落語「蝦蟇の膏」の舞台を歩く
   

 

 三遊亭円生の噺、「蝦蟇の膏」(がまのあぶら)によると。
 

 見世物小屋が沢山出ています。ろくろ首、河童の見世物、カエル娘、化けもの屋敷、べな(屋)、大ザル小ザル(屋)、大イタチ(屋)、弘法の石芋売り、等があって賑わっています。

 蝦蟇の膏売りが口上を述べ始めた。
 「さあさあ、お立ち合い、ご用とお急ぎのない方は、ゆっくりと見ておいで。遠目山越し笠のうち、ものの文色(あいろ)と理方(りかた)がわからぬ。山寺の鐘は、鏗鏗(こうこう)と鳴るとはいえ、童児来たって鐘に撞木(しゅもく)を当てざれば、鐘が鳴るやら撞木が鳴るやら、とんとその音色がわからぬが道理。・・・だがしかし、お立ち合い、投げ銭やほうり銭はお断わりだ。
 手前、大道に未熟な渡世をいたすといえど、投げ銭、ほうリ銭はもらわない。しからば、なにを稼業にいたすかといえば、手前持ちいだしたるは、これにある蟇蝉噪(ひきせんそう)四六の蝦蟇の膏だ。・・・四六、五六はどこでわかる。前足の指が四本、後足の指が六本、これを名づけて四六のガマ。このガマの棲める所は、これよりはる〜か北にあたる、筑波山の麓にて、おんばこという露草を食らう。・・・このガマの脂をとるには、四方に鏡を立て、下に金網を敷いて、その中にガマを追い込む。ガマは、おのれの姿が鏡にうつるのを見て驚き、たら〜り、だらりと脂汗を流す。これを下の金網にてすきとり、柳の小枝をもって、三七二十一日の間、とろ〜リ、とろりと煮つめたるがこの蝦蟇の膏だ、腫れ物、切り傷一切に効く。普段は1貝で100文だが、今日はお披露目であるから二つで100文だ、お立ち合い。・・・その他に刀の切れ味を止める。ここに取り出したる刀は先が切れて元が切れないと言うものではない。一枚の紙が2枚、2枚が4枚、8枚、16枚、32枚、春は3月落花の舞い。(ふぅ〜っと吹くと)雪降りの形。蝦蟇の膏を刀に付けると白紙も切れず、この腕も切れない。刀の膏を拭き取ると触っただけで、この様に切れる。切れても心配いらぬ。傷口に蝦蟇の膏を付ければピタリと血は止まり痛みも取れて治る。」
という言い方で、売っていた。

 口上が良かったのでよく売れて、居酒屋で一杯引っかけて気分良く先ほどの所を通りかかった。まだ人通りも多く、陽も高いので、もう一度店を開いた。
 酔ってする仕事にイイものはない。

 客は大勢集まったが、ろれつが回らない。四六のガマでなく8本だという。「それではタコだ」と客に突っ込まれる始末。
 このガマの棲むところは東の高尾山だという。客に筑波山ではないかと指摘されると、
「良いんだよ。こんなもの何処にだって居るんだ」。
「2貝で100文だが今日はお披露目であるから1貝で100文だ」、「それは高いよ」。
「この刀は切れるぞ。白紙が2枚に切れた。2枚が3枚だ。ん、違う?良いのだ。沢山になって、落花の舞いだ。これだけ切れる業物でもこれを付けると、白紙一枚がなかなか切れない。試しに腕を叩いてみても、ほら、切れない。引いてもキレ・・、 キレた。
しかし、心配は要らぬ、蝦蟇の膏を付ければピタリと血が止まって治る。(まだ止まらないと口ごもっている)ひと付けで止まらない時は二付け付ける。(まだ止まらないな、切りすぎたかな)この様な時はメチャメチャ付ける。薬の重みで止める。とほほ止まらない」。
「どうしたぃ」、
「なんとお立ち合いに、血止めはないか」。


画;平野 勲(文春デラックス寄席より) 写真をクリックすると大きな写真になります。
 


 
1.香具師(やし。野師・弥四・てきや)
 縁日・祭礼などの人出の多い所で見世物などを興行し、また粗製の商品などを売ることを業とする者。
広辞苑より
まさにこの”蝦蟇の膏”売りの商売がこれです。映画山田洋次の「寅さん」もまさしくこの職業です。

  「剣劇を振って薬を売りつける」  江戸古川柳

 香具師という呼び名は戦国時代に敗れた西軍豊臣方の浪人武士たちがしのぎの足しに薬を売り歩いたので「薬師」からきたとの説もあり、客寄せのためにちょっとした武芸も披露したのがルーツとも言われております。
 現在香具師が露店で医薬品を販売するとその香具師が元薬剤師であっても無免許販売、無許可販売の薬事法違反で捕まるので、あくまでも芸としての価値があります。 蝦蟇の膏売りが絶滅した理由の一つはここにもあります。

 茨城県筑波山名物の「ガマの油売り口上」 2012/03撮影、追加

■氷の刃(やいば)
 本当のところは一本の太刀に切れる所と、なまくらな所があるような細工がしてあったようです。よって場所を間違えると大変です。

香具師の持ち時間というのは基本的に1時間20分なんです。前締めと芯があって最後に後締めをやるのですが、その最後の 10分間で物を売るわけです。1時間20分のうちの最初の15分くらいが導入部、残りの4、50分が商品に価値をつけるたんか口上、この間に騙されないように斜に構えている観客はだんだん欲しくなり最後には買わなきゃ損だという気になる、その話芸が大体1時間続くわけです。最後はいつ買えるのかじりじりして待っている状態にまでお客は追い込まれて来るので、最後の10分でどっと買ってしまうというものです。

 家に帰って興奮がさめるとなんであんなものを買ったんだろうとなるんです。だまされたということになるんですが、それは騙されたんではなくて話の聞き賃だと思えば良いのです。商品は聞いたあとの領収書だと思えばよいのです。香具師がなんで無くなったかといいますと、物を買ってあげなくなったからです。

この
大道芸の粋」 http://www.kanda-zatsugaku.com/070518/070518.htm より引用

香具師の口上で分かりにくいところ
文色(あいろ);(アヤイロの約) 様子。条理。ものの区別。
理方(りかた);理屈。原理。
鏗鏗(こうこう);金石のぶつかり合う音。寺の鐘の音。
鐘に撞木(しゅもく)
;釣り鐘・鉦(タタキガネ)・磬(ケイ)などと、それを打ち鳴らす棒。多くは丁字形をなす木槌。
蟇蝉噪(ひきせんそう);蝉や蛙が鳴きさわぐこと。転じて、取るに足りないものども(蝦蟇)がやかましく言いさわぐこと。
椰子油(やしゆ);ココ椰子の種から取る白色の油。主成分はラウリン酸・ミリスチン酸などのグリセリン‐エステル。石鹸・グリセリンの主要原料。
テレメンテイカ;オランダ語テレメンティナの訛り。松脂からとるテレピン油。塗料溶剤、油えのぐ、靴墨、ロウソク等に使われる。
マンテイカ;ポルトガル語マンティカの訛り。猪、豚からとる脂。軟膏の練り延ばし用の脂。
差裏差表(さしうらさしおもて);差裏は刀を鞘ぐるみ腰に差す場合の内側、つまり身体に着く方の刀身の面。正眼に構えた場合の刀身の右側。差表はその逆の面。
東の高尾山;酔っているので、北の筑波山と言うところ、東の高尾山と言って笑われています。高尾山は江戸から見て東ではなく西の方で、落語「天狗裁き」で行ったところで 、二重に間違っています。
1貝で100文;入れ物に蛤の貝を使っていたのでしょう。今で言えばひと瓶またはひと缶。
100文とは、一両=一文銭(江戸初期、4貫文、4,000枚、後期で10,000文)ですから、1両が8万円とすると1文が20円。100文で、2,000円(後期で800円)、以外と高いものです。で、一貝1,000円(同400円)です。当時 (江戸中期)ソバが16文、天麩羅ソバが32文、鰻丼が100文でした。

第十八代 永井兵助氏口上より  「正調 ガマの膏売り口上  

 

2.両国広小路(中央区東日本橋、両国橋西詰め)
 江戸に広小路は3ヶ所あって、上野山下の「下谷広小路」、浅草雷門前の「浅草広小路」、そしてここ「両国広小路」がありました。
 明暦の大火(1657・振り袖火事)は江戸の市街の大半を焼失し10万余の死者を出した。その際この辺りで逃げ場を失って焼死する者が多数出ました。このため対岸への避難の便を図り大橋が架けられた。隅田川は武蔵と下総両国の境界をなしていたので、橋名をのち両国橋になった。また、延焼防止のため橋に向かう沿道一帯を火除け地に指定し空き地とした。これがやがて広小路になり、小屋などが並んで盛り場になっていった。 火事や将軍通過時は仮設小屋は即座に取り払われた。
 江戸で日に1千両が落ちる所として、魚河岸、歌舞伎、吉原と夏の両国広小路に金が落ちた。それ程の歓楽街であった。道が広いだけなら何ヶ所もあったが、賑わいのある江戸三大広小路のひとつです。

筑波山;茨城県つくば市。筑波山は山頂が2つ、西側に位置する男体山(871m)と東側に位置する女体山(876m)からなります。昔から「西の富士、東の筑波」と愛称され、朝夕に山肌が紫に色を変えるところから「紫峰」とも呼ばれています。つくばエクスプレスでも簡単に秋葉原から行けるようになりました。
 ロープウェイ、ケーブルカーがあり手軽に登山が楽しめます。また、ハイキングコースも整備されておりコース沿いには、「ガマ石」「弁慶七戻り」など伝説に彩られた奇岩・怪石があります。
日本百名山中もっとも低い山でもあります。

 

3.蝦蟇の膏(がま‐の‐あぶら)
 ガマの分泌液を膏剤にまぜて練ったという軟膏。昔から戦陣の膏薬(軍中膏)として用いられ、やけど・ひび・あかぎれ・切傷等に効能があるといわれ、大道に人を集めて香具師が口上面白く売った。 (広辞苑)
 今でも筑波山のお土産として有名です。

■蝦蟇(がま)の油
 
蝦蟇(がま)の油のおおもとは、伝説によると筑波山の中腹にある中禅寺の住職・光誉上人が大坂夏の陣に徳川方として従軍、戦傷者の手当てに使った陣中薬が良く効いて評判となり、この光誉上人の顔がなんと蝦蟇(がま)に似ていたところから“ガマ上人の油薬”としてもてはやされ、後々『ガマの油』として有名になったものです。上人別名“筑波の蝦蟇将軍”。つまり『ガマの油』の名前の由来は顔が蝦蟇に似ていたためで薬効成分としての蝦蟇や蟾酥(センソ)とは無関係ということになります。

■おんばこ
・オオバコ
(写真 。06年10月撮影)、車前草のこと。車前草とは車(自動車でなく牛馬、時には人が引く大八車など)の通る道端の輪のほとりに生える草との意味で、オオバコとは大葉子でその葉が大きいことの意味。民間薬的には生の葉をあぶってカスリ傷や火傷、おでき、腫物などに用いられるが、漢方では車前というと種子の車前子のことで医療用でも牛車腎気丸に用いられている。葉や種子(車前子(しゃぜんし))は利尿剤やセキ止め薬になる。 素敵な草のように聞こえますが、ごく普通の雑草です。
・なお蝦蟇はハエなどの虫類を捕食するのでオオバコは食べません。

■四六(しろく)の蝦蟇(がま=ヒキガエル
 
ヒキガエル
;カエルの一種。体は肥大し、四肢は短い。背面は黄褐色または黒褐色、腹面は灰白色で、黒色の雲状紋が多い。皮膚、特に背面には多数の イボがある。また大きな耳腺をもち、白い有毒粘液を分泌。動作は鈍く、夜出て、舌で昆虫を捕食。冬は土中で冬眠し、早春現れて、池や溝に寒天質で細長い紐状の卵塊を産み、再び土中に入って春眠、初夏に再び出てくる。日本各地に分布。ヒキ。ガマ。ガマガエル。イボガエル。

 蝦蟇の指は四六(しろく)が正常で奇形ではありません。五本ある方が異常。つまり前脚には5本分の骨があるが退化して四本に見え、後脚は5本のうち1本に イボのような突起があるので六本に見えるのが普通です。(上野動物園談)

   

■四面鏡の箱・脂汗を流す
 蝦蟇(がま)の分泌毒素センソの研究で学位を取った井川俊一先生によると、このような箱に入れても油を絞ることは出来なかったとのこと。
 しかし、棒で突っついたり突然驚かすなどの刺激を与えると目の上の小さな瘤の分泌線から牛乳様の汁が飛び出す。これが目に入ると失明するし蝦蟇(がま)を噛んだ犬が死ぬこともあり、センソはこれを固めたもので近年研究が進み強力な薬効が確認されています。
■蟾酥(センソ)
 一匹の蝦蟇の耳下腺・皮脂腺から約2r取れる分泌物を固めた蟾酥(センソ)は、古くからその強心作用を救心や六神丸などに配合して利用してきましたが、近年モルヒネを凌ぐ鎮痛作用が発見されました。他にも局所麻酔作用、止血作用もあり本当に蝦蟇(がま)の油に蟾酥が入っていれば香具師(やし)の口上は当たっています。
 しかしながら特例販売業として筑波山の土産物店で売っている蝦蟇の油には蟾酥は入っていません。
 戦前蝦蟇(がま)の油を作っていた筑波神社の話しでは本物の蟾酥入りの蝦蟇(がま)の油を作っていたが、戦後は規制のため止めてしまったとのこと。一方『陣中膏・一名蝦蟇(がま)の油』を販売していた山田屋薬局によると、筑波神社の奉賛会で以前売っていた貝殻入りの「蝦蟇(がま)の油」は調べたらワセリンみたいなもので問題があり、だからウチで“正しい軟膏”を作り、地元の名物の意味を込めて『蝦蟇(がま)の油』の名前をつけたので評判はいいとのこと。
 つまりは少なくとも現代では蟾酥(センソ)入りの『蝦蟇(がま)の油』はこの世に存在しておらず、しかも上記老舗の山田屋薬局も1998年に倒産してしまいました。
 現在他社の作っている『蝦蟇(がま)の油』が土産物(おまけの印籠付き)として売られています。

 「東京都薬剤師会北多摩支部」 http://www.tpa-kitatama.jp/museum/museum_14.html より と写真引用
 

4.見世物小屋
 
 淺草は奥山(浅草寺裏)に出た、落語でもご存じ「見せ物小屋」です。2008年11月追記

 円生は噺の中で楽しそうに次のように説明しています。
■ろくろく首;三味線を弾いている女性の首が伸びて、頭が上昇していく。黒幕の後ろではハシゴを登る女性が居るだけなんですがね。
■河童の見世物;濁った水中から泡とともに河童の頭がのぞき、間もなく水中に没する。瓢箪のオシリの回りに毛を植えてさも河童のように見せて、紐でつながれた瓢箪を操作していた。
■カエル娘;これは呼び込みの口上だけで中身は良く分かりません。今の声は金馬と正蔵が混ざったような声だと言っています。
■化けもの屋敷;昔は招魂社、今の靖国神社によく出ていた。私もその存在を知っていますが、最近は見かけません。他の見世物小屋より入場料が高かったが、若い二人は入りたがった。舞台装置は当然作り物であったが、中には人間が入っているものもあって、驚く仕掛けになっていた。驚かない男客には下から男の一物をおもいっきり握った。どんな男でも「ギャ〜」っと声が上がった。
■べな(屋);入ると男が鍋をひっくりかしたものを叩きながら、「べな。・・・べな」。”なべ”をひっくり返したから、”べな”だと言う。
■大ザル小ザル(屋);どんな大きな猿だと思って入ると、中には竹ザルの大きいのと小さいのがあるだけ。決して猿とは言わず、”ザル”と言っているのがミソであった。
■大イタチ(屋);山で捕れたばかりだから近寄ると危険だよとの口上で入ると、6尺の板が立てかけてあって真ん中に血が付いている。聞けば「大きな板に血、オオイタチ。板は山で取れるし、倒れると危ない」。
■人食い人間;今回の円生の噺には出てきませんが、女が赤ん坊を食べるという。小屋の中は薄暗く女が座っている回りに、骨や食べかすが散らかっている。客が一杯になったところで裏から赤ん坊が連れ出され、 女の脇に置かれる。口上が「さっきの回で一人食べてしまって腹はキツイ、もう一人食べても良いのだが・・・」と言うと、客の中から「かわいそうだから、やめとけ〜」の声が掛かり、お客さん全員のお助けコールになり、そのままゾロゾロと小屋の外に。
どれもこれもダマシであったが、それを江戸の人達はおおらかに楽しんでいた。
 

 
  紅葉の祖谷渓谷
西祖谷村ホームページより

5.弘法の石芋売り (および弘法の馬)
円生の噺のマクラから、

 この石は弘法さんの石芋と言って、弘法さんが四国の祖谷渓に行ったおり、川で芋を洗っていた婆さんに声を掛けた。「あァ、これこれ、それなる芋を、なんとかわけてはくれまいか」。
婆さんは「エ?いやァお坊さん、すまねえが、こらァダメだよ。芋ではなくて石だから食べられない」。
弘法さんは「さようか」と言って、立ち去ってしまった。その後稲谷に出来る芋はすべて石になってしまった。弘法さんに詫びを入れてお願いしたら戻らないと断られたが、石に薬力を与えてくれた。石を削って飲むと『胃薬』なみの効能が有ると言う。これを削ったものを露天で売っていた。

 客が散らないように次の話が続く、(弘法の馬)
 弘法さんにはすごい法力がある。ある日の夕方、豆を煮ているのを見た弘法さん「その煮豆を少し分けてくれないか」とお願いした。女房は惜しくなって、「これは馬に食わすもので、人間が食べるものでない」と断った。すごすごと弘法さんは立ち去った。
 さてこの豆を亭主に食わせると、ふしぎや亭主の身体が馬になってしまった。驚いた女房が、息せき切って、弘法さんに追いつき、ころもの紬にすがりまして、「お坊さま、許して下せえ、情けだからと涙を流して懇願した」。弘法さんもかわいそうになって、女の家に行くと、家の中に首うなだれた馬が悲しげにたたずんでいた。
 馬になった亭主の前へ進み出で、数珠サラサラと押しもんで、 口中に真言秘密の呪をとなえた。
 その法力はたいへんなもので、長い顔がまるくなり、首から肩へ、次に前足が手になるといった具合に、上のほうからだんだんに、人間の姿にもどってまいります。 女房伏し拝みながら見ていると今、ちょうど、ヘソのあたりを通り過ぎ、 法力が足の間のところまで及びましたとき、
「あ、ちょっとお坊さま、そ、そこのところだけは馬並みにしといてくだされ」。

 


 舞台の両国を歩く

 両国橋両岸。隅田川に架かる両国橋の東側は両国東広小路と呼ばれた所で、現墨田区両国の地名で、回向院、両国駅、国技館、江戸東京博物館などがあり、相撲部屋も沢山あります。ちゃんこ料理屋さん、超大判の衣服、靴等の店もあります。江戸時代にも回向院を中心に賑わっていた所です。
 両国橋の西側、中央区東日本橋にこの舞台”両国広小路”が有りました。当時は仮設小屋が建ち並び、そこに露天商も多く集まり、繁華街の様相を呈していました。特に夏は毎晩花火が上がり、夜店や冷や水売りが人気でした。
 しかし、今の両国橋西側には当時の賑わいはどこにも見当たりません。しかし、今でも南に薬研堀、北に柳橋があります。

 ”蝦蟇の膏売り”は見たことありませんが、子供の頃”ハブの油売り”を見たことがあります。マムシ酒やハブ酒は有名ですが、ハブの毒から作られたという膏薬ですが、蝦蟇の膏と同じ効能があったと思います。延々と続く口上にお客さんは釘付けになっています。当然私は最前列でしゃがんで見ていました。突然 「この袋の中を見て」と、麻袋の中を覗かせたのです。何かヘビのようなものが入っていましたが、確認する前に危ないからと袋は閉じられ「ハブがいたでしょ」で「ウン」と答えていた子供の私です。その一言でハブの信用性が高まったのです。その後、アオダイショウを取りだして腕にかませて、出た血にこの軟膏を塗るとサラリと血は止まって痛みは止まった(と言いました)。「この軟膏は近日中に薬局で販売されるが、前宣伝中であるから、通常は○○円だが今回は半額の△△円だ。いくら欲しいと言っても、まだ薬局では売っていないよ。」で、回りを取り囲んだお客さんは買い気十分です。私も少ない小遣いをはたいて買ってしまいましたが、家に持って帰って自慢したら、バカにされたことを鮮明に思い出します。その”ハブの油売り”もその後見ませんね〜。

 我が女房殿は手品は嫌いだという。TVでマジックをやっていますが、子供たちも私も目をキラキラさせながら楽しんでいますが、ただ一人だけ女房はしらけています。聞くと「人を騙すから嫌いだ」と。子供たちはショーだからと言いますが聞き入れません。江戸時代の見世物小屋や露天商のテクニックを楽しんだその風情は、現在は生きていないようです。
 
大道芸の粋」さんの言葉にもあるように、大道芸がなくなったのは買わなくなったからだと言います。金銭的に豊になって、教育も進んだ今、江戸時代の庶民より心が狭くなってしまったのでしょうか。1時間程のショーを観た聞き賃で、品物は領収書だとは良いご意見です。
 寺社の境内で猿回しを観ると、最後にザルを持って回りますが、おひねりを入れる人の顔の良さを感じます。
 

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。

両国橋
東岸より西岸の元広小路辺りを望む。右側の赤い橋が両国橋。正面、船がある辺りに旧の木造橋が架かっていた。正面のビル群辺りが、両国広小路と言われた歓楽街。
右側上流、浅草方面。左方下流、東京湾。
両国橋
橋の上から望む元両国広小路。水上バスが浅草に向かって涼しげに航行しています。
ジオラマ両国橋と小屋
江戸東京博物館の両国橋回りのジオラマ。手前の木造両国橋と奥に見えるのが見世物小屋。川には遊山船が出ています。

両国広小路(西詰め)
柳の木の下に幽霊がいます。いえ間違えました。広小路の説明碑が見えます。正面奥が両国橋。右に広小路。左に柳橋があります。

ジオラマ両国広小路
江戸東京博物館の両国橋回りのジオラマ。上記場所の両国広小路を再現しています。左に小屋掛けされた小屋群があって、右側に隅田川がありますので、その手前に小店が並んでいます。奥の突き当たりに柳橋があり、右手に両国橋が架かっています。左の小屋には「小児かるわざ」の幟が立っています。
靖国神社(千代田区九段北3-1)
前回の「浜野矩随」で伺った神社です。ここの境内に『お化け屋敷』の小屋がかかっていましたが、最近では毎週日曜日「靖国神社青空骨董市」が開かれています。鞘が抜けない木刀や、ヒョロビリの股引、太田道灌が小野小町に送った文などが混ざっているかもしれませんよ。

                                                        2007年12月記

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