五街道雲助の噺、柳家金語楼(有崎勉)作、「身投げ屋」(みなげや)によると。
1.両国橋(りょうごくばし)
「東都両国夕涼之図」歌川貞房画 江戸東京博物館蔵 夏場は花火見物でこんなに混雑しているのに・・・
江戸時代、大川(隅田川)に最初に架かった橋。中央区東日本橋と墨田区両国を結び、京葉道路を渡す。
鳥文斎栄之画「隅田川風物図屏風」左翼部分 左が上流で吾妻橋、右が両国橋。文政9年(1826)
明治8年(1875)に架けられた木造最期の両国橋。
■吾妻橋(あずまばし);隅田川に架かる橋で、台東区浅草と墨田区吾妻橋を渡す。落語国では「心中の本場が向島、身投げをするのが吾妻橋、犬に食いつかれるのが谷中の天王寺、首くくりが赤坂の食い違い」と、円生は噺の中で言っています。その吾妻橋ですが、安心してください、心中の噺の中では飛び込んだ人物は一人もいません。落語「星野屋」で星野屋の旦那がここから飛び込みますが、死ぬつもりは毛頭無く、泳げる上に橋下に船を待たせてあった。江戸時代大川(隅田川)に架かる橋は4橋で、架かった順に両国橋、新大橋、永代橋、それにここ吾妻橋です。それが明治まで続きました。
■赤羽(あかばね);JR京浜東北線の都内最北端に位置し、北区赤羽にある駅。当時の乗車賃が分かりませんが、どんなにかかっても1円で何往復も出来たでしょう。高い100円でした。
落語「代書屋」では、履歴書に記した職業が、
・「減り止め売り」;下駄の歯の下に歯の減るのを防ぐゴムなどの、薄板を張り付ける商売。またそれをする商人。ゴムの変わりに金属板の事もあった。
・「ポン(pon)屋」;お米を圧力釜に入れて加熱・加圧し、急激に圧力を下げると、膨らんだ米粒が飛び出しおやつとして食べられた。圧力釜の蓋を急激に外すので、この時大きなポンという音がしたところからの命名。関東でもちょくちょく見られました。
・「がたろ」;本来は河童の意味であるが、転じて西日本の俗語で、川底やごみ捨て場の土砂をふるって金属などを回収する者(淘屋(よなげや)という)。胸までの長靴を履いて川に入り、金物などをさらった。
などが出てきます。上方では変わった仕事がたっぷりです。
また、落語「動物園」では本物の皮をかぶった「トラ」や「ライオン」が移動動物園で活躍しています。
■物拾い;「西鶴諸国ばなし」巻五には次のような話があります。
3.言葉
飛び降りでは、京都清水寺の古文書「成就院日記」から、
■南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ);俗に『なまんだぶ』、『なんまいだー』としばしば唱えられる。落語では心中や身投げなど、死にに行く時に一番似合う念仏。
落語「小言幸兵衛」では『南無妙法蓮華経』では雰囲気がでないと大家がこぼす場面があります。
■市電の回数券;市電とは東京市中を走る電車。この言葉で時代が分かります。東京市が東京都に変わるのは太平洋戦争真っ只中、昭和18年(1943)12月です。それ以後市電は都電と呼称が変わります。
西洋風の96間(約210m)の橋であったが、この木橋は明治30年(1897)8月10日の花火大会の最中に、群集の重みに耐え切れず10mにわたって欄干が崩落してしまう。死者は十数名にもおよび、明治の世に入ってからの事故ということで、これにより改めて鉄橋へと架け替えが行われることが決定する。
関東大震災で損傷の無かった中央部を再利用して南高橋に生まれ変わりました。
落語「幸助餅」にその写真があります。
そして現在の橋です。西詰から見た景観で、現在の両国には丸いドームの国技館が見えます。川面には1銭蒸気船が運航されています。昭和10年頃撮影 墨田区緑図書館蔵
吾妻橋も落語の中に出てくる回数ではトップクラスの有名橋です。浅草という歓楽街と対岸の本所を結ぶ重要な橋となっています。心中で有名な橋として紹介されますが、困った肩書きが付いてしまったものです。
そのために明治20年(1887)12月に隅田川最初の鉄橋として再架橋された。鋼製プラットトラス橋で、人道橋、車道橋、鉄道(東京市電)橋の3本が平行して架けられていた。
後に関東大震災によって木製だった橋板が焼け落ちてしまい、一時的な補修の後昭和6年(1931)に現在の橋に架け替えられた。
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2010年12月記 |
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