落語「死神」の舞台を歩く

  
 

 三遊亭円生の噺、「死神」(しにがみ)によると。
 

  お金の算段も出来ず、女房に悪態をつかれて家を飛び出してきた。女房に言われたとおり、「死んじゃおうか」と思い始めていた。「死に方を教えてあげようか」と死神が現れた。昔からの因縁があるので、金儲けの方法を教えてやる、と言う。
 医者になって、病人を診れば必ず死神が付いている。死神を見えるようにしておいたから、その死神が病人の足元に付いていれば助かる、枕元に座っていたら寿命だから助からない。足元の死神は呪文を唱えれば消えて居なくなり、病人は助かる。その呪文を教えてもらって、自宅に蒲鉾板に『いしゃ』の看板を出した。

 まもなく、日本橋越前屋から使いが来て病人を診てほしいと頼まれた。あまりにも小汚く医者らしくないので、病人を見るだけで、触らせなければいいだろうと言う事で、病人の前に出された。足元に死神が座っていたので、呪文を唱えて全快となった。この噂を聞いた人達が頼みに来ると、良い塩梅に死神は足元にいて治してやった。頭の方に座っていると「寿命です」と言って家を出ると、亡くなるので生き神様ではないかと評判が立った。お陰で、裏長屋から表に出て、生活も豊かになった。

 女を囲うようになって、女房、子供に金を付けて追い出してしまった。女に上方を見たいと言われ、家屋敷を処分して、豪遊に出た。しかし、金は使えば無くなるもので、いつの間にか女は居なくなってしまった。ぼんやり戻ってきたが、どこからも診療の依頼が来なかった。行っても、頭の方に死神が居て、仕事にならなかった。麹町三丁目伊勢屋伝右衛門から使者が来た。

 行くと、頭の方に死神が座っていて、寿命だと言った。そこを、三千両出すからなんとか・・・。では、一月だけでもなんとかなれば一万両出す、と言われて考え込んでしまった。
 気が利いて力持ちの若者4人を寝床の四隅に座らせた。合図をしたら布団をくるっと回して、頭は足元に、足は枕元になるようにしてくれと頼んだ。夜になると死神は目をランランと輝かせ活動していたが、陽が昇り死神も疲れたとみえて、コックリをし始めた。ここぞとばかり合図を送り、布団を回し呪文を唱えた。驚いた死神は飛び上がって消えてしまった。病人はウソのように全快して、お金を貰って帰ってきた。久しぶりに一杯引っかけて、上機嫌で歩いていると死神が声を掛けた。

 死神は男と一緒に洞窟のような所に連れて行った。そこには燃えている蝋燭が沢山あった。蝋燭1本1本が人間の寿命で、くすぶっているのは病人、長いのは寿命があり、短いのは寿命が短いのだと言う。長くて元気に燃えているのは息子で、半分の長さは前の女房であった。
 隣にある蝋燭は今にも消えそうであった。聞くと自分の寿命だという。死神は男の寿命がまだまだ有ると言ったが、それは、お金に目がくらんで患者と蝋燭を交換してしまった為だと言う。
 「金を返すから何とかして」と懇願したが「一度交換したものは出来ない」とつれない返事であった。「昔、因縁があったのでしょう、だったら何とかして・・・」、「では、燃えさしがあるから、これを繋いでみな」。上手く繋がれば命が延びるという。「何でそんなに震えて居るんだ。震えると消ぇるよ。消ぇると死ぬよ」、「そんな事言わないで〜」、「震えると消ぇるよ。へへへ・・・消ぇるよ。・・・消ぇるよ。・・・ほらほら・・・ 、消ぇた」。(バッタッと円生舞台に突っ伏す)

 


1.『靴直しクリスピーノ』
  この噺は、三遊亭圓朝作の創作落語で、イタリアの歌劇『靴直しクリスピーノ』から翻案されたと言われています。
 どの書物を引いても「靴直しクリビスノ」、「靴直しクリビノス」から翻案されたと、紹介されていますが、これは間違い。
 どうやら、研究家が誤記したのか、出版社が誤植したのか、ある紹介者が読み間違えたものを、その後の辞書や解説書が踏襲してしまったようです。

 「靴直しクリスピーノ」の正しいタイトルは「Crispino e la comare ossia Il medico e la morte」〈伊〉( 訳;Crispino【クリスピーノ】 e【and】 la comare【名付け親(代父)】 ossia【または】 Il medico【医者】 e【and】 la morte【死神】)。
ドイツ語で「Crispino und die Gevatterin oder Der Arzt und der Tod」と言います(クリスピーノと名付け親(代父)または医者と死神)。

 オペラ辞典(音楽之友社)から内容を紹介すると、[Crispino e la comare
 リッチ兄弟の4幕オペラ。ファッブリケージ原作、ピアーヴェのイタリア語台本により、1850年作曲、同年2月28日ヴェネチィアで初演された。
概要;舞台は17世紀ヴェネチィア。靴直しクリスピーノ・タッケットは貧乏から死のうとする。そこに女が現れ、彼に医者になるように告げ、病人の近くに自分が立っていなかったら病人は助かる、と言い残して消えた。クリスピーノは妻アンネッタと相談し、医者の看板を揚げ、死神のお陰で評判になる。しかし、金持ちになったクリスピーノはケチになったと妻は嘆き、例の死神を利用して、改心せねば即刻死だと叱りつける。クリスピーノは貧乏で困っている人に財産を分け与える事を約束し、死にかけていたクリスピーノは息を吹き返し、皆も喜ぶ。

■グリム童話「名づけ親の死神」(または、「死神の名付け親」。Der Gevatter Tod
 
落語「死神」の内容は上記のオペラより、グリム童話「名づけ親の死神」の方が、より近い内容です。もしかしたら(いえ、きっと)、こちらの話を
翻案したのかも知れない 、と私は思っています。
概要;子沢山で貧乏人の男が、子供が生まれるので誰かに名付け親になって貰おうと、出掛けました。「貴方は平等に貧乏人でも金持ちでも分け隔て無く連れて行くから、貴方に頼もう」と死神にお願いしました。死神は子供が大きくなったので、森へ連れて行き、医者になれと告げた。「病人のところに行ったならば、私が姿を現し、病人の頭の方に立ったら薬草を飲ませれば治り、足の方に立ったらわしのものだ。決して、わしの心に逆らうような使い方はするな」と教えられた。やがて、世界中で一番有名な医者になった。
 ある時、王様が病気になって出掛けてみると、死神は足の方に立っていた。そこで医者は考えて、王様の頭と足を逆にして、薬草を飲ますと、全快した。怒った死神は今度は見逃してやるが、次ぎにやったら許さないと 宣言した。
 それから間もなく、お姫様が病気になった。姫を助けた者は婿にして跡継ぎにするとお触れを出した。死神は足元にいたが、あまりにも綺麗な姫であったし、王子になれるので、死神との約束を忘れて、助けてしまった。怒った死神は医者を洞窟に連れ込んで、沢山の蝋燭を見せた。命の大きさが蝋燭であった。自分のは消えかかっていたので死神に頼んで付け足して貰おうとしたが、怒っている死神はワザと失敗して、火を消してしまった。
 

■円生はこの噺について「これは題名からしてすでに陰気なのだから、あたくしは前半、死神に会って、医者になり、だんだん裕福になっていくあたりは、特にとぼけて陽気にやっています。この噺はあまり深刻にやると陰気になっちゃいますからね。といって、サゲのところは、凄みがなくちゃいけないし」と語っていた。
 

.医者
 江戸時代の医者は一般的には徒弟制度で、世襲制であったが、誰でもなれた。 しかし、医師免許も教習もなければ資格もなかった。なる資格は”自分が医者だ”という、自覚だけであった。医者になると、姓を名乗り、小刀を腰に差す事が許された。
 日本に医師免許規則が出来たのは、明治16年(1883)になってからで、治療法も東洋医学から西洋医学へと変わっていきました。
 江戸時代の医者は市中で開業している町医者のほか、各藩のお抱え医者、幕府の御典医まで居て、種類、身分、業態は様々であった。医者は大きく分けて、徒歩(かち)医者と駕籠(かご)医者とがあった。つまり、歩いてくる医者と駕籠に乗ってくる医者であった。例えば 文化文政(1804〜1829)の頃、徒歩医者が薬1服(1日分)30文とすると、駕籠医者は車賃を含めて薬1服80〜100文と高価であった。 この頃、職人の手間が400文であった。高くても往診に来てくれと言う、名医であったら、別に食事代も付けたりした。
 医者はこの噺の中にもあったが、当然ご用聞きが出来ず、患者が来るまで待たなくてはいけない。幇間のように金持ちの旦那にべったり付いていた医者もあります。落語の中にはこのクラスの医者がゴマンといます。店(おたな)で病人が出ると、 「あの医者はいけません、本当の医者に診せないと殺されてしまう」、と言う物騒な医者も居ます。また、”ヤブ医者”ならまだしも、ヤブにもならない”タケノコ医者”ではもっと困ったものです。落語「夏の医者」にも出てくる医者は 、忙しくないので、患者が居ない時は畑仕事をしています。薬は葛根湯しか出さない”葛根湯医者”や、何でも手遅れにしてしまう”手遅れ医者”は落語界では大手を振って歩いています。

 料金に公定相場はないので、自分で勝手に付けられましたが、名医ならば患者が門前市をなしますが、ヤブであれば、玄関に蜘蛛の巣が張ってしまうでしょう。で、自然と相場のような値段が付いてきます。またヤブは自然淘汰されていきます。 ですから、無能な者が医者だと言っても長続きはしませんでした。
 江戸の医者で最高の医療費を取ったのは、慶安3年(1650)堀田加賀守を治療した幕府の医官狩野玄竹(げんちく)であった。その金、幕府から千両、堀田家から千両、合わせて二千両であった 、と言われている。


3.
日本橋越前屋
 
現在、日本橋の越前屋さんと言えば日本橋蛎殻町に貸しビル業を営んでいる会社がありますし、日本橋の隣・京橋には手芸店が有ります。でも、当然噺の中の越前屋さんでは有りません。
 噺の中での日本橋越前屋さんは架空のものですが、江戸時代の”越後屋”さんは有りました。かの有名な百貨店の「三越」です。三越をイメージして越後屋を越前屋に変えたのかもしれません。


 現在再現されて三越本店前に出現です。2−3年後には取り壊しの運命にありますが、当時の趣が出ています。

左;越後屋さんのジオラマ
 江戸東京博物館の模型ジオラマ。覗くと店内で商談している様子や、通行人の表情がよく出ています。時間によって昼間、夕刻、等の照明効果があります。

写真をクリックすると大きな写真になります。

 

■麹町三丁目伊勢屋伝右衛門
 
現在、麹町(こうじまち)に伊勢屋さんは有りません。ま、有っても噺の中の伊勢屋ではありませんから、関係ないと言えば関係有りません。
 しかし、この「麹町三丁目伊勢屋伝右衛門」、どこかで聞き覚えがありませんか。
 そうです、第103話「ちきり伊勢屋」で紹介した、主人公伝次郎のお父さんの名前です。
「伝次郎の父、質屋・伊勢屋伝右衛門は、乞食伊勢屋と陰口をきかれるほど、金に執着し一代で巨万の富を築いた。しかし、借金の取り立てで命を縮めた者や、恨みを持つ者も多く、その親の因果が子に報い、伝次郎は来年2月15日死ぬ。」と、名高い易者・白井左近に言われ、信じた伝次郎は番頭の藤兵衛と相談し、商売そっちのけで、施しを始めた。
 その”伊勢屋伝右衛門”です。


4.見立てオチ
 
この話のオチは言葉ではなく、仕草でオチを表していますので、その動作でオチを感じてください。今回は主人公のばったりと倒れる動作によって、オチとしています。
 円生はマクラで、見立てオチの例として、次の噺を紹介しています。

 横町の伊勢屋のこれ(小指を立てる)は、いい女だと言うが、友達のよしみで合わせてくれよ。でも、お前は「必ず欠点を言うからダメだよ」。で、言わない約束で出掛けた。
 合ってみると、いい女であった。「でもな、・・・」と欠点を言い始めた。「申し分ないが、縮れっ毛だと、いいんだが」。そんな事言うな、と言っていると、「きよや、横町の小間物屋でクセ直しを買ってきてちょうだい。私は縮れっ毛なんだから」。
 「でも、あれで足が大きければいいな」、「あ!それから足袋屋に寄ってきてちょうだい。私の足袋は13文だから」。
(13文=32.5cm、わぁ〜大きい )
 「その上、まむし指だったら最高なのだが」、「きよや、早く行かないと、まむし指でツネルよ」。もう、これ以上はないだろうと思っていると、
 「あれで、もう少し鼻の下が長ければいいのだがな〜」、と言っていると、
お盆にお茶を乗せて「お茶をおあがんなさい」。

 
舞台を見ている観客は充分に分かって、大笑いしています。これが、見立てオチです。え!分からない!はい、分かる方法があります。鼻の下を伸ばしながら、この最後の台詞を言ってください。分かるでしょ。円生もその様に言い立てています。

 他にも、「首提灯」、落っことしては大変と自分の首を提灯のようにヒョイと差し上げ「はいゴメン、はいゴメン、はいゴメン!」。にらみ返し」、暮れの掛け取り撃退に、無言でにらみつけて追い返してしまう。「蒟蒻問答」、こんにゃく屋の親方が、住職になりすまし、禅問答を繰り広げる。等が直ぐに出てくる有名な噺達です。
 この三噺が「見立てオチ三大噺」と言います。ウソですよ〜、ジョークですよ〜。そんな言葉はありませんよ〜。

 


  舞台の日本橋を歩く

 麹町三丁目は第103話「ちきり伊勢屋」で歩いたところです。伊勢屋伝右衛門さんも居ないので場所を変えます。

 日本橋越前屋さんに行きます。前段でも説明したとおり、越前屋ではなく越後屋さんを訪ねます。
 現・三越は延宝元年(1673)、本町1丁目に呉服屋「越後屋」を創業。明治26年(1893)、越後屋を「合名会社三井呉服店」に改組。明治37年(1904)、「株式会社三越呉服店」に、そして、昭和3年(1928)、「株式会社三越」に商号変更しています。
 東京で一番古い地下鉄銀座線、「三越前」駅で降ります。この駅名三越前という私企業名が付いているのはここだけでしょう。寺院名や新宿御苑前、国会議事堂前という駅はありますが、まぁ引っ越したり倒産する事はないでしょうが、いち百貨店の名前を駅名に付けたのは、よっぽど力があったのか、他に名前の替わりが無かったかでしょうか。私の不思議のひとつです。 (末尾に解アリ)

 日本橋はご存じ、東海道の起点でもあり、日本道路網の基点でもあります。ここにゼロポスト、「日本国道路元標」が橋の中央に埋め込まれています。
 日本橋から日本橋川に沿って東に江戸橋に掛けては魚河岸がありました。その河岸が築地に移って、跡の碑が橋の北東の小さな公園(空地)の中に有ります。その河岸の若い者が料亭「百川(ももかわ)」で失敗する話は落語にもなっています。河岸があった影響でしょうか、 三越の前には刃物屋さんや鰹節屋さん、海苔屋さんの老舗が並んでいます。

 出来たばかりの三越新館が日本橋の真ん前に立ちはだかっています。その奥、三越本館は東京都から「東京都選定歴史的建造物」に選ばれています。そのレリーフが、ライオンの彫刻がある正面入口の横の壁面に埋め込まれています。このライオンはテカテカと光っていますが、これは親たちが子供をこの背中に乗せて 、またがせるからなのです。私も小さい時に乗った経験がありますが、私の子供にはやっていません。
 屋上に上がると何の変哲もありません。植木屋さんコーナー、三囲(みめぐり)神社が有るだけで殺風景です。私の子供時分は遊園地のようになっていて、屋上に行くのが楽しみでした。乗り物に乗ったり、望遠鏡で遠くを見たり、それは楽しいものでした。それが、今は全くありません。


「三越前駅」のいきさつについて、読者の小松氏から次のような回答をいただきました。有り難うございます。
 元々は、地下鉄・銀座線の前身である東京地下鉄道が、資金難を理由に、駅の名称を近くの三越本店とするのを条件にして三越より資金提供を受け、昭和7年(1932)4月29日 開業させた駅です。
 この駅を含め銀座線の上野広小路駅より銀座駅までの区間は、このようにして百貨店より駅建設資金の提供を受けて建設されてきた駅もあるため、アナウンスには、近くの著名なデパートの名前が今でもアナウンスされています。
 なお、半蔵門線が三越前駅までの開業であった時代、当時、日本橋に東急百貨店を有していた東急はライバル店の名前を行き先に表示させられることとなった。その為、自社線内では「渋谷方面」や「半蔵門線直通電車」等のアナウンスを行った。
 また、昭和47年(1972)7月15日JR(国鉄)の新日本橋駅が開業した際、JR東日本(国鉄)は三越に三越前の駅名を使うかどうかを打診したが、三越は東京メトロ(営団)が使っているためJRの使用は無理とJRに通告したため急遽日本橋に新幹線等で使われる「新」を追加して新日本橋駅とした。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%B6%8A%E5%89%8D%E9%A7%85 「三越前」駅より

 

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 
 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

  

日本橋三越本店新館(日本橋室町1−4)
ルネッサンス様式の威容を誇る三越本店本館の建物は、昭和10年(1935)、6年の歳月を費やし増築改修されたもので、完成当時は「国会議事堂」「丸ビル」に次ぐ大建築でした。
なかでも、採光天井の下にフランス産赤斑大理石とイタリア産卵黄色大理石を張りつめた中央ホールは花園のような美しさです。完成以後60年以上が経過し、平成11年(1999)4月には日本橋地区の顔として東京都から「東京都選定歴史的建造物」に選ばれました。(三越ホームページより
写真は日本橋から見た、オープンしたての新館で、この向こうが本館です。

三越本店屋上の三囲(みめぐり)神社
向島・隅田公園のそばにある「三囲神社」には宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)が祀られており、越後屋が江戸に店を出したときからの守護神、鬼門除けの神とされる。本店本館屋上をはじめ、現在三越各店屋上にある神社は、その分霊となっております。 (三越ホームページより)

「ライオン像」
待ち合わせの場所として親しまれながら、本館正面玄関でお客様を迎える2頭の「ライオン像」。この像が誕生したのは大正3年(1914)のことです。
この「ライオン像」の注文主は、三越百貨店の基礎を築いたとされる支配人、日比翁助。その日比が百貨店開設の準備のため欧米を視察したときにイギリスで注文したものです。
ロンドンのトラファルガー広場にあるネルソン記念塔の下の4頭の獅子像がモデルとされ、英国の彫刻家メリフィールドが型どり、バルトンが鋳造したものです。
完成までに3年の歳月を要したこの仕事はイギリスの彫刻界でも相当な話題となりました。(三越ホームページより)

天女(まごころ)像
1階ホールから、吹き抜けの4階に届くようにそびえる壮大な天女の像。この像が完成したのは昭和35年(1960)のことです。
この像は、三越のお客様に対する基本理念「まごころ」をシンボリックに表現する像として「まごころ像」ともいわれ、三越本店の象徴ともいえる存在です。
製作にあたったのは名匠・佐藤玄々先生。京都の妙心寺内にあるアトリエで、多くのお弟子さんとともに「構想・下絵・原形・試作」という数々の行程を経ながら、完成までには約10年の歳月を要しました。(三越ホームページより)

麹(こうじ)町三丁目 
新宿通りに面した細長い街で、皇居の半蔵門からJR四谷駅まで有ります。3丁目は丁度中程で、地下鉄有楽町線・麹町駅が交差しています。
前方が四谷です。

麹町4丁目交差点
左右に新宿通が走り、前方はJR市ヶ谷駅があります。今は”汐留”に引っ越した日本テレビが右側に有ります。この通りを日テレ通りと言います。

                                                              2005年7月記

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