落語「稲川」の舞台を歩く
   

 

 六代目三遊亭円生の噺、「稲川」(いながわ)、別名「千両幟」によると。
 

 大正2年の頃小染川(こそめがわ)という大阪の相撲取りが東京に出てきて、当時絶大な技量を持っていた横綱太刀山(たちやま)に破れた。魚河岸の旦那連中に呼ばれ、太刀山に負けるのは当たり前だと慰めた。その席で、金糸で魚河岸の名が入った廻しを贈られた。魚河岸全体からの廻しは彼と小野川喜三郎しか居なかった。

 大阪の稲川という力士が東京に出てきて勝ち進んだが、どこからも贔屓の声が掛からなかった。この場所を最後に帰ろうと思っていた。
 宿を外から覗く乞食が居た。稲川に会いたいという。贔屓になりたいので私の蕎麦を食べて欲しい。稲川は乞食が持ち込んだ竹の皮に包まれた蕎麦と欠けた茶碗で美味しそうに食べた。大名の前で山海珍味をいただくのも、お菰(こも)さんからいただく蕎麦も贔屓の二字に変わりはない。
 わしは、恥ずかしながら江戸で贔屓は貴方が最初だ、末永くお付き合いをして欲しいと頭を下げた。
 気分が悪かったでしょう、お口直しを差し上げます。と、外に待たせてあった仲間に合図して酒肴を運び込んで、乞食は早変わりで魚河岸の旦那に戻った。
 私は魚河岸の新井屋と言う者で「大阪で関取を見て良い相撲取りだから江戸に出てきたら、何かしたいと思っていたが忙しく時間が過ぎていった。その話を仲間内の寄り合いで話したら、『強いが人気がない。乞食が持って行ったら食べてくれるだろうか』となったが、誰一人食べるという者は居なかった。もし食べたら河岸中で贔屓になってやると話がまとまった。その茶番に私が出たが、天下の関取に申し分けなかった。大名でも乞食でも贔屓の二字は変わらないと言うのを聞いて、今度は私たちが大阪に返さない」。
 それを切っ掛けに大いに人気が出た。

 大阪天下茶屋に安養寺という尼寺に墓があります。池田から出ました稲川重五郎の話で、「関取千両幟」のモデルになった、関西相撲のさわりの部分です。


写真;JR両国駅前通りに設置された横綱像。


1.稲川の事
 噺のマクラで「稽古は厳しく鼻血が出る、それをぬぐって当たると倒され目玉が飛び出すその砂をはらって・・・」何度繰り返して聞いてもおかしさがこみ上げて来ます。円生は相撲が大好きだったから、よく逸話を研究してマクラで語っています。横綱太刀山の滅茶苦茶に強い話もたっぷりと聞かせています。
 この噺は、江戸の噺の様に思えますが大正時代の関取小染川をモデルにした実話に近い噺で、それを江戸時代の関取稲川に置き換えて創られています。新作の部類に入れてもおかしくない噺です。
 稲川は、天下茶屋の安養寺(西成区岸里東1丁目7)にある墓には猪名川弥右衛門の名になっています。猪名川弥右衛門は江戸末期の名力士で徳島出身。嘉永2年(1849)57歳で没した。


2.魚河岸
 江戸時代から円生が若い時まで江戸(東京)の魚河岸と言えば日本橋北側から江戸橋にかけて開設されていました。落語「百川」では魚河岸の若い者が近くの料亭に上がり込んで祭りの打合せをしています。
 日本橋では路上に店舗を展開して、活況はありますが不衛生で問題もありましたので、大正の震災で全災すると仮設市場を芝浦に開設しましたが、ここも直ぐ手狭になります。
 昭和10年2月、築地に広さ約23万平方m、東洋一の東京都中央卸売市場が開設されました。市場へ集まる生鮮食料品は旧汐留駅から引き込線(現在撤去)を通して貨物で、また隅田川岸壁の桟橋から船で運ばれてきました。
 東京の胃袋としては手狭と老朽化が進み、江東区豊洲地区に新市場として生まれ変わろうとしています。

 この噺の魚河岸は当然日本橋です。江戸で日に千両の金が落ちる事で有名なのは、ここの魚河岸と隣の芝居小屋、それに吉原です。当時も力があった事が分かります。ここがスポンサーになれば鬼に金棒です。

 写真;右上、浅草寺宝蔵門の左右通路に下がる魚河岸の提灯(クリックすると大きくなります)。右中、魚河岸のロゴマーク。下、築地場外市場協議会店舗看板、ロゴ。


3.相撲

 現在の大相撲に近いかたちが出来たのは江戸時代に入ってからです。初代横綱・明石志賀之助、二代・綾川五郎次から三代・丸山権太左衛門までは資料が残っていないので居なかったであろうと言われています。実質は四代横綱が最初の横綱だと言われます。 その横綱は、同時昇進の四代・谷風梶之助、五代・小野川喜三郎の二大名横綱が活躍した寛政(1789-)時代に黄金時代を迎えます。

東西の相撲協会;大正の初期にはまだ、大阪と東京と、協会が別れていた時代の噺です。
大正14年(1925)12月 - 財団法人大日本相撲協会設立の許可がおりる。
昭和2年(1927)1月5日 - 大坂相撲協会が解散し、大日本相撲協会に合流して、東西大相撲が合併。

太刀山たちやま);第22代・横綱太刀山峰右衛門
(本名老本弥次郎、明治10年(1877)8月15日生 - 昭和16年(1941)4月3日没)。
 太刀山は突き相撲で名をはせ、二突きすることなく勝負が決まり、「四十五日の鉄砲」と恐れられた。それは一突き半、すなわち一月半「四十五日の鉄砲」といわれた。
 円生は次のように言っています。大正5年5月場所8日目に栃木山に敗れるまで56連勝を記録。これは引分や預り、休場を挟んでのものとしては双葉山69連勝、谷風63連勝、初代梅ヶ谷58連勝に次ぐ史上4位に位置する。さらにその前にも二代西ノ海に敗れるまで43連勝を記録しており、これがなければちょうど100連勝だったことになる。
 二代西ノ海に敗れた時も、見え見えの負け方だったと円生は言う。
 大関時代の明治43年(1910)6月場所の3日目に小結小常陸と対戦した時など立合いの一発で桟敷まで突き飛ばし、行司溜まりの畳を突き破ってしまった小常陸は負傷により翌日から休場し、翌場所は全休する羽目になった。円生はこの一件で小常陸は廃業したと言っている。
 太刀山の睨み出しというのがあった、8日目に前頭八枚目八嶌山との対戦では、一発張った後相手が怖がって太刀山が手を出す前に自ら後退土俵を割った、翌日の新聞には「にらみ出し」と報じられた。
 太刀山の稽古でも、土俵の内側に足で丸を描き「ここから押し出したら賞金10円やるぞ」(大正時代の10円は数十万円)と言ったが誰にもできなかった。
それほど強かった。円生は喜々としてマクラで語っていた。
写真上;第22代横綱・太刀山峰右衛門(相撲博物館蔵)、下;深川八幡「超五十連勝力士碑」
 横綱在位場所:明治44年6月〜大正7年1月。 連続優勝回数:5連覇で相撲界4位の記録を持っています。明治43年夏場所〜45年夏場所(年2場所の時)。

小染川(こそめがわ);小染川 友治郎、大阪南の生まれ。この噺の主人公のモデル。お父っつぁんが染川と言いましてその伜で小染川。後に大関になりましたが、なかなかいい関取でございまして・・・。(円生のマクラから)大正4年1月大阪相撲協会で小結の地位で全勝優勝しています。大正5年1月から12場所も大関を守り人気が高かった。大正12年(1923)6月(廃業)、引退後に十二代千田川となった。161cm、113kg、優勝1回、準優勝2回。童顔で、機敏な取り口、闘志あふれ、東京との相撲でも、太刀山と預かり、鳳、栃木山、常ノ花を倒したりしている。

化粧廻し;相撲で、十両以上の力士の土俵入などに用いる儀礼用の廻し。多く緞子で仕立てるので「どんす」ともいう。大相撲の関取が土俵入りの際に締める長さ8m、幅68cmの博多織の布の先端に豪華な刺繍と馬簾(ばれん)の付いたエプロン状の大きな前垂れを持つ高価な廻しです。横綱の場合は本人の分の他に太刀持ち、露払い役の力士の分も含めた三点セットになっている。協賛企業や出身校などのスポンサー(後援会、タニマチ)から贈られる。

「ウルフ」 第58代横綱千代の富士貢の化粧廻し 53連勝を記念して贈られた。

「天地人」 第62代横綱大乃国康の化粧廻し

「一富士二鷹三茄子」 第64代横綱曙太郎の化粧廻し

「富士山に月日」 第65代横綱貴乃花光司に贈られた化粧廻し。 以上すべて相撲博物館にて

 魚河岸の贈り物に劇場の緞帳(どんちょう)が有りますが、同じように化粧廻しを贈った。白地に金糸で魚河岸と入っているが、通常はその横に送り主の名が入っています。魚河岸の○○が贈ったと言う事で、この噺のように魚河岸全体が贈ったのはこの小染川と小野川しか居ません。円生の解説から


4.言葉
■蕎麦と金;蕎麦は縁起の良い食べ物です。手打ち蕎麦は、手打ちの時に食べる縁起物です。
 また、晦日(みそか=月末)に蕎麦を食べると”金”が延びると言われた。これは、金箔屋さんが金を延ばしている時、隣から味噌汁の香りがしてくると、金が延びない。その時、蕎麦粉を火の中にくべると味噌の香りを消して、金が延びるという。だから、晦日に蕎麦を食べても金は延びないし、金回りも良くならない。(円生のマクラより)

■乞食(こじき);定職、定宿を持たず恵みものだけで生活する者。極貧の中にいて拾い物も食べている乞食の蕎麦、いい気持ちはしないでしょうが、贔屓の二文字には敵わない。お菰(こも)さんとも言う。

贔屓(ひいき);(贔屓・贔負)気に入った者に特別に目をかけ、力を添えて助けること。後援すること。パトロン。スポンサー。相撲ではタニマチという。
 芸能界ではファンとも言いますが、追っかけやチケットやCDを買うくらいが一般的ですが、落語家を贔屓にすると、それなりの祝儀が必要になってきます。相撲界では「ごっつぁん」の慣習がありますから、風呂敷に現金を包むようなご祝儀感覚と、場所ごとの付き合いが必要になってきます。落語「幸助餅」でも触れたように、余程の力がないと続きません。
 


 舞台の築地を歩く


 築地(つきじ)の魚市場に行って来ました。
 この地は都の旧跡で、浴恩園(よくおんえん)跡だと言います。江戸時代中期の陸奥白河藩主松平定信は寛政の改革を実行しその功労によりこの地を与えられた。当時ここは江戸湾に臨み風光明媚で林泉の美に富み浴恩園と名付け好んだという。明治に入り、この地は海軍省の用地になり、海軍兵学校、海軍病院などが設置され、その風景を変えた。その後、現在の市場が出来てその景観は全くなくなった。現在はお隣に将軍家の鷹狩場としての大名庭園・浜離宮庭園が残っています。絵図;文政5年(1822)ごろの「浴恩園」、白河藩主絵師・星野文良(ぶんりょう。文晁の弟子)が描いた春の真景図(風景画)。天理大学付属天理図書館蔵

 魚市場は正式には東京都中央卸売市場というのですが、土日・祭日は休みだと言う事は十分承知していたのですが、今日は週の中だというのに臨時休業日。通常、早朝と言うより深夜からセリが始まり、午前中には業務は終了してしまいます。今回は9時頃着いたのですが、いやに静かで作業車も違法駐車の車列も作業員の姿も見えません。今日は早く終了したんだ、と思っていたら「休業日」の看板が下がって正面ゲート以外は全てチェーンで封鎖されています。で、取材は出来ませんでした。そんな事、事前に調べてから行けよ、と言う声がしますし、私自身もその様に思いますが、平日で空いている日はその日しかなかったので、致し方がないので、スイマセン。

 市場は東京都が管理しているメインの部分と、そこから出荷された魚を食べさせる店や小売りの魚屋さんが並んだ、場外とがあります。本体が休みでも場外の料理屋さんの一部は営業をしています。寿司屋、魚料理屋さん等です。私みたいに知らずに来た人達なのでしょうか、場外を回って舌鼓を打っています。

 この市場に隣接して波除(なみよけ)稲荷神社が有ります。築地一帯を埋め立てられた万治年間(1658-1661)に波浪により工事が難航した。その時、海中に漂う稲荷を祀ったところ波浪が収まり工事が無事完了した。その稲荷を祀ったのがこの神社で、以来航海安全、災難除け、厄除けなどの御神徳を伝えています。
 ここの祭りは御輿を担ぐのではなく、毎年6月獅子祭りとして、獅子頭を担いで町内を巡行します。その獅子頭は次の写真です。

 

 左、赤面の「弁財天お歯黒獅子」。右、黒面の「天井大獅子」。

 築地の東側を流れる隅田川を渡って勝どきに入り、晴海を抜けると豊洲地区になります。モノレールの「ゆりかもめ」市場(しじょう)前駅を中心に埋め立てられた島の南部一帯が、新魚市場になるところです。土壌が汚染されていて、その解決が付くまでは引っ越しも棚上げです。
 今は、雑草が生い茂った荒野です。駅があっても乗り降り客は皆無ではないのでしょうか。

 

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 現地案内地図より

写真

それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

築地場外市場中央区築地四丁目・築地四丁目交差点角)
 場内でも見学自由ですが、素人には安心して歩ける場外が無難です。ここには美味いもの屋が多くあり新鮮な魚料理を楽しむ事が出来ます。

波除神社中央区築地六丁目20)
 上記場外の東側にこの神社があります。只今本殿改修中でゆっくりと拝観する事は出来ませんが、築地に根付いた氏神様の様子が分かります。鳥居を潜って正面が本殿、左側に赤面の「弁財天お歯黒獅子」。右側に黒面の「天井大獅子」が飾られています。

築地市場正面入口(中央区五丁目2)
 休みの市場はご覧のように無人状態です。人や車が多くて、恐くて歩けない状態の営業日とは違った顔を見せています。

豊洲市場予定地区(とよす。江東区豊洲6丁目)
 モノレール「ゆりかもめ」市場前駅が開業していますが、回りは何も無い埋め立てが済んだ空き地。ここに築地市場から引っ越してくる予定になっていますが、土壌が汚染されているというので、話が進んでいません。 

日本橋(中央区日本橋室町、南)
 関東大震災まで日本橋から江戸橋までの間300m位の間、日本橋川の北岸に魚河岸が有った。地下鉄三越前駅B6を出ると目の前に「日本橋魚市場発祥の地」の石碑が日本橋北詰め東側に有ります。
 六代目円生の江戸散歩によると、「日本橋を渡った橋の右側です、これがずうーっと魚河岸だったんです。だから、河岸のある間はあの中へは入れなかったわけです。くるま(自動車)やなにかは。電車(路面電車=都電)からこう見てますとね、通行止めになっている。中はもう、ごった返している。魚を商っているその有様が見えましたんです・・・。午後、河岸がすむと通しましたんです」。 写真の対岸が魚河岸跡。

国技館(墨田区横網一丁目3)
 国技館は昭和29年(1954)9月、蔵前に完成しました。昭和60年(1985)1月、現在の両国国技館が開館しています。一万人収容のホールとしても貸し出しています。借りてみたらいかがでしょうか。

回向院(えこういん。墨田区両国二丁目8)
 明暦3年(1657)江戸には「振袖火事」の大火があり、市街の6割以上が焼土と化し、10万人以上の尊い人命が奪われました。将軍家綱は、この無縁の人々の亡骸を手厚く葬るようにと隅田川の東岸に土地を与え、「万人塚」という墳墓を設けたのが回向院の始まり。
 写真右下が回向院山門、左側が元国技館があった跡に建つマンション。この回向院境内で相撲興行が行われた。

                                                 2010年10月記

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