落語「鰍沢」の舞台を歩く
   

 

 六代目三遊亭円生の噺、「鰍沢」(かじかざわ)によると。
 

 身延にお詣りする順番は決まっていたもので、青柳の昌福寺(しょうふくじ)へお詣りをして、それから小室山で毒消しの護符を受け、法論石(ほうろんせき)へお詣りをして、いったん鰍沢へ出て、ご本山へお詣りをするという順路です。
 雪のヒドい時分です。雪下ろしの三度笠、回しガッパに道中差し、振り分けの荷物、足腰は厳重なこしらえで旅慣れした形です。法論石を出たのが今の時間で三時を回っていた。鰍沢に向かったが、雪の中、行けども行けども人家はなかった。凍え死にするかと思った時に、遠くに人家の灯りが見えた。草葺き屋根の、軒が傾むいたあばら家からたき火の灯りが漏れているのであろう。

 家の女に鰍沢に出る道を聞いたが、分からないと言う。一晩の宿を頼んだが、食事も出せないし、布団もないが雪をしのぐだけなら良いという。上総戸を開けて入ると広い土間と奥の壁には獣の皮が二枚掛けてあり、そこに鉄砲が掛けてあって猟師の家だと分かった。奥に上がって囲炉裏のたき火にあたれと言う。煙の中から女主を見ると二十六・七、継ぎハギだらけでは有ったが柔らか物で、色白で鼻筋の通った目元に少し剣があるが、口元はしまって輪郭の良い顔立ち。どうして山奥にこんないい女がいるのだろうと思った。だが、アゴの下から喉にかけてヒドい突き傷があった。
 聞くと、江戸は浅草の方にいたと言う。「間違ったらおわびをしますが、吉原の熊蔵丸屋(くまぞうまるや)の月の戸(と)(”月の兎”とも)花魁じゃござんせんか」、「おまはんだれ」、「花魁の座敷に登がったことがある者です。お酉様の晩に登がって世話になったが、改めてうかがうと『心中をした』と聞きましたが・・・」、「心中はしたんですがやりそこなったんです。品川溜めへ下げられて女太夫になるところを危うく男と逃げて、ここに隠れているんです」。連れ合いは本町の生薬屋の息子で膏薬を練る事が出来るので、ここで熊の膏薬をこしらえて、町に売り歩いている。旅人は小銭の用意がなかったので、胴巻きから25両の包みの封を切って、心付けだと半紙に2両包んで差し出した。
 ここらの地酒は匂いがキツいので卵酒にすれば飲みやすいと言って、作ってくれた。身体の外と中から暖ったまり、下戸で疲れが出たので、隣の三畳に移り振り分け荷物と道中差しを枕元において眠りに落ちた。

 旅人に飲ませてしまったので、酒を都合しに、お熊が雪の中に出たところへ、入れ違いに亭主の熊の膏薬売りの伝三郎が帰って来た。外は寒かったので残っていた卵酒を飲むと、にわかに苦しみ出した。帰ってきたお熊は「なんてことを。身延参りのカモを一羽泊めたんだ。胴巻きに100両有りそうだから、だからおまえが帰ってきてひと仕事するまで逃げられないように卵酒にしびれ薬を仕込んだんじゃないか」。
 これを聞いた旅人は驚いた。しびれた体にむち打って抜けた壁から逃げ出し、落ちた紙入れから、小室山で授かった毒消しの護符を雪で飲み込むと、身体が効いてきた。人間欲が出て、戻らなくても良いものを部屋に戻り、道中差しと振り分け荷物を取ると一目散。
 物音に気づいたお熊は、カタキだからと鉄砲を持ってぶち殺すからと追いかけた。

 もと来た道を戻ればいいものを、村があるだろうと懸命に雪を蹴立てて逃げる旅人が行き着いたのは、そそり立つ絶壁。眼下には、東海道は岩淵に流す鰍沢(富士川)の流れ、4〜5日降り続いた雪で水勢が増したものか、ガラガラと流れる急流、切りそいだような崖、ここが名代の釜が淵。前は崖、後ろはお熊、合掌するのみであった。そこに雪崩が起こって、川底に投げ出され、いかだの上に落ちると同時に道中差しが鞘走って、つなぎ止めてあった藤蔓を切った。いかだは流れだし、岩にぶつかった拍子にバラバラになった。一本の材木につかまって「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」。崖の上から、片ひざついたお熊が、流れてくる旅人の胸元に十分狙いを込めている。「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」、お題目を唱えていると、銃声とともに、弾は、旅人のまげをかすめて後ろの岩に「カチィーン」。
 「ああ、この大難を逃れたのも御利益。お材木(お題目)で助かった」。

 「木曾路の山川」三枚続き 広重画
 木曾川の山川の雪景色ですが、鰍沢も似たような雰囲気であったのでしょう。 2011.8.追加


 「鰍沢」は、幕末から明治期に活躍した名人三遊亭円朝がまだ二十代の文久年間(1861〜64)、三題ばなしの会で発表したと伝えられる。その時のお題は「鉄砲」「卵酒」「毒消しの護符」、または「小室山の護符」「卵酒」「熊の膏薬(くまのこうやく)」という。(その他の説もあります)
 以来、歴代の名人がさまざまな工夫を凝らし、口演してきた。登場人物の描写が難しく、今は亡き劇作家、榎本滋民さんも「話芸家の博士論文」と言ったという。志ん生、馬生、円生、彦六の名演が残る。
 書いてる私も時間を要しました。もっと早い時期に書きたかったのですが、大作過ぎて手が出なかった。


1.鰍沢
鰍沢町(かじかざわちょう);山梨県・逆三角形の甲府盆地の南角下にあり甲府への南側玄関。富士川、球磨川(熊本県)、最上川(山形県)の日本三大急流のひとつ。富士川に面して、江戸時代には富士川舟運の拠点であった鰍沢河岸が設置され栄える。近代には鉄道や道路など交通機関の発達に伴い商業圏の拠点としての役割は低下し、近年は過疎化が進行している。大法師公園(鰍沢字大法師2175)の桜は日本桜100選に選ばれている。平成22年(2010)3月8日に北隣の増穂町と合併し、南巨摩郡富士川町(ふじかわちょう)となった。


 冨嶽三十六景「甲州石班澤(こうしゅうかじかざわ)」北斎画  石班澤は鰍沢町のことで笛吹川と釜無川が合流して富士川となる所にある。この急流の先の富士山は実際見えないが、輪郭線で淡く描かれている。
鰍沢南方にあった禹之瀬と呼ばれる渓谷付近をイメージしたと思われる。  山梨県立博物館説明。

富士川(ふじがわ);今から400年前、徳川家康の命を受けた京都の角倉了以(すみのくら_りょうい)によって慶長12年(1607)富士川が開削され、鰍沢から駿河の岩淵(いわぶち。静岡県富士市岩淵)まで開通しました。信州往還(信州に向かう甲州街道)と駿州往還(すんしゅうおうかん。富士川街道=みのぶ道。鰍沢-岩淵)の交わる地点に位置していた鰍沢は、この開削により富士川舟運の要衝地、鰍沢河岸として流通の拠点として大きく発展していきました。
 当時の主な積み荷は「下げ米、上げ塩」と呼ばれました。下り荷は甲州や信州から幕府への「年貢米」、上り荷は「塩」と海産物が中心。塩は鰍沢で陸揚げされ、桔梗俵(底を桔梗の花ツボミの形状に五角形につくった俵)に詰め替えられ「鰍沢塩」として甲州一円はもとより、信州まで運ばれました。
 当時、富士川を行き交った高瀬舟(円生は底の平らなペカ船と言っている)は、鰍沢から岩淵までの約72kmを半日で下り、帰りは船に縄をつけて船頭たちが引っ張りながら富士川を4〜5日かけて上ったそうです。 約7百年前に日蓮上人が開いた身延山へも舟運が便利で、鰍沢は宿場町としても栄えました。明治期には生活物資の出入りはもとより、船を利用しての身延参詣の泊り客や東海道線岩淵(富士川)から船を利用する客で大変にぎわいました。
 繁栄を極めた富士川舟運でしたが、明治44年の中央本線の開通、および身延線の開通により物資の輸送が鉄道へと移り、300年の歴史を閉じました。
 富士川町役場ホームページ http://www.town.fujikawa.yamanashi.jp/kanko/meisho/fujikawa.html 
より訂正要約。

右図;広重画「富士川上流の雪景」 2012.4.30追加

あわびの煮貝;江戸時代、駿河で採れたあわびを醤油煮にして、馬の背に乗せ運んだところ、甲府へ着く頃には味がよく染み、最高においしいあわびに仕上がったとされる。以来現在まで、あわびの煮貝は海のない「山梨」の名産となった。

富士見酒;江戸時代、清酒は京阪神が酒の主産地で、銘酒が造られた。江戸の地では船で関西から来るこの酒を富士見酒と言って珍重した。樽に詰められ富士山を見ながら江戸に着く頃には、杉樽の香りが酒に移り、適度な揺れで、なめらかな酒になって旨さが倍増されたという酒。関西の呑兵衛はわざわざ、富士の沖まで船に樽を積んで、ここでUターンして戻ってから売りに出した。

釜が淵(かまがふち);旅人が富士川の急流に落ちたところ。(速記本の)新版では蟹谷淵に改められている。身延線の甲斐岩間駅から富士川に架かる月見橋を越えて右折し、国道52号を500mほど行くと蟹谷橋があります。その蟹谷橋から上流一帯が蟹谷淵=釜ヶ淵。釜が淵は富士川の本流が狭くなっていますから、流れは普段でも増します。ここは富士川でも一番の急流で、崖がきつく道が開けず、その前後で対岸に渡っていた。その渡しを両越(もろこし)の渡しと言った。

■両越(もろこし)の渡し箱原(はこばら)と西嶋(にしじま)の間にある砥坂(とさか=戸坂)は、みのぶみちの一番の難所(なんしょ)でした。富士川の岸が険しい崖(がけ)で、川沿いに進むことができませんでした。 そのため、鰍沢から来ると『砥坂(とさか=戸坂)の渡し』でいったん向こう岸の羽鹿島(はじかじま=鰍沢町)へ渡り、楠甫(くすほ=市川三郷町、旧六郷町)の西側を川沿いに南下し、富士川が東に流れを変えてまもなくのあたりで再び対岸から西嶋へ渡りました。こちらは『岩崎(やさき)の渡し』と呼ばれ、現在の月見橋から100mほど下流の地点でした。短い区間のうちに2度富士川を渡ることから”両越の渡し”と呼ばれました。起源は元亀年間(1570〜73)にまで遡(さかのぼ)るといわれています。
  山梨県立博物館説明、ホームページより。

岩淵(いわぶち);江戸時代の東海道吉原宿(富士市)と蒲原(蒲原町)の間宿。東海道は富士川の西岸で、町名も富士川町、JRも昭和45年(1970)岩淵から富士川と駅名も変えている。この先4kmほどで駿河湾に富士川は流れ込みます。平成20年(2008)11月1日、富士市に編入合併し、富士川町は消滅し、山梨県南巨摩郡富士川町にその名を譲った。

2.身延山久遠寺(くおんじ)

 冨嶽三十六景「身延川裏不二」北斎画  「身延川」は、これまで富士川を指すと考えられてきた。しかし、『甲斐国志』によると、身延川は身延山中に源流を持ち、日蓮宗の総本山久遠寺の周辺を流れ、波木井川に合流する川を指す。久遠寺門前の身延道沿道の様子と考えられる。 山梨県立博物館説明。

身延山久遠寺;山梨県南巨摩郡身延町身延3567。鎌倉時代に日蓮聖人によって開かれたお寺です。日蓮宗の総本山として、門徒の無二の帰依処として知られています。
 かつて身延山は甲斐の国の波木井(はぎい)の郷内にあり、領主の南部実長公の領地でした。三度幕府をいさめたのち、一代をしめくくるため、日蓮聖人は山林に身をかくせとの故事により、信者である南部実長公の支援のもと、文永11年(1274)5月17日に入山しました。同年6月17日、久遠寺を建立。この日が身延山開闢(かいびゃく)の日となりました。以来、日蓮聖人はこの地でひたすらに法華経の読誦と門弟たちの教育に終始し、身延山を生涯の住処としました。弘安5年(1282)の9月8日、病身を養うためと両親の墓参のために、ひとまず山を下り常陸の国(茨城県)へと向いました。しかしその途中、武蔵の国池上(東京都大田区池上。池上本門寺)にて61歳の生涯を閉じました。聖人のご遺言「いづくにて死に候とも墓をば身延山に建てさせ給へ。」により、遺骨は身延山に奉ぜられて心霊とともに祀られました。お題目は「南無妙法蓮華経」。

 身延は人里離れた深山であって衣食の調達は極めて不便であり、鬱蒼(うっそう)とした大木にかこまれた猫の額ほどの地に造られた庵室は湿気が多く、日照時間もみじかく、夏には大雨・長雨で交通がとだえ、冬ともなれば深山は特に雪が深く人の訪れもなくなってしまう。その様な過酷な地であった。


 景勝奇覧「甲州身延川」北斎画  夜の身延川でイワナ漁に精出す漁師達

 高祖御一代略図 文永十一(1274)五月廿八日「小室山法論石」 国芳画

法論石(ほうろんせき);懸腰寺に安置。日蓮聖人と土地の善知法印との間で法論が起きた際、善知は石を空中に浮遊させた。しかし、日蓮はその石を空中に留め、善知はその石をどうする事も出来なかった、という故事に基づく。

小室山の毒消しの護符;山梨県南巨摩郡富士川町小室3063、小室山妙法寺で出す毒消しの護符。
 持統天皇の頃西暦688年、東三十三ヶ国の山伏の棟梁(つかさ)が建立したお寺。時は下って、文永11年(1274)日蓮が身延に庵を建てて布教に力を入れ始めた。5月妙法寺の住職善智法印と上記のような問答になり負けて弟子になった。しかし、内心収まらない法印は秋に身延を訪れ、日蓮に饅頭を土産として差し出した。その訳を悟った日蓮は饅頭を庭先の犬に食べさせると、その場で犬は死んでしまった。犬には罪がないと、護符と水を飲ませると生き返った。法印はその時、心底帰依して3年間日蓮の庵に寝泊まりし全ての世話をした。法印は日伝と名を変え、その時に彫った日蓮の御影像と毒消しの妙法を授かって妙法寺に戻り、61歳まで生きた。その毒消しの妙薬が現在まで伝承されています。
 小室山妙法寺は武田信玄から加護を受け、代々徳川将軍からも庇護されていました。しかし、現在檀家が無く経営的には非常に大変だという。

懸腰寺(けんようじ)・法論石(ほうろんせき);妙法寺の道を挟んで南隣、富士川町小室719、妙石山懸腰寺床下にはみ出して法論石は有ります。 仏像が祭壇に飾られていますが、主役はこの法論石なのでしょう。

青柳の昌福寺(しょうふくじ);山梨県南巨摩郡増穂町青柳483。
 青柳の地で疫病が流行り、たまたま来ていた日蓮がこれを鎮めた。村人が喜んで寺を造り、住職に上記日伝上人の弟、日全上人が就いた。喜んだ兄が寿命山という山号と自刻の日蓮像を贈った。寺号は日全が山伏をしている時の名をとった。
 上記三寺とも、身延山久遠寺の末社になっていて、その保護と連帯の中にありましたが、現在は各お寺とも独立した寺院です。

 

3.みのぶ道北コース
 甲府盆地に入るルートは南から富士川沿いのみのぶ道と、富士山の東から入る旧鎌倉往還がありました。東から入る甲州街道ですが、それまでは笹子峠は獣道のようで実用的ではありませんでした。慶長年間(1596-)から元和年間(-1623)にかけて整備され、その後は主に武士が利用し3日間で江戸まで出られるようになった。享保9年(1724)になると民間人も頻繁に行き来し、街道として完全に実用化され、鰍沢町を通らずに飛躍的に甲州は産業、文化が発展した。

 この噺では昌福寺→妙法寺→法論石を回って鰍沢から身延山に参拝する事になっています。南の岩淵から富士川を遡って直接身延詣りするのが南コースです。この噺のように北回りのコースは甲州街道・笹子峠が開通し、一般人が自由にそこを行き来できるようになって、可能となったコースです。旅人は北回りコースで冬の身延に来たのでしょう。南コースを利用したのは落語「笠と赤い風車」です。

 伊能忠敬測量作図の「富士川地図」部分。右側が南で岩淵に下る、左、甲府盆地の入口。当たり前ですが現在の町村名とピタリと付合します。(山梨の地名は難読で有名です。ルビを振ります)
 @青柳村・昌福寺、A鰍沢村・小室山妙法寺・懸腰寺法論石、南に下って、B箱原村で対岸の羽鹿島(はじかじま)に渡り、ここの渡しを「砥坂(とさか=戸坂)の渡し」と言います。C楠甫(くすほ)村から「岩崎(やさき)の渡し」で対岸からD西島に戻ります。この二つの渡しを両越(もろこし)の渡しと言います。左岸に渡るのは、右岸は道も付けられない絶壁で、ここが最大の難所・釜ヶ淵です。下ってE切石村で通常一泊。F八日市場村までは非常に危険な、日下(ひさが)り道という難所です。G下山村の手前早川が合流する地点は「早川の横渡し」といって、スゴい急流なので渡船が流される危険があり、舳先に縄を繋ぎ両岸から引っ張った。船は横向きのまま対岸に着いた。H身延山久遠寺、I身延町、ここで一息、一泊です。

 

4.言葉
図1 図2 図3
図1・2・東海道五十三次の内「四日市」部分 広重画   図3・木曾街道「番場」部分 広重画

三度笠(さんどがさ);東海道を飛脚が月に三度往復し、その時被っていた笠。それを流用して旅に使った。図2・3

回しガッパ;合羽は寒さや雨雪を防ぐ為の道中着。ぐるりと身体に巻き付けて着るのでこの名がある。図2・3の旅人が着けている。

道中差し(どうちゅうざし);道中での護身用の刀。武士以外でも着用でき、大刀より一回り短い刀。図1。

振り分けの荷物;二つの小さな荷物をヒモで結び肩にかけて携帯するもの。図1。

足腰は厳重なこしらえ;足には脚絆(きゃはん)を着け、腰回りは裁着袴(たつつけはかま)を着る。裁着袴は腰回りはゆったりと温かく、膝から下はピッタリして動きやすい。図3。現代では建設現場でよく見かけるニッカボッカや白バイ隊員のズボンにその姿を残しています。

上総戸(かずさど);千葉県・山武(さんぶ)杉で作られた戸板。杉板だけで作られた戸または雨戸。杉戸。上総杉は欄間(らんま)などの高級建具の材料に用いられた。

吉原の花魁(おいらん);吉原は浅草の裏、現在の台東区千束の一部。幕府公認の遊廓があって、三千人以上の遊女(花魁)がいた。吉原の熊蔵丸屋の見世にいた”月の戸”という名前の花魁がいた。心中騒動をしでかした花魁は見せしめのため吉原にいられず、近隣の岡場所や宿(しゅく)に売り飛ばされてしまった。

柔らか物;絹で作られた着物。庶民は普段木綿物を着ていたが、武家や大店の奥様、吉原の遊女などは絹製の着物を着ていた。

お酉様(おとりさま);11月酉(とり)の日に開かれ、縁起物を飾った熊手を売り出される。二の酉まであるのが普通だが、三の酉まである年があり、この年は火災が多いと言われる。東京では鷲神社(おおとりじんじゃ。台東区千束3−18)が有名で、吉原の隣なのでこの日は混み合った。右写真

品川溜め;溜(た)めは江戸幕府が重病および15歳以下の犯罪人にとった囚禁の措置で、それを溜預け、と言った。
 非人頭車善七の管理する吉原遊郭南角外の浅草溜め、松右衛門の管理する品川溜め(現在の青物横丁駅北側ガード下)の江戸には二ヶ所があった。非人小屋の溜に預け、平癒・成長を待って刑を執行した。非人預とも。お熊は喉の治療のため、溜へ下げられたが、そこからうまく逃げたのであろう。
 品川は東海道最初の宿場、お熊は品川溜に下げられた。遊廓や溜を脱出して捕まったらその制裁は大変だったので、お熊は二人で鰍沢奥の山中に隠れ住んでいた。

熊の膏薬(こうやく);その膏薬は熊の脂を基材とし、色々な薬種を練りこみ、切傷・腫れ物に大変効果があり、塗れば衣服に付かずかぶれもしない妙薬という。熊の脂は熊白といい塗れば顔の艶を良くし、傷をよくする効果が有ったという。基材で馬の脂は筑波山の名物ガマの脂(あぶら)になっています。
 大道で切り傷やあかぎれの膏薬を売った香具師(やし)は、熊の皮の袖無しを着て、薬は熊の脂肪から製造したと称した。その売り手の名前が伝三郎といい良く知られていた。三遊亭円朝が登場人物の名前を“お熊”と “伝三郎”としたのは当時の人達には説明する必要のないことだった。江戸時代、享保・文政・天保年間などに多く出現した。
 右図:「熊の膏薬売り」 江戸商売図絵 三谷一馬画。
 熊の膏薬を貝殻に入れて売りました。売り手は、熊の伝三郎が有名で、頭にかぶっているのが熊の剥製です。
熊胆(くまのい)とは別物です。胆汁を含んだままの熊の胆嚢(たんのう)を干した物。味苦く、腹痛・気付・強壮用として漢方で珍重される。

2両;毎回出てくる金銭の単位。1両を8万円とすると16万円。吉原では普通の遊女で有れば2分(1/2両)以下で指名できた。4倍以上の心付けを置いた事になる。

卵酒(たまござけ);熱くした日本酒を砂糖・生卵を撹拌した中に入れ、一体化した状態で飲む。体を温め滋養が付く。戦後まで卵は貴重品で高価であり、それで作る卵酒は贅沢品だったので、風邪などで体調を壊した時でないと飲めなかった。私の子供時代、風邪の時のバナナと同じか。

(さや)走る;日本刀は鞘で刀身が守られていますが、その鞘が何かの弾みで抜けて刀身がむき出しになる事。裸の刀身で筏をつなぎ止めてあった藤蔓を切断、筏が流れ出してしまった。


 


 舞台の鰍沢から岩淵を歩く

 
 雪の鰍沢だったら素敵な写真が撮れるのに、と思いはあるものの、晴れていて欲しい。これが偽らざる気持ちで出掛けました。交通情報を聞いていると以外と交通量は少なく、渋滞もなく甲府まで行けそうですが、雪の情報が入っていて関東周辺ではチエーンの使用を勧めています。晴れていたので、うれしく出発してしまいましたが、チエーンは持参していません。ん〜〜、どうしよう。考えてもしょうがありません。動けなければ一泊するのみ。
 途中の朝食には山梨の今人気、ご当地B級グルメで鳥モツ煮です。モツを甘辛く煮込んだ、東京流に言えばモツのやわらか甘露煮風です。旨かったですよ。朝から良く入ったと自分自身思います。

 第一の目的地青柳の昌福寺。迷わずに一発で来られました。それもそのはず、ご当地では大きな名刹で表通りの国道52号線に面していますし、大きな石柱と看板が出ています。右に入ると正面に山門、くぐると大きな本堂、その右に庫裡と続きますが、また、庫裡の大きい事。内部の木材も太くて、現在では入手困難な部材です。早朝にもかかわらず丁寧な応対と親切なご説明をいただき感謝。日蓮宗のお寺さんです。

 これからは国道52号線(富士川街道=みのぶ道)を使って南下していきます。

 昌福寺を出た後、南に、警察署の先の小さな川を渡り、今、52号線を使うと言っておきながら、406号線を右に、山に入って行きます。一本道で妙法寺に入る交差点に出ます。左に行けば懸腰寺、右に曲がれば妙法寺の看板、迷わず右に曲がって道なりに行くと、道のど真ん中に妙法寺の立派な山門があります。昔は自動車など無かったので、その内は境内というか寺領だったのでしょう。門前町を形成していますが、お土産屋さんは何処にもなく、皆農家なのでしょう。突き当たり妙法寺(右。クリックすると大きくなります。Googleより)の階段を上がったところが山門と、その奥に本堂があります。どちらも大きな堂々とした建物です。右側の第二本堂と思えるような大きな庫裡の呼び鈴を押します。
 この噺の中心的な品物、そうです、”毒消しの護符”を求めるためです。奥様が出てきて上がれと言います。古くて大きな庫裡に入ると、御信徒でしょうか数人の先客が菓子を前に茶飲み話の最中に迎えてくれました。写真の護符を頂いて、帰ろうとすると、お茶とミカンとストーブの火をサービスされたのです。外は雪、いえ、寒い冬の空、身体の外からと中からと暖まって疲れが飛び、話の輪に加わって、話題が大きくなっていきます。妙法寺の昔と今の事、土地の事など、親切丁寧に教えていただき、ここでも感謝。帰り際に干し柿のお土産まで頂き心の温かさに合掌。干し柿の何個かは帰りの渋滞の中、東名高速道路でいただくことになります。
 毒消しの護符は効いたのか。それを聞くのは野暮というものです。いえ、未だ使っていないので分かりませんが、お寺さんでは住職が念じながら造ったので、ガン以外は効くと言っていました。毒消しは、翼が生えたように折られた紙ごと水と一緒に飲むのですが、封を開いて中身を見ても、真っ黒なシャープペンの折れた芯のような物(バチ当たりが)が見えるだけで、味も何も分かりません。飲んだら毒と共に、私の腹黒は朝起きたら真っ白になっているかも知れません。

 毒消しの効能は分かりましたが、一人になったお熊さんはこれからどの様な人生を過ごすのでしょうか。また、江戸の旅人は一本の丸太で上手く着岸して、江戸に帰り着けたのでしょうか。考え始めると夜も眠れなくなります。

 先程の交差点から懸腰寺に向かいます。細い道で対向車があったらと思う以上に、狭くて車の両側を生け垣がこすりますが、案内板もあってここも迷わず到着。小さな山門と小さな本堂というか庵のたたずまい。工事現場にあるようなトイレが一つ、他には何もありません。管理をする人も居ません。床下を覗くと大石が一つ、裸で鎮座しています。上部はお堂の中に顔を出しています。この数トンの石が法論石で、空中を漂ったのかと思うと驚異です。ホント、話を真に受ける私です。
 懸腰寺を後に山を下り始めると、正面、山の中腹に先程の妙法寺が望めます。静かな良いところです。

 52号線に戻って、鰍沢の町中を抜けるところに、富士川に架かる富士橋があります。土手に上がってみると、川の本流との間に広がる、広い畑や野球場、そこが江戸時代栄えた鰍沢河岸です。今は、当時の面影も何もありませんが、その広い敷地・河岸が流通の拠点だった大きさ、勢いを感じさせます。

 富士川を下ります。昔、箱原村で対岸の羽鹿島(はじかじま)に渡る、ここの渡しを「砥坂(とさか=戸坂)の渡し」と言い、現在橋げただけの新しいスマートな鹿島橋が架かっています。渡った後、楠甫(くすほ)村から「岩崎(やさき)の渡し」で対岸から西島に戻ります。現在は月見橋が架かっています。この二つの渡しを両越(もろこし)の渡しと言いました。左岸に渡るのは、右岸は道も通せない絶壁で、ここが最大の難所・釜ヶ淵です。現在も道を通すには大変な工事だったのでしょうね。半トンネル状の洞門が連なっています。
 月見橋からさかのぼると、現在はバイパスでトンネルを抜けていきますがその入口に蟹谷橋があります。ここが噺の釜ヶ淵です(右写真)。トンネルも洞門もない時代、人も入らないおっそろしくへんぴで危険なところだったのでしょう。ここに雪が乗ると富士川に真っ逆様です。

 52号線を下ります。石切の町を抜けると、釜ヶ淵と同じような洞門が現れます。そうなんです、ここも当時難所中の難所だった日下(ひさが)り道という所です。
 その先、早川が右から流れてきて、富士川に合流します。ここの渡しも大変だったと言われ、早川の渡しがあったところですが、現在は長いスマートな橋が架かっていて、当時の苦労話を全く感じさせません。
 その先、下山町から52号線に別れを告げて右に805号線を入り、山の中をジグザグに走り抜けます。抜けたところが身延山久遠寺の駐車場。

 駐車場から境内の建物群を見ながら、歴史と日蓮上人の足跡を追います。奥のケーブルカー乗り場で往復の乗車券を買って頂上に。登り徒歩3時間を7分で結んでいます。帰りも7分で帰りたいですよね。
 頂上には奥社があって、日蓮はよくここに登って、故郷の安房(天津小湊町・誕生寺)に向かって父母に両手を会わせたと言います。見晴らしが良く富士山や麓の街並み、富士川と身延川が箱庭のように見る事が出来ます。反対方向からは甲府盆地の街並みや南アルプス、富士山の次に高い北岳が望めます。

 また、ここから七面山が望めます。七面山とは、毎日毎日、雨が降ろうが雪が降ろうが、槍が降ろうが・・・、いえ、ヤリだけは降りませんでしたが、法話を聞きに来る少女がいた。村人や信者の中で普段見た事がないと噂が立った。建治3年9月これを聞いた日蓮が、少女の頭に霊水をかけると龍が現れ、「七面山に住む龍で、法華経を修め、広める方々を末代まで守護する」と告げ、七面山に飛び去った。後日、七面山に登り、お堂を建てその龍を祀った。以後、第二の霊地になった。

 高祖御一代略図 建治3年9月「身延山七面神示現」 国芳画

 富士川を下って、最後の訪問先は、岩淵。現在はごく普通の街道に面した街です。JRの駅も富士川、隣は当然富士川の河口です。ここからの富士の眺めは素晴らしく、この贅沢な富士を毎日見て暮らしている住民はさぞ豊かさを感じているでしょうね。

 山梨県側から見る富士と、静岡県側から見る富士山は、どちらが美しいか?永い間の永遠のテーマであった。しかし、実は江戸時代にすでに決着がついていたのです。狂歌師・大田蜀山人の歌に『娘子(むすめご)の スソをめくれば 富士の山 甲斐(かい)で見るより 駿河(するが)一番』とあります。

地図

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写真

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鰍沢町(山梨県南巨摩郡富士川町鰍沢)
 北隣の増穂町と合併して、今この由緒有る名前はないのが寂しい。
富士川船運の拠点、鰍沢河岸がここで、現在は畑が作られている。前方に見える富士橋
を中心に船着き場や倉庫、集積場などがあった跡です。 

砥坂の渡し跡(鹿島橋)
 箱原村で対岸の羽鹿島(はじかじま)に渡り、ここの渡しを「砥坂(とさか=戸坂)の渡し」と言います。下記の岩崎の渡しまでは対岸を迂回しました。

岩崎(やさき)の渡し跡(月見橋)
 楠甫(くすほ)村から「岩崎(やさき)の渡し」で対岸から西島に戻ります。
上記の砥坂の渡しと合わせて、両越(もろこし)の渡しと言います。

釜ヶ淵(鹿島橋と月見橋の間)
 写真の背面に月見橋があり、過去には富士川の左岸(写真では右側)を道は通っていました。富士川前方の山肌が迫っていて道が通せず迂回したのです。現在は半トンネル状の”洞門”(どうもん。窓が付いた列車状の防御壁)の連続で道を通しています。
下記、蟹谷橋際から撮っています。

蟹谷橋(旧・釜ヶ淵)
 今、立っている、バスストップがあるのが旧道で、右に曲がって新道に合流します。新道は前方をT字形の水平部で、左はトンネルで一気に抜けていきます。旧道と新道に架かった二つの橋からなっています。

早川の渡し(早川が富士川に合流する点)
 川原の広い早川がここで富士川と合流します。水量が少ないのでしょうか、富士川の本流は対岸の岩陰を流れています。

富士川(身延山からの眺望)
 ロープウエー山頂から眺める富士川の様子。前方が駿河湾方向です。川幅広く蛇行して進んでいるのが良く分かります。下の町は身延町、52号線が走っています。

身延山久遠寺(山梨県南巨摩郡身延町身延 3567)
 身延山の中心、久遠寺本堂。昭和60年5月竣工、総面積970坪、間口17間半、奥行き28間、と堂々たる規模と格調を備えた建物です。

七面山(身延山の西側)
 山梨県南巨摩郡にあり、山頂1989mの霊山。写真左上の逆三角形のガレ場が有るところ。日蓮の高弟である日朗上人が開いたといわれる。山頂近くの標高1700m付近には敬慎院があり、宿坊に宿泊することができる。敬慎院から山頂付近にかけては富士山の好展望地として知られる。

小室山妙法寺(山梨県南巨摩郡増穂町小室3063)
 朱鳥7年(693)頃に開創され、その後真言宗山伏東33ヵ国の棟梁を経て、日蓮上人の直創寺院(身延山の子院)になりました。間口23m、奥行7m、高さ25mの見事な山門は山梨県下最大で、その楼上には16羅漢が安置してあります。また6月から7月にかけて境内一面に咲くアジサイが有名で
、別名アジサイ寺。毒消しの妙薬が噺の鍵。

懸腰寺法論石(増穂町小室 719。妙法寺の406道を挟んで南隣)
 こんなに大きな法論石ですから、お堂の中に安置することが出来ず、地面に置かれた状態で、この上にお寺が建てられた。こんな何トンもあるような大岩を空中に浮遊させた法力もすごいが、それを留めた法力もまたスゴい。また、それが現在まで保存されているのもスゴい。

岩淵(富士川最下流の街)
 岩淵は名前を変えて富士川町と呼ばれていましたので、JR駅名も富士川です。静岡県庵原郡富士川町岩渕が静岡県富士市岩淵と代わっています。この町からの富士山が素晴らしい。 52号線の街並みと正面の富士山。

                                                 2011年2月記

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