落語「身投げ屋」の舞台を歩く
   

 

 五街道雲助の噺、柳家金語楼(有崎勉)作、「身投げ屋」(みなげや)によると。
 

 不景気になると珍商売が多くなるものです。地面を見ながら歩いているので聞くとがま口を探しているという。1円札が10枚入っているがま口を拾いたいという。だから地見屋という。そんなのみっともないから両国橋に行って身投げ屋になれという。本当に飛び込んだら死んじゃうから、相手の間合いを決めて、死ぬ振りをする。相手は事情を尋ねるだろうから、これだけお金がなければならないと訴えれば、どんな人間でもお金を恵んでくれる。しかし、相手を見て、お金を持っていそうな態度から言い出す金額を決めるのが大切。と教えられ、両国橋に深夜12時過ぎにやってきた。

 止めてもらえるなら、立派な人と・・・、洋服に帽子を被った人がいるから・・・、お巡りさんだった。あぶなく交番に連れて行かれてしまう所だった。
 次を探すと、外套を着た恰幅の良い紳士がやってきた。止めてくれて、経緯を話すとお金なら何とかしようと言う有り難い話。金持ちそうだからと値踏みをして200円と言ったら、支払いを済ませた後だからと100円を出した。100円ではダメだと言うと名刺をくれて明日残りを取りにおいでと言われて初仕事は成功。

 次の人が来たので「南無阿弥陀仏」と唱え欄干に手を掛けたところ、職人に殴られて止められた。金がないなら死ぬと言うがいくらだと言う言葉に、相手を値踏みして20銭だというと、そんな子供の小遣いだろうという。いえ、大家に、酒屋に、米屋に・・・、40銭が1円になって、2円が3円になって、そこで止まったが無いという。助けてもらっただけ有り難いと思え。市電の回数券が有るからやると1枚渡されたが、既にハサミが入っていた。

 次に来たのが親子連れ。見ていると帯を結びあって、「南無阿弥陀仏」と唱え欄干に足をかけたので、慌てて止めに入った。母親は死んで、父親は目が見えず、子供も母親のところに一緒に行きたいという。国に帰るお金もなく死ぬほか無いという。国が遠くてはいけないが、赤羽ぐらいなら面倒見ようと言ったが、100円無ければどうしようもないと言う。やむなく先程の100円を渡し、その場から離れた。
 父親は息子にこの金は先程の人に返してきなさいと言ったが、既に見当たらなかった。
にっこり受け取り「それじゃ〜。今度は吾妻橋でやろう」。

 


1.両国橋(りょうごくばし)

東都両国夕涼之図」歌川貞房画 江戸東京博物館蔵 夏場は花火見物でこんなに混雑しているのに・・・

 江戸時代、大川(隅田川)に最初に架かった橋。中央区東日本橋と墨田区両国を結び、京葉道路を渡す。
最近の主な噺でも「佐野山」、「稲川」、「幸助餅」、「権助魚」、「蝦蟇の膏」、「十徳」等で、両国橋を紹介しています。

鳥文斎栄之画「隅田川風物図屏風」左翼部分 左が上流で吾妻橋、右が両国橋。文政9年(1826)

 明治8年(1875)に架けられた木造最期の両国橋。

吾妻橋(あずまばし);隅田川に架かる橋で、台東区浅草と墨田区吾妻橋を渡す。落語国では「心中の本場が向島、身投げをするのが吾妻橋、犬に食いつかれるのが谷中の天王寺、首くくりが赤坂の食い違い」と、円生は噺の中で言っています。その吾妻橋ですが、安心してください、心中の噺の中では飛び込んだ人物は一人もいません。落語「星野屋」で星野屋の旦那がここから飛び込みますが、死ぬつもりは毛頭無く、泳げる上に橋下に船を待たせてあった。江戸時代大川(隅田川)に架かる橋は4橋で、架かった順に両国橋、新大橋、永代橋、それにここ吾妻橋です。それが明治まで続きました。

赤羽(あかばね);JR京浜東北線の都内最北端に位置し、北区赤羽にある駅。当時の乗車賃が分かりませんが、どんなにかかっても1円で何往復も出来たでしょう。高い100円でした。


2.変わった商売

地見屋(じみや);地面を見て歩き、金目の物を拾い集めて生計を立てた。

落語「代書屋」では、履歴書に記した職業が、
・「巴焼」(ともえやき);東京で言う、タイコ焼き、今川焼き、大判焼きなどの餡入り焼き菓子。

・「減り止め売り」;下駄の歯の下に歯の減るのを防ぐゴムなどの、薄板を張り付ける商売。またそれをする商人。ゴムの変わりに金属板の事もあった。

・「ポン(pon)屋」;お米を圧力釜に入れて加熱・加圧し、急激に圧力を下げると、膨らんだ米粒が飛び出しおやつとして食べられた。圧力釜の蓋を急激に外すので、この時大きなポンという音がしたところからの命名。関東でもちょくちょく見られました。

・「がたろ」;本来は河童の意味であるが、転じて西日本の俗語で、川底やごみ捨て場の土砂をふるって金属などを回収する者(淘屋(よなげや)という)。胸までの長靴を履いて川に入り、金物などをさらった。

などが出てきます。上方では変わった仕事がたっぷりです。 また、落語「動物園」では本物の皮をかぶった「トラ」や「ライオン」が移動動物園で活躍しています。

物拾い;「西鶴諸国ばなし」巻五には次のような話があります。
* 「なにごとに対しても、正直な人を天が見捨てる訳がない。
 大坂の商人(あきんど)が、長いあいだ江戸に店をだして、一生遊んでいける位儲けて、再び大坂に帰り、楽々と暮らしていた。
 ある秋の日、その人が草花を活けて眺めていると、」・・・ 続きを読む

 

3.言葉
身投げ;(水中などに)身を投げて死ぬこと。投身。高い所から身を投げるのは、飛び降りと言います。飛び込みと言うと、列車などに身を投げることです。身を投げる事でもいろいろ言い方があるんですね。どちらにしても死ぬとは生きる以上に勇気が要るんですよね。有名な身投げ落語噺では「唐茄子屋政談」、「文七元結」、「星野屋」、この「身投げ屋」を、落語の世界では吾妻橋からの身投げ四大噺と言います。四大噺はジョークですが、この噺は柳家金語楼が創作した新作落語で、今はほとんど演じられることはありません。昭和初期の時代背景が今と違うので、その世代が表されないとお客さんに伝わらないのでしょう。また品のいい噺ではないのが、それに追い打ちを掛けています。

飛び降りでは、京都清水寺の古文書「成就院日記」から、
 「清水の舞台から飛び降りる」ことわざ通りの「飛び降り」の名所だった。有名な本堂の舞台は、観音に願をかけてその結願(けちがん)の日に、この舞台から堂下に身を投げると、所願成就ならば怪我なく、否ならば死して成仏できると信ぜられ、古来投身者が絶えなかった。
 記録は江戸前期・元禄7年(1694)から幕末の元治元年(1864)までだが、間に記録が抜けている分もあり、実際は148年分の記述が残っていた。未遂も含め234件が発生し た。年間平均は1.6件。記録のない時期も発生率が同じと仮定すると、江戸時代全体では 424件になる計算という。男女比は7対3、最年少は12歳、最年長は80歳代。年齢別では10代、20代が約73%を占めた。清水の舞台の高さは13mもあるが、以外と生存率は85.4%と高い。10代、20代に限れば90%を超す。60歳以上では 6人全員が死亡していて、生存率0%。やっぱり若い人は身体が柔らかい。明治5年(1872)、政府が飛び降り禁止令を出し、下火になったという。  

南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ);俗に『なまんだぶ』、『なんまいだー』としばしば唱えられる。落語では心中や身投げなど、死にに行く時に一番似合う念仏。 落語「小言幸兵衛」では『南無妙法蓮華経』では雰囲気がでないと大家がこぼす場面があります。

市電の回数券;市電とは東京市中を走る電車。この言葉で時代が分かります。東京市が東京都に変わるのは太平洋戦争真っ只中、昭和18年(1943)12月です。それ以後市電は都電と呼称が変わります。
 回数券は割り増しキップが付いた何回分かの券をつづり合せたもの。 噺ではその回数券にもハサミが入っていた、と言う事は使い古しで、使用できないキップであった。

 



 舞台の両国を歩く


 現在の両国橋は関東大震災の被害を被り、昭和7年(1932)11月現在の鉄橋に架け替えられています。両国橋は武蔵の江戸と下総を分ける隅田川に架橋されたために、当初大橋と命名されたが、のちに両国を結ぶ橋として自然と両国橋と呼ばれるようになります。江戸の範囲がその後広がって、本所・深川も武蔵の一部として呼ばれるようになります。
 江戸時代から両国橋は流出や焼落、破損により何度も架け替えがなされ、木橋としては明治8年(1875)12月の架け替えが最後となります。(下:古今東京名所「両国橋大川の涼み船」三代広重画)

 西洋風の96間(約210m)の橋であったが、この木橋は明治30年(1897)8月10日の花火大会の最中に、群集の重みに耐え切れず10mにわたって欄干が崩落してしまう。死者は十数名にもおよび、明治の世に入ってからの事故ということで、これにより改めて鉄橋へと架け替えが行われることが決定する。
 明治37年(1904)に、当時の位置より20mほど下流に鉄橋として生まれ変わります。曲弦トラス3連桁橋であり、長さ164.5m、幅24.5mあったといいます。下写真;両国橋西詰大正初年

 関東大震災で損傷の無かった中央部を再利用して南高橋に生まれ変わりました。 落語「幸助餅」にその写真があります。

 そして現在の橋です。西詰から見た景観で、現在の両国には丸いドームの国技館が見えます。川面には1銭蒸気船が運航されています。昭和10年頃撮影 墨田区緑図書館蔵

 吾妻橋も落語の中に出てくる回数ではトップクラスの有名橋です。浅草という歓楽街と対岸の本所を結ぶ重要な橋となっています。心中で有名な橋として紹介されますが、困った肩書きが付いてしまったものです。
 この最後の木橋は明治18年(1885)7月の大洪水で初めて流出した千住大橋の橋桁が上流から流されてきて橋脚に衝突。一緒に流失してしまいます。下図:名所江戸百景「吾妻橋金龍山遠望」部分 広重画。

 そのために明治20年(1887)12月に隅田川最初の鉄橋として再架橋された。鋼製プラットトラス橋で、人道橋、車道橋、鉄道(東京市電)橋の3本が平行して架けられていた。
(下写真)トラスト橋部分が人道橋、その向こう(中央)が鉄道橋、一番左が車道橋となっています。

 後に関東大震災によって木製だった橋板が焼け落ちてしまい、一時的な補修の後昭和6年(1931)に現在の橋に架け替えられた。


地図

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写真

それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

両国橋(隅田川に架かり、中央区と墨田区の京葉道路を渡す)
 毎回出てくるお馴染みの両国橋ですが、今回は夜の両国橋です。何を工事しているのか分かりませんが、真っ黒な橋が隅田川を横切っています。かろうじて船への航行注意灯が橋の様子を浮かびあげています。柳橋上から撮影。

両国橋
 両国橋の直ぐ上流に架かるJR総武線の鉄道橋(JR総武線隅田川橋梁)です。今まさにJRの電車が鉄道を渡ってきます、その下には遊覧船が抜けて行きます。その遊覧船の先に両国橋が見えます。墨田区側の堤防内側にある歩行者用テラスから撮影。

吾妻橋(台東区と墨田区を渡す)
 赤い照明がついた吾妻橋を渡ると、浅草の歓楽街です。ネオンの瞬く右奥が浅草寺で、夜間はライトアップしていますが、店も早く閉まって人通りも途絶えてしまいます。こんな歓楽街って歓楽街と呼べるのでしょうか。若者は足を向けません。

吾妻橋(東岸)
 毎回登場するアサヒビールのウンチの乗ったディスプレーで有名なビアホールが見えます。隅田川東岸には無粋な首都高速道路が平行して走ります。川を渡す赤い橋が吾妻橋です。 

赤羽駅(北区赤羽。京浜東北線都内最北の駅)
 2009年度の1日平均乗車人員は88,085人。JR東日本管内で第46位だが、他の鉄道会社への乗り換えがない駅としては大森駅、三鷹駅に次いで第3位。 赤羽駅は埼玉県川口市、蕨市、戸田市、さいたま市などやそれ以北の同県内の都市から東京都心へ移動する際に経由する駅で、また山手線と併走する西側の埼京線・湘南新宿ラインと東側の京浜東北線・宇都宮線・高崎線への分岐点であることから、多くの乗り換え客が集中する。  

                                                 2010年12月記

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