落語「道灌」の舞台を歩く

  
 五代目古今亭志ん生の噺、「道灌」によると。

 隠居の家に遊びに来た長屋の主に、掛け軸の絵を見て説明する。太田道灌公の絵で、狩りに出てにわかに降ってきた村雨に、道灌公が困惑していると一軒のあばら家を見つけた。二八あまりの賤の女(しずのめ)が出てきた。雨具と所望すると顔を赤らめ奥に入り、出てきた時には盆の上に山吹の枝を載せて「おはずかしゅうございます」と。
「それはないだろう、蓮の葉なら判るが山吹の枝では雨よけにならない」、「おまえも判らないが、道灌公も判らなかった」その時家来の一人が「それは、
 『七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)ひとつだになきぞかなしき』
と言う古歌になぞらえて雨具のない事の断りでしょう」と説明をした。

  道灌公は「余は歌道に暗い」と嘆かれた。その後勉学に励まれ日本一の歌人になった。

 その歌を書いてもらって、傘の断りの歌にしようと持って帰ってきた。村雨が来たので、いろんな道灌が居る中に、家に飛び込んできた友人の道灌が居た。借り物をしたいと言う。「傘だろ」、「傘は持っているから、提灯を貸してくれ」と言う。「提灯は貸すから、傘を貸せと言え」という。そのように「じゃー、傘を貸してくれ」と言うと、先ほどの歌をチンプンカンプンに読み下すが、「都々逸か?」というほど、お互い意味判らず、そのような相手に「おまえは歌道が暗いな」と言うと
「角が暗いから提灯を借りに来た」。


1.山吹の花について
  山吹はバラ科の植物で、春の半ばの4月頃に、小振りの、文字通り山吹色の花を密生して咲かせます。名前は知っているがどんな花か定かにわからないという人でも、実物を見れば「ああ、これか」と思い当たるような、身近にある花です。五弁から成る一重山吹(金碗喜木)と八重咲きの八重山吹(金黄花)の二種がある事もご存じでしょう。

 一重の山吹は黒い実がなるが、八重には実がつかない。

で、ここで言う山吹は八重咲きの八重山吹です。

 読者の福田倭男さんからお便りいただきました。何故山吹の花は実を着けないかのお話です。
  『実のならない山吹ですが、山吹や沈丁花は中国原産で日本に持ってこられるときに、花の咲く雄株だけを持ってきたために実がならない。雌株にはちゃんと実がなるが花が観賞に耐えないので日本にはないのだ、と何かで読んだ記憶があります。植物には詳しくないので定かではありませんがどんなものでしょう。中国には山吹、沈丁花の雌株は当然ですがあるそうです。』
 植物で実を着けなくて、どうやって種の保存をするのか不思議に思っていました。そのところを福田さんは見事に謎解きをしてくれたのです。ありがとうございました。(2003.1月記)


2.太田道灌
 15世紀の関東は、山内(やまのうち)・扇谷(おうぎがやつ)の両上杉氏と後北条(ごほうじょう)氏により三分されて、戦っていた。太田氏は、その扇谷上杉氏の家臣でした。

太田道灌公の武者絵
(伊勢原市・大慈寺蔵)

   永享4年(1432)相模国に生まれる。室町中期の武将であり、歌人でもある。道真・道灌父子は、上杉定正(さだまさ)に仕え、家宰という、家中諸事を司る立場にあった。名は資長(=すけなが、幼名は鶴千代丸、初名は持資(もちすけ))といったが、1458年(時26才)には剃髪し、道灌と号した。築城・兵馬の法に長じ、長禄元年(1457、時25才)江戸城を始め川越・岩槻など諸城を築いた。江戸城に文庫を設け、和歌を飛鳥井雅世に学び、歌集「慕景集」を残した。世に軍法師範と称される程の文武両道の英傑であったが、その大きな功績と才能は、主君扇谷定正にはあまり評価されることがなかった。晩年には、扇谷・山内両上杉家の対立抗争に巻き込まれ、主君である扇谷定正に謀殺された。死ぬ間際に「当方滅亡」と言い残したという。自分が死ねば扇谷は滅びるということが道灌にはわかっていたのであろう。
    
  太田道灌座像
  江戸東京博物館蔵 複製
 

 武蔵国の守りを固めるために江戸城、岩付城(岩槻市)、川越城(川越市)、鉢形城(大里郡寄居町)などを築き、父、道真は所領の越生(おごせ)の龍穏寺(龍ヶ谷)近くに「山枝庵(さんしあん)」と呼ばれる砦を築いた。隠居後は「自得軒(じとくけん)」(小杉の建康寺周辺)と呼ばれる屋敷に移っています。父子が龍穏寺を再建したのもこの頃。今でも墓塔が残されています。 文明18年(1486)6月、太田道真は、自得軒に道灌や文人たちを招いて歌会を開いています。その翌月、道灌は、主君の上杉定正に謀られ、糟屋館(神奈川県伊勢原市)で暗殺されました。 時に道灌55歳、文明18年(1486)7月26日のことであった。

 洞昌院は道灌が関東管領上杉憲実の弟・道悦和尚のために建てた寺と伝えられていて、道灌の胴塚のある墓所はこの洞昌院(伊勢原市上糟屋(かすや)町台久保)に有ります。 また、首塚は道灌橋のたもとの大慈寺(伊勢原市下糟屋町)左奥に、太田道灌の墓(首塚)があります。どちらも小田急線伊勢原駅から歩いて行ける距離です。

 江戸城はその後家康が入城し改修されて大きくなった。明治に入って天皇の住まいの皇居となって今に至っている。江戸城並びに江戸東京の町を開いた功績は大きい。


3.山吹の里
 都電荒川線「面影橋駅」(新宿区西早稲田3)のすぐ北に、神田川の上に架かった小橋が有ります。 その名を”面影橋”と呼ばれ、たもとには「山吹の里」の碑(豊島区高田1-18)が建っています。この辺から下流の江戸川橋までの一帯は昔「山吹の里」と呼ばれていた所です。江戸川橋の右岸(南側)が「新宿区山吹町」と今も呼ばれています。

  この地にはこんな逸話があります。(落語の中の逸話と同じ)で詳しく書くと、

     狩りをしているうちに豊島郡の高田という土地のあたりまで来たところ急に雨が降り出し、一軒の農家を見つけた。道灌は蓑を借りようと、農家に入り、声をかけると、出てきたのはまだ年端もいかぬ少女であった。貧しげな家屋に似合わず、どこか気品を感じさせる少女であったという。「急な雨にあってしまった。後で城の者に届けさせる故、蓑(=みの、合羽)を貸してもらえないだろうか?」道灌がそう言うと、少女はしばらく道灌をじっと見つめてから、すっと外へ出ていってしまった。蓑をとりにいったのであろう、そう考え、道灌がしばし待っていると、少女はまもなく戻ってきた。しかし、少女が手にしていたのは蓑ではなく、山吹の花一輪であった。雨のしずくに濡れた花は、りんとして美しかったが、見ると少女もずぶ濡れである。だまってそれを差し出す少女は、じっと道灌を見つめている。この少女は頭がおかしいのであろうか、花の意味がわからぬまま、道灌は蓑を貸してもらえぬことを怒り、雨の中を帰途についた。
     その夜、道灌は近臣にこのことを語った。すると、近臣の一人、中村重頼が進み出て次のような話をした。「そういえば、後拾遺集の中に醍醐天皇の皇子中務卿兼明親王が詠まれたものに、
     『七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)ひとつだになきぞかなしき』
    という歌がございます。その娘は、蓑ひとつなき貧しさを恥じたのでありましょうか。しかし、なぜそのような者がこの歌を...。」そういうと、重頼も考え込んでしまった。道灌は己の不明を恥じ、翌日少女の家に、使者を使わした。使者の手には蓑ひとつが携えられていた。しかしながら、使者がその家についてみると、すでに家の者はだれもなく、空き家になっていたという。道灌はこの日を境にして、歌道に精進するようになったという。

 太田道灌が武辺一徹だった若い頃のエピソードで、それを聞いた道灌は村娘さえ知る歌を知らなかった己の不勉強を深く恥じて、この後猛烈に学問に励んで当代一の知勇兼備の歌人になったと言われます。
 この噺の舞台「山吹の里」は豊島郡の高田(今の豊島区高田1)という土地ですが、この他にも”越生”や”相模”にもこちらが本家の舞台と名乗りを上げています。
志ん生は噺の中で「山吹の里」は今の牛込(おおざっぱに言って新宿区の東半分、元の牛込区)辺りだと言う。
写真;「太田道灌初歌道志図」江戸東京博物館所蔵。写真をクリックすると大きな写真になります。
 

4.二八あまりの賤の女
 
噺の中の『一軒のあばら家が有った。二八あまりの賤の女(しずのめ)が出てきた。』とありますが、二八あまりとは二掛ける八は十六で、16才あまりの少女という意味です。決して28才の女性ではありません。賤の女とはいやしい女という意味ですが、差別用語だとの指摘があり、単に娘がとか、少女がと、言うようにしている様です。

 前の説明でこの女性と道灌は出会いが無い様になっていますが、本当は道灌の亡くなるまで親交があった様です。彼女の名前を”紅皿(べにざら)”と言います。山吹の花の一件直後に太田道灌に呼び出され、歌の話や教養話でちょくちょくお城に参内しています。道灌が亡くなると天台寺門宗大聖院(たいせいいん、新宿区新宿6−21−11、西向天神社隣)に庵を建てて道灌の菩提を弔った。今は駐車場になった境内に紅皿供養の為の碑が「板碑(いたび)」として残っています。またこれが墓だとも言われています。
 いい話です。また紅皿との名前、素敵ですね。道灌に片想いだったのでしょうか、生涯を道灌の為に捧げた乙女(?)だったのです。


5.太田道灌の像
 日暮里駅前ロータリー、新宿中央公園、有楽町・東京国際フォーラム、及び川越市役所前など各所に有ります。
下記写真参照


6.原話
 

 『七重八重花は咲けども山吹の 実の一つだに無きぞ悲しき』この歌を聴いて、「何でも夕立が降ってきて、『雨具を借せ』という者があったら歌を読もう」といふうち、大夕立降りきたり、友達駆け込み「傘でも着る物でも、雨具を借してくれろ」といふゆゑ、八百屋の亭主、白瓜と丸漬けと茄子を並べて、『丸漬けや茄子白瓜ある中に 今一つだに無きぞ悲しき』、友人「この中に胡瓜がねへの」、亭主「ハイ、胡瓜(かっぱ)はござりませぬ」。
 「落噺笑富林(わらうはやし)」天保4年(1833)刊 林家正蔵作・北尾重政画 

2012.10.追記
 


 舞台の山吹の里と太田道灌の像を見て歩く
 

 山吹の里をまず訪問します。都電早稲田の終点のひとつ手前「面影橋」で降りる。前の神田川には、以外にも大きな鯉が何匹も泳いでいます。その上に架かる”面影橋”を渡ると、すぐ右の”オリジン電気”会社正面入り口の公衆電話ぐらいの敷地に有ります。
 山吹の里碑(豊島区高田1−18)はその会社の供養塔かと見間違えるほどです。その説明板により神田川南側一帯が山吹の里だと判り、そのなかの甘泉園公園(新宿区西早稲田3−5)を訪ねます。橋を戻って信号を渡ると左手、区立の公園でテニス場や子供の施設などがあります。その一部に江戸の名園を彷彿とさせる山吹の里の甘泉園が有ります。隣の”水稲荷神社”境内に三代目太田道灌駒繋松が有りました。
  神田川の護岸や甘泉園には山吹の花が今が盛りと咲いています。

 新宿中央公園太田道灌像を見に行きます。新宿副都心の都庁舎や大きなビル群を抜けた突き当たりが新宿中央公園(新宿区西新宿2−11)です。公園の北側に昭和53年(1978)4月山本豊市氏制作「久遠の像」が有ります。ここの像は等身大で、少女が扇の上に山吹の花を乗せて差し出しています。道灌と少女の間には距離があり、少女はひざまずいて居ますが、植裁が行き届かず、草の中に半分埋まっています。
  これも舞台の小道具か?

 日暮里駅前ロータリー太田道灌像を見に行きます。JR日暮里駅で降りると東側駅前の大きなロータリー(荒川区西日暮里2−19前)が見えます。その公園風になったロータリーの一角に噴水池と並んで建っています。大きな太田道灌騎馬像で、橋本活道氏制作の「回天一枝」と言い、平成元年12月作られました。題字は元都知事の鈴木俊一氏の筆によります。三体の道灌像の中では一番大きく雄大です。
 JRの線路(駅)を越えて右側、本行寺(俗称月見寺、荒川区西日暮里3丁目−1)に行きます。道灌は眺めがよいという地の利を利用してここに斥候台(せっこうだい)を築きました。物見塚として残っていたが、JR、当時の国鉄が敷設された時紛失、現在は寛延3年(1750)に建てられた「道灌丘之碑」(区の文化財)が残るのみです。
 話はそれて、隣の経王寺(荒川区西日暮里3丁目−2)に寄り道します。ここは落語「長屋の花見」で紹介した、彰義隊と上野戦争で戦った所です。当寺に彰義隊をかくまった為に官軍から発砲を受けて、山門に銃弾の穴が多数空いてしまいました。その穴が今でも残っています。見る人は指でそこを触る為、そこだけ綺麗になっています。

 有楽町、東京国際フォーラム太田道灌像を見に行きます。JR有楽町駅を降りると、旧都庁舎跡に建てられたイベントホールが東京国際フォーラム(千代田区丸の内3−5)です。ガラス張りの大きな空間を持った建物がメインです。その中の一角に、昭和33年朝倉文夫氏制作の像が立っています。この道灌像は過日この地にあった都庁舎の正面に石組みの大きな台座の上に、皇居に向かって立っていました。新しいこの建物が出来ると、元の位置の近くに、やはり皇居を向いて立っています。今は建物の中ですから、村雨に合う事もなく蓑の心配もいらない、良い環境になりました。


地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。   

写真

それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。

山吹の花
八重と一重があって、一重の山吹は黒い実がなるが八重には実が付きません。話の山吹の花は左図の八重でしょう。

”山吹の 花咲く里に 成りぬれば
        ここにもいでと おもほゆるかな”  西行

 

新宿中央公園 太田道灌の像
「久遠の像」といい、昭和53年(1978)4月山本豊市氏制作になるものです。 ここの像は等身大で、少女が扇の上に山吹の花を乗せて差し出しています。道灌と少女の間には距離があり、少女はひざまずいて居ます。
日暮里駅前ロータリー 太田道灌の像
JR日暮里駅前広場(荒川区西日暮里2−19前)に建つ太田道灌の像「回天一枝」と題され、平成元年12月橋本活道氏制作の像です。「回天一枝」は、作者の橋本活道氏と鈴木俊一元東京都知事の命名によるものです。噴水とこの像は日暮里駅前のシンボルです。
有楽町、東京国際フォーラム 太田道灌の像
昭和33年旧都庁舎(有楽町)の正面に朝倉文夫氏の制作で東京都のシンボルとして建てられた。都庁舎が新宿に移って、今の東京フォーラムが建設されると、ガラス張りの大きな建物の中に移動して鎮座した。初期と同じように皇居(江戸城)を見据える方向に建っている。
道灌丘の碑
本行寺(俗称月見寺、荒川区西日暮里3丁目−1)境内に、武蔵の国を知りつくしていた太田道灌は、眺めがよいという地の利を利用してここに斥候台(せっこうだい)を築いています。物見塚として残っていたそうですが、現在は寛延3年(1750)に建てられた「道灌丘之碑」が残るのみです。
山吹の里碑(豊島区高田1−18)と太田道灌駒繋松、
江戸の名園を彷彿とさせる山吹の里の甘泉園
各地にある山吹の里の中でも、ここがやはり本家(?)でしょう。
紅皿の碑(天台寺門宗大聖院(たいせいいん、新宿区新宿6−21−11、西向天神社隣)駐車場内)
紅皿(べにざら)の墓だと言われる、板碑。高さ107cm、幅54cm、厚さ6cm欠損が激しく細目は分からない。道灌が鷹狩りの折りに雨具の所望に対し、山吹の花を差し出して断った、のはあまりにも有名。これが縁で道灌と歌の友となり、道灌死後彼女は尼となって、大久保に庵を建てて菩提を弔った。

                                                        2002年4月記

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