落語「牡丹灯籠・お札はがし」の舞台を歩く

  
 

 六代目三遊亭円生の噺、「 怪談・牡丹灯籠(ぼたんどうろう)お札はがし」によると。
 

 根津の清水谷に萩原新三郎という若い美男の浪人が住んでいた。牡丹灯籠の発端です。
 そこへ、毎夜毎夜、若い娘のお露、女中のお米の二人が通って来る。ある日、新三郎が日に日にやつれていくのを心配した人相見の白翁堂勇斎という人が新三郎宅を覗いてみると、果たして新三郎と語らっているこの二人は骸骨であった。
 白翁堂勇斎の助言で新三郎が彼女の住まいだという谷中三崎町をいろいろ調べてみると、この二人、墓もちゃんとある。つまり、お露とお米は幽霊であったのだ。新三郎のことを恋しくて、お露が通って来る。「牡丹燈籠」とは、女中のお米が持っている灯りの絵柄。夜になると「 カランコロン、カランコロン」という駒下駄の音。
 このままだと、新三郎は幽霊に憑り殺されてしまうというので、白翁堂はお露さんの墓のある新幡随院の和尚に助けを求める。和尚は金無垢の寺宝・海音如来の仏像を貸してくれ「これを肌身離さず、それから魔除けのお札を家中の窓に貼り付けておくように」と固く言いつけた。
 果たして、お露、お米の二人は、お札の為に家に入れない。そこで萩原家の下男の伴蔵、お峰夫婦のもとへ幽霊二人が現れ「どうかお札をはがして下さい」と頼む。伴蔵夫婦は 最初半信半疑であったが、女房と相談の上「それじゃ、百両と引き換えにはがしましょう」と、金に目が眩み、 約束をしてしまう。新三郎に身体が汚いと幽霊が取り付くからと騙し、行水をさせている隙に仏像をすり替え、お札をはがしてしまう。
 その夜、新三郎の許へ、二人が現れ、恋しさ余って新三郎を憑り殺す。

 


1.牡丹灯籠
 
江島屋騒動」、「乳房榎木」、「真景累ケ淵」とこの「牡丹灯籠」は三遊亭圓朝の創作した怪談話です。圓朝二十三四歳の時創られたと言います。明治17年(1884)、四十七歳の時、速記本として出版され、大変な人気を得 ました。
 この「牡丹灯籠」は元々中国に同じような話があり、それを江戸時代日本語に翻案し、それを圓朝が江戸前に創り直したとされます。
 「牡丹燈籠」とは、女中のお米(よね)が持っている提灯の牡丹の絵柄。夜になると「カラーン、コローン、カラーン、コローン」という下駄の音。幽霊に足をつけたという、有名な噺。幽霊が灯りを点けてくるのも御嗜好であった。

 この名場面を圓朝の速記本から抜き書きします。

 二人のいきさつは、新三郎が幇間医者の紹介で亀戸・萩寺見物をした後に、本物のお花見をしようと、飯島家のお露さんと初めて会った。お互い初めての出会いであったが、相思相愛の仲というか、お互い一目惚れをしてしまった。その後、逢う機会が無く新三郎は悶々としていたが、お露さんは恋やつれが元で亡くなってしまった。
 惚れきったお露さんが通ってきて、夜ごとのデート。二人は最上の至福な時間を過ごした事でしょう。亡くなるのは悲しい事でしょうが、二人はいつまでもあの世で幸せな夫婦でいられた事でしょう。ここまで惚れられると幸せなような怖いような。

右図;文藝春秋デラックス、古典落語と古川柳「日本の笑い」、牡丹灯籠挿絵より。全体図は落語「牡丹灯籠・栗橋宿」にあります。

下駄の音やがて近づく夏柳」  扇橋

 この後、牡丹灯籠は「栗橋宿」と、話は続いていきます。
 下男の伴蔵(ともぞう)、お峰夫婦は栗橋に引き払い、その金で荒物屋「関口屋」を始めて成功し、大旦那と奥様となった。金が出来ると伴蔵は茶屋遊びに出て夜ごと楽しんでいたが、そのことが女房お峰に分かり、夫婦げんかになった。大きな声で「仏像を盗んだのはお前で、その時の金 ,百両を出せば別れてやる」と騒ぎ立てた。伴蔵は高飛車に出ていたが幽霊の一件になると困って平身低頭、やり直そうと提案。その夜は無事過ぎて。
 翌日、隣町幸手の祭りを見た帰り、利根川土手に、二人は連れだって出掛けたが、伴蔵の悪巧みで女房・お峰は亭主に殺されてしまう。「お峰殺し」。落語「牡丹灯籠・栗橋宿/お峰殺し」と続きます。どうぞご覧下さい。

栗橋;埼玉県北葛飾郡栗橋町。首都圏から約50キロメートルに位置し、周囲を利根川、中川、権現堂川の3つの川に囲まれた人口2万6千人の埼玉県の北東部に位置する町。
 
国道4号線(日光街道)が利根川を「利根川橋」で渡り茨城県古河市に渡る県東北の町。JR東北本線「栗橋駅」、東北自動車道「加須IC」より東に約6km。静御前の墓があるのでも有名。
 古くは日光街道の要所として箱根と同規模の関所が置かれ、明治2年に関所が廃止されるまでの間、宿場町として、 また、船運の町として栄えてきました。

駒下駄(こまげた) 台も歯も一つの材で刳(ク)ってつくった下駄。その刳り方が駒爪形であったところから、形が馬のひづめに似 た、ここから、「うまげた」とも言う。
 芳町の粋な芸者のお姉さんたちが履いていたので、「芳町(よしちょう)」とも呼ばれ、昔からある形で一番下駄らしい下駄です。

■実はこの噺は幽霊の所だけでは、魚の半身と同じで、もう一つの筋が流れていて、最後の方で合流します。その話も主役級の筋になって居ます。長い話になりますから、短く別ページでご紹介しましょう。

 

2.谷中の三崎(さんさき)
 お露さんと女中のお米さんが住んでいると言ってた所。実は谷中と言う所は現在も広大な墓地(谷中霊園)とお寺さんが集まって居るので有名な所です。この中の三崎は台東区谷中2丁目と3丁目の間、4丁目と5丁目の間を走る坂道が谷中三崎町です。 坂は現在、三崎坂と言って古き良き風情を残しています。この一角に三遊亭圓朝の墓がある全生庵(谷中5−4)がここに有ります。また大円寺(台東区谷中3−1)があり、ここには笠森稲荷、笠森お仙の碑や鈴木春信の碑があります。

 この地名「三崎町」は正確には「さんさき町」と読みます。

幽霊図(お雪の幻)」 安永期 円山応挙(1733-95)の代表作 。これ以後、幽霊には足が無くなった。

全生庵;(ぜんしょうあん、谷中5−4−7)三遊亭圓朝の墓があります。
初代三遊亭圓朝
(1839〜1900)については第48話「お若・伊之助」に詳しくあります。
 本業以外にも多彩で、歌道、和歌、俳句、書画、骨董(の目利き)等にも秀でており、建築、作庭にも秀でていた。晩年、内藤新宿に自邸の数寄屋作りの建物や茶室をこしらえ、百坪当たりに広がる枯山水の庭園は見事であった。写真は第8話「文違い」に有ります。この当時は落語から離れて禅に興味を示していた。明治33年(1900)8月11日、下谷車坂の自宅にて死去した。享年62才。墓石には山岡鉄舟筆による「三遊亭圓朝無舌居士之墓」とある。晩年収集した”幽霊画”は有名で、命日には全生庵で公開される。

笠森稲荷(かさもりいなり、台東区谷中3−1−2)大円寺の中にあります。笠森稲荷は本来「瘡守稲荷」と言われたのが本当で、皮膚の病、はれ物に効果があると広く信仰されました。明治の始め、お寺に稲荷を置く事が出来ず、本堂に列び薬師様として祀られました。その為、二つの本堂が合体したように列び建っています。向かって右側の本堂「薬王殿」がそれです。
 江戸時代この門前に水茶店があり、日本三大美女の一人「笠森お仙」1751〜1827 (宝暦元年〜文政10年)が居ました。茶屋「鍵屋」の看板娘で彼女見たさに連日お客さんが詰めかけた事でも有名です。鈴木春信の浮世絵「笠森お仙」はお仙を有名にしただけではなく 、春信をも有名にしたのです。

 実は、「笠森稲荷」の有力候補地は3ヶ所有るのが確認されています。一つはここ大円寺。二つ目は功徳林寺(谷中7−6−9)の中にある稲荷がこれです。三つ目は今の谷中霊園(元・天王寺墓所)の一角にあった。現在谷中霊園説が一番有力ですが、場所が特定されませんし、その痕跡すら残っていません。(大円寺住職 談)

 功徳林寺さんのお話では、「当寺のお稲荷さんは笠森稲荷だとは一切発言していませんし、宣伝もしていません。皆さんが言われるだけで、関係有りません」とハッキリ言われています。三番目は上野桜木町のお寺さんに有ると言われていますが、当時の場所だったか確証がありません。この近所に有ったのは確かですが、その稲荷と門前の茶店の場所は確認出来ません。私は深追いしませんし、謎は謎のままで良いのかも知れません。

 

3.新幡随院(しん ばんずういん)
 お露さんとお米さんの墓所。江戸切り絵図を見ると、谷中三崎(やなか さんさき)町、今の谷中2丁目18に有りました。不忍通りに有る団子坂交差点を東にはいると三崎坂の登りになります。登り口は区境で藍染川を埋め立てた道になっています。この川を渡った(?)右側に有りました。 この橋の名前を「枇杷(びわ)橋」またの名を合染橋と言います。川は下って不忍池に合流しました。
 今、新幡随院は有りません。その跡にはお風呂屋さんや商店、交番が建ち並んでいます。

  新幡隋院は、正歴3年(992)恵心僧都によって尾久の地に、天台宗恵心院法受寺として開創され文永元年(1264)浄土宗に改宗された。宝歴3年(1753)谷中に移転し、新幡隋院法受寺と称したが、関東大震災後、下谷三崎町の法受寺と浅草の照光山安養寺とが合併して、昭和10年に現在地(足立区東伊興4−14−8)に建立された、草創以来990余年に及ぶ古寺である。新幡隋院には、嘉元2年(1304)の奉納と伝わる鎌倉幕府八代将軍久明親王の父、後深草法皇の法体木像ならびに正応3年(1290)に納められたという御尊牌がある。また五代将軍徳川綱吉の生母、桂昌院(けいしょういん)の墓がある。将軍の生母として大奥に絶大な勢力を振い、女性にとって最高の位階である従一位を生前贈られている。この墓は区の登録文化財になっている。同じ墓域に常陸国笠間城主本庄宗資の墓や、柔術家関口弥太郎の墓、書家墨菴の墓などがある。怪談「牡丹灯籠」のゆかりのお寺。
「昭和63年、足立区教育委員会掲示板より」
写真;橘右近筆による「牡丹灯籠」碑が山門入口に建っています。境内には大きな「牡丹灯籠碑」があります。

 この一帯は震災後多くの寺院が引っ越してきて、お寺さんの団地状態です。この一角に塩原太助の墓(東陽寺)や助六碑(易行院)が残っています。
09.07.この項、後半追記

 

4.根津清水谷
 萩原新三郎が住んでいる所。現在の文京区根津1丁目根津神社を除いた所が清水町。そこが清水谷。根津は地形的に東西の台地に挟まれた谷間の町で谷間の風情を醸していた。ここから谷中までは直線で数百mもありません。カランコロンといいながら坂を下って通って来るには適当な距離なのでしょう。 当時不忍通りは有りませんでしたので、この藍染川沿いに南下するのです。綺麗な語感の川ですが、よどんだ汚い川だったと言われています。

 

5.「上野の夜の八ッの鐘がボーンと忍ヶ岡の池に響き、向ヶ岡の清水の流れる音がそよそよと聞こえ・・・。」
■上野の夜の八ッの鐘 不忍池(しのばずのいけ)の東側にある上野の山(上野公園)にある、時(刻)の鐘が打つ鐘の音が「八ッ」を告げています。八ッ;今の午前2時頃 、丑三つ時。
 上野動物園の隣にあるフランス料理店「精養軒」。その入り口隣に、ちょっと小高くなった上に赤い鐘楼がある。この鐘は寛文6年に鋳造されたが、現在のは二代目で、谷中感応寺(現、天王寺)で鋳造されたもので、今でも朝夕6時と正午の3回昔ながらの音を響かせています。
 平成8年6月、環境庁の残したい「日本の音風景100選」に選ばれた名鐘。

■忍ヶ岡の池に響き 忍ヶ岡;上野台地。俗に言う上野の山です。池は不忍池(しのばずのいけ)。 不忍池とその西側の谷間地、が現在の池之端一、二丁目。この先、丘陵地(本郷台地)の大部分が東京大学の構内になっています。台東区池之端には当時の名前を被した「忍岡小学校」が有ります。

■向ヶ岡の清水の流れ 
向ヶ岡;本郷台地。東京大学が有る所。 根津の清水谷を流れる水音がそよそよと聞こえた風流な谷間の地であったのでしょう。今の情景からは想像も出来ませんが。

 


  舞台の谷中、根津を歩く
 

  地下鉄千代田線「千駄木」を上がるとそこが団子坂交差点です。団子坂は坂の近くに団子屋があったからとも、 また、悪路のため転ぶと団子のようになるからとも云われている急坂です。東には柳の並木が綺麗な商店街を入ります。間もなく右側に「藍染橋跡」の説明版が現れます。交差する曲がりくねった道は元・藍染川を埋め立てたもので、区境になっています。 ここから先、道は上り坂になって「さんさき坂」と言います。橋を渡った(?)上り坂の右側に「新幡随院 」が有りました。今は無く、お風呂屋さんや交番、趣味の店が列んでいます。ここに噺のお露さん、女中のお米さんのお墓が有った事になります。

 少し寄り道をします、同じ三崎町ですから。数十m先の左側、「大円寺」があります。ここには「笠森稲荷」で有名な所で、笠森お仙の碑や鈴木春信の碑があります。
 ご住職から直々に話を聞く事が出来ました、感謝。その時、過日お仙の直系だというご婦人が訪ねてきて、住職とツーショットの写真を撮って帰られましたが、後日送ってこられた写真を見せていただきました。上品で美人なご婦人は若い時はさぞやもっと美しかったであろう、と想像される雰囲気を持っていました。 浮世絵を眺めているとどこか共通するところがあるようです。お仙は結婚して茶屋を離れますが、ご主人と幸せな生涯を送った事が分かります。
左写真;住職お気に入りの「おせん」。ガラスケースに入っているので光っています。

 その先、同じ側に「全生庵」が有ります。三遊亭圓朝の墓があるのでも有名です。毎年圓朝の命日にあたる8月には圓朝祭りが落語協会主催で行われます。今年(8/8)も落語会や圓朝が集めた幽霊画の公開やイベントが盛りだくさんです。
 ここら辺りまでが谷中三崎町です。
 その先二つ目の路地を左に入った右側に「
功徳林寺」に第二の笠森稲荷を見に行きました。

写真;「功徳林寺」境内にある笠森稲荷?

 坂を戻って、最初の団子坂交差点、不忍通りを南下、隣町根津に出ます。ここは根津神社で有名な町で、昔清水町と呼ばれた所で、ここに「萩原新三郎」が住んでいました。両側を岡に挟まれた谷間の町ですが、不忍通りに面してビル群が列んでいるので 岡を見過ごすかも知れません。裏に入っても、洒落た店が多く昔の面影を探すのは難しい事です。(根津神社は第75話「札所の霊験」で歩いています)

 不忍通りをまたまた南下、隣町が池之端です。昔、池之端七軒町と呼ばれ、東に不忍池、西に東大があり、その間の細長い町です。ここに忍岡小学校境稲荷社が有ります。
 不忍池には大勢の涼み客が楽しんでいます。弁天堂やその向こうに上野の山がこんもりとしています。その一角に時(刻)の鐘が有り、今でも一日三度突かれています。

写真;境稲荷社の井戸。現在も冷たい水を提供しています。

 

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。

谷中の三崎(台東区三崎通)
地下鉄・千代田線千駄木を上がった所にある、交差点団子坂下から東に向かった上り坂が三崎坂(さんさきざか)です。
全生庵を出た所から道を渡って坂を見下ろしています。

新幡随院跡(台東区谷中2−18辺り)
今は三崎坂登り口の右側には、お風呂屋さん、民芸品店などが立ち並んで、お寺さんはありません。
その手前、元・藍染川が有った所が埋め立てられて曲がりくねった路地になっています。その道筋を覗いてみます

全生庵(台東区谷中5−4)
三遊亭圓朝、山岡鉄周、弘田龍太郎の墓があります。
毎年、圓朝の命日には落語協会主催の圓朝祭りが行われます。
入り口入って右側に圓朝翁碑があります。

大円寺(台東区谷中3−1)
笠森稲荷(薬王殿)、笠森お仙の碑や鈴木春信の碑があります。ご住職お気に入りの浮世絵笠森お仙(春信作)の浮世絵があります。
笠森稲荷は薬師となって右側の本堂「薬王殿」に収まっています。
功徳林寺」に第二の笠森稲荷を訪ねました。

団子坂より根津方向
不忍(しのばず)通りを団子坂交差点より根津方向を見ています。

 

根津清水谷文京区根津1丁目
根津の表通りから一歩入った所です。まだまだ下町の雰囲気が残っています。

忍岡小学校(池之端2−1)
旧地域名を被した忍ヶ丘にある小学校です。創立129周年の看板が出ていたほどの歴史のある小学校で、近くに忍岡、向丘総鎮守「境稲荷社」があり、「弁慶鏡ヶ井戸」が残っています。源義経一行が奥州に行く途中に見つけて喉を潤したという井戸です。

 

上野・上野公園内、精養軒隣
この公園内には寛永寺があり、その梵鐘ではなく、独立した鐘撞堂「時の鐘」として存在する。今も現役。
上野公園は飛鳥山、隅田公園と並んで花見の名所で、春は上野の山全体が桜で覆われ、素晴らしく、人出もすさまじい。ここには美術館、博物館、動物園、芸大、それに彰義隊の墓と西郷隆盛の銅像等が有る。 第12話「時蕎麦」より

  

不忍池
左の写真は池之端側から望んでいます。対岸の右側のお堂が不忍池中央に浮かぶ弁天島にある弁天堂です。左側の白い四角の建物が山の上にあるフランス料理店「精養軒」です。見えませんが、その右に時の鐘があります。その鐘の音が湖面を渡って向丘まで響きました。

右の写真は弁天堂から池之端を望んでいます。対岸の積み木のような建物がホテルで、その右が高層マンションです。このマンションの裏に忍岡小学校が有ります。 右奥が清水谷の根津です。

                                                             2004年 8月記

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