落語「佐野山」の舞台を歩く
   

 

 金原亭馬生の噺、「佐野山」(さのやま)別名「谷風の人情相撲」によると。
 

 江戸時代の大横綱で谷風梶之助は名人を通り越して人格者でもあった。生涯一回だけ八百長相撲をヤッタという噺です。

 十両の筆頭に上がってきた佐野山は小兵ながら親孝行であった。しかし、母親が大病を患って看病したが治らず、貧乏であったので食べ物を減らして土俵に上がったが、お粥だけでは力が出なかった。仕切だけで疲れて、負けるのも当たり前であった。その為、今期限りで引退だろうと、パッと噂が立った。辞めたら収入もなく悲惨な事になるし、相撲界の恥だと感じた谷風は千秋楽の一番を佐野山戦にして欲しいと願って出た。
 翌日のワリに谷風−佐野山と書き出された。谷風と言えば小野川と千秋楽対戦するのが習わしだったので、ずっと勝ち進んでいる谷風とず〜っと負けている佐野山では相手にならない。これには訳があって、女を取り合った仲だからとか、引退相撲だとウワサが飛んだ。判官贔屓のひいき連は佐野山が片方の廻しを取れば5両、もろ差しになったら10両の祝儀の約束。魚河岸や大旦那連中は100両、200両、花柳界のお姉さんまで佐野山に祝儀約束をした。そのはず、勝てる見込みは皆無だったから、言いたい放題、無責任に言っていた。

 千秋楽結びの一番。谷風〜っと声が掛かるのに、この日だけは佐野山〜、佐野山〜の大合唱。土俵上谷風は佐野山に孝行に励めよとにっこり笑って、その心が解った佐野山はホロリと涙が流れた。それを見ていた方は遺恨相撲が出来ると笑っているし、佐野山は親孝行も出来なくなると泣いているよ。泣くな〜〜、佐野山〜。

 木村庄之助の軍配で立ったが、谷風は変に触ると佐野山が飛んでしまうので、身体ごと抱え込んでしまった。見ている方は、もろ差しになったと大歓声。10両の祝儀が必要になったと大騒ぎ。ここで佐野山押せば、ジリジリと谷風が下がって土俵際まで行くのが、佐野山そんな余力はとっくに無く、押せない。しょうがなく谷風押されているように土俵際まで引きずった。でも、ここで足を出したら横綱の名誉に傷が付くと、グッと力を入れた。佐野山抱えられているだけで息が上がっているのに、力を入れられたので、腰砕けになってずり落ちそうになった。ずり落ちたら今までの事が台無しになると、谷風全力を出して引き上げた。谷風の身体が紅色にパッと輝いた。
 しかし、見ている方はその様には見えなかった。佐野山がもろ差しで横綱を土俵際まで追い込んで、金剛力でこらえる谷風を、腰を落として下から谷風を押し上げたように見えた。この状態で谷風かかとをチョット出したのを木村庄之助見逃さず、軍配を佐野山にあげた。
 谷風が勝つとばかり思っていた見物は佐野山が勝ったので大騒動。座布団は投げるは羽織は投げるは財布は投げるは、大変だった。
 「最後の押しはスゴかったな」、
 「押しは効くはずだ。名代のコウコウ者だ」。

 

「東都名所 両国回向院境内全図」歌川広重画 天保13年(1842) 江戸東京博物館蔵 
両国回向院の本堂の右側に見えるヨシズ張りの巨大な建物が相撲小屋で、小屋の中で相撲が開催されていた。表門の外に建てられた相撲櫓から打ち出される櫓太鼓の音で、江戸っ子は勧進相撲の開催を知った。 12.05.絵図追加
 



1.寛政の大横綱谷風梶之助
 
谷風;谷風梶之助(たにかぜ_かじのすけ)本名 金子 与四郎(梶之助)、寛延3年(1750)8月8日生−寛政7年(1795)正月9日(現役中、44歳没)、出身地 宮城県仙台市(旧 陸奥国宮城郡) 、初土俵 明和6年(1769)4月、改名歴 秀ノ山→達ヶ関→谷風、新入幕 明和6年4月、最高位 大関(横綱免許)、身長188cm 体重160kg 。

 

左;「谷風となには屋おきた」勝川春潮画 右;「谷風・鬼面山谷五郎 取り組の図」勝川春章画 相撲博物館蔵 

 仙台藩の抱え。小野川喜三郎と競い合って寛政の相撲黄金時代を築き、寛政元年11月に揃って吉田司家から最初の横綱免許を授与された。
 子供の時から体が大きく、7歳で隣家の主人から「あの俵を運べたらあげるよ」言われて玄米の五斗俵を持って運んで主人を慌てさせた。入門前は白川の酒造家・山本屋で奉公していたが、7〜 8人で持ち上げる酒を搾る締め木の天秤石を一人で持ち上げていたと言う。

       

左絵図;「谷風・小野川立ち会いの図」勝川春章画 左・谷風 行司・木村庄之助

右写真;富岡八幡宮「超五十連勝力士碑」 63連勝谷風梶之助と刻まれています。なお、1位は双葉山の69連勝。

 谷風の名は「とめ名」といわれ、この名を継ぐことはご法度とされている。当時の谷風評は、「色が白くて目が細く、いつもにこやかで少しもおごったところが無い」、「力量すぐれ、相撲は達人、腰ひくく寄り足は早い。だから彼に勝つ力士はいない。万一、不覚を取ったとしても、次の時には片手で押し出してしまう。寛永このかた、こんな完璧な力士はいない」である。弟(異母)は幕内の達ヶ関。仙台の俚謡に「わしが国さで見せたいものはむかし谷風いま伊達模様」と謡われ今の世に伝わっている。

「大童山土俵入り」写楽画。 左側は西方で、後列左が谷風、右が雷電、中央が花頂山、前列左が達ヶ関、右が宮城野です。大童山文五郎は天明8年2月出羽の国百姓武左衛門の倅に生まれ、色黒の生まれながらに大児であった。一度は幕尻に上がったが、実際は相撲をとらず、怪童の見世物としての土俵入りだった。

佐野山;佐野山條助という力士が江戸の同時代にいて、この噺のモデルになったのでしょう。その後、その名の部屋もありましたが、今は無く、親方名として残りました。現在の親方は佐ノ山龍二、本名 須藤龍二、大関だった千代大海が名乗っていて九重で部屋付き親方として活動しています。
 噺の佐野山は十両の筆頭に上がってきた、小柄な関取だと語られていますが、創作話の主人公です。ですから、(大きな声では言えませんが)谷風のこの様な八百長相撲はありません。

 反面、このことは事実で、佐野山はこの相撲で祝儀を雨あられのように受け、今までの借金を完済して、故郷に帰り米屋になった。(まるで竜田川のようです。全盛の横綱が花魁に振られて、故郷に帰って豆腐屋になった)。
 この八百長相撲は後日ばれてしまったが、江戸っ子は文句一つ言わず「いい話じゃねーか。人情相撲だ」と。

九日目;当時は相撲興行は年2回、晴天十日と言われ、青天井の下だったので晴れた日にしか興行が打てなかった。雨が続くと10日が2倍にも3倍にも興行日が延びてしまった。相撲取りを「一年を20日で過ごすいい男」と言われた。10日興行の内、それが9連敗だと言う事は、簡単に言うと、簡単ではなくても全敗です。

十両(じゅうりょう);(給金が年10両であったからいう) 相撲の番付の二段目すなわち幕下の上位、東西おのおの十枚目までの称。現在は幕下から区別して扱われ(枚数は一定しない)、関取としての待遇を受ける。十枚目。広辞苑。

右図参照。日本相撲協会発行「大相撲満喫入門」平成22年ハンドブックより。
 十両以上を関取と言って一人前とみなされ、待遇が激変します。幕下以下の付け人が付き、髪も大銀杏が結えて、廻しも木綿から正絹になります。当然給金も上がって”関取”と呼ばれます。

ワリ(割);取り組み番付表。対戦表。3日目以降は前日発表になります。

千秋楽;興行最終日。相撲はこの日までの成績で優勝が決まる。

もろ差し;相撲で、両手を相手の脇に差し入れて組むこと。


2.回向院から国技館

■回向院(えこういん);墨田区両国二丁目8。両国橋の東側、墨田区両国にある浄土宗の寺。寺号は無縁寺。明暦の大火(1657年)俗に言う振り袖火事の横死者を埋葬した無縁塚に開創。
 全国の有名寺社の秘仏秘像の開帳される寺院として、境内は毎年のように参詣する人々で賑わいをきわめた。その数は江戸の出開帳の総数の約四分の一になるほどでした。
 そして江戸後期・天明元年(1781)以後境内に勧進相撲を興行したのが今日の大相撲の起源。勧進相撲の定場所に定められ、明治末期までの七十六年間、いわゆる“回向院相撲”の時代をつくった。
 有名人の墓として、山東京伝、竹本義太夫、鼠小僧次郎吉などがあります。
 江戸の相撲興行は当初富岡八幡宮(深川八幡)で行われていたが、蔵前の蔵前神社(蔵前八幡)やここ回向院でも興行していたが、天保4年(1833)からはここ両国回向院で興行された。明治42年まで定場所として使われた。

勧進大相撲土俵入り之図」豊国画 都立中央図書館蔵 回向院で開かれた勧進相撲

■初代両国国技館;回向院の隣に明治42年(1909)5月に初代国技館が完成竣工。ヨーロッパ風の美しい外観で東京の名所にもなった。しかし11年後大正6年火災を出して消失。同じデザインの二代目旧両国国技館が大正9年(1920)1月に補修完成・開館式を行ない、晴雨に関係なしに興行が行われるようになった。しかし、大正12年(1923)には関東大震災で再び炎上。東京大空襲による被災。再三再建されて占領軍による接収。「国技館」の名も剥奪され、メモリアルホールと呼ばれた。その後、日本大学の講堂になり、昭和57年(1982)に解体された。
右写真;晩年の旧両国国技館 昭和40年代の日大講堂 回向院門前の説明板より 工藤写真館撮影

■蔵前国技館;旧蔵前国技館跡は台東区蔵前2−1、現・下水道局・蔵前ポンプ場。 昭和29年(1954)9月に、和風様式の蔵前国技館が完成した。新しい大相撲の殿堂として、栃若時代、柏鵬時代、輪湖時代、千代の富士時代を見守ってきた。
 昭和29年から昭和59年(1984)までの30年間は、蔵前の街は大相撲のメッカとしての役割を果たしていた。また、NHKによる大相撲テレビ実況中継が始まったのも、昭和28年(1953)夏場所からで、これによって大相撲人気は全国的なものへ拡大し、新たなファンを生み出すことになった。
写真;蔵前仮設国技館で開催された秋場所。昭和27年(1952)ゴタード・J・デリーナ撮影 江戸東京博物館蔵

■現両国国技館;墨田区横網一丁目3−28。JR両国駅北側に昭和60年(1985)1月、新両国国技館が開館した。随所に最新のテクノロジーが組み込まれ、本場所開催期間中はFM放送でオリジナル館内放送「どすこいFM」、NHK-BS大相撲中継・日本語放送、英語放送を2003年から配信している。 また、2005年5月場所より、館内で、無線LANを利用してノートパソコンに大相撲や国技館の情報を配信するサービス、「Sumo Live TV powered by Intel」を開始した。
 吊り屋根と土俵は自動昇降で格納可能、相撲以外のイベントホール(1万1千人収容)としても使用できる。また、災害時のために館内に食料備蓄倉庫をもち、雨水を浄化する装置、自家発電機も完備している。関東大震災級の大地震に襲われても耐える耐震構造である。広大な敷地内には、相撲博物館(興行日以外無料)、相撲診療所(一般人も利用可)、相撲教習所なども併設されている。 地下には焼き鳥工場があり、本場所時のおつまみとして国技館の名物。館の表通りには幟が林立して本場所の景気を盛り上げています。


3.言葉
■八百長(やおちょう);八百長は明治時代の八百屋の店主「長兵衛(ちょうべい)。又は根本長造とも」に由来するといわれる。八百屋の長兵衛は通称を「八百長(やおちょう)」といい、大相撲の年寄・伊勢ノ海五太夫と囲碁仲間であった。囲碁の実力は長兵衛が優っていたが、八百屋の商品を買ってもらう商売上の打算から、わざと負けたりして伊勢ノ海五太夫の機嫌をとっていた。 しかし、その後、回向院近くの碁会所開きの来賓として招かれていた本因坊秀元と互角の勝負をしたため、周囲に長兵衛の本当の実力が知れわたり、以来、真剣に争っているようにみせながら、事前に示し合わせた通りに勝負をつけることを八百長と呼ぶようになった。 反対語:相撲では「ガチンコ」と呼ぶ。
 接待ゴルフ、接待麻雀などはみんなこの部類です。

 相撲界では初期の時から行われていたという。初期には横綱にはスポンサーが付いていて、この噺の谷風は仙台藩が抱えていたので、藩主が来た時は回りも遠慮して勝たせた。また、地方巡業の折りには、その地元出身力士が勝つ事が多かった。形態が興行であったので致し方がないのでしょう。それが未だ尾を引いているのはスポーツの性格より興行の性格の方が強いのでしょう。

孝行者(こうこうもの);子が親を敬い、親によく尽す行い。これを孝行と言われ、その行為は高く評価された。
逆に言えば、いつの時代も、それだけ目立つ孝行者が少なかったのでしょう。佐野山は自分の食べる分を削ってまで母親に尽くしたのでしょうが、これでは悪循環になってしまい、勝つにはたくさん食べて勝ち進み、勝ち星の中から生活を支えないといけなかったのでしょう。
 親孝行したいときには親は居ず→親孝行したくもないのに親は居る。漫談で使われるギャグです。
 


 
 
舞台の相撲の跡を歩く

 蔵前神社は、落語「蔵前駕籠」で追い剥ぎが出るという、かや寺の南側にあります。ま、当時はそのくらい寂しい所だったのでしょう。今は地下鉄蔵前駅が出来て便利になりました。ここ蔵前神社境内に最近、犬の像が建ちました。古典落語ゆかりの神社だから落語「元犬」の(色はさび茶だが)白犬像(右)を建てたと説明されています。また、「阿武松」の主人公がここで相撲を取ったとも書かれています。境内を見ても櫓を建てて盆踊りをする事さえ出来ない狭さですが、表通りの江戸通りまで参道がありましたし、回りの駐車場などに貸し出されています。当時は相撲興行をするには十分なスペースがあったのです。

 富岡八幡(通称深川八幡)は深川の中心をなしていて、賑わいの中心でもあります。辰巳芸者がいて粋な色気が歴史的にある街になっていて、休みの日には多くの参拝者が出ます。当然回りの商店も、どこか艶っぽさがただよい、一杯楽しみたくなるのは私だけではないでしょう。深川八幡は大きな境内を持っていますが、細かく境内が割愛されてしまい大きなイベントは難しいかも知れません。
 この深川八幡には相撲に関する石碑が多数奉納されています。神社入口の鳥居をくぐった左側には日本一だと言われる御輿蔵があって、重くて担げないほどの御輿が鎮座しています。その正面に大関力士碑が有ります。ここには「巨人力士身長碑」が有って背伸び比べが出来たり、手形や足形が有りますので、重ねて大きさ競争も出来ます。
 参道突き当たりの、本殿右側を入ると横綱碑の一群があります。最後でなく最新の横綱は69代白鵬翔だと分かりますが、写真の中の横綱は皆外人力士、良いのか悪いのか、国際的になったのか、複雑です。

 両国の回向院の参道にも相撲関係の碑、大きな力塚があります。ここでも境内で天明元年以後境内で勧進相撲を興行しました。え?こんな狭い所で? いえいえ、現在お隣の両国シティコアの建物がその境内地だったのです。年2場所、晴天10日興行でした。明治42年円形ドームの国技館が建ったので、晴雨にかかわらず興行が打てるようになりましたが、火災で全焼、関東大震災で再び延焼、戦争で被災、戦後は米軍に接収、興行は各地で放浪の旅ガラスでした。

 そして、蔵前に相撲専用の蔵前国技館が誕生。多くの名力士が誕生します。現在は東京都の下水道ポンプ場と、関係施設などが稼働しています。蔵前橋の西側に建つ煉瓦色の大きなビルです。その蔵前橋の際に蔵前お米蔵の碑が建っています。江戸時代ここは地方からお米が江戸に流入する玄関口で、幕府の米蔵が並んでいて、それを現金に換える札差しが軒を連ねていました。幕府でも借金する16人の大金持ちが出た所です。その碑です。
 米蔵の横には隅田川に突きだした櫛の目のように、船の着岸の為の堀があり1番から8番堀まで有りました。その真ん中の米蔵の隅田川寄りに姿の良い松が川面にたなびいていました。その名を首尾の松と言います。あまりにも形がいいので吉原通いの舟が見とれて通ったり、ここで一息入れたり、さまざまな物語を残しました。落語でも「船徳」の徳さんが汗を拭き拭き通った事でしょうし、「夢金」では雪の川面を舟で下ります。まだまだ沢山の噺がありますが、川船を出すと言えば大体ここを通ります。その首尾の松の碑が通りを渡った橋際に建っています。当然当時の松はなく、幼木が3本植えられていますが、見られるようになるのは100年後?200年後?

 三度目の正直、現在の両国国技館に変わります。地の利も良くJR両国駅北側ですし、都営大江戸線の両国駅も近くにあります。隣には江戸東京博物館もあります。元来両国は回向院の時代から相撲部屋が多く、相撲の街です。蔵前よりも相撲らしい環境に戻ってきた事になります。「この町はちゃんこ鍋屋が多いね」、若い人が言っているように、昔相撲部屋だった所が料理屋に変わってちゃんこ料理を出すようになったのです。その良さに気づいて同業者も乗り出したのです。ちゃんこって美味しいのですが、「相撲取りが食べるちゃんこはもっと違うよ」と言われましたが、大きくなる為のちゃんこと、お金を取る料理として出すちゃんこはおのずと違うのでしょう。
 国技館内にある相撲博物館で、相撲音痴の私に数々の資料を渡してもらいました。感謝。 

地図

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写真

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回向院および旧両国国技館跡(墨田区両国二丁目8)
 回向院は、今からおよそ350年前の明暦3年(1657)、江戸には「振袖火事」があり、市街の6割以上が焼土と化し、10万人以上の尊い人命が奪われました。この災害により亡くなられた人々の多くは、身元や身寄りの分からなくなった人々でした。当時の将軍家綱は、無縁の人々の亡骸を手厚く葬るようにと隅田川の東岸に土地を与え、「万人塚」という墳墓を設け、大法要を執り行いました。このとき、お念仏を行じる御堂が建てられたのが回向院の始まりです。 その境内で相撲の興行が発生するのです。

深川八幡(江東区富岡一丁目20)
 当宮は江戸勧進相撲発祥の地として有名です。江戸時代の相撲興業は京・大阪からはじまりますが、しばしば禁令が出ていました。その後禁令が緩み、貞享元年(1684)幕府より春と秋の2場所の勧進相撲が許されます。その地こそが当宮の境内だったのです。以降約100年間にわたって本場所が境内にておこなわれ、その間に定期興行制や番付制が確立されました。そののち本場所は、本所回向院に移っていきますが、その基礎は当宮において築かれ、現在の大相撲へと繋がっていくことになります。富岡八幡ホームページより

蔵前神社(台東区蔵前三丁目14)
 江戸城鬼門除けとして五代将軍綱吉が京都山城国より石(いわ)清水八幡宮を勧進奉斎したのが始まりで、昭和26年3月蔵前神社と改称しています。
 天明年間には、大関谷風や関脇小野川が、寛政年間には大関雷電などの名力士もここで活躍した。安政7年(1778)から天明2年(1782)2月場所7日目まで、実に63連勝中の谷風が新進の小野川に”渡し込み”で敗れた一番は江戸中を騒がせた。現在の『縦番付』は宝暦7年10月、ここで開催された本場所から始まった。宝暦11年(1761)10月場所より従来の勧進相撲が『勧進大相撲』になり、その後の「全・勝負付け」も現存している。明治時代には「花相撲」も行われた。勧進大相撲が宝暦7年(1757)10月に始まり文政と約70年の間に、ここで23回行われ、両国回向院、深川八幡宮、ここが三大拠点あった。

蔵前国技館跡(台東区蔵前二丁目1)
 蔵前国技館は収容人員は約11,000人。和風2階建てで、完成したのは昭和29年(1954)9月。四本柱を撤廃、この場所より吊り天井となり青、白、赤、黒の4色の房が柱代わりに下がった。力士幟が昭和27年(1952)1月場所より復活、またこの場所より弓取式を連日行うことになった。以後天覧相撲は国技館で行われることとなった。また、プロレスやボクシングで使われ有名になった。
 現在は東京都下水道局の蔵前ポンプ場になっています。

現両国国技館(墨田区横網一丁目3)
 昭和60年(1985)1月場所より使用されている。国鉄ハイウェイバス駐泊場(旧両国貨物駅跡地)に建設された。新国技館は地上2階、地下1階。総工費150億円(無借金で建設された)。昭和59年11月に完成。翌年1月9日、落成式が催され、千代の富士と北の湖の両横綱による三段構えが披露された。最多優勝は貴乃花光司の15回。連続優勝は千代の富士貢の7連覇(開館の1985年1月場所から1987年1月場所まで)。丸2年間新国技館で他の力士は優勝出来なかった。

                                                                  2010年11月記

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