右図;初代梅ヶ谷藤太郎手形 数え年84歳ですから亡くなった年の手形です。2011.2.追加
■幕入り;大相撲の番付には、横綱・大関・関脇・小結・前頭とあります。十両および幕下(昔は「二段目」と呼称していた)・三段目・序二段・序ノ口の文字はなく、横綱・三役以外はすべて「前頭」です。
その内の横綱から前頭十枚目=十両までの力士を関取と言い、お給料が貰える一人前の相撲取り。その中の一人に磯ヶ浜がなった事をいいます。
十両は幕内で三役(大関、関脇、小結)の次の位。十両の正式名称は十枚目。前頭十枚目までの力士には、関取並みの待遇をしていたところからそう呼ばれていました。その時の給料が十両だったから幕下とは別扱いで十両と呼ぶようになりました。現在もその格差は大きく、年収換算で十両力士で1,600万円以上、幕下以下は100万円未満です。
■横綱(よこづな);大相撲の力士の格付けの最上位の位。横綱になった者は特別な事がない限り半永久的にその地位に就き(辞めさせる事が出来ない)、引退することによってその地位を降りる。
寛政元年(1789年)11月谷風梶乃助と小野川喜三郎に吉田司家より同時に横綱の免許がおりて これが実質的に現在の横綱の形式の始まりとされています。
現在では日本相撲協会が横綱審議委員会の諮問をあおぎ独自に推挙しています。
■化粧廻し;相撲で、十両以上の力士の土俵入などに用いる儀礼用の廻し。多く緞子で仕立てるので「どんす」ともいう。大相撲の関取が土俵入りの際に締める長さ8m、幅68cmの博多織の布の先端に豪華な刺繍と馬簾(ばれん)の付いたエプロン状の大きな前垂れを持つ高価な廻しです。横綱の場合は本人の分の他に太刀持ち、露払い役の力士の分も含めた三点セットになっている。協賛企業や出身校などのスポンサー(後援会、タニマチ)から贈られる。落語「稲川」に廻しの写真あり
2.両国橋
江戸に有名な広小路は3ヶ所あって、上野山下の「下谷広小路」、浅草雷門前の「浅草広小路」、そしてここ「両国広小路」(上記写真・江戸東京博物館ジオラマ)がありました。
ジオラマ正面の小屋掛かりのしているところが両国広小路、手前が隅田川、右の橋が両国橋、右奥の画面外に柳橋、左奥に橘町があります。橋の手前には回向院が建っています。
明暦の大火(1657・振り袖火事)は江戸の市街の大半を焼失し10万余の死者を出した。その際この辺りで逃げ場を失って焼死する者が多数出ました。このため対岸への避難の便を図り大橋が架けられた。隅田川は武蔵と下総両国の境界をなしていたので、橋名をのち両国橋と呼ぶようになった。また、延焼防止のため橋に向かう沿道一帯を火除け地に指定し空き地とした。これがやがて広小路になり、小屋などが並んで盛り場になっていった。火事や将軍通過時は仮設小屋は即座に取り払われた。
江戸で日に1千両が落ちる所として、魚河岸、歌舞伎、吉原と夏の両国広小路に金が落ちた。それ程の歓楽街であった。道が広いだけなら何ヶ所もあった広小路ですが、賑わいのある江戸三大広小路のひとつでした。両国橋の両岸にありましたが、西側の両国西広小路を単に広小路と呼びました。
第149話落語「ガマの膏」から
「天明八戌申歳江戸大相撲生写之図屏風」凌雲斎豊鷹画 天明8年(1788) 相撲博物館蔵
天明8年頃は谷風・小野川が全盛な時です。両国橋上を行く関取衆はこの二人を中心に描かれています。右から3曲目左側の大柄な関取が小野川です。谷風はもう一方の屏風に描かれています。
10年10月追加
■回向院(えこういん);両国橋の東側、墨田区両国にある浄土宗の寺。寺号は無縁寺。明暦の大火(1657年)俗に言う振り袖火事の横死者を埋葬した無縁塚に開創。
全国の有名寺社の秘仏秘像の開帳される寺院として、境内は毎年のように参詣する人々で賑わいをきわめた。その数は江戸の出開帳の総数の約四分の一になるほどでした。
そして江戸後期・天明元年(1781)以後境内に勧進相撲を興行したのが今日の大相撲の起源。勧進相撲の定場所に定められ、明治末期までの七十六年間、いわゆる“回向院相撲”の時代をつくった。
有名人の墓として、山東京伝、竹本義太夫、鼠小僧次郎吉などがあります。
回向院の隣に明治42年(1909)5月に初代国技館が完成竣工。しかし11年後火災を出して消失。二代目旧両国国技館が大正9年(1920)1月に完成・開館式を行ない、晴雨に関係なしに興行が行われるようになった。
右写真;晩年の旧両国国技館 昭和40年代の日大講堂 回向院門前の説明板より 工藤写真館撮影
■柳橋(町);神田川最下流に架かる柳橋を北に渡った、台東区南東部の地名。台東区と中央区の区境を流れる神田川の川口に架かる橋の名に因む。神田川は隅田川に合流しますが、その地点は両国橋の直ぐ上流です。江戸時代から花街として有名。
■浅草見附;見附は江戸城の掘(壕)に設けられた見張り所。三十六見附と言われたが40以上有り、どこまで入れるかによって数は変わります。浅草見附はこの内のひとつで、台東区と中央区の境を流れる神田川に架かる、現・浅草橋の所にあった。巾四間、長さ二十間、橋杭三本立て六組の橋に、枡形門が付随していた。この下流に柳橋があり、その先で隅田川に合流しています。
■神田橘町
;神田橘町は存在しません。「橘(たちばな)町」との正雀の間違い。橘町は、現・中央区東日本橋三丁目で、両国橋西詰めの南西に当たります。この街の北側には良く出てくる馬喰町があります。
4.言葉
■芸者;一般的には歌舞や三味線などで酒席に興を添えるプロの女性。芸妓(ゲイギ)、芸子(ゲイコ)を言います。男では、太鼓持ち。幇間(ホウカン)。男芸者。
遊女や花魁と違って芸を披露するのが職業ですから、床は取りません。また好きで入ってきた女性が多いので前借金は無いので、身請けはあり得ません。で、噺の中で、芸者と花魁を混同しているのではないでしょうか。ま、中には境界線のハッキリしない人も居ますから・・・。
■身請け;年季を定めて身を売った芸妓・娼妓などの前払い金を精算し、プレミアムを付けて、その商売から身をひかせること。請け出すこと。通常、スポンサーや旦那が身請けしますが、親がするのを親元身請けと言います。
ただ芸者という商売柄、身請けはしなくとも、売れっ子芸者を引き抜くのですから、それ相応の引き抜き料のご祝儀は必要でしょう。今のプロ野球のトレードと同じです。
で、橘町の旦那が感謝しているというのは、応分以上のご祝儀を出したのでしょうね。
■50両;毎回出てくる貨幣単位で、江戸時代1両が8万円として400万円。大金です。明治になるとさすがに無くなりましたが、10両盗めば首が飛ぶと言われた時代もありました。それも、合計100両も。
明治に入って、1両は1円と言い換えられています。この噺は明治17〜8年の噺ですから貨幣単位が違うはずです。また、貨幣価値も1円が明治中期で約3万円の価値だったと思われます。
■あんころ餅;外側に餡(あん)をつけた餅(広辞苑)。餅に餡を絡ませたら中身の色は分からなくなって、せっかくのアイデアも台無しです。餅に餡を添えたとか、餡の上に紅白の餅を並べたとか、大福にしたとか言わないと間違いになり、意味が無くなります。
同じ両国広小路で店を出して繁盛していた「幾代餅」屋さんは明治の初めまで営業していたが、その後を継いだのでしょうか。
■紋付き袴;着物生地の羽二重を黒く染めたものを黒羽二重といって、主として紋付の礼装に用いる。それに合わせるのが仙台平の袴です。第一級の正装です。
舞台の両国橋界隈を歩く
JR両国駅を南に出ると千葉に通じる幹線、京葉道路に出ます。出た正面に両国回向院の山門が現れ、参道を入ると相撲関係の碑が左側にあります。本堂が本堂らしき姿をしていませんので、どうしても山門の写真になってしまいます。ここには一般のお墓もありますが、元来の明暦の大火の横死者を祀るために建てられたお寺さんですから、どんな生き物の亡骸でも預かってもらえます。犬猫の霊廟は大きな物が建っていますし、ネズミ小僧の墓もあります。今回も花束を持った参拝者に合いましたが、皆、故人にではなく、ペットの為の墓参です。
回向院山門の東側にある、大きなマンションが過日有った旧両国国技館跡に建てられた「両国シティコア」で、レストランやスポーツジム、劇場が低層階に入っています。また、この両国近辺には相撲部屋が沢山ありますし、ちゃんこ料理屋さんもあります。新国技館もJRの北側に江戸東京博物館と並んで建っています。新国技館の中には小さな相撲博物館があって、誰でも無料で入館することが出来ますが、相撲やイベントがあったりすると、その入場料がかかります。平日のみの開館って、本当にやる気があるのでしょうか。また、相撲番付が50円で買えます。
京葉道路を西に進むと両国橋に出ます。鉄橋になって二代目の橋で、赤いラインが似合っています。橋の左手先が両国広小路と言われたところですが、現在は見世物小屋も茶店も、その面影も風情も何もありません。木製両国橋は今の橋の50m程下流に架かっていて日本橋中学校までが広小路です。「紫檀楼古木」で歩いたとこです。
対岸の右手に、隅田川に流れ込む神田川とその最下流に架かった柳橋が見えます。橋の右手(上流)が柳橋(町)と呼ばれる花柳界だったところです。
両国橋を渡って右に曲がると柳橋で、橋の上からは隅田川と両国橋や反対側には船宿と屋形船などがもやっているのが見られます。そうそう、徳さんが四万六千日の日、浅草まで船を出したのが、ここ柳橋です。花見小僧のおせつ・お嬢さんも、網打ち船を出すのも、落語の世界で船を出すと言えばここに決まっています。その神田川の先に見える橋がこれから行く浅草橋です。
橋を渡った右側の大きな赤茶色の建物は「干物箱」で尋ねた亀清楼と言う料亭です。柳橋の街中を歩くと、黒板塀の粋な料亭を見つける事が出来ます。10年後に来たら存在しているか心配です。その先の大通りが、江戸通りと呼ばれ右に曲がれば浅草寺に抜けます。
この通り右側のガードがJR総武線を渡していて、その左側が浅草橋駅です。駅のホームには注意書きがあり「ここは浅草ではありません」と書かれていますから、浅草と浅草橋を混同する人が居るのでしょう。浅草まで北にまだ2km弱有ります。この辺一体には人形屋さんが多く並んでいます。
話戻って、浅草橋に行きます。
通りの向こう側に碑や説明板がありますので、通りを渡りましょう。橋の手前にごく小さな公園があって、その植え込みの中に「浅草見附跡」の碑が建っています。裏側にその説明が彫られていますが、御影石の柄と重なって読みにくいのでパスします。台東区で建てた下町まちしるべで旧浅草橋の解説があります。御影石の説明とだぶっています。橋を渡ると植え込みとその前に説明板が建っていて「郡代屋敷」が有ったところだと言っています。説明板から左を見ると、交番のお巡りさんの愛想のいい笑顔、私もたっぷり笑顔で返しておきました。川に沿って柳並木がある道が、鼻利き源兵衛が暖簾を買いに来た柳原土手通りの始まりです。
南を見ると京葉道路の先に衣料品街があって、馬喰町や橘町が見えるはずです。
地図をクリックすると大きな地図になります。
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両国橋(京葉道路の起点で隅田川を渡す)
明暦の大火後隅田川に架橋され大橋と言われたが、俗称両国橋が正式名称となった。度々架け替えられたが明治30年夏、花火大会のおり欄干が倒壊し数十名の死傷者を出した。その為7年後、曲弦トラス3連桁橋で、長さ164.5m、幅24.5mの鉄橋になった。大震災後昭和7年現在の鉄橋に架け替えられた。その旧橋は南高橋として蘇った。
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柳橋(台東区と中央区の境を流れる神田川に架かる最下流の橋)
上記写真の中央、遊覧船の向こう側に見える緑色の橋が柳橋です。
元禄11年(1698)に初めて架けられた。神田川の河口にあったので、当時は「川口出口之橋」と呼ばれていたが、一説によると、橋のたもとに柳があった事から「柳橋」と呼ばれるようになったとも言われます。
現在の橋は、昭和4年(1929)に架けられたローゼ形式の橋です。花柳界のイメージから、欄干にかんざしを描いています。対岸が柳橋(町)。
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柳橋(町。台東区柳橋)
幾つかの町が統合され、昭和9年(1934)に誕生した。町名の由来は上記柳橋から命名。 町は江戸中期の頃から花街として人々に知られ、橋のほとりには船宿が並んで賑わっていた。ひところは料亭および芸者も多く、隆盛をきわめた。
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浅草橋(台東区と中央区の区境・神田川に架かる、浅草橋御門跡)
柳橋上から川上の浅草橋を望む。 水戸街道が通るこの地は、浅草観音への道筋に当たる事から、築かれた門を「浅草御門」と呼ばれた。また、警護の役人を配した事から浅草見附と呼ばれた。
神田川に初めて架橋されたのが實永13年(1636)で、浅草御門橋と呼ばれたがいつしか「浅草橋」となった。
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橘町(中央区東日本橋三丁目)
浅草橋から4〜500mの所に位置する地名で、現在は東日本橋三丁目。地下鉄が2系統、東日本橋と馬喰横山の二駅があります。馬喰町の隣ですから繊維、衣料関係の店が並んでいます。
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回向院(隅田区両国2−9)
江戸中期からは、その地の利が尊ばれて全国の有名寺社の秘仏秘像の開帳される寺院として、境内は毎年のように参詣する人々で賑わいをきわめました。そして江戸後期になると勧進相撲の定場所が回向院に定められ、明治末期までの七十六年間、いわゆる“回向院相撲”の時代を迎えます。
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旧国技館跡(隅田区両国2−10)
回向院の境内に、明治42年(1909)5月に竣工。旧国技館は大鉄傘(だいてっさん)の通称で知られる一万三千人収容のドーム型屋根の建物であった。また、敗戦後アメリカに接収され、メモリアルホールと改名、後、日本大学講堂(日大講堂)として使用された。老朽化のため昭和57年(1982)をもって使用中止となり、翌年に解体された。 |
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野見宿禰神社(のみのすくねじんじゃ。墨田区亀沢2−8)
明治17年(1884)に創建され、この神社の東側に高砂浦五郎(初代高砂親方)の部屋があった。浦五郎の尽力で元津軽家の屋敷跡に相撲の神様として祀った。
玉垣の石柱には相撲関係者や力士の名が刻まれている。また境内には歴代横綱名を刻んだ碑が建っています。 |
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付録:南高橋(みなみたかばし。中央区新川二丁目と湊一丁目間、亀島川に架かる)
初代鉄骨両国橋が大震災により損傷があったので、現在の橋に架け替えられた。その時の損傷の少なかった3連アーチの中央部分を巾を縮めて、ここに架け替えた。明治38年製で自動車が走れる都内最古の鉄橋になり、全国でも6番目に古い橋になった。中央区の区民有形文化財になっています。
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2010年1月記
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