落語「心眼」の舞台を歩く

  
 

 八代目 桂文楽の噺、円朝作「心眼(しんがん)」によると。
 

 横浜から顔色を変えて”梅喜(ばいき)”が歩いて帰ってきた。聞くと弟に「穀潰しのドメクラ」と何回も言われたという。それが悔しくて翌日自宅の馬道から茅場町の薬師様へ「どうか、目が明きます様に」と、願掛けに通った。女房”お竹”の優しい取りなしもあって、満願の日、願い叶って目が明いた。

 その時、薬師様のお堂の上で声を掛けられた、馬道の上総屋さんの顔も分からない。目が明くと道も分からないので、上総屋さんに手を引いてもらった。目の前を人力車が横切った。ビックリして眺めているとお客は綺麗な芸者だった。
 お竹と比べるとどっちが綺麗ですかと尋ねると、本人を目の前にしては失礼だが、東京で何番目という化け物の方に近いが、心だては東京はおろか日本中でも指を折るほどの貞女だ。似たもの夫婦の逆で、梅喜はいい男だがお竹さんはマズイ女だ。芸者の小春も役者よりお前の方がいい男だと言ってたぐらいだと、聞かされた。
 浅草仲見世を通り、観音様でお詣りしていると、上総屋さんとはぐれてしまった。

 お客の芸者”小春”が梅喜を見つけて、食事にと富士下の”待合い”に誘った。上総屋の知らせで観音堂に目が明いた梅喜が居ると知らされ喜んで来てみると、二人連れが待合いに入る所を見た。中の二人は酒に任せて、化け物女房は放り出すから、いしょになろうと相談していると、お竹が踏み込んで、梅喜の胸ぐらを締め上げた。「勘弁してくれ、苦し〜い。お竹、俺が悪い。うぅ〜」 。

 「梅喜さん、どうしたの?」、うなされていたので梅喜を揺り起こした。夢であった。「一生懸命信心してね」、「あ〜ぁ、もう信心はやめた」、「昨日まで思い詰めた信心を、どうしてよす気になったの」、
「盲目というものは妙なものだね、寝ている内だけ良〜く見える」。

 


1.茅場町の薬師様 ( 智泉院(ちせんいん)、中央区日本橋茅場町1−5−13)
 
正式には鎧島山(がいとうざん)智泉院(天台宗)と言い、”茅場町のお薬師さま”と江戸庶民から愛されて縁日には大変な賑わいであったと言われる。ここの本尊薬師如来は、平安中期の恵心僧都(えしんそうず、源信)の作と伝えられ、江戸時代には山王権現の本地仏として、山王御旅所(現、日枝神社)内にあった。明治時代の廃仏棄釈などの影響もあって、現在はその薬師如来は川崎市、等覚院に安置されている。(中央区教育委員会説明板より)
 

2.摂社 日枝神社 (御旅所) (中央区日本橋茅場町1−6−16)
 
山王さん、御旅所、摂社と親しまれ、天正18年(1590)家康が江戸入城、日枝(ひえ)大神を崇敬されて以来、御旅所のある「八丁堀」北嶋(鎧島)祓所まで神輿が船で神幸されたことに始まる。
 寛永年間(1624〜1643)日本三大祭りの山王祭りには本社(山王日吉大権現=日枝神社)より三基の神輿が半蔵門より江戸城に入り、将軍自ら奉迎。各町会を巡り茅場町の御旅所に入った。当時は千三百余坪(四千数百平米)の敷地があって、その中に薬師堂も有った。しかし、明治6年3月神仏分離令によって、薬師堂は敷地外へ分離された。
( 神社由緒記より) 。

 摂社(せっしゃ)=本社に付属し本社に縁故の深い神をまつった神社の称。本社と末社との間に位し、本社の境内にあるものと境外にあるものとがある。
 御旅所(おたびしょ)=神社の祭礼に、神輿(しんよ=御輿)が本宮から渡御して仮にとどまる所。おたびのみや。みこしやど。おたびどころ。
(広辞苑から)

 どの江戸切り絵図にも茅場町のお薬師さまと摂社日枝神社が、同じ境内に並んで建っているのが読みとれます。そのぐらい有名であった。
 

3.馬道、浅草寺
 
第23話「付き馬」で浅草寺、第25話「明烏」で吉原を、第31話「柳田格之進」で馬道をご覧下さい 。
 梅喜と上総屋さんは同じ町内の馬道に住んでいた。落語「柳田格之進」の中の質屋、万屋源兵衛もここに住んでいた。浅草寺の東側二天門を出た所が馬道です。上総屋さんは梅喜の嬉しさを、偶然に出会った小春に教え、梅喜の帰りを待っている女房お竹さんにも、「今、観音堂で目が明いたお礼をしている」と報告した。飛んで出てきたお竹さんは小春に一歩先んじられてしまった。
 イイですね、女性(男性でも)は器量よりも気立てです。変に顔の造作などで気持ちが変わるより、今のままで充分幸せでしょう。 別の噺、志ん朝がくすぐりの中で、化け物の”のっぺらぼう”が恥ずかしそうに出てくると、「いいんだよ、へんに目鼻立ちがあって苦労している女がどれほど居るか、そこいくと無い方がどんなにイイか」。 でも、でもですよ、 話戻ってこれは夢の中の話ですから、本当はお竹さんはベッピンさんかも分かりませんよ。現実の世界で上総屋さんにもう一度聞いてから、信心を仕直した方がイイかも知れません 、よ。ね!
 

4.富士下の”待合い”
 
現在の台東区浅草五丁目3にある不二権現(浅草富士浅間神社=浅草警察署前。隣の富士小学校に名が残る)は、富士山を形取った小山があった。往来からここまでの小径を富士横丁と言い、一帯を富士下と言った。 その中の待合いで、小春と親密な話がなされていた。

 待合茶屋 (まちあいぢゃや)とは、待合せのために席を貸す茶屋。今は客が芸妓をここに呼んで遊ぶ茶屋。また、そこで飲む酒を待合酒(待合遊びで飲む酒)と言った。
 この噺では、二人っきりになれる席(部屋)を貸してくれた。今でも個室のある料理屋さんは結構あるが、当時はホテルなみの気配りがあった。 当時ラブホテルは無かったからね〜、だから、旅館、船宿や、屋形船(祝儀をはずむと船頭は陸に上がった)、待合茶屋、鰻屋・料理屋の二階等が密会場所に使われた。
 


  舞台の茅場町の薬師様を歩く
 

 茅場町のお薬師さまは地図にも出ていないほどの小さなお寺さんです。
 表通りの摂社山王日枝神社の細い参道を入り鳥居をくぐると、中は広い境内に社を構えた日枝神社が有ります。まるで巾着みたいに入口は狭いのに中は広い敷地です。この辺り一帯は証券業界が集まった地区で、近くには東京証券取引所が有ります。土一升金一升の土地柄ですから、表通りは大きなビルで囲まれてしまったのでしょう。江戸時代まではこの日枝神社の広大な敷地の中に茅場町のお薬師さまも有ったのです。しかし今は神仏分離令によって裏の敷地に別れて建っています。番地は離れている様に見えますが、路地一本挟んだすぐ裏手にあります。当時は薬師さまの方が大きかったのに、今では日枝神社の方が立派です。それも看板の本尊の薬師像が川崎に行ったまま、帰ってこないからでしょうか。今は梅喜の目を治すほどの御利益はなさそうです。今日は日曜日、参拝者どころか路地を行き来する人さえ居ません。

 

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。

   

茅場町の薬師様 中央区日本橋茅場町1−5−13)
 その名を鎧島山智泉院といい、正面玄関の左手に魚河岸が贈った薬師像が立っています(クリックした写真)。堂内を覗くと本尊の薬師如来が安置されていました。

摂社 山王日枝神社 (中央区日本橋茅場町1−6−16)
 誰もいない境内に蝉の鳴き声だけがこだましている空間です。関東大震災の後に建て直された本殿が歴史を感じさせます。

浅草寺本堂 (二天門〈馬道〉から見た本堂)
 クリック写真は浅草寺本堂前の参拝者たち、この中に梅喜や小春が居るのであろうか。

   

北斎描く浅草寺鬼瓦
 浅草寺お堂上から見た五重塔と雑踏(クリックした写真)。お竹さんは必死になって梅喜をここから探す。下の雑踏の中に亭主と女が居るのを発見、後を追う事にな った。

浅間神社(台東区浅草5−3−2)
 浅草のお富士さんと呼ばれ、区の有形民俗文化財に指定されています。富士山への信仰から小山を築いて富士山に見立て信仰の対象とされた。今は小山は無くなっていますが、地面から2m程の高さに鎮座しています。手前の神殿は平成10年に改修されたが、奥の神殿は明治11年の土蔵造りのまま遺されています。
 毎年、5・6月の最後の土曜日には植木市が開かれるのでも有名です。

富士下
 三社様と観音様の間を北に向かい言問通りを渡り、富士小学校の先にある浅間神社までの小径を富士横丁と言います。浅間神社の周りを富士下と呼んでいました。
 写真は浅間神社境内から浅草寺方向を見ています。この道路が富士横丁と呼ばれたところですが、当時の面影は既にありません。
 

下谷坂本の富士塚(台東区下谷2−13−14、下谷小野照崎神社内)
 富士山信仰は室町末期に起こり、江戸時代中期には非常に盛んになり、江戸を初めとして富士講があちこちで結成された。それに伴い、模造富士も多数築かれ、江戸とその近郊で富士塚は五十有余を数えるに至った。しかし、今に伝わる塚は少ない。
 ここの塚は高さ約5m、直径約16m、溶岩でおおわれ、東北側一部が欠損しているが、原形がよく保存されている。昭和54年国の重要有形民俗文化財に指定。 (区の説明版より)
 浅草のお富士さんにもこの様な富士塚があったのでしょう。

(2005.1月追記)

                                                        2002年9月記

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