落語「親子酒」の舞台を歩く
   

 

桂文治の噺、「親子酒」(おやこざけ)によると。


 

 お酒飲みの話です。夕方になって冷えてきた。
 何か身体の温まる物がないかと奥様に問えば「葛湯ですか、それとも重湯ですか」とつれない返事。そうではなくお酒だというと、「息子と約束をしていて、『自分も禁酒するからお前も禁酒しろ』と言ったのは貴方ですよ」。「息子は出掛けているから、この時だけ飲ませなさい。肴になる物はないのか」。「魚ね〜”鯛焼き”が有るんですけど」、「それは魚違いだ。そー、塩辛が有ればここに出して。それから寿司屋の開店祝いでもらった大きな湯飲みを出しなさい」。奥様とぼけて「ありませんよ」。「有っただろう。大きくたって良いだろ。それだ。これに酒をつぎなさい。お茶を飲んでいるように見える」。酒を注がせて(旨そうに飲む文治。客席から笑いと拍手)「塩辛は酒の友達だな。久しく飲んでいなかったから旨い」。(ゆったりと飲んでは塩辛を堪能する文治)「酒は百薬の長だな。どうしたのぼ〜っとして、空になったから注ぎなさい」、「一杯だけと言ったじゃないですか」、「おケツをあげなさい。お前のおケツをあげるんじゃなく、一升瓶のだ。お前のおケツをあげたって、何にも出ない」。
 2杯目も旨そうに飲む。「五臓六腑に染み渡るね。・・・酔うね、酔うから良いんだ。塩辛は旨いね。誰が考えたかって?それは塩辛屋の親父だろう」。「ツーッと入るね。お代わり。2杯も3杯も同じだ。しっかり注げよ。オットット・・・表面張力で盛り上がった、口からお迎えだ。酔うと春めいてくるな」。したたかに酔ってしまった文治。いえ、親父。「お寝なさい」、「御寝なさいとは何事だ」、「息子が帰ってきますから」、「大丈夫だよ。一升瓶をここに持ってきなさい。早く。これっぱかしの酒残してどうするんだ」酔いに任せて飲み続ける親父。「飲んでるそばで監視するような目で・・・イヤな目だな。衛生に良くないから、脱いだら下駄箱に仕舞っておく顔だ」。ホントに酔ってしまった文治、いえ親父。
 「貴方、帰ってきたわよ」、「帰ってくるよ。自分の家だから」、「早く片して」、「みんな持って行け。大丈夫だ湯飲みは。酒が入っているなんて思わない」。

 

 「た・だ・い・ま・戻りました」息子もろれつが回らないほど酔っていた。「お父さんが言われた麹町に行って来ました。旦那が戻ってきて『イッパイやろう』と言うので、親父と禁酒をしているので断ると『男同士胸襟を開いて飲もう』と言われましたが、禁酒しているとさらに断ると『出入りを止めても良いか』と言うので、私は怒ってしまいました、『たとえ止められても、親父と男と男の約束、飲む訳には行きません』、『さすが、頑固な親父の息子、その意気が良い。その意気の良いところで、一杯やりなさい』と言うので、2人で2升空けてしまいました。お父っつぁん、お酒って止められないものですね」、「バカ者!なぜ、そんなに酒を飲みたがる。(ろれつがもう回らない。体の自由も利かない)こ奴は酒を飲んでいるから顔が七つにも八つにも見える。こんな化け物みたいな倅に、この身代は渡せません」、
「お父っつぁん、私だって、こんなにグルグル回る家なんてもらったってしょうがない」。

 

 

 


 

 

1.上戸と下戸
 上戸(じょうご)とは酒の飲める人、下戸(げこ)とは酒の飲めない人。判ってるヨ。ハイその通りです、バカな説明をしています。


 広辞苑によると上戸とは(群書類要「庶民婚礼、上戸八瓶下戸二瓶」とあり、婚礼に用いる酒の瓶数の多少から出た語という) 酒のたくさん飲める人。酒をたしなむ人。反対に下戸は酒が飲めない人。〈字類抄〉とあり次に面白い例えが載っています。 「下戸と化物は無い」、「下戸の肴(サカナ)荒し」、「下戸の建てたる倉もなし」これを見ていると酒飲み側から見た話で、飲めないのがいけないみたいで面白い。
 広辞苑の説を一人説とすると、複数説では上戸を”じょうこ”と読みこれはひと家に数人の成人男子の居る家族を言い、彼等が飲むことにより瓶数の数が多くなり上戸(じょうご)と言い、飲手の居ない家は下戸と言った。
 また、別の語源では秦の始皇帝が、万里の長城の門を守る兵士にはお酒を、平地の門を守る兵士には甘い物を支給したことから、酒を飲める人を上戸、飲めない人を下戸と言うようになった。と言う説もあります。

 

 生まれ持った遺伝子で上戸と下戸が分かれるのです。
 アルコールは、ADHという酵素によってアセトアルデヒドに分解される。このアセトアルデヒドは、主にALDH2という酵素で酢酸に分解され、やがて炭酸ガスと水とになる。このALDH2がきちんと働く「活性型」を作る遺伝子を生まれつき持たない人がいるのだ。これが下戸を決定付けている。アセトアルデヒドは毒性が強く、少量で不快な気分にさせるため、これを分解できないと、酒を飲む気にさえならない程という。
 この活性型ALDH2を持つ酒に強いタイプをN、不活性型タイプをDとすると、両親から遺伝子をそれぞれもらうので、人にはNN、ND、DDの3型がいる。NN型は酵素が正常に働くため酒に強い。ND型は酵素はあるが、働きがNN型の1/16しかなく、飲む経験を積めばある程度は強くなるが、それでもNN型には及ばない。DD型はアセトアルデヒドの分解速度が非常に遅く、酒に弱いというより酒を飲めない人がほとんど。

 

 上戸と下戸が出来た理由が、ある高名な学者(スイマセンお名前を忘れました)の説で要約すると次のような事なのですが、私はこの話が好きです。
『氷河期フィルター説』 
 昔氷河期の時代、ヨーロッパでは当然大変な寒さが続き、食べるものにも不自由な時代を過していました。食べる物も特に冬季では新鮮な物は皆無に近く皆貯蔵された保存食で飢えをしのいでいましたが、それも的確に保存されていたわけではなく、中には腐敗(発酵)してくる物もありましたが、希少な食物を破棄するわけには行かず、それを承知で食べたり飲んだりしたのです。当然腐敗した物は食当りしましたが死ぬよりましです。発酵した物はアルコールになって、これが酒そのものですが、これも棄てる事無く飲食したのです。しかし体がそれらを受付けない人々は当然淘汰されて行ったのです。永いこの氷河期が終ると残された人々は皆上戸の人々だけだったのです。これはDNA鑑定をすれば判ることらしいのですが、今でもその子孫がヨーロッパ人なのだと言うのです。今、有名なところでは、フランスでは昼からランチとワインを飲みながら当り前のような日常生活を営んでいます。ドイツでもビールは欠かせませんし、飲んでも平気で顔も赤くなりにくいのです。
 ひるがえって、日本ではそれほどの氷河期を体験していませんので、上戸も下戸も今の時代に引継がれているのだと言うことです。

 

 もう一つの説、筑波大学の原田助教授の仮説による
『一人突然変異説』、
 元々人類はお酒に強い上戸ばかりだった。ところがモンゴロイド(黄色人種)、コーカソイド(白色人種)、ニグロイド(黒色人種)とに分かれた後、モンゴロイドのたった一人に突然変異が起こり、酒の飲めない遺伝子D型が発生、この世に下戸が生まれた。混血により”D”の遺伝子を持つ人が各地に広がっていった。この突然変異は2万5千年〜3万年前に起こったとみている。
 原田助教授らが遺伝子検査で下戸のDD型とND型の分布を調べると、白人と黒人はゼロ。しかし日本人は40%、中国人(漢民族)は50%、韓国人は25%が下戸という。東南アジアではベトナム人は57%だが、タイ、フィリピンは低く、南米のモンゴロイド系住民の比率はさらに低くなっている。
 日本人ではND型が35%で飲めないDD型は5%となっている。日本国内の分布では近畿を中心に中央部に下戸が多く、東北、北海道、南九州は上戸の比率が高い。
 アルコール依存症のほとんどは上戸のNN型で、D遺伝子を持つ人は、そもそも酒をあまり口にしないから依存症になりにくいという。

 

 今の科学では飲める飲めないは体質で、アルコール分解酵素を先天的に持っているかいないかで、決るそうです。
 こういう事を書きながら、この分解酵素を持っている方が幸せなのか、無い方が幸せなのか、考えてしまいます。私は当然上戸ですが、実の弟は全くの下戸です。
 私のホームページ吟醸酒 話24上戸と下戸より転載

 


2.麹町(東京都千代田区麹町)

麹町一丁目(こうじまちいっちょうめ)と麹町の由来
 麹町は、江戸城の西に位置した半蔵門から外堀四谷御門の外側までにいたる道筋、現在の麹町大通り(新宿通り)沿いに誕生した町です。

  江戸時代には半蔵門の正面に麹町一丁目、以下、聖イグナチオ教会(四谷駅)付近が十丁目となり、あとは四谷御門の外から新宿に向かい、十一丁目から十三丁目まであった。江戸城の守りとなるこのあたりは、半蔵門から見て右手に番町(ばんちょう)の旗本屋敷、左手に但馬(たじま)豊岡藩(兵庫)京極家や播磨(はりま)明石藩松平家、近江(おうみ)彦根藩井伊家などの大名屋敷があった。その中央をつらぬくように走る麹町の通りは、四ツ谷、内藤新宿(ないとうしんじゅく)を経由して甲州路につながり、沿道には武家屋敷の御用を調達する商家が並んでいた。江戸の町屋ではもっとも古い地区の一つで、幕府の麹御用を勤めた麹屋三四郎が一丁目の堀端に住んだことから「麹町」の名が起こったといわれている。ほかに竹屋、魚屋、西瓜屋、乗物屋、太物(ふともの=綿・麻布)屋など有力な店もあって、日本橋の商家に対抗する勢力を誇ったといわれる。  

 しかし麹町の由来はさらに古く、上古にあっては豊島宿(のち江戸宿)から府中(ふちゅう)の国府(こくふ)を往来する国府街道の、江戸における出入口であった。すなわち国府路(こうじ)の町であった。よって、元来は「国府路町(こうじまち)」であったとする説も有力で、徳川時代に入り大名旗本の小路となったことから「小路町(こうじまち)」となり、元禄年間(1688〜1704)に麹屋をはじめ、呉服商の岩城枡屋などの有力な商屋の繁栄を見るようになってから、「麹」が当てられたと考えられる。


 かつて国府に行く道の始点であったことと、半蔵門から入って江戸城内を通って竹橋(たけばし)に抜ける通路(代官町通り)の出入口でもあったことから警護も厳しく、幕末に「桜田門外の変」が起きた際には半蔵門竹橋間は一般の往来も禁止された。
 明治維新後、多くの大店は大名旗本の没落と運命をともにした。

 明治2年(1869)に東京府が五十番組に区分され、麹町一丁目は第二十三番組に所属し、明治4年(1871)に大区小区に再区分されて第三大区第二小区の一部となった。次いで明治11年(1878)に十五区制となり「麹町区」として分立した。さらに太平洋戦争後、昭和22年(1947)に隣接の神田区と統合し、千代田区内の町となり現在に至っている。

 麹町は武家地と町人地とが隣り合う江戸の中枢であった。その性格は今も継承され、国会、官庁、裁判所、大使館、そして皇居に囲まれた商業地として、賑(にぎ)やかだが品格のある町並みを回復した。政治・文化・商業のミックスされた、ユニークな町である。内堀沿いの風景も美しい。いつまでもこの景観が保たれることを願う。
<作家・荒俣 宏著、千代田区麹町一丁目由来板より>

 

右図;「麹町一丁目山王祭りねり込み」広重画  現在の国立劇場の辺りを通過する山王祭りの山車。祭列の先は右に曲がって半蔵門を渡っています。
下図;江戸名所「麹町一丁目山王祭り練り込みの図」広重画 上記と同じように半蔵門を入って行く祭列。

 

二丁目

 文政7年(1824)の『江戸買物独案内(えどかいものひとりあんない)』には菓子店の名が、明治時代に書かれた『麹街略誌稿(こうじまちりゃくしこう)』には、牽牛子煎餅やとくに落雁(らくがん)が名物だったと記されています。『新撰東京名所図会(しんせんとうきょうめいしょずえ)』によると、お鉄という女性が売りはじめたお鉄牡丹餅(ぼたもち)や、助惣焼(すけそうやき=現在のクレープのような菓子。現麹町一丁目交差点南角)などを売る店があり、いずれも名物として広く知られていました。
 また、安政3年(1856)の切り絵図にも見られるとおり、現在の麹町二丁目にあたる地域は、町屋の北側に明地があり、武士たちが弓術などの修練をする大的射込(おおまといこみ)稽古場や放生寺(ほうじょうじ)の拝借地となっていました。

 

三丁目

 江戸城からほど近いこの台地には、武士たちが住んでいたようです。ただ、新宿通り(甲州街道・国道20号線)沿いだけは、町屋として商人や職人が集まり住んでいました。現在の麹町三丁目にあたるこの地域も、文政7年(1824)の『江戸買物独案内(えどかいものひとりあんない)』によれば、鰹節や鰻の蒲焼、蕎麦、薬、菓子、そして墨、硯、筆などを売る店があったことが記されています。

 

 
「岩城升屋前の往来」 広重画  延享3年(1746)開店、麹町五丁目(現三丁目)北側に有った。最盛期で間口36間(65m)もあった呉服木綿問屋。麹町三丁目にある”麹町大通り案内図”より

 

四丁目

 通りの南側は谷地でしたが、寛永のころ(1624〜1644)、四谷堀を掘ったときに出た土を使って埋め立てられたともいわれています。町屋の北側は寺や火除地(火事の延焼を防ぐ空き地)に、南側は旗本が多く集まる武家屋敷になりました。安政3年(1856)の絵図には、出雲松江(いずもまつえ)藩松平家の上屋敷などが見られます。
 一方このあたりは、うなぎの蒲焼伊勢屋や丹波屋、江戸切絵図の版元として名高い尾張屋、麹町で一、二を争う呉服商の伊勢八(いせはち)、尾張藩御用達をつとめる菓子店の亀沢(かめざわ)などが店を構え、江戸の高級商店街のひとつでした。また、赤穂浪士が吉良邸討入り前に名前を変えて隠れ住んでいた家もあったと伝えられています。実際に近所では、地下に数ヶ所の麹室(こうじむろ)も見つかっています。
 町内には井戸がたくさんあったようで、大正十二年(1923)の関東大震災のときには、断水した多くの家庭を救いました。

 

五丁目

 ここには慶長のころ(1596〜1615)、十五軒ほどの遊廓がありましたが、元和3年(1617)にほかの地域の遊廓とともに日本橋葺屋町(ふきやちょう)へ移転して、元吉原となりました。
 町屋の北側は寺院、南側は武家屋敷で、安政3年(1856)には、切り絵図にも見られるように、栖岸院(せいがんいん)や志摩鳥羽(しまとば)藩稲垣家上屋敷などがありました。
 ほかにも、講談で名高い盗賊鼠小僧次郎吉が、江戸時代後期に町内にあった質屋の蔵に盗みに入ったという話も、町に伝わっています。ま、そのぐらい豊かな街だったのでしょう。

 

  「常仙寺・寅薬師堂、心法寺」 江戸名所図会より 絵図の中央が寅薬師、手前の道が薬師横町。上方の本堂が現在もある心法寺。

 

六丁目

 江戸時代以前、このあたり(五・六丁目)は矢部村または横山村と呼ばれていましたが、徳川家康が江戸に入った後に町屋となり、麹町となりました。
 安政3年(1856)には、切り絵図にも見られるように、町屋のほかに常仙寺(じょうせんじ)、心法寺(しんぽうじ)、尾張名古屋藩徳川家中屋敷、四ツ谷御門などがありました。このうち常仙寺は、別名「寅薬師(とらやくし)」と呼ばれ、境内の様子が『江戸名所図会』(上図)にも描かれていますが、明治の末に杉並区へ移転。慶長2年(1597)に開山したとされる心法寺は、現在も町内にあり、信仰を集めています。

 明治時代に入ると、ここは印刷所や旅館、麹町勧工場(かんこうば*)などが立ち並ぶ商店街となりました。

*勧工場;当時政府の勧めで、一つの建物の中に各種の商店を集めた施設。テナントを集めた今のデパートのようなもの。その後、デパートの進出で衰退した。

 

<各丁目説明は千代田区の現地に建つ麹町町名由来板より要約> (丁名は現在の丁名)

 


 「四谷大木戸(四谷見附)」江戸名所図会より  四谷駅の北側。現在の北側の道が当時の道です。

 

3.言葉
葛湯(くずゆ);葛粉に砂糖をまぜ、熱湯を注いでかきまぜた食物。主として幼児・病人に用い、また、体が温まるので冬に用いる。広辞苑

 

重湯(おもゆ);水の量を多くして米を炊いた上澄みの糊状の汁。病人・乳児用。広辞苑。奥様は重ねて「お粥ですか」と皮肉を言っています。

 

寿司屋の湯飲み;ご存じ寿司屋で出してくれる魚へんの文字が付いた湯飲みです。これで酒を飲んだ事は未だありませんが、入るでしょうね。

 

五臓六腑(ごぞうろっぷ);五臓(心・肝・脾・肺・腎)と六腑(大腸・小腸・胆・胃・三焦・膀胱)。多く、からだ全体の意に用いる。広辞苑。三焦は実在しない想像上の臓器。久しぶりに飲むお酒、五臓六腑に染み渡るでしょね。

 

表面張力液体または固体の表面が、自ら収縮してできるだけ小さな面積をとろうとする力。表面に沿って働く。界面張力。広辞苑。お酒が容器上端イッパイになってもこぼれず盛り上がる様。

 

胸襟を開いて心中をうちあける。広辞苑。 心中は”しんちゅう”と読み”しんじゅう”と読むと意味が違ってしまいます。胸襟を開いて”しんじゅう”を打ち明けられたら困ってしまいます。

 

グルグル回る家;噺家さんによっては「グルグル回る天井の家なんて・・・」とも言います。深酔いすると本当に周りの物が回って見えます。そして、地面が私に向かって立ち上がってきますので、手で避けますが、周りの人から見ると、アイツは倒れたとうつります。

 

 

4.酒飲みの話
 
文治のマクラより
■「アイツは下戸だからだらしがないんだよ」と言うけれど、だらしがないのは酒飲みです。

 

■お酒は麻酔みたいなもので、中枢神経を冒されるので別人になってしまう。泣き上戸、笑い上戸、怒り上戸、真面目な人がスケベになって、良いお尻をしているからと触って顔を見たら、おっ母さんだったりして・・・。

 

■飲み屋の前を素通り出来ない呑兵衛が、目隠しして鼻もつまんで駆け抜けたら、飲み屋の中にいた。

 

■『写真笑話』に親子酒に似た話がありますので紹介しましょう。
 元旦の屠蘇機嫌の足元おぼつかなく、とある写真館へ写しに行く。写す段になって写真師が「ハイ、写します。お動きになりませんように」と注意をあたえると、「おれは動きはしないけれど、君も写真館も動き回っている」。

 

 



 舞台の麹町を歩く

 

 二人で一升瓶を2本も空けてしまった旦那を捜しに麹町に出掛けます。

 

 只今の皇居、当時の江戸城半蔵門を振り出しに、新宿通りを西に四谷駅まで探して歩きます。
 皇居の西側にある半蔵門は服部半蔵が住んでいたから付いた名前だと聞いた事がありますが、誠に”らしい”のですが、定かではありません。濠側の半蔵門に立つと、正面に新宿通りがぶつかって、左右の堀端の道(内堀通り)に車は泣き別れです。左はFM東京、国立劇場、最高裁判所、国会議事堂、桜田門前の警視庁と、お堅い施設が並びます。右に曲がればイギリス大使館、その先右角の北門から皇居の中を通過して竹橋に出ます。江戸時代は半蔵門から江戸城に入って北門(当時は無かった)あたりから右に曲がって竹橋に抜けました。
 山王の祭りは将軍にお見せする祭りでもあったので、浮世絵にも有る通り半蔵門から江戸城に入っていきました。元に戻って、イギリス大使館から内堀通りを直進すると九段の靖国神社に突き当たります。

 

 半蔵門から新宿通りを進みます。右側に麹町警察署、立ち番の警察官がこちらを見ています。チャップリンだったら逃げ出しているとこですが、ここは善良(?)な一市民ですから胸を張って通過します。その先の交差点下には地下鉄半蔵門線の半蔵門駅があります。右に曲がったところに”千代田区麹町一丁目由来板”が建っています。新宿通りを渡った先に”麹町二丁目由来板”があります。どれも親切にその由来が書き記されていますし、現在と江戸の切り絵図が提示されていて見る者を興奮させます。今回麹町を調べるのにどれだけ役に立ったか分かりません。千代田区中央図書館に出向く必要もなかったくらいです。感謝。

 

 次の変則な大きな交差点が麹町四丁目です。右に日テレ通り(江戸時代からは善国寺坂)で旧日本テレビがあったところの道で、市ヶ谷に抜けます。また、左に曲がれば赤坂見附の坂上に出ます。やはりこの交差点の下にも地下鉄有楽町線が走っていて、真っ下に麹町駅があります。丁度四谷まで半分来た事になります。通りの右側に三丁目の由来板、左側に四丁目の由来板が歩道上に建っています。四丁目の由来板は瓦を乗せた屋敷造りの案内板です。丁度この案内板を見ている背中方向の建物が、江戸時代の地図・切り絵図の版元、金鱗堂尾張屋清七店が有った跡です。切り絵図には民間人の書き込みは通常無いのですが、自分の所はしっかり書き込まれています。

 

 五丁目由来板は右側の歩道上に、その向かい側には鉄道弘済会のビルが見えます。右側その先、三角形の小さな公園”仲良し公園”にはベンチと見事な花壇があります。今はスミレとマーガレットが咲き乱れています。一息入れる人達のなんと多い事でしょう。この地が杉並区に移転した寅薬師(常仙寺)跡の一部です。その先に心法寺の参道が見えます。前に立つと奥に本堂の正面が見えます。都心(千代田区)に墓地を持ったお寺と言う事でも有名です。
 もうここから四谷駅が見え始めました。左手には上智大学と聖イグナチオ教会が見えますし、右には駅前広場の緑と、石垣が見えます。その石垣が江戸時代から有る四谷見附の遺構です。


 取材が終わったところで、四谷駅の駅ビルで軽く(軽くですよ)ビールをいただきます。「ビールだけでも良いですか」と声を掛けての入店ですが、これで、疲れも吹っ飛ぶでしょう。「ふぅ〜、カンロ甘露」。あわてて写真撮っても、上半分が無くなっています。撮り直しにもう一杯。イヤですね酒飲みは、結局はこの一枚だけ。

 

 終点まで来ましたが、酒飲みの旦那を見付ける事が出来ませんでした。道中お付き合いいただいたのに、スイマセン。今度、家が回るほど一緒にやりましょう。

 

 

地図

 

  地図をクリックすると大きな地図になります。 

 地図中の数字は千代田区が設置した麹町由来板に対応しています。

 

写真

 

 それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

半蔵門(皇居西側に置かれた門)
 半蔵濠越しに眺める半蔵門。桜の季節だと写り込んでいる木々が桜の花で綺麗なのですがシーズン過ぎで残念。新宿通り(国道20号線=甲州街道)の終点はここ半蔵門で突き当たり終わります。(厳密には皇居を回り込んで日本橋が終点)。  

桜田濠(皇居半蔵門から桜田門にかけての内堀)
 半蔵門から桜田門方向を見る。左が皇居、右に国立劇場や最高裁判所、その先には国会議事堂などがあります。
 静かなお堀端に見えますが大違い、車の往来は激しく、半蔵門の警備は当然厳しく、この前でゆっくり楽しむ状況はありません。

新宿通り(半蔵門から四谷を通って新宿に至る道)
 半蔵門から四谷方向を眺める。写真を撮っている真後ろが皇居の半蔵門です。この道の両側が四谷まで麹町と言われ、右側(北)は番町と呼ばれる江戸城警護の町になっていたところ、道の左(南)は大名屋敷がつながります。現在は最高裁判所や国立劇場がある地域です。

麹町一丁目由来板(麹町1−6)
 半蔵門から四谷方向に新宿通
り二つ目の信号を右に入ったところ。写真左側の交差点が新宿通り。
 FM東京、麹町警察署、麹町消防署、ワコール、等の大手が集まっています。

 

麹町二丁目由来板(麹町2−7)
 一丁目由来板から新宿通りを渡ったところに有ります。由来板の先に写っているのが「太田姫稲荷神社」の幟です。太田道灌の娘が当時流行った天然痘に罹り治らないため、山城の国(京都伏見)一口の里の稲荷に参拝したところ平癒した。道灌はそのご神体を勧請、江戸城中に祀った。その後駿河台淡路坂(一口坂=いもあらいざか。お茶の水・聖橋際)上に移し、その分社としてここに鎮座。

麹町三丁目由来板(麹町3−2)
 日テレ通りを新宿通りに出たところです。正面バスが出てきたところが、江戸時代の大横町です。坂を下ると解体が決まっている赤坂プリンスホテル横から赤坂見附に出ます。

麹町四丁目由来板(麹町4−1)
 正面、日テレ通りで、この下に地下鉄有楽町線の麹町駅があります。入って行った突き当たりが、市ヶ谷駅です。丁度白い自動車が見える歩道上に上記三丁目の由来板が建っています。

尾張屋跡(麹町4−1)
 切り絵図の版元、金鱗堂尾張屋清七店跡。この前の歩道上に上記四丁目由来板が建っています。

麹町五丁目由来板(麹町5−2)
 前面の通りは新宿通り、この奥が紀尾井町です。紀尾井町は当地にかつてあった紀州徳川家中屋敷、尾張徳川家中屋敷、彦根井伊家中屋敷に由来しており、各家の文字を1文字ずつとって町名とした。紀州徳川家の中屋敷跡は現在のグランドプリンスホテル赤坂・清水谷公園、尾張徳川家の屋敷跡は現在の上智大学、井伊家の屋敷跡は現在のホテルニューオータニ付近にそれぞれあった。

心法寺(麹町6−4)
 常栄山心法寺は、浄土宗の寺院で、現在の千代田区内では墓域を有する唯一の寺院です。もともと心法寺は、推古天皇の頃三河国に開かれた寺院で当寺の寺号は「泰法寺」とされていたといわれています。その後、慶長2年(1597)江戸麹町の地に二千余坪の寺地を受けて改めて心法寺を起立しました。(境内の掲示板より)

麹町六丁目由来板(麹町6−4)
 上記心法寺の入口前に建っています。ここから四谷駅は目の前です(右手)。下記イグナチオ教会は通りを渡った所にあります。

聖イグナチオ教会(麹町6−5)
 上智大学の宗教的センターの教会です。この奥、紀尾井町7−1 に上智大学の校舎が見えます。

四谷御門跡(JR四谷駅前)
 四谷駅の北側に石積みの御門跡(四谷見附)が見えます。この奥左側は外堀で今はJRが走っています。右側は番町の始まりです。

四谷見附交差点(新宿区四谷一丁目)
 外堀の外側で外堀通りと交差する新宿通り。四谷駅前から新宿方向を見ています。左に曲がると、迎賓館、その奥は皇太子御一家の邸宅や、皇族方の住まいもあります。右に曲がると、濠に沿って右に曲がっていくと、市ヶ谷駅です。

 

                                                     2011年5月記

 

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