・蟇蝉噪(ひきせんそう);蝉や蛙が鳴きさわぐこと。転じて、取るに足りないものども(蝦蟇)がやかましく言いさわぐこと。
・椰子油(やしゆ);ココ椰子の種から取る白色の油。主成分はラウリン酸・ミリスチン酸などのグリセリン‐エステル。石鹸・グリセリンの主要原料。
・テレメンテイカ;オランダ語テレメンティナの訛り。松脂からとるテレピン油。塗料溶剤、油えのぐ、靴墨、ロウソク等に使われる。
・マンテイカ;ポルトガル語マンティカの訛り。猪、豚からとる脂。軟膏の練り延ばし用の脂。
・差裏差表(さしうらさしおもて);差裏は刀を鞘ぐるみ腰に差す場合の内側、つまり身体に着く方の刀身の面。正眼に構えた場合の刀身の右側。差表はその逆の面。
・東の高尾山;酔っているので、北の筑波山と言うところ、東の高尾山と言って笑われています。高尾山は江戸から見て東ではなく西の方で、落語「天狗裁き」で行ったところで
、二重に間違っています。
・1貝で100文;入れ物に蛤の貝を使っていたのでしょう。今で言えばひと瓶またはひと缶。
100文とは、一両=一文銭(江戸初期、4貫文、4,000枚、後期で10,000文)ですから、1両が8万円とすると1文が20円。100文で、2,000円(後期で800円)、以外と高いものです。で、一貝1,000円(同400円)です。当時
(江戸中期)ソバが16文、天麩羅ソバが32文、鰻丼が100文でした。
■第十八代 永井兵助氏口上より 「正調 ガマの膏売り口上」
2.両国広小路(中央区東日本橋、両国橋西詰め)
江戸に広小路は3ヶ所あって、上野山下の「下谷広小路」、浅草雷門前の「浅草広小路」、そしてここ「両国広小路」がありました。
明暦の大火(1657・振り袖火事)は江戸の市街の大半を焼失し10万余の死者を出した。その際この辺りで逃げ場を失って焼死する者が多数出ました。このため対岸への避難の便を図り大橋が架けられた。隅田川は武蔵と下総両国の境界をなしていたので、橋名をのち両国橋になった。また、延焼防止のため橋に向かう沿道一帯を火除け地に指定し空き地とした。これがやがて広小路になり、小屋などが並んで盛り場になっていった。
火事や将軍通過時は仮設小屋は即座に取り払われた。
江戸で日に1千両が落ちる所として、魚河岸、歌舞伎、吉原と夏の両国広小路に金が落ちた。それ程の歓楽街であった。道が広いだけなら何ヶ所もあったが、賑わいのある江戸三大広小路のひとつです。
■筑波山;茨城県つくば市。筑波山は山頂が2つ、西側に位置する男体山(871m)と東側に位置する女体山(876m)からなります。昔から「西の富士、東の筑波」と愛称され、朝夕に山肌が紫に色を変えるところから「紫峰」とも呼ばれています。つくばエクスプレスでも簡単に秋葉原から行けるようになりました。
ロープウェイ、ケーブルカーがあり手軽に登山が楽しめます。また、ハイキングコースも整備されておりコース沿いには、「ガマ石」「弁慶七戻り」など伝説に彩られた奇岩・怪石があります。
日本百名山中もっとも低い山でもあります。
3.蝦蟇の膏(がま‐の‐あぶら)
ガマの分泌液を膏剤にまぜて練ったという軟膏。昔から戦陣の膏薬(軍中膏)として用いられ、やけど・ひび・あかぎれ・切傷等に効能があるといわれ、大道に人を集めて香具師が口上面白く売った。
(広辞苑)
今でも筑波山のお土産として有名です。
■蝦蟇(がま)の油
蝦蟇(がま)の油のおおもとは、伝説によると筑波山の中腹にある中禅寺の住職・光誉上人が大坂夏の陣に徳川方として従軍、戦傷者の手当てに使った陣中薬が良く効いて評判となり、この光誉上人の顔がなんと蝦蟇(がま)に似ていたところから“ガマ上人の油薬”としてもてはやされ、後々『ガマの油』として有名になったものです。上人別名“筑波の蝦蟇将軍”。つまり『ガマの油』の名前の由来は顔が蝦蟇に似ていたためで薬効成分としての蝦蟇や蟾酥(センソ)とは無関係ということになります。
■おんばこ
・オオバコ(写真
。06年10月撮影)、車前草のこと。車前草とは車(自動車でなく牛馬、時には人が引く大八車など)の通る道端の輪のほとりに生える草との意味で、オオバコとは大葉子でその葉が大きいことの意味。民間薬的には生の葉をあぶってカスリ傷や火傷、おでき、腫物などに用いられるが、漢方では車前というと種子の車前子のことで医療用でも牛車腎気丸に用いられている。葉や種子(車前子(しゃぜんし))は利尿剤やセキ止め薬になる。
素敵な草のように聞こえますが、ごく普通の雑草です。
・なお蝦蟇はハエなどの虫類を捕食するのでオオバコは食べません。
■四六(しろく)の蝦蟇(がま=ヒキガエル)
ヒキガエル;カエルの一種。体は肥大し、四肢は短い。背面は黄褐色または黒褐色、腹面は灰白色で、黒色の雲状紋が多い。皮膚、特に背面には多数の
イボがある。また大きな耳腺をもち、白い有毒粘液を分泌。動作は鈍く、夜出て、舌で昆虫を捕食。冬は土中で冬眠し、早春現れて、池や溝に寒天質で細長い紐状の卵塊を産み、再び土中に入って春眠、初夏に再び出てくる。日本各地に分布。ヒキ。ガマ。ガマガエル。イボガエル。
蝦蟇の指は四六(しろく)が正常で奇形ではありません。五本ある方が異常。つまり前脚には5本分の骨があるが退化して四本に見え、後脚は5本のうち1本に
イボのような突起があるので六本に見えるのが普通です。(上野動物園談)
■四面鏡の箱・脂汗を流す
蝦蟇(がま)の分泌毒素センソの研究で学位を取った井川俊一先生によると、このような箱に入れても油を絞ることは出来なかったとのこと。
しかし、棒で突っついたり突然驚かすなどの刺激を与えると目の上の小さな瘤の分泌線から牛乳様の汁が飛び出す。これが目に入ると失明するし蝦蟇(がま)を噛んだ犬が死ぬこともあり、センソはこれを固めたもので近年研究が進み強力な薬効が確認されています。
■蟾酥(センソ)
一匹の蝦蟇の耳下腺・皮脂腺から約2r取れる分泌物を固めた蟾酥(センソ)は、古くからその強心作用を救心や六神丸などに配合して利用してきましたが、近年モルヒネを凌ぐ鎮痛作用が発見されました。他にも局所麻酔作用、止血作用もあり本当に蝦蟇(がま)の油に蟾酥が入っていれば香具師(やし)の口上は当たっています。
しかしながら特例販売業として筑波山の土産物店で売っている蝦蟇の油には蟾酥は入っていません。
戦前蝦蟇(がま)の油を作っていた筑波神社の話しでは本物の蟾酥入りの蝦蟇(がま)の油を作っていたが、戦後は規制のため止めてしまったとのこと。一方『陣中膏・一名蝦蟇(がま)の油』を販売していた山田屋薬局によると、筑波神社の奉賛会で以前売っていた貝殻入りの「蝦蟇(がま)の油」は調べたらワセリンみたいなもので問題があり、だからウチで“正しい軟膏”を作り、地元の名物の意味を込めて『蝦蟇(がま)の油』の名前をつけたので評判はいいとのこと。
つまりは少なくとも現代では蟾酥(センソ)入りの『蝦蟇(がま)の油』はこの世に存在しておらず、しかも上記老舗の山田屋薬局も1998年に倒産してしまいました。
現在他社の作っている『蝦蟇(がま)の油』が土産物(おまけの印籠付き)として売られています。
「東京都薬剤師会北多摩支部」 http://www.tpa-kitatama.jp/museum/museum_14.html より
文と写真引用
4.見世物小屋

淺草は奥山(浅草寺裏)に出た、落語でもご存じ「見せ物小屋」です。2008年11月追記
円生は噺の中で楽しそうに次のように説明しています。
■ろくろく首;三味線を弾いている女性の首が伸びて、頭が上昇していく。黒幕の後ろではハシゴを登る女性が居るだけなんですがね。
■河童の見世物;濁った水中から泡とともに河童の頭がのぞき、間もなく水中に没する。瓢箪のオシリの回りに毛を植えてさも河童のように見せて、紐でつながれた瓢箪を操作していた。
■カエル娘;これは呼び込みの口上だけで中身は良く分かりません。今の声は金馬と正蔵が混ざったような声だと言っています。
■化けもの屋敷;昔は招魂社、今の靖国神社によく出ていた。私もその存在を知っていますが、最近は見かけません。他の見世物小屋より入場料が高かったが、若い二人は入りたがった。舞台装置は当然作り物であったが、中には人間が入っているものもあって、驚く仕掛けになっていた。驚かない男客には下から男の一物をおもいっきり握った。どんな男でも「ギャ〜」っと声が上がった。
■べな(屋);入ると男が鍋をひっくりかしたものを叩きながら、「べな。・・・べな」。”なべ”をひっくり返したから、”べな”だと言う。
■大ザル小ザル(屋);どんな大きな猿だと思って入ると、中には竹ザルの大きいのと小さいのがあるだけ。決して猿とは言わず、”ザル”と言っているのがミソであった。
■大イタチ(屋);山で捕れたばかりだから近寄ると危険だよとの口上で入ると、6尺の板が立てかけてあって真ん中に血が付いている。聞けば「大きな板に血、オオイタチ。板は山で取れるし、倒れると危ない」。
■人食い人間;今回の円生の噺には出てきませんが、女が赤ん坊を食べるという。小屋の中は薄暗く女が座っている回りに、骨や食べかすが散らかっている。客が一杯になったところで裏から赤ん坊が連れ出され、
女の脇に置かれる。口上が「さっきの回で一人食べてしまって腹はキツイ、もう一人食べても良いのだが・・・」と言うと、客の中から「かわいそうだから、やめとけ〜」の声が掛かり、お客さん全員のお助けコールになり、そのままゾロゾロと小屋の外に。
どれもこれもダマシであったが、それを江戸の人達はおおらかに楽しんでいた。
|
 |
|
紅葉の祖谷渓谷
西祖谷村ホームページより |
5.弘法の石芋売り (および弘法の馬)
円生の噺のマクラから、
この石は弘法さんの石芋と言って、弘法さんが四国の祖谷渓に行ったおり、川で芋を洗っていた婆さんに声を掛けた。「あァ、これこれ、それなる芋を、なんとかわけてはくれまいか」。
婆さんは「エ?いやァお坊さん、すまねえが、こらァダメだよ。芋ではなくて石だから食べられない」。
弘法さんは「さようか」と言って、立ち去ってしまった。その後稲谷に出来る芋はすべて石になってしまった。弘法さんに詫びを入れてお願いしたら戻らないと断られたが、石に薬力を与えてくれた。石を削って飲むと『胃薬』なみの効能が有ると言う。これを削ったものを露天で売っていた。
客が散らないように次の話が続く、(弘法の馬)
弘法さんにはすごい法力がある。ある日の夕方、豆を煮ているのを見た弘法さん「その煮豆を少し分けてくれないか」とお願いした。女房は惜しくなって、「これは馬に食わすもので、人間が食べるものでない」と断った。すごすごと弘法さんは立ち去った。
さてこの豆を亭主に食わせると、ふしぎや亭主の身体が馬になってしまった。驚いた女房が、息せき切って、弘法さんに追いつき、ころもの紬にすがりまして、「お坊さま、許して下せえ、情けだからと涙を流して懇願した」。弘法さんもかわいそうになって、女の家に行くと、家の中に首うなだれた馬が悲しげにたたずんでいた。
馬になった亭主の前へ進み出で、数珠サラサラと押しもんで、
口中に真言秘密の呪をとなえた。
その法力はたいへんなもので、長い顔がまるくなり、首から肩へ、次に前足が手になるといった具合に、上のほうからだんだんに、人間の姿にもどってまいります。
女房伏し拝みながら見ていると今、ちょうど、ヘソのあたりを通り過ぎ、
法力が足の間のところまで及びましたとき、
「あ、ちょっとお坊さま、そ、そこのところだけは馬並みにしといてくだされ」。
舞台の両国を歩く
両国橋両岸。隅田川に架かる両国橋の東側は両国東広小路と呼ばれた所で、現墨田区両国の地名で、回向院、両国駅、国技館、江戸東京博物館などがあり、相撲部屋も沢山あります。ちゃんこ料理屋さん、超大判の衣服、靴等の店もあります。江戸時代にも回向院を中心に賑わっていた所です。
両国橋の西側、中央区東日本橋にこの舞台”両国広小路”が有りました。当時は仮設小屋が建ち並び、そこに露天商も多く集まり、繁華街の様相を呈していました。特に夏は毎晩花火が上がり、夜店や冷や水売りが人気でした。
しかし、今の両国橋西側には当時の賑わいはどこにも見当たりません。しかし、今でも南に薬研堀、北に柳橋があります。
”蝦蟇の膏売り”は見たことありませんが、子供の頃”ハブの油売り”を見たことがあります。マムシ酒やハブ酒は有名ですが、ハブの毒から作られたという膏薬ですが、蝦蟇の膏と同じ効能があったと思います。延々と続く口上にお客さんは釘付けになっています。当然私は最前列でしゃがんで見ていました。突然
「この袋の中を見て」と、麻袋の中を覗かせたのです。何かヘビのようなものが入っていましたが、確認する前に危ないからと袋は閉じられ「ハブがいたでしょ」で「ウン」と答えていた子供の私です。その一言でハブの信用性が高まったのです。その後、アオダイショウを取りだして腕にかませて、出た血にこの軟膏を塗るとサラリと血は止まって痛みは止まった(と言いました)。「この軟膏は近日中に薬局で販売されるが、前宣伝中であるから、通常は○○円だが今回は半額の△△円だ。いくら欲しいと言っても、まだ薬局では売っていないよ。」で、回りを取り囲んだお客さんは買い気十分です。私も少ない小遣いをはたいて買ってしまいましたが、家に持って帰って自慢したら、バカにされたことを鮮明に思い出します。その”ハブの油売り”もその後見ませんね〜。
我が女房殿は手品は嫌いだという。TVでマジックをやっていますが、子供たちも私も目をキラキラさせながら楽しんでいますが、ただ一人だけ女房はしらけています。聞くと「人を騙すから嫌いだ」と。子供たちはショーだからと言いますが聞き入れません。江戸時代の見世物小屋や露天商のテクニックを楽しんだその風情は、現在は生きていないようです。
「大道芸の粋」さんの言葉にもあるように、大道芸がなくなったのは買わなくなったからだと言います。金銭的に豊になって、教育も進んだ今、江戸時代の庶民より心が狭くなってしまったのでしょうか。1時間程のショーを観た聞き賃で、品物は領収書だとは良いご意見です。
寺社の境内で猿回しを観ると、最後にザルを持って回りますが、おひねりを入れる人の顔の良さを感じます。
地図をクリックすると大きな地図になります。
それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。
2007年12月記
次のページへ 落語のホームページへ戻る