金原亭馬生の噺、「佐野山」(さのやま)別名「谷風の人情相撲」によると。
左;「谷風となには屋おきた」勝川春潮画 右;「谷風・鬼面山谷五郎 取り組の図」勝川春章画 相撲博物館蔵
仙台藩の抱え。小野川喜三郎と競い合って寛政の相撲黄金時代を築き、寛政元年11月に揃って吉田司家から最初の横綱免許を授与された。
左絵図;「谷風・小野川立ち会いの図」勝川春章画 左・谷風
行司・木村庄之助
右写真;富岡八幡宮「超五十連勝力士碑」 63連勝谷風梶之助と刻まれています。なお、1位は双葉山の69連勝。
谷風の名は「とめ名」といわれ、この名を継ぐことはご法度とされている。当時の谷風評は、「色が白くて目が細く、いつもにこやかで少しもおごったところが無い」、「力量すぐれ、相撲は達人、腰ひくく寄り足は早い。だから彼に勝つ力士はいない。万一、不覚を取ったとしても、次の時には片手で押し出してしまう。寛永このかた、こんな完璧な力士はいない」である。弟(異母)は幕内の達ヶ関。仙台の俚謡に「わしが国さで見せたいものはむかし谷風いま伊達模様」と謡われ今の世に伝わっている。
「大童山土俵入り」写楽画。 左側は西方で、後列左が谷風、右が雷電、中央が花頂山、前列左が達ヶ関、右が宮城野です。大童山文五郎は天明8年2月出羽の国百姓武左衛門の倅に生まれ、色黒の生まれながらに大児であった。一度は幕尻に上がったが、実際は相撲をとらず、怪童の見世物としての土俵入りだった。
■佐野山;佐野山條助という力士が江戸の同時代にいて、この噺のモデルになったのでしょう。その後、その名の部屋もありましたが、今は無く、親方名として残りました。現在の親方は佐ノ山龍二、本名 須藤龍二、大関だった千代大海が名乗っていて九重で部屋付き親方として活動しています。
反面、このことは事実で、佐野山はこの相撲で祝儀を雨あられのように受け、今までの借金を完済して、故郷に帰り米屋になった。(まるで竜田川のようです。全盛の横綱が花魁に振られて、故郷に帰って豆腐屋になった)。
■九日目;当時は相撲興行は年2回、晴天十日と言われ、青天井の下だったので晴れた日にしか興行が打てなかった。雨が続くと10日が2倍にも3倍にも興行日が延びてしまった。相撲取りを「一年を20日で過ごすいい男」と言われた。10日興行の内、それが9連敗だと言う事は、簡単に言うと、簡単ではなくても全敗です。
■十両(じゅうりょう);(給金が年10両であったからいう)
相撲の番付の二段目すなわち幕下の上位、東西おのおの十枚目までの称。現在は幕下から区別して扱われ(枚数は一定しない)、関取としての待遇を受ける。十枚目。広辞苑。
右図参照。日本相撲協会発行「大相撲満喫入門」平成22年ハンドブックより。
■ワリ(割);取り組み番付表。対戦表。3日目以降は前日発表になります。
■千秋楽;興行最終日。相撲はこの日までの成績で優勝が決まる。
■もろ差し;相撲で、両手を相手の脇に差し入れて組むこと。
「勧進大相撲土俵入り之図」豊国画 都立中央図書館蔵 回向院で開かれた勧進相撲
■初代両国国技館;回向院の隣に明治42年(1909)5月に初代国技館が完成竣工。ヨーロッパ風の美しい外観で東京の名所にもなった。しかし11年後大正6年火災を出して消失。同じデザインの二代目旧両国国技館が大正9年(1920)1月に補修完成・開館式を行ない、晴雨に関係なしに興行が行われるようになった。しかし、大正12年(1923)には関東大震災で再び炎上。東京大空襲による被災。再三再建されて占領軍による接収。「国技館」の名も剥奪され、メモリアルホールと呼ばれた。その後、日本大学の講堂になり、昭和57年(1982)に解体された。
■蔵前国技館;旧蔵前国技館跡は台東区蔵前2−1、現・下水道局・蔵前ポンプ場。 昭和29年(1954)9月に、和風様式の蔵前国技館が完成した。新しい大相撲の殿堂として、栃若時代、柏鵬時代、輪湖時代、千代の富士時代を見守ってきた。
■現両国国技館;墨田区横網一丁目3−28。JR両国駅北側に昭和60年(1985)1月、新両国国技館が開館した。随所に最新のテクノロジーが組み込まれ、本場所開催期間中はFM放送でオリジナル館内放送「どすこいFM」、NHK-BS大相撲中継・日本語放送、英語放送を2003年から配信している。
また、2005年5月場所より、館内で、無線LANを利用してノートパソコンに大相撲や国技館の情報を配信するサービス、「Sumo Live TV powered by Intel」を開始した。
相撲界では初期の時から行われていたという。初期には横綱にはスポンサーが付いていて、この噺の谷風は仙台藩が抱えていたので、藩主が来た時は回りも遠慮して勝たせた。また、地方巡業の折りには、その地元出身力士が勝つ事が多かった。形態が興行であったので致し方がないのでしょう。それが未だ尾を引いているのはスポーツの性格より興行の性格の方が強いのでしょう。
■孝行者(こうこうもの);子が親を敬い、親によく尽す行い。これを孝行と言われ、その行為は高く評価された。
蔵前神社は、落語「蔵前駕籠」で追い剥ぎが出るという、かや寺の南側にあります。ま、当時はそのくらい寂しい所だったのでしょう。今は地下鉄蔵前駅が出来て便利になりました。ここ蔵前神社境内に最近、犬の像が建ちました。古典落語ゆかりの神社だから落語「元犬」の(色はさび茶だが)白犬像(右)を建てたと説明されています。また、「阿武松」の主人公がここで相撲を取ったとも書かれています。境内を見ても櫓を建てて盆踊りをする事さえ出来ない狭さですが、表通りの江戸通りまで参道がありましたし、回りの駐車場などに貸し出されています。当時は相撲興行をするには十分なスペースがあったのです。
富岡八幡(通称深川八幡)は深川の中心をなしていて、賑わいの中心でもあります。辰巳芸者がいて粋な色気が歴史的にある街になっていて、休みの日には多くの参拝者が出ます。当然回りの商店も、どこか艶っぽさがただよい、一杯楽しみたくなるのは私だけではないでしょう。深川八幡は大きな境内を持っていますが、細かく境内が割愛されてしまい大きなイベントは難しいかも知れません。
両国の回向院の参道にも相撲関係の碑、大きな力塚があります。ここでも境内で天明元年以後境内で勧進相撲を興行しました。え?こんな狭い所で? いえいえ、現在お隣の両国シティコアの建物がその境内地だったのです。年2場所、晴天10日興行でした。明治42年円形ドームの国技館が建ったので、晴雨にかかわらず興行が打てるようになりましたが、火災で全焼、関東大震災で再び延焼、戦争で被災、戦後は米軍に接収、興行は各地で放浪の旅ガラスでした。
そして、蔵前に相撲専用の蔵前国技館が誕生。多くの名力士が誕生します。現在は東京都の下水道ポンプ場と、関係施設などが稼働しています。蔵前橋の西側に建つ煉瓦色の大きなビルです。その蔵前橋の際に蔵前お米蔵の碑が建っています。江戸時代ここは地方からお米が江戸に流入する玄関口で、幕府の米蔵が並んでいて、それを現金に換える札差しが軒を連ねていました。幕府でも借金する16人の大金持ちが出た所です。その碑です。 三度目の正直、現在の両国国技館に変わります。地の利も良くJR両国駅北側ですし、都営大江戸線の両国駅も近くにあります。隣には江戸東京博物館もあります。元来両国は回向院の時代から相撲部屋が多く、相撲の街です。蔵前よりも相撲らしい環境に戻ってきた事になります。「この町はちゃんこ鍋屋が多いね」、若い人が言っているように、昔相撲部屋だった所が料理屋に変わってちゃんこ料理を出すようになったのです。その良さに気づいて同業者も乗り出したのです。ちゃんこって美味しいのですが、「相撲取りが食べるちゃんこはもっと違うよ」と言われましたが、大きくなる為のちゃんこと、お金を取る料理として出すちゃんこはおのずと違うのでしょう。 それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。 2010年11月記 |
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