落語「塩原多助一代記」の舞台を歩く
   

 

 五代目古今亭志ん生の噺、「塩原多助一代記」(しおばらたすけ・いちだいき)によると。
 

 「塩原多助序」 上州沼田に300石の田地を有する豊かな塩原家の養子多助は、養父角右衛門の後添えお亀の連れ子お栄と夫婦になった。しかし、角右衛門の死後まもなく、母子は寺詣りの帰り道、暴漢に襲われ、それを助けたのが原丹治という武士であった。お礼をしたいと原丹治を家に招待したが、その後ちょくちょく出入りするようになった。原(はら)丹治、丹三郎の父子を家に誘い入れ、お亀は丹治と、お栄は丹三郎とそれぞれ不義を重ねるようになる。お家の為と見て見ぬ振りをしていたが、色と欲とで目の眩んだお亀は、丹治をそそのかし、多助を殺すべく相談をもちかけた。

 「青との別れ」 5両5粒で買い求めた馬、青を連れて元村まで使いに出した。帰りは四つ(夜10時過ぎ)になるので、目印は馬に塩原と書いた桐油を着けて行かせるから、庚申塚で切ってしまおうと打ち合わせていた。庚申塚近くになると青は後ずさりして動かなくなった。どんな事をしても動かないが、そこに友人の御膳龍(ごぜんかご)をしょった円次郎が通りかかって青を引くと動いた。で、多助が引くと動かない。円次郎が青を引いて、多助は御膳龍をしょって、それぞれの家に届ける事になった。円次郎は庚申塚でめった切りにされて絶命し、多助は何も知らず帰り着くとお亀はびっくりしたが、次の手を考え始めた。ある夜、青が激しくいななくので厩に行ってみると、原丹治、丹三郎の父子を見て、青が見た下手人である事を確信した。このままではいつかは殺される事を悟って、家を出る事を決心する。宝暦11年8月満月の夜、愛馬青に別れを告げて、江戸へ旅立って行く。

  「道連れ小平」 江戸に向かう道中で道連れ小平に出会い身ぐるみはがされてしまった。乞食同然の格好になりながら、実父の居る戸田の屋敷に行ったが、国替えになって島原に行ってしまい、留守であった。
 万策尽きた多助は、昌平橋から身を投げようとするところを、神田佐久間町の炭問屋山口屋善右衛門に助けられ、そこに奉公することになった。「子(ね)に臥し寅(とら)に起き」て良く働いた。給金はいらないから、捨てるようないらない物をくれれば、それだけで良いと言った。
 所変わって、実家では強引に
お栄と丹三郎の婚礼をしようとしたが、分家や村人に反対され逃げるうちに、青の厩に来たところ、青が暴れて二人を蹴り殺してしまった。まるで多助の仇討ちをしたような事になってしまった。

 「戸田の屋敷」 炭を届けに戸田家の屋敷に行った。偶然に島原から江戸に戻ってきた実父母、塩原角右衛門・清(せい)夫婦に再会した。角右衛門が言うには「新田の角右衛門の所では乳が出ないので、同名の私のところで預かった。八歳の時新田の角右衛門に帰した。礼として50両をいただき、借財を返し、江戸に出て戸田家に仕え300石の身になれた。これも新田の角右衛門殿のお陰である」 (多助を励ます為のウソ)と。
 
塩原家は潰れ多助は女、酒にくるって夜逃げしたと誤解されていた。また、武士として炭屋の下男には倅は持っては居ないと言われ、家を再興した時には改めて逢おうと言われ、淋しく店に戻る多助であった。

  「山口屋ゆすり」  ある日、山口屋の荷主である下野の吉田八左衛門が急病で倒れたため、山口屋の掛金80両を取りに、悴の八右衛門が代わりに行くことになった。証拠となる手紙と脇差しを持って、八右衛門は出立したものの、田舎者で江戸に不案内のため不安で堪らず深川で会った故郷の知り合いに、事の一部始終を大声で話してしまう。 永代橋を渡る時ぶつかった店者(たなもの)の男がいた。介抱する振りをしてシビレ薬を飲ませ、手紙と脇差しを抜き取り山口屋に先回りしたが、手に入れる寸前多助に見破られ失敗する。多助にこんこんと説教されて小平はすごすごと引き下がる。これを聞いた八左衛門は将来店を出す時には千両の荷を出してあげると約束した。

 「四つ目小町」 10年が過ぎて本所相生町に店を出し、 炭の量り売りを初め、一生懸命働いた。 
 ある時、多助の人柄にほれこんだ四つ目の富商藤野屋杢左衛門・お花親子は多助の嫁に娘お花を一緒にさせたくて、出入りの樽買いに仲に立ってもらった。多助がその話を聞いて、金持ちだからヤダと断った。藤野屋は樽買いの娘なら良いのかと聞くと、何一つ持たずに来てくれるのなら良いという。樽買いの娘と言う事で、四つ目一の美女お花は惚れた多助の嫁になった。

 20年後には「本所(ほんじょ)に過ぎたるものが二つあり津軽大名炭屋塩原」と言われ、津軽十万石越中守さまと並び称せられるだけの成功を致しました。かつて自分に危害を加えようとまでした継母おかめを引き取って、終生世話をしました。
 20万両という金を持って、実家を再興したと言われる。
 塩原多助出世美談の一席でした。

 

【写真の挿絵は岩波文庫「原多助一代記」三遊亭圓朝作より】
下; カラーの浮世絵は明治25年1月から東京歌舞伎座で公演された時のポスター(部分)。多助は五代目尾上菊五郎。


 
1.「塩原多助一代記から」
 一代で富をなした塩原太助(文化十三年没・74歳)の事跡を、三遊亭圓朝が、明治11年に完成した15席
(吟醸注;全18編から構成)続きの人情ぱなしで、速記術普及のために明治17年7月に刊行した速記本『怪談牡丹燈籠』につぐ翌年1月の『塩原多助一代記』は、沈滞を極めていた戯作本を尻目に、12万部という当時の出版物としては驚異的なペストセラーとなり、近代小説の文庫を摸索していた二 葉亭四迷・山田美妙らの言文一致運動にも、決定的な影響を与えた。
 上州沼田の富農塩原多助は、養父の遺言に従って、その後妻お亀の連れ子お栄と夫婦になり、追い出しをはかるお亀親子の迫害にたえていたが、身の危険にも及んだために、やむなく家を出て江戸へ行き、着想卓抜な刻苦勤労の甲斐あって、炭屋の奉公人から独立し大身代を築くという立志伝で、これに、お亀・お栄親子と密通する浪人原丹治・丹三郎親子、浪々の末江戸の主家に帰参がかなった実父塩原角右衛門・清(せい)夫婦、道中護摩の灰を働く道連れ小平、多助の入柄にほれこんだ富商藤野屋杢左衛門・お花親子らがか らむ。
 塩原太助は、かなり注目された入物だったらしく、江戸時代から劇化されていたが、大当たりをとった芝居は、明治25年1月・歌舞伎座初演、五代目尾上菊五郎による三代目河竹新七作品で、粋な江戸つ子役者の持ち役とはがらりと変わった質朴な人物造形が成功し、その後、六代目菊五郎・二代目尾上松緑と継承きれている。浪花節にも脚色され、浪花亭綾太郎の愛馬青との別れのくだりなどは、大いに泣かせた。
 圓朝は菩提寺の捜索、子孫の発見から、生地での取材など、綿密な資料収集の努力によって、旧来の戯作本の荒唐無稽な御都合性や因果応報の低俗な勧善懲悪を脱した、主人公の誠実な苦闘が、素直な共感を呼ぶ物語になったのであろう。

「塩原多助一代記」カセットテープ・榎本滋民氏解説より)

作者三遊亭円朝については、第48話「お若伊之助」に詳しく記述 しています。

■登場人物プロフィール(登場人物が多いので復習すると)
・塩原角右衛門・清
・・・実父母:戸田家の300石家臣。実の父母であったが多助は養子に出された。
・塩原角右衛門・・・養父、実父同名で、養父は上州沼田に300石の田地を有する豪農。多助はそこの養子。
・お亀とお栄・・・養父:塩原角右衛門の後添えお亀と連れ子お栄。多助はお栄と夫婦になった。
・原丹治と息子原丹三郎・・・お亀お栄を暴漢から救い、養父亡き後は家に入り込み不義を働く。丹三郎とお栄は夫婦になるべき祝儀の日、愛馬青の働きで死ぬ。
・円次郎・・・多助の友人。原丹治と息子丹三郎によって多助と間違って殺される。この一件により多助は愛馬青と別れ江戸に出る。
・道連れ小平・・・悪党で多助の路銀を盗む。昌平橋から投身をする原因になる。
・山口屋善右衛門・・・多助が身投げから助けられ、奉公先と定める炭屋主人。
・吉田八右衛門・・・山口屋善右衛門への炭の納入業者のせがれ。掛け金を取りに江戸に来たが、小平に騙され危うく横取りされるところ多助に助けられる。
・お花・・・四つ目小町と呼ばれたが多助に恋慕。富商で父親藤野屋杢左衛門の助言で成就。慎ましい家庭を築き本所一の財産を築く。

豊原国周画「塩原多助一代記」引き幕
  明治25年(1862)1月に歌舞伎座で上演された際のもの。圓朝が菊五郎に贈った物。
 五代目尾上菊五郎が演じる道連小平、多助の愛馬「青」とともに、右上円中には作者の円朝が描かれている。多助、小平一人二役を演じ、興行日を伸ばしたぐらいに人気となった。

■愛馬青との別れの場面;多助は別れの言葉を述べながら決して青の顔を見てはいない。相手は畜生でこちらの言葉の分かる訳はないと思っているから、顔を見ず地びたを見ながらアレコレと心事を述べて嘆いているうちに、ポトリと手綱を握っている多助の手の甲に冷たい馬の涙が落ちた。
 それで初めて気が付いて、「ヤー、わりゃァ泣いてくれたか。かたじけねぇ」と、馬の首ッ玉へしがみついた。青は別れを惜しんで、多助のワラジを踏んづけ、袂に噛みついて離さない。



2.塩原太助の墓

 万年山東陽寺(足立区伊興町狭間877)は曹洞宗で、本尊は釈迦牟尼仏。 慶長16年(1611)8月、江戸京橋八丁堀寺町に創建された。1835年5月、火災により浅草手向野町(現台東区寿町三丁目)に移転大正1219239月、関東大震災で二度目の火災に通い全焼しました。五年後の昭和3年(1928)5月、伊興に移転。そこに塩原家墓石が有ります。

 劇中の人物は「塩原多助」ですが、実在の人物は「塩原太助」と言います。

 太助は1742年、群馬県利根郡新治村に生まれ、幼名を彦七と言いました。1816年没。享年74歳。
  1876年以降、三遊亭円朝が『塩原多助一代記』を執筆、□演してから、太助は有名人になり、戦前、立志伝型人物として、小学校読本(国語教科書)にも掲載されました。
 
 塩原多助は円朝の創作ですが、実人生も大筋では似たようなものです。上京後は日本橋伝間町の味噌屋や神田佐久間町の薪炭間屋山□屋善右衛門方に奉公しました。山□屋の援助で本所相生町に独立して薪炭業を営み、巨財を築きました。右図:本所名物・「竪川塩原」荷下ろしの図。
 後日談として、道路改修や上州赤谷川などの治水工事にも多くの私財を投じました。
 二代目、三代目は不慮の死を遂げ、炭屋塩原家は没落していきます。

 

3.塩原橋(墨田区竪川両国と千歳を結ぶ)
 関東大震災の復興事業の一つとして、昭和3年11月に架けられました。当時は木橋でしたが、昭和29年3月現在の鋼桁橋に架け替えられたものです。橋名は塩原多助が天明元年(1781)当時、本所相生町(両国3丁目 南部)に住んでいたことに因み、名付けられたものです。

塩原太助住居跡;墨田区両国3丁目4−1。当時の本所相生町二丁目、ここに炭屋の店を開いたのです。塩原橋から東方向に歩いて二つ目路地角です。現在はマンションになってしまいましたが、区の説明板が立っています。下写真。

昌平(しょうへい);太助が身を投げようとした所で、ここで山口屋善右衛門に助けられます。
 寛永年間(1624−44)に最初架けられた古い橋です。元禄4年(1691)将軍綱吉が湯島に聖堂を建設した時、相生橋(芋洗橋)と呼ばれていたこの橋は、孔子誕生地の昌平にちなみ昌平橋と改名。現在の橋は昭和3年(1928)12月に架設されたものです。

神田佐久間町(千代田区神田佐久間町);炭問屋山口屋善右衛門に助けられ、そこに奉公したところ。JR秋葉原駅東側昭和通りを渡ったところ。神田川に架かった昌平橋下流、秋葉原の電気街を行くと万世橋、和泉橋を越えたところになります。昌平橋から1km弱の距離です。


4.
津軽稲荷神社(墨田区錦糸1−6)
 青森県弘前城主津軽四郎為信十万石の越中守下屋敷にあった
守護神です。明治43年の大水害に被災し、一万坪の屋敷は消滅し、神社は地元に払い下げられた。祭神は伏見稲荷神社の分身で、現在も錦糸1丁目町会が護っています。津軽大名の豪勢さの一端がここに残っています。
 上屋敷は同じ本所(亀沢2西南とJRを挟んだ緑2西北)にありました。今の緑図書館や緑公園が有る所です。


5.言葉解説
■「5両5粒」;「粒」は小粒金・小粒銀の略。現代の定型郵便切手より左右がやや細目の矩形の貨幣で、額面は一分。四分が1両に兌換するので、5両5分は6両1分です。

■「桐油」(とうゆ。志ん生はなまって”とうい”といっている);桐油紙の略。油桐の種から搾取した乾注油を塗り、防水性をもたせた紙で、雨合羽や物入れなども作る。 この噺では青に掛ける桐油の腹掛け。

■「御膳龍」;料理屋で食品や食器を入れて運ぶ大型の四角な籠。むろん一個でも使うが、2個を組みにする場合が多く、天秤に振り分けで担ぐ。馬の背につける場合は、左右の振り分けで使う。

店者(たなもの)」;商家の奉公人。

■「(ね。午前零時)に臥し寅(とら。午前4時)に起きる」;寝る間も惜しんで精励する形容。

■「越中守(いっちゆうのかみ)」;志ん生の江戸なまり。越中褌の元祖(?)、津軽十万石越中守さま。また、「本所」の(ほんじょう)という発音も、志ん生の江戸なまり。

■「四つ目(よつめ)」;両国橋から数えて竪川には一の橋から六の橋まであった。その四番目の橋を四の橋、それを渡る通りを四つ目通りと言った。今のJR錦糸町駅を南北に走る道です。その四つ目界隈でナンバーワンと言われていたのが四つ目小町ことお花さんであった。 


  舞台の足跡を歩く

 多助が身を投げようとした「昌平橋」 は神田川に架かる、秋葉原電気街の一画にあります。川の周りは土手はなく、垂直に切り立ったコンクリートの塀です。深さはありますので、落っこったら痛いでしょうね。助けられたのが幸いです。この川の下流が万世橋、昭和通りに架かった和泉橋、その下流が美倉橋、その北側総武線の高架を挟んで南北が神田佐久間町です。ここに居た炭問屋山口屋善右衛門方で働くことになります。今は中小の商社や販売店が建ち並んでいます。都心では何処でも同じですが、住宅街と言うより商業地です。

 隅田川を両国橋で渡ります。ここはお相撲さんの街です。部屋は当然複数ありますが、付随したちゃんこ鍋屋、超LLの衣類や履物店が並んでいます。この両国(町)の南側に流れる竪川に架かった橋が 「塩原橋」です。竪川と言っても、上部に高速道路が走っていますので、遠くからでも直ぐ分かります。逆に色気のない風景になってしまいました。両国橋から数えて、一の橋、次がこの塩原橋です。名前でビックリしますがごく普通の橋です。この北側、両国側に竪川に沿って相生町があって、塩原太助の店がありました。ここから北に京葉道路を渡るとJR両国駅、北側に 「両国国技館」、「江戸東京博物館」があります。総武線、東隣が錦糸町駅です。

 総武線の高架伝いに東に行くと、JRを挟んで「緑図書館」、「緑公園」、「野見宿弥神社」が有ります。相撲の神様「野見の宿弥(すくね)」を祀った神社で、隣に初代高砂部屋があって、そこの加護で津軽屋敷跡に明治17年創建された。相撲関係者の信仰厚く歴代横綱の名を刻んだ碑が2基あります。ここが津軽越中守上屋敷が有った所です。緑公園の北側を東西に走る道が葛飾北斎が住んでいたことに因み北斎通り (第68話落語「化け物屋敷」)と呼ばれています。この近所に名人三遊亭圓朝が住んでいました。この北斎通りを東(錦糸町)に進み三つ目通りを通り越して、大横川を渡り、と言っても今は埋め立てられて、大横川親水河川公園と呼ばれています。この先の交差点を渡った左側に津軽稲荷神社が有ります。ここが津軽越中守下屋敷が有った所です。右側は錦糸町再開発地域で最近完成されたホテル、ホール、 商業ビル街が集まって賑やかな雰囲気を出しています。
 この先の、JR錦糸町駅を南北に横切る四つ目通りに、かの美女”お花”さんが住んでいたところです。

 随分歩いてきましたね、疲れませんか、疲れたらタクシーでぎりぎりワンメーターで亀戸天神の境内に建っている、塩原太助が奉納した灯籠を見に行きましょう。境内の神楽殿の南にあります。

 塩原太助の墓は足立区伊興町狭間877・万年山東陽寺(とうようじ)に有ります。入口山門脇に塩原太助古蹟が建っていますので、隣のお寺さんに迷い込むことはないでしょう。なにせ細い道の両脇はお寺さんの行列ですから。
 山門を入ると正面に本堂、その左側を通って墓地の入口に出ます。本堂のカドの部分に
塩原太助の墓が有ります。墓石の正面は旧字体 「鹽原」と入っていますが、墓石は戒名なので判読が出来ません。 (-_-;)  墓石の裏側に原太助墓と刻まれています。

 

地図

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写真

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昌平橋
車道と左右の歩道専用橋の3本で一つの橋になっています。
昌平橋の橋上から撮っていますので、正面奥がお茶の水、鉄道は総武線、左が中央線です。後ろ側が万世橋で、右側一体が秋葉原電気街です。

塩原橋(竪川に架かる一の橋と二の橋の間の橋)
本所相生町に住んでいた塩原太助に因んで付けられた橋名。
本所相生町は今の両国(町)の南側、竪川沿いの細長い町です。橋の向こう側に見える町並みがそうです。

津軽稲荷神社(墨田区錦糸1−6)
津軽越中守の屋敷内にあったお稲荷さんですが、今は町内の守り神です。

   

塩原太助が奉納した「石灯籠」( 江東区亀戸3−6亀戸天満宮境内)
左右一対になっていましたが、今はこの一基になっています。
背丈2m以上はある立派なものです。天明元年(1781)8月17日奉納。

  

塩原太助碑足立区伊興町狭間877万年山東陽寺山門脇)
「塩原太助古蹟」と彫られた石碑が門前に建っています。

 

塩原太助墓足立区伊興町狭間877万年山東陽寺墓所)
左の写真は墓石の裏に彫られた「
太助」本名です。クリックした大きな写真は正面の写真です。
塩原の塩の字が旧書体の
で今ではパソコンで探すのにも骨が折れます。

                                                       2005年10月記

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