六代目三遊亭円生の噺、「鰍沢」(かじかざわ)によると。
「木曾路の山川」三枚続き 広重画
「鰍沢」は、幕末から明治期に活躍した名人三遊亭円朝がまだ二十代の文久年間(1861〜64)、三題ばなしの会で発表したと伝えられる。その時のお題は「鉄砲」「卵酒」「毒消しの護符」、または「小室山の護符」「卵酒」「熊の膏薬(くまのこうやく)」という。(その他の説もあります)
■富士川(ふじがわ);今から400年前、徳川家康の命を受けた京都の角倉了以(すみのくら_りょうい)によって慶長12年(1607)富士川が開削され、鰍沢から駿河の岩淵(いわぶち。静岡県富士市岩淵)まで開通しました。信州往還(信州に向かう甲州街道)と駿州往還(すんしゅうおうかん。富士川街道=みのぶ道。鰍沢-岩淵)の交わる地点に位置していた鰍沢は、この開削により富士川舟運の要衝地、鰍沢河岸として流通の拠点として大きく発展していきました。
右図;広重画「富士川上流の雪景」 2012.4.30追加
あわびの煮貝;江戸時代、駿河で採れたあわびを醤油煮にして、馬の背に乗せ運んだところ、甲府へ着く頃には味がよく染み、最高においしいあわびに仕上がったとされる。以来現在まで、あわびの煮貝は海のない「山梨」の名産となった。
富士見酒;江戸時代、清酒は京阪神が酒の主産地で、銘酒が造られた。江戸の地では船で関西から来るこの酒を富士見酒と言って珍重した。樽に詰められ富士山を見ながら江戸に着く頃には、杉樽の香りが酒に移り、適度な揺れで、なめらかな酒になって旨さが倍増されたという酒。関西の呑兵衛はわざわざ、富士の沖まで船に樽を積んで、ここでUターンして戻ってから売りに出した。
■釜が淵(かまがふち);旅人が富士川の急流に落ちたところ。(速記本の)新版では蟹谷淵に改められている。身延線の甲斐岩間駅から富士川に架かる月見橋を越えて右折し、国道52号を500mほど行くと蟹谷橋があります。その蟹谷橋から上流一帯が蟹谷淵=釜ヶ淵。釜が淵は富士川の本流が狭くなっていますから、流れは普段でも増します。ここは富士川でも一番の急流で、崖がきつく道が開けず、その前後で対岸に渡っていた。その渡しを両越(もろこし)の渡しと言った。
■両越(もろこし)の渡し;箱原(はこばら)と西嶋(にしじま)の間にある砥坂(とさか=戸坂)は、みのぶみちの一番の難所(なんしょ)でした。富士川の岸が険しい崖(がけ)で、川沿いに進むことができませんでした。 そのため、鰍沢から来ると『砥坂(とさか=戸坂)の渡し』でいったん向こう岸の羽鹿島(はじかじま=鰍沢町)へ渡り、楠甫(くすほ=市川三郷町、旧六郷町)の西側を川沿いに南下し、富士川が東に流れを変えてまもなくのあたりで再び対岸から西嶋へ渡りました。こちらは『岩崎(やさき)の渡し』と呼ばれ、現在の月見橋から100mほど下流の地点でした。短い区間のうちに2度富士川を渡ることから”両越の渡し”と呼ばれました。起源は元亀年間(1570〜73)にまで遡(さかのぼ)るといわれています。
■岩淵(いわぶち);江戸時代の東海道吉原宿(富士市)と蒲原(蒲原町)の間宿。東海道は富士川の西岸で、町名も富士川町、JRも昭和45年(1970)岩淵から富士川と駅名も変えている。この先4kmほどで駿河湾に富士川は流れ込みます。平成20年(2008)11月1日、富士市に編入合併し、富士川町は消滅し、山梨県南巨摩郡富士川町にその名を譲った。
2.身延山久遠寺(くおんじ) ■身延山久遠寺;山梨県南巨摩郡身延町身延3567。鎌倉時代に日蓮聖人によって開かれたお寺です。日蓮宗の総本山として、門徒の無二の帰依処として知られています。 身延は人里離れた深山であって衣食の調達は極めて不便であり、鬱蒼(うっそう)とした大木にかこまれた猫の額ほどの地に造られた庵室は湿気が多く、日照時間もみじかく、夏には大雨・長雨で交通がとだえ、冬ともなれば深山は特に雪が深く人の訪れもなくなってしまう。その様な過酷な地であった。
高祖御一代略図 文永十一(1274)五月廿八日「小室山法論石」 国芳画
法論石(ほうろんせき);懸腰寺に安置。日蓮聖人と土地の善知法印との間で法論が起きた際、善知は石を空中に浮遊させた。しかし、日蓮はその石を空中に留め、善知はその石をどうする事も出来なかった、という故事に基づく。 ■小室山の毒消しの護符;山梨県南巨摩郡富士川町小室3063、小室山妙法寺で出す毒消しの護符。
■懸腰寺(けんようじ)・法論石(ほうろんせき);妙法寺の道を挟んで南隣、富士川町小室719、妙石山懸腰寺床下にはみ出して法論石は有ります。
仏像が祭壇に飾られていますが、主役はこの法論石なのでしょう。
■青柳の昌福寺(しょうふくじ);山梨県南巨摩郡増穂町青柳483。
3.みのぶ道北コース
この噺では昌福寺→妙法寺→法論石を回って鰍沢から身延山に参拝する事になっています。南の岩淵から富士川を遡って直接身延詣りするのが南コースです。この噺のように北回りのコースは甲州街道・笹子峠が開通し、一般人が自由にそこを行き来できるようになって、可能となったコースです。旅人は北回りコースで冬の身延に来たのでしょう。南コースを利用したのは落語「笠と赤い風車」です。
伊能忠敬測量作図の「富士川地図」部分。右側が南で岩淵に下る、左、甲府盆地の入口。当たり前ですが現在の町村名とピタリと付合します。(山梨の地名は難読で有名です。ルビを振ります)
4.言葉
■三度笠(さんどがさ);東海道を飛脚が月に三度往復し、その時被っていた笠。それを流用して旅に使った。図2・3
■回しガッパ;合羽は寒さや雨雪を防ぐ為の道中着。ぐるりと身体に巻き付けて着るのでこの名がある。図2・3の旅人が着けている。
■道中差し(どうちゅうざし);道中での護身用の刀。武士以外でも着用でき、大刀より一回り短い刀。図1。
■振り分けの荷物;二つの小さな荷物をヒモで結び肩にかけて携帯するもの。図1。
■足腰は厳重なこしらえ;足には脚絆(きゃはん)を着け、腰回りは裁着袴(たつつけはかま)を着る。裁着袴は腰回りはゆったりと温かく、膝から下はピッタリして動きやすい。図3。現代では建設現場でよく見かけるニッカボッカや白バイ隊員のズボンにその姿を残しています。
■上総戸(かずさど);千葉県・山武(さんぶ)杉で作られた戸板。杉板だけで作られた戸または雨戸。杉戸。上総杉は欄間(らんま)などの高級建具の材料に用いられた。
■吉原の花魁(おいらん);吉原は浅草の裏、現在の台東区千束の一部。幕府公認の遊廓があって、三千人以上の遊女(花魁)がいた。吉原の熊蔵丸屋の見世にいた”月の戸”という名前の花魁がいた。心中騒動をしでかした花魁は見せしめのため吉原にいられず、近隣の岡場所や宿(しゅく)に売り飛ばされてしまった。
■柔らか物;絹で作られた着物。庶民は普段木綿物を着ていたが、武家や大店の奥様、吉原の遊女などは絹製の着物を着ていた。
■お酉様(おとりさま);11月酉(とり)の日に開かれ、縁起物を飾った熊手を売り出される。二の酉まであるのが普通だが、三の酉まである年があり、この年は火災が多いと言われる。東京では鷲神社(おおとりじんじゃ。台東区千束3−18)が有名で、吉原の隣なのでこの日は混み合った。右写真
■品川溜め;溜(た)めは江戸幕府が重病および15歳以下の犯罪人にとった囚禁の措置で、それを溜預け、と言った。
■熊の膏薬(こうやく);その膏薬は熊の脂を基材とし、色々な薬種を練りこみ、切傷・腫れ物に大変効果があり、塗れば衣服に付かずかぶれもしない妙薬という。熊の脂は熊白といい塗れば顔の艶を良くし、傷をよくする効果が有ったという。基材で馬の脂は筑波山の名物ガマの脂(あぶら)になっています。
■2両;毎回出てくる金銭の単位。1両を8万円とすると16万円。吉原では普通の遊女で有れば2分(1/2両)以下で指名できた。4倍以上の心付けを置いた事になる。
■卵酒(たまござけ);熱くした日本酒を砂糖・生卵を撹拌した中に入れ、一体化した状態で飲む。体を温め滋養が付く。戦後まで卵は貴重品で高価であり、それで作る卵酒は贅沢品だったので、風邪などで体調を壊した時でないと飲めなかった。私の子供時代、風邪の時のバナナと同じか。
■鞘(さや)走る;日本刀は鞘で刀身が守られていますが、その鞘が何かの弾みで抜けて刀身がむき出しになる事。裸の刀身で筏をつなぎ止めてあった藤蔓を切断、筏が流れ出してしまった。
舞台の鰍沢から岩淵を歩く
第一の目的地青柳の昌福寺。迷わずに一発で来られました。それもそのはず、ご当地では大きな名刹で表通りの国道52号線に面していますし、大きな石柱と看板が出ています。右に入ると正面に山門、くぐると大きな本堂、その右に庫裡と続きますが、また、庫裡の大きい事。内部の木材も太くて、現在では入手困難な部材です。早朝にもかかわらず丁寧な応対と親切なご説明をいただき感謝。日蓮宗のお寺さんです。
これからは国道52号線(富士川街道=みのぶ道)を使って南下していきます。
昌福寺を出た後、南に、警察署の先の小さな川を渡り、今、52号線を使うと言っておきながら、406号線を右に、山に入って行きます。一本道で妙法寺に入る交差点に出ます。左に行けば懸腰寺、右に曲がれば妙法寺の看板、迷わず右に曲がって道なりに行くと、道のど真ん中に妙法寺の立派な山門があります。昔は自動車など無かったので、その内は境内というか寺領だったのでしょう。門前町を形成していますが、お土産屋さんは何処にもなく、皆農家なのでしょう。突き当たり妙法寺(右。クリックすると大きくなります。Googleより)の階段を上がったところが山門と、その奥に本堂があります。どちらも大きな堂々とした建物です。右側の第二本堂と思えるような大きな庫裡の呼び鈴を押します。
毒消しの効能は分かりましたが、一人になったお熊さんはこれからどの様な人生を過ごすのでしょうか。また、江戸の旅人は一本の丸太で上手く着岸して、江戸に帰り着けたのでしょうか。考え始めると夜も眠れなくなります。
先程の交差点から懸腰寺に向かいます。細い道で対向車があったらと思う以上に、狭くて車の両側を生け垣がこすりますが、案内板もあってここも迷わず到着。小さな山門と小さな本堂というか庵のたたずまい。工事現場にあるようなトイレが一つ、他には何もありません。管理をする人も居ません。床下を覗くと大石が一つ、裸で鎮座しています。上部はお堂の中に顔を出しています。この数トンの石が法論石で、空中を漂ったのかと思うと驚異です。ホント、話を真に受ける私です。
52号線に戻って、鰍沢の町中を抜けるところに、富士川に架かる富士橋があります。土手に上がってみると、川の本流との間に広がる、広い畑や野球場、そこが江戸時代栄えた鰍沢河岸です。今は、当時の面影も何もありませんが、その広い敷地・河岸が流通の拠点だった大きさ、勢いを感じさせます。
富士川を下ります。昔、箱原村で対岸の羽鹿島(はじかじま)に渡る、ここの渡しを「砥坂(とさか=戸坂)の渡し」と言い、現在橋げただけの新しいスマートな鹿島橋が架かっています。渡った後、楠甫(くすほ)村から「岩崎(やさき)の渡し」で対岸から西島に戻ります。現在は月見橋が架かっています。この二つの渡しを両越(もろこし)の渡しと言いました。左岸に渡るのは、右岸は道も通せない絶壁で、ここが最大の難所・釜ヶ淵です。現在も道を通すには大変な工事だったのでしょうね。半トンネル状の洞門が連なっています。
52号線を下ります。石切の町を抜けると、釜ヶ淵と同じような洞門が現れます。そうなんです、ここも当時難所中の難所だった日下(ひさが)り道という所です。
駐車場から境内の建物群を見ながら、歴史と日蓮上人の足跡を追います。奥のケーブルカー乗り場で往復の乗車券を買って頂上に。登り徒歩3時間を7分で結んでいます。帰りも7分で帰りたいですよね。
また、ここから七面山が望めます。七面山とは、毎日毎日、雨が降ろうが雪が降ろうが、槍が降ろうが・・・、いえ、ヤリだけは降りませんでしたが、法話を聞きに来る少女がいた。村人や信者の中で普段見た事がないと噂が立った。建治3年9月これを聞いた日蓮が、少女の頭に霊水をかけると龍が現れ、「七面山に住む龍で、法華経を修め、広める方々を末代まで守護する」と告げ、七面山に飛び去った。後日、七面山に登り、お堂を建てその龍を祀った。以後、第二の霊地になった。
高祖御一代略図 建治3年9月「身延山七面神示現」 国芳画
富士川を下って、最後の訪問先は、岩淵。現在はごく普通の街道に面した街です。JRの駅も富士川、隣は当然富士川の河口です。ここからの富士の眺めは素晴らしく、この贅沢な富士を毎日見て暮らしている住民はさぞ豊かさを感じているでしょうね。
山梨県側から見る富士と、静岡県側から見る富士山は、どちらが美しいか?永い間の永遠のテーマであった。しかし、実は江戸時代にすでに決着がついていたのです。狂歌師・大田蜀山人の歌に『娘子(むすめご)の スソをめくれば 富士の山 甲斐(かい)で見るより 駿河(するが)一番』とあります。 地図 写真 それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。 2011年2月記
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