落語「大仏餅」の舞台を歩く
八代目 桂文楽の噺、「大仏餅(だいぶつもち)」によると。
積もりそうな雪が降ってきた。父親が怪我をしたので血止めを分けて欲しいという子供が店の中に入ってきた。新米の盲目乞食が仲間内から縄張りを荒らしたと突かれて怪我をした。山下の大店のご主人は気ぃよく奥から、取って置きの薬を塗ってあげた。子供の歳を聞くと六つだという。当家の息子も袴着の祝いで八百善から料理を取り寄せて、お客さんに食べて帰ってもらったところだが、息子は旨い不味いと贅沢すぎる。その反対にこの子は雪の中、裸足で親の面倒を見ている感心な子だと、料理を分けてあげたいという。出した面桶は朝鮮さわりの水こぼし、あまりにも茶人が使う高級品。それを分かって、部屋に上げて八百善のお膳を二つ用意した。
聞くと、過日は八百善の料理を味わっていた事もあるし、お茶の心得もあったが、貧乏して茶道具の全ては売り尽くし、この水差しだけは手放せなかった。千家の宗寿(そうじ)門弟で芝片門前に住んでいた神谷幸右衛門だという。あの神谷さんですかと驚いた。出入りの業者が言うには庭がどうの茶室がどうのと言っていたが、一度招かれたが所用があって行けず残念であったと述懐した。その河内屋金兵衛ですと自己紹介した。お互い相知った仲であった。
鉄瓶点てで、お薄を差し上げたいと言い出した。お菓子が無いので、そこにあった大仏餅を菓子代わりに差し出し、子供と食べ始めたが餅を喉に詰まらせ息が出来なくなってしまった。あわてて、背中を強く叩いたら息が出来るようになった。と、同時に眼が見えるようになった。そこまでは良かったが、鼻がおかしくなって声が巧く出ないようになってしまった。
「鼻?、今食べたのが大仏餅、眼から鼻ィ抜けた。」
1.大仏餅
近世、京坂地方で流行した餅で、上に大仏の像を焼印で押したもの。京都誓願寺前や方広寺前などに有名な店があった。のちに江戸でも流行。
江戸では浅草並木町(現・台東区雷門2丁目)の両国屋清左衛門が始めたといわれる。大仏の像を焼き印で押した餅菓子。浅草の観音詣でをした人に土産として売れたという。
写真は「お土産珍奇大行進」http://gentv.co.jp/omiyage/food.htmlより
奈良の大仏にちなんだお土産です。
落語大仏餅は三題噺で、お客さんから、大仏餅・袴着の祝・新米の盲目乞食、のお題をもらって、即座に高座で作られた圓朝作の落語です。
昭和46年8月、国立小劇場の<落語研究会>で「大仏餅」を口演中、神谷幸右衛門の名を度忘れし絶句。「勉強し直して参ります」と言って、楽屋へ戻って行った。これが桂文楽の最後の高座となった。同年12月12日 桂文楽死去。
2.袴着(はかまぎ)の祝い
幼児に初めて袴を着せる儀式。古くは多く3歳、後世は5歳または7歳に行う。近世以降、陰暦11月に行うのが通例。着袴(チヤツコ)。現在は七五三として残る。
3.八百善
八百善は文化文政の頃(19世紀初め頃)に江戸で繁盛した料理屋です。料理屋を開業する以前の八百善は、明暦の大火(1657)後に、新鳥越2丁目(山谷=東浅草一丁目)で八百屋を始め、八百屋の善四郎の名から八百善とよばれました。
その後文化年間(1804−18)に仕出し料理屋を始め、文政(1818−30)の初め頃から座敷で客をとる料理屋に発展したようです。八百善は当時の江戸を代表する料理屋で、ペリー接待の料理を受け持ったことでも知られています。八百善だけはどの料理屋の番付でも何時もトップにランクされています。
八百善に関する話としては、「客が極上の茶とうまい香の物のお茶漬けを注文したら、お茶漬けは結構な味ではあったが、その勘定書はなんと一両二分であった」
、主人曰く、香の物はともかくお茶漬けの茶に合う水を多摩川まで飛脚を使ったので、その費用がかさんだ。と言う。
写真のおせちはクリックして大きくしてからお召し上がり下さい。
今は十代目が跡を継いで、盛業しています。中央区銀座6−5−1
■落語の噺に出てくる有名店、池波正太郎の”鬼平”だけが食べ歩きではない。 落語の舞台でも実在の料理屋は大活躍。
| 桂文楽 | 『大仏餅』 (この噺) | 江戸割烹 | 八百善 |
| 桂文楽 | 『船徳』 | 軍鶏料理 | ぼうず志ゃも |
| 桂文楽 | 『素人鰻』 | 鰻 | 神田川 |
| 柳家小さん | 『王子の狐』 | 玉子焼き | 王子扇屋 |
| 三遊亭円生 | 『居残り佐平次』 | 鰻 | 荒井家 |
| 春風亭正朝 | 『花見小僧』 | 桜餅 | 長命寺桜もち |
4.面桶(めんつう)
1人前ずつ飯を盛って配る曲物(マゲモノ)。後には、乞食(コジキ)の持つものをいう。めんつ。 または、茶道で使う、曲物の水こぼし。
曲物;檜(ヒノキ)・杉などの薄く削りとった材を円形に曲げ、合せ目を樺・桜の皮などで綴じて作った容器。
洒落て小判型のを御弁当箱に使っている人も居ましたが、あれって乞食の弁当箱だったの。
■朝鮮さはり;さはり、サワリ【胡銅器・響銅】。 銅を主とし錫・鉛(銀)を加えた黄白色の合金。また、それで作った椀形の器。水指(ミズサシ)・建水(ケンスイ)・花器等の茶道具として、また、叩くとよい音を出すので仏家では打鳴らしとする。
面桶代わりにこの朝鮮さはりを使ったのがこの噺のポイントですが、「分かる人が見れば分かる」の典型でしょう。
■鉄瓶点て;正式に茶釜ではなく、あり合わせに鉄瓶の湯で茶を点てる事。
5.川上宗寿(そうじ)
江戸で千家の茶の湯を広めた川上不白(1716〜1807)の門弟の宗寿(そうじゅ、1779〜1844)のことであろうと思われる。
6.芝片門前(しばかたもんぜん)
現在の港区芝大門二丁目西側半分。神谷幸右衛門、この噺の主人公です。彼が住んでいたのが、芝片門前。
■山下(やました);玄人(?)乞食に暴力をふるわれ膝を怪我した所。また、舞台の河内屋金兵衛さんの大店(おおだな)が有った所。台東区上野六丁目界隈。 今、上野駅不忍口(南口)辺り。上野公園(上野の山)の登り口で山下。
7.眼から鼻ィ抜けた
オチの「眼から鼻に抜ける」、すぐれて賢いこと、また、ぬけ目がなく、敏捷なことの形容。(広辞苑)
この言葉が当てはまる落語の小話があります。
ある時、奈良の大仏さんの目が体内に落ちてしまった。これを直す事が出来ないで困っていた。その時親子連れの修理人が出て「私たちが直して見せます。」と願い出ましたが、既に何人かの修理人が挑戦しましたが失敗しています。ま、断る必要もないので請け負わせました。子供はスルスルと頭に登って目から頭の中に入り、裏側から目玉を取り付けるのに成功しました。
しかし、入口を塞いでしまったので、出るに出られません。みんなで心配していると鼻から出てきて、仕事は見事成功。見物人が言いました「眼から鼻に抜ける、利発な子だ」。
写真;毎日新聞07年8/7夕刊より
「奈良・東大寺大仏 お身ぬぐい」 8/7東大寺恒例のホコリ払いが行われた。約200人が参加して、高さ15mの頭部には天井から吊されたゴンドラでハタキを掛けた。
人間の大きさと、大仏様の大きさを比較しながら、眼から鼻に抜けてください。子供だったら・・・。 07.8.7.追記
舞台の芝大門、並木町を歩く
芝大門を目指して出掛けました。ここの大門と吉原の大門、漢字で書くと同じですが”芝だいもん”、”吉原おおもん”と読み方が違います。江戸(東京)で”だいもん”と言えばここだけです。”おおもん”は各遊郭の入口にあった門です。出来れば”おおもん”に出掛けたかったのですが、いずこもこの門はなくなっています。ザンネ〜ン!(ナンで!)。ここの芝大門は自動車が通り抜ける公道上にありますが、芝増上寺の山門です。元は人だけが通る参道だったのでしょうが、この御時世で自動車は走り、周りもビルばっかりになっています。本堂のある所はそのままに健在です。第59話
「首提灯」で歩いた所で、増上寺を紹介しています。
芝片門前は昭和まで有った地名ですが、この門前の一部に付けられた小さな街でした。今は芝大門(町)になってオフィス街になっています。この大門の背中側にJR浜松町駅があり、モノレールで羽田空港と直結している便利な街です。
浅草・並木町に移動です。駒形橋の駒形堂は第70話「松葉屋瀬川」や「船徳」の徳さんと過日訪問しましたが、ここから北に2本の道に分かれます。左側の道をとると雷門に突き当たります。ご存じその奥が仲見世をぬけて浅草寺です。もどって、駒形堂−雷門間が俗に並木通り、その左右が旧・並木町です。ここに有名な”大仏餅”を売る店があったのですが、何処にも見つける事が出来ません。観光案内のプロ、浅草文化観光センターや人力俥のお兄さんに聞いても分かりません。仲見世の和菓子屋さんやお土産屋さんを覗いても何処にもありません。有るのは人形焼き、せんべい、雷おこし、大福、キビ団子、サブレェーやチョコレート、時代が変わったのか美味しくなかったのか、今は絶滅しています。
| 地図 |
| 写真 |
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2005年1月記
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