落語「黄金餅」の舞台を歩く
 

  
 三遊亭円朝作
 古今亭志ん生の噺「黄金餅(こがねもち)」によると、
 

 下谷の山崎町の裏長屋に、薬を買うのも嫌だというケチの”西念”という乞食坊主が住んで居た。隣に住む金山寺味噌を売る”金兵衛”が、身体を壊して寝ている西念を見舞い、食べたいという餡ころ餅を買ってやるが、家に帰れと言う。隣に帰って壁から覗くと、西念があんこを出して、そこに貯めた2分金や1分金を詰め込んで、一つずつ全部、丸飲みしてしまう。
 急に苦しみだしてそのまま死んでしまった。金兵衛は飲み込んだ金を取り出したく工夫をするが出来ず。焼き場で骨揚げ時に、金を取り出してしまおうと、決意する。
 漬け物ダルに納め、貧乏仲間なもので夜の内に、葬列を出して、下谷の山崎町を出まして、
〜下の道順〜、
麻布絶口釜無村の垣根も壊れたようなボロ寺木蓮寺へ着いた。

 そこの和尚は金兵衛と懇意だが、ぐうたらで、今夜もへべれけになっている。 百か日仕切りまで天保銭五枚で手を打って、和尚は怪しげなお経をあげる。 
  「金魚金魚、みィ金魚はァなの金魚いい金魚、中の金魚セコ金魚あァとの金魚出目金魚。 虎が泣く虎が泣く、虎が泣いては大変だ・・・、犬の子がァ、チーン。 なんじ元来ヒョットコのごとし、君と別れて松原行けば松の露やら涙やら。 アジャラカナトセノキュウライス、テケレッツノパ」 なにを言ってるんだか、わからない。
 仲間には新橋に夜通しやっている所があるから、そこで飲って、自分で金を払って帰ってくれと。

 桐ヶ谷の焼き場に一人で担いで持ってきた。朝一番で焼いて、腹は生焼けにしてくれと脅かしながら頼み、新橋で朝まで時間を潰してから、桐ヶ谷まで戻り、遺言だから俺一人で骨揚げするからと言い、持ってきたアジ切り包丁で切り開き、金だけを奪い取って、骨はそのまま、焼き場の金も払わず出て行ってしまう。

 その金で、目黒に餅屋を開いてたいそう繁盛したという。江戸の名物「黄金餅」の由来でございます。
 

 

 こう書いてくると大変、陰惨な話(その通りであるが)で、暗くなってしまうが、演者志ん生の力で、全編笑いの渦となる。そうかそうかと納得させられてしまう。 談志は凄惨な部分はそのままに、凄みと笑いのギャップを演じきっている。
 



1.道順、志ん生の道順によると
 下谷の山崎町を出まして、あれから上野の山下に出て、三枚橋から上野広小路に出まして、御成街道から五軒町へ出て、そのころ、堀様と鳥居様というお屋敷の前をまっ直ぐに、筋違(すじかい)御門から大通り出まして、神田須田町へ出て、新石町から鍋町、鍛冶町へ出まして、今川橋から本白銀(ほんしろがね)町へ出まして、石町へ出て、本町、室町から、日本橋を渡りまして、通(とおり)四丁目へ出まして、中橋、南伝馬町、あれから京橋を渡りましてまっつぐに尾張町、新橋を右に切れまして、土橋から久保町へ出まして、新(あたらし)橋の通りをまっすぐに、愛宕下へ出まして、天徳寺を抜けまして、西ノ久保から神谷町、飯倉(いいくら)六丁目へ出て、坂を上がって飯倉片町、そのころ、おかめ団子という団子屋の前をまっすぐに、麻布の永坂を降りまして、十番へ出て、大黒坂から一本松、麻布絶口釜無村(あざぶぜっこうかまなしむら)の木蓮寺へ来た。みんな疲れたが、私(志ん生)もくたびれた。

■現代の地名と対比させると、(カッコ内、現住所
下谷山崎町(もと万年町。現、東上野4丁目、北上野1丁目)〜上野山下(JR上野駅正面)〜三枚橋(下記説明)〜上野広小路(上野4丁目3.4.5.8番、左JR御徒町駅、アメヤ横町)〜御成街道(筋違御門から北の中央通り)〜五軒町(外神田5.6丁目)〜堀様(堀 左京亮屋敷、外神田3丁目 末広町交差点先右)と鳥居様(鳥居丹波守屋敷、上野3丁目中央通り寄り)というお屋敷の前(左手、鳥居様が手前で堀様はその先右手になる)〜筋違(すじかい)御門(神田須田町の北、万世橋際の見附)〜大通り(中央通り)〜神田須田町()〜新石(しんこく)町(須田町交差点左角)〜鍋町(神田須田町1丁目の南、右手)〜鍛冶町(同、JR神田駅周辺)〜今川橋(鍛冶町と日本橋室町の境)〜本白銀(ほんしろがね)町(日本橋本石町4丁目と日本橋室町4丁目と日本橋本町4丁目)〜石町(日本橋本石町)〜本町(日本橋本町)〜室町(日本橋室町)〜日本橋()を渡り〜通(とおり)四丁目(日本橋1〜3丁目)〜中橋(八重州通り・通り三丁目交差点、右に行くと東京駅)〜南伝馬町(京橋1〜3丁目)〜京橋(京橋3丁目南・首都高速のガード下)を渡り尾張町(銀座5,6丁目)〜新橋(銀座8丁目・首都高速のガード下)を右に切れ、土橋(同、JR新橋駅北側)〜久保町(西新橋1丁目)〜新(あたらし)橋(旧外堀に架かっていた橋、イイノホールの有るビルの南角)の通りを(左に曲がり)まっすぐに、愛宕下(愛宕山の東側の道)〜天徳寺(虎ノ門3丁目、愛宕山裏)〜西ノ久保(虎ノ門5丁目)〜神谷町(地下鉄日比谷線神谷町駅)〜飯倉(いいくら)六丁目(麻布台2丁目、ロシア大使館前、狸穴(まみあな)交差点)〜飯倉片町(麻布台3丁目、首都高速下)〜おかめ団子屋の前(六本木5-18-1)〜麻布永坂()〜十番(麻布十番)〜大黒坂(元麻布1丁目)〜一本松()〜麻布絶口釜無村(麻布絶江坂付近?)の木蓮寺(空想上の寺)へ。 

 41ヶ所地名を並べている。現代、車で行くと、12.7km、。歩くとすれば、約3時間。
 口上筆記本を見て参考にしていますが、麻布絶口の文字はここから取りました。現在の土地名では絶江と成っています。(口と江が違います)

■三枚橋について、不忍池南端から東に流れ出した忍川に架かった橋だが、三枚橋はそれより下流、今の昭和通りに一枚橋と、それとJRに挟まれた中間に三枚橋が忍川に架かっていた。御成街道(中央通り)に架かっていたのは「三橋(みはし)」で、わざわざ遠回りして行ったとは思えず、演者の間違いであろう。「三橋」は今の上野鈴本演芸場の北側の交差点辺りに架かっていたもの。
 三橋については、台東区のホームページに写真と説明があります。

■さんまいばし【三枚橋】について読者の阿野二鱒さんから御教示いただきました。アリガトウございます。
 
(1)下谷御徒町の入口近くにある忍ぶ川に架かる三つの橋。(三枚橋)
 (2)下谷広小路(東叡山黒門前)の忍ぶ川に架かる三つの小橋。正しくは三橋(御橋)なるを(1)と混同していう。
 安永八年・呼子鳥「(こゝにあるのはあんといふはしだ)これは三まいばしといふはさ」で、用例の『呼子鳥』を読んでみると、

 「これは三まいはしといふはしさ」
 「壱まいではまにあわぬか」
 「中のはおくぼうさまのわたらしやるはしこちらのお町人のわたるはしこれがおこじきのわたるはし」

というセリフから、たしかに三橋を三枚橋と混同しているのがわかります。
 古今亭志ん生は「黄金餅」で三橋のことを三枚橋と言っているようですが、すでに江戸時代から混同されていたんですね。
 しばしば志ん生の間違いと言われてきた問題ですが、どうもそれだけではないような……。

引用文献:
前田勇編『江戸語の辞典』 講談社学術文庫
鷺烏亭『呼子鳥』(洒落本大成編集委員会編『洒落本大成 第8巻』 中央公論社、p.271)

2007.02追記

■三橋
  
  

 江戸が明治になるきっかけになった、彰義隊と官軍の戦いを描いた2枚の絵が残っています。この戦争で上野の山の寛永寺は五重の塔と清水観音堂等が残っただけで焼失してしまい公園になってしまいました。この二枚の絵図に描かれた三橋をご覧下さい。「上野繁昌史・続」より、資料提供;華笑山さん
それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。2007.02追記


2.道順、談志の道順によると

 ワーワー言いながら下谷の山崎町を出た。上野の山下を回って上野の広小路、新黒門町から御成(おなり)街道を真っ直ぐに五軒町へ出る。当時、堀丹波守様(下記注)というお屋敷がありましたそうで、この前を通って旅籠町へ出る。仲町、花房町、筋違(すじかい)御門から大通りへ出る。神田へ出てまいりまして、新石(しんこく)町、須田町、鍋町、鍛冶町、乗物町、今川橋を渡って本白銀(ほんしろがね)町へ出る。石町(こくちょう)から本町、室町から日本橋を渡って通り3丁目、中橋から南伝馬町へ出る。京橋を渡って真っ直ぐに銀座四丁を突き抜ける。尾張町、竹川町、出雲町。新橋の手前を右に切れまして、土橋を渡って、兼方(けんぼう)町へ来る。久保町へ出る。新(あたら)し橋の通りを真っ直ぐに、左に曲がって愛宕下から天徳寺へ抜ける。西の久保から神谷町、飯倉の坂ぁ上がって、六丁目から飯倉片町へかかって、狸穴(まみあな)の通りへやって来る。右に上杉様 (上杉駿河守)のお屋敷を見ながら、左に、当時流行った”おかめ団子”という評判の団子屋の前を通り、左に麻布の永坂下って麻布十番に出た。坂下町から大黒坂登って、一本松から麻布絶口釜無村の木蓮寺に着いた。時には連中「疲(くた)びれた・・・」 、そういう私(談志)もくたびれた。テープから起こしている私(吟醸)もくたびれた。

堀丹波守様;江戸後期、文久2年(1862)の切り絵図を見ると、堀様は堀左京亮で、丹波守様は鳥居丹波守様です。しかし、それより6年前、安政3年(1856)版で見ると堀様は丹波守様で、鳥居様の屋敷はまだ井上筑後守屋敷です。
 

3.焼き場まで
 
麻布絶口釜無村の木蓮寺から、桐ヶ谷の焼き場(桐ヶ谷葬祭場、品川区西五反田5−32。今は、立派になって、営業を続けている)まで一人で樽を担いで持って行った。
 この区間、地図上の直線でも4kmも有る(車の実測で4.8km)。約1里(4km)は有るであろう。金兵衛さん、欲が絡んでいるが、60kg以上の荷を担いで大変な健脚であった。
 まだこれでお終いではない。これから、まだ歩くのである。真っ暗な夜道をである。
 

4.時間つぶし
 桐ヶ谷の焼き場から新橋に戻り、いっぱい飲ってから、また桐ヶ谷の焼き場まで戻った。片道約9km(車の実測で8.8km)ある。往復約18km(4.5里。1里を約1時間で歩いたとして4時間半?も)、執念とは恐ろしい。脱帽。

 全行程、台東区(下谷山崎町)〜千代田区〜中央区〜港区(木蓮寺)〜品川区(桐ヶ谷)〜港区(新橋)〜品川区(桐ヶ谷)。 うー、すごい!これだけで旅行記が書ける。
 全行程35.1km、歩いた時間にすると9時間弱。木蓮寺、桐ヶ谷や新橋で飲っていた時間はこの中には入っていない。

 三遊亭円朝の演じたという速記が残っていますが、これだと裏長屋は芝将監殿橋(しやうげんどのばし)の際となっています。この橋は古川に架かる橋で金杉橋が有った、その一つ上流に架かる橋で、現在も将監橋としてあります。
 当時は、芝新網町(浜松町二丁目)、下谷山崎町、四谷鮫ヶ橋(青山御所前)が、江戸の三大貧民窟だった。芝金杉橋は旧東海道に架かる橋で、メインストリートです。 金兵衛や西念の住む長屋がどれほどすさまじく貧乏であるかを、われわれに伝えています。 円朝の速記だと、ホトケを芝金杉から麻布まで運ぶので違和感はない。距離にして2km程度。
 しかし、この噺は道順の言い立てが見せ場なので、貧民窟でも、一番遠い下谷山崎町にしたのではないかと思います。
 

5.「おかめ団子」(港区六本木5丁目-18)
 
外苑東通り首都高環状線の高架下の飯倉片町交差点を過ぎて最初の路地角に有ったお団子屋。今の飯倉片町交差点は、東京オリンピック後に開通した道路で、当時道路は無く、その先の角から曲がり、永坂を下った。オリンピックの頃までこの地を飯倉片町と言ったが、今は六本木の地名に変わっている。お爺さんの代には、魚屋さんが有ったという。
 江戸で家康の代から明治初年まで繁盛した。約300年続いた老舗である。珍しい亀を軒先に置き、それを見たさに客が来るので、団子屋を始めた。たいそう繁盛し、亀団子と言われたが、後に女房の顔からおかめ団子と改めた。ここまでが実話。団子屋とは関係ないが、近くに同名の坂、「おかめ坂」が有る。

 落語「おかめ団子」にも登場する。詳しくは第288話で詳しく書いています。
  噺は親孝行の大根売りの若者、多助が、病気の母親に柔らかい布団を買ってやりたくて、時々寄る団子屋に泥棒に入る。看板娘の”お亀”さんは気に入らぬ婿さんを押しつけられ、首を吊ろうとしたところを助けられる。多助は起きてきたそこの主人に全てを話し、許され、娘の命の恩人だからと、団子屋の養子になる。お亀さん、母親ともども幸せに暮らした。 とさ。

6.実際に有った話『真佐木のかつら』(嘉永末年)に拠った。
  
四谷伝馬町三丁目の裏長屋に、独り暮らしの老人が住んでいた。日雇いの仕事をしてどうにか暮らしを成り立たせていたが、ある年の冬、病気になって寝込んでしまった。
  身寄りの者もないとのことなので、長屋の連中がなにくれと世話を焼き、医師を呼んだり、薬を煎じて飲ませたりしたが、衰弱していくいっぽうだった。日が暮れてから、老人が隣室との境の壁をたたいた。その音を聞いて、隣人が老人のもとに行った。 「どうしたね。苦しいのかね」 「もう、わしの命は今夜かぎりであろう。せめてものこの世の思い出に、団子を食いたい。どうか、団子を買ってきてくれ」 「ここ四、五日というもの、ろくに食べてもいないのに、急に団子などを食べてはよくなかろう」 「せめて団子を食って死にたいのじゃ。頼みます」。寝たまま、老人が両手を合わせて拝む。やむなく、隣人はまだ店を開いている団子屋をさがしあて、買って戻った。
  団子を見るや、老人は礼を述べるでもなく、「そこに置いて、おまえさんは帰ってくれ」 と、そっけない。隣人はムッとしたが、仕方なくわが家に戻った。しばらくして、老人のことが気になり、「具合はどうだね」と、様子をのぞいてみると、老人はすでに息絶えていた。「大変だ、誰か来てくれ」その声を聞きつけ、長屋の連中が集ってきた。「団子を喉に詰まらせたに違いないぜ」 そこで、ひとりが水を汲んできて飲ませようとしたが、喉を通らない。もうひとりが、老人の背中を強く叩いた。すると、口から団子が飛び出した。飛び出した団子を見ると、中に一分金が入っている。みなは驚き、食べ残した団子を調べてみると、すべて中に一分金が押し込まれていた。
  老人はもともと、北国の出身だったという。貧しい生活のなかでコツコツと金をためていた。自分の死期をさとり、ためた金をこの世に残していくことが無念だったのであろう。

  まるで、この話は『黄金餅』とそっくり。もしかしたら、円朝作『黄金餅』はこの事件をもとにしているのかもしれない。
江戸の醜聞愚行』 永井義男 より  


 
 
葬列の道順に歩く
 

 下谷の山崎町、談志が言うには万年町に変わり今の地名になったといいます。ここは地上げの一番激しかった所で未だ更地が沢山あり、町会としての機能が成り立たない位だと言われます。貧乏町より歯抜け町になっている。山崎町を出まして、まっつぐに南下しますてーと、上野駅。ここを回り込んで、中央通りに出ます。上野公園の西郷さんの下を通り、右に上野鈴本演芸場、上野広小路。
 左に松坂屋デパート、秋葉原の電気街を抜けて、肉の万世、須田町に出ますと左に果物屋の万惣、間もなくJRのガード。ガードをくぐると右手神田駅、今川橋、室町、 三越本店のライオンを見て、首都高の下の日本橋を渡り、日本橋交差点。手前左に東急デパート(前、白木屋)跡の更地、その先に高島屋デパート、通り三丁目の交差点、右を見れば東京駅八重州口。京橋、首都高の橋をくぐり、銀座の街に1丁目から8丁目まで流石賑わっています。
 またまた首都高の橋(新橋)の手前博品館を右折首都高に沿って土橋、左折し、外堀通りに出て右に。正面左手新橋駅、上のガードには新幹線から東海道線山手線など動脈が走っています。日比谷通りを横切り次の交差点、新し橋の通りを左折、森ビルの多さに驚き、愛宕下をぐるりと巻いて、神谷町に出て左折。
 桜田通りすぐの交差点飯倉を右折。坂を上がり後ろに東京タワーを従えて、左手にロシア大使館、間もなく飯倉片町の交差点。(角のおかめ団子屋跡のビルはその先路地の角)、左に曲がり坂を下って麻布永坂、蕎麦屋の更科本店を右に見て、麻布十番。ここは都営大江戸線が最近開通したので華やいでいます。
 一の橋交差点を右折して大黒坂を上がりたいのですが、一方通行の出口、手前の道を入り、間もなく左折して、大黒坂の中程に出ます。ここからは交互通行、上がりきった左に、一本松 。三代目の松が1本植えられていました。
 仙台坂上を左折、次の信号右折、道が狭くなってきました。行ける所まで行くと三の橋交差点。手前の一方通行の出口を歩いて入ると、右手に曹溪寺(港区南麻布2丁目9−22)。門前の公園が絶江児童遊園、戻ってその先、墓地裏が絶江坂。ここまで、12.7km。

 疲れたはずです。 「とむらいを麻布と聞いて人頼み」という川柳があります。それほど草深く、遠くて楽しみ(?)がなかった。反対に、「とむらいを山谷と聞いて親父ゆき」、寺が多かった山谷は、吉原(遊郭)の近くにあったし、また隣町はコツと呼ばれた南千住の岡場所(遊郭)があった。息子をやったら何時帰るか心配であり、それなら自分が行った方が・・・。

 この後、第二京浜に出て南下。古川橋、明治学院前、高輪台、五反田駅、西五反田8丁目の交差点を右折。中原街道を横切り、その先の右側、桐ヶ谷の葬儀場(品川区西五反田5−32)。近代的な建物で陰気なところは微塵も有りません。ここまで総延長17.5km。

 ここから寄り道しないでますぐに、新橋まで飲みに行きます。着いて、ここまで総延長26.3km。
 夜が明ける前に、桐ヶ谷に戻るために出発です。桐ヶ谷まで8.8km。総延長35.1kmにもなります。
ああ、疲れた一夜が、終わろうとしています。私は昼間、車でよかった。

 この噺で腑に落ちないところがあります。
1.今までの説明で判りますが、桐ヶ谷の焼き場までは、どんなことが有ろうと行かなければなりません。そこまでは許します。しかし、時間潰しに新橋まで戻って1杯やるのは、どんなものでしょうか。歩くのは良いでしょうが、時間的に不可能に近いのではないでしょうか。焼き場の近くで、ウソでも飲みながら待つのが自然ではないでしょうか。「富久」で文楽が火事場を芝では遠すぎるとして横山町に変更して演じたりしている。また、「堀之内」で御祖師様の参拝帰りに一般的な善男は新宿に寄り道して帰るのが普通であった。その距離、往復23km。今回、荷物を背負って真黒の夜道に35km強はちと不自然である。

2.深夜、江戸の市中をこれだけ移動できるものであったか。当時の警備として、番所、見附、大木戸などがあり、深夜の移動は大変困難であったと思われるが。

 

地図

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写真

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室町(むろまち)
中央通り、日本橋手前の街。
右手のビルが、三越本店。正面首都高速道路、その下が日本橋。その向こうが、こげ茶色の建物が野村証券本社。その向こう赤っぽいビル、ふとんの西川。
その先、京橋から銀座に通じる。
土橋(どばし)
昔外堀があって、そこに架けられていた橋だが、外堀が埋め立てられて、その上にショッピングセンターが建ち、屋上がつながっていてそれがすなわち、首都高速道路になった。新橋も同じ。下でなく、上を見ると橋名が書いてある。
愛宕下
右手手前の奥にかろうじて愛宕山の一部が見える。手前の大きなビル群に遮られて、気にしないと通り過ぎてしまう。頂上には愛宕神社とNHKが初めて電波を出した記念すべき所で、今は放送記念館がある。中央のビルの左側に東京タワーが上だけ見える。
おかめ団子(港区六本木5-18-1)と永坂
首都高環状線の高架下の飯倉片町交差点角でなく、その先の路地の角に有ったお団子屋。今は碑が有るわけでもなく、そうだったのかと、心の中で繰り返すのみである。ここで生まれた60歳代のビルオーナーに伺っても判らないとのこと。江戸は過去の彼方に。
曹溪寺(港区南麻布2丁目9−22)
建て替えしてまだ間もない純和風の本堂がまぶしい。良き寺の風情を醸している。この近くに麻布絶江釜無村の木蓮寺が有ったのであろうか。この寺には赤穂浪士”寺坂吉右衛門信行”の墓がある。四十七士の内で只一人生き残った浪士で、討ち入り後報告に故国まで使者として向かった。後年この寺に身を寄せ、83才まで生きた。
麻布絶江
承応2年(1654)坂の東側に赤坂から曹溪寺が移転してきた。初代和尚絶江が名僧で付近の地名となり、坂名にもなった。
絶江坂の左右はお寺さんの行列。さながらお寺さんの品評会場。
新橋で一杯
新橋駅の周辺は今でもサラリーマンの憩いの赤提灯街で、夜遅くまで、賑わっている。
この写真は直ぐ隣の、夜の歓楽街銀座8丁目である。
昼の写真は感じが出ないが、夜ともなると車で通りが埋まり、人で溢れる。一つのビルに2〜30のスナックが入っているのは当たり前の所である。高いから金兵衛さんには敷居が高すぎるかも。

                                                   2001年1月記

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