻”(いっとき)は(春分・秋分以外では)約2時間。その半分”半刻”は1/2ですから1時間。最小単位は”四半刻”(しはんとき)で30分です。江戸時代町方の全員が時計を持たないのでこれで充分。茂兵衛は一目惚れしたおさんと1時間のデートを30両で買ったのです。


 舞台の深川七場所を歩く

 
 「辰巳ふか川」 豊国画。
 右より、娘分、はおり(芸者、二人共)、廻し方(遊郭などで、座敷・部屋・寝具・器物などのこと一切を扱い、また、客や遊女の送り迎えなどの雑事をする使用人)、さし(さし向になる客)の有無をうかがう、京下りのしんこ(上方から来たこの地での新人)、口のかかったこども(遊女)との説明が入っています。

 

 さぁ〜、八幡宮の回りにあったと言われる上の絵のような岡場所を尋ね歩きます。
 八幡宮の西側・清澄通りを北から入っていきます。葛西橋通りとの交差点「深川一丁目」手前左側の法乗院に深川閻魔堂があり、最新テクノロジーを備えた閻魔様で賽銭を入れると、その人専用の説話が流れてきます。ここで俗界に汚れた身を清め、歩きだします。
 堂の前を西に渡り、目の前の高速道路が、昔の油堀(川)の跡です。高速道路の下が黒亀橋跡ですが、当然埋め立てられて、堀も橋もありません。その先右側が「三角屋敷」跡と言われたところです。「市助屋敷」はこの屋敷と背中合わせだったとも、近所だったとも言われますが、その所在はつかめません。

閻魔様

三角屋敷

富岡橋跡の親柱

 清澄通りに戻り南へ、高速の下にあったのが富岡橋跡です。親柱が残っていますが、江戸時代は黒亀橋より西に架かっていて、俗に閻魔堂橋と呼ばれていました。今の富岡橋と言っても埋め立てられて跡形はありませんが、その左手先にスーパー赤札堂が見えます。その赤札堂があったところが「裾継」(すそつぎ)跡です。その南、門前仲町の交差点までが「櫓下」(やぐらした)跡です。今立っている高速下の富岡橋の渡った右手が「網打場」跡です。網打場は深川七場所から、はずれて質が落ちたが、安く、地元漁師などが御贔屓にしたという。

網打場

一の鳥居跡

門前仲町の交差点

  門前仲町の交差点を右に曲がり最初の路地角にある牛丼・松屋前の道路(永代通り)に有ったのが、八幡宮の「一の鳥居」跡ですが、どこにもその説明板も碑もありません。そうそう、この近所に紀伊国屋文左衛門が晩年、亡くなるまで住んでいたところ(その場所も不明)です。
 また、門前仲町の交差点に戻り、右(南)に渡り直ぐのところに黒船橋が大島川に架かっています。橋のたもとに最近建てられた火の見櫓があります。これと同じような櫓が、先の櫓下にはあったのでしょう。渡った先を左に曲がると「石場」、右に曲がって突き当たった隅田川の川縁が「新地」と呼ばれたところです。今でも永代橋と佃の高層マンション群が眼前に見る事が出来ます。
 またまた、門前仲町の交差点に戻ります。東に向かうとお不動さんと八幡宮が迎えてくれます。今歩いている左右の門前仲町商店街が「仲町」と呼ばれ、岡場所一番の繁華街でした。特に永代通りとその先の川に挟まれた地域に名の知れた遊所があって、最近まで黒塗りの自家用車が乗り付けていた料亭が何軒もありました。間もなく左手に深川不動堂参道が現れます。人通りが平日だというのに切れませんし、その入口で本堂に向かって手を合わせているおばあちゃんがいます。

黒船橋

成田山

仲町裏路地

 その先、八幡宮境内の西側に入っていく道があります。その先、埋め立てられた油堀川に架かっていた橋が和倉橋、その先に幕府の賄い屋敷があって、その屋敷内に食器倉庫(椀蔵=わんぐら)があった。そこから和倉と呼ばれた。
 戻って永代通り交差点、南に行く道を入ると、「巴(ともえ)橋」があります。この橋は別名、蓬莱(ほうらい)橋・がたくり橋ともよばれ、岡場所「がたくり橋」が有ったところです。渡った左側に「住吉神社」があり、この近辺を「」(つくだ、別名あひる)と言われたところです。江戸時代は巴橋はもっと東に架かっていて橋の正面が八幡宮の参道に直結していました。当時の橋を渡った右側が佃で、これは隅田川にあった佃島が手狭になって、ここで網を干したところです。その時佃島の住吉神社を分社してここに祀ったものです。

巴橋、富岡側

ガタクリ橋(巴橋)牡丹側

八幡宮二の鳥居(入口)

 今、岡場所もないので、ここで戻って、八幡宮の二の鳥居、参道入口に立ちます。突き当たりが本殿で右奥に横綱碑がありますが、その北側が二軒茶屋で有名だった「伊勢屋」が有った跡で、裏の数矢小学校辺りが同じ二軒茶屋の「松本楼」跡です。どこを探しても遺構も風情も説明板もありません。

二軒茶屋跡

八幡橋

深川入船町

 右(東)に境内を出て回り込むと真っ赤な鉄の橋「八幡橋」に出ます。国指定の重要文化財で、東京最初の鉄橋で弾正橋と呼ばれ京橋に架かっていましたが、保存の為ここに移設され名前も八幡宮からこの様に名付けられました。渡った先の富岡二丁目が「三十三間堂」が有った場所で、その周辺も岡場所として賑わい、後年「土橋」と呼ばれたところです。
 街を南に抜け、永代通りに出た先も土橋と呼ばれましたが、東富橋を渡った「深川入船町」にも見世があったと言います。

 粋なお店は何軒もありますが、これだけ歩いても岡場所は残念(?)ながら、何処にもありません。もうここまで発展すると、岡場所が無くても八幡宮は成り立っていくでしょう。

 上尾、桐生は茂兵衛さんに行ってもらったので、私は今回行きません。

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

 「深川七場所」です。それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

裾継(すそつぎ。江東区門前仲町2丁目10〜11赤札堂辺り)
  清澄通り油堀(川)に架かる富岡橋跡から望む。赤札堂がその位置になります。油堀は隅田川に接していて、清洲通りも運河だったので船での往来が非常に便利でした。深川の岡場所の取っつきです。

櫓下(やぐらした、江東区門前仲町2丁目4〜9)
  清澄通り富岡橋跡から望む。上記裾継の続きで門前仲町の交差点まで続きます。清洲通りの運河は門前仲町の交差点まで繋がっていました。裾継もここ櫓下も船でのご来廓には非常に便利で好まれた所だったのでしょう。

仲町(富岡一丁目8〜13&富岡一丁目1〜7)
 櫓下から東へ八幡様の参道までの一画と、永代通りを渡った大横川(大島川)までの一画。門前仲町の交差点から八幡宮(東)方向を見ています。
この門前仲町交差点を中心に街は賑わっています。

石場(牡丹一丁目の一部)
  門前仲町の南に流れる大島川南側の街、牡丹一丁目にあった。奥の古石場橋を渡った先、牡丹二丁目も同じように呼ばれた。その先は巴橋の際で”あひる”と呼ばれた所。幕府の石置き場跡の街で遊女の数より、石の方が多く、大量の石材が最近まで放置されていた。

新地(越中島一丁目の西端、隅田川と大島川の合流点)
 隅田川河口永代橋の南側に埋め立てられた新地が出来た。その河口際に出来た岡場所。写真でも分かるように見晴らしが良く船で来るのには最適であった。近くには深川の夕河岸(永代一丁目)があったので、酒の肴は満足がいくものが手に入ったでしょう。

(つくだ。俗称あひる。牡丹二〜三丁目の一部)
 八幡正面、南の大島川に架かる巴橋を渡った左右の街。
 幕府は享保4年(1719)、この地を佃の漁民に網干場として土地が与えられ、深川佃町(牡丹2〜3丁目)と称された。後に岡場所として発展、俗につくだとか、あひるとか言われ、明治初めまで栄えた。その時の住吉神社が残っています。

土橋 (富岡二丁目&富岡一丁目24〜26)
 八幡境内を出た、東側(三十三間堂があった)汐見橋が架かる平久川(三十間川)までの一画と、永代通りを渡った大島川までの一画。

 三十三間堂は京都の三十三間堂に模して淺草に創建されたが消失、のち元禄11年(14年とも)この深川に再建された。ここで弓術の練習や試合が行われたが、明治5年廃されてしまった。

                                                      2009年9月記

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