落語「十徳」の舞台を歩く
   

 

  三遊亭円窓の噺、「十徳(じっとく)」によると。
 

 八つぁんが仲間と床屋で油を売っていると、その前を変わった着物を着て隠居が通って行った。みんなはそれが何だか解らなかったが、八つぁんは分かっていると言ってしまい、恥をかきそうになったので隠居の所に聞きに来た。
 あれが何てぇものか教えて欲しいというと、「茶人や俳人が良く着るという、『十徳』だ」と教えて貰った。で、そのいわれを聞くと「それは知らないよ」と、つれない返事。無理無理に聞くと、困った中から「わしがこれを着て立ち上がると、スソにひだがあるだろ、だから衣の如く。座るとスソが広がるだろう、で、羽織の如くだ。合わせて如く如くで十徳だ。」、「え、何でごとごとで、十徳なんです?」。「立つと衣の如く(五徳)、座ると羽織の如く(五徳)だ。」、「両手を出して数えるんですか。」と、教わった。

 他にも話があって、”両国橋”の言われも、武蔵国と下総国の両国を繋いだから、両国橋だ。と説明を受けた。同じように”一石橋”も、最初は一石橋と言わず”八つ見橋”と言った。その訳は橋が多いところだったので、八つの橋が見えたところから、その様に言われた。では、それがなぜ一石橋になったのか、と訪ねると、「ある時大雨が降って橋が流されてしまった。それでは不便であろうからと、橋の北、金吹町にお金・後藤、南の呉服町に呉服・後藤の両家の援助で架橋された。そこで後藤(五斗)と後藤(五斗)で合わせて一石。一石橋と名づけられた。」
 それはいい話を聞いたと、床屋にとって返した。

 みんなの前で知識をひけらかして「あれは十徳だと胸を張った。で、そのいわれを聞いてくれ。」、「やだよ。」、「頼むから聞いてくれ」と言う訳で話し出す。
 「まず、両国橋のいわれは知っているか」、「そんなの子供でも知っているよ」。「では一石橋のいわれは知っているか」、「そんなの二軒の後藤さんが架けたので一石橋だ。違うか。」、「う〜〜」。
 「それでは十徳のいわれだ。立ち上がると、衣のようだ。座ると羽織のようだ。ようだとようだで『や〜だ』。あれれ、足りなくなってしまった。まてまて、立つと衣みたい。座ると羽織みたい。みたいみたいで『六たい』。」、「むたいで、眠たいのかい」。「いやいや、待て待て、何処かでおっこどしてきたのかな〜。立ち上がると、衣ににている。座ると羽織ににている。にてるにてるで、『よってる』 ?。」、「なんだいそりゃ〜」。「待ってくれよ。数が段々減ってきちゃった」。
 「立ち上がると、衣のとおり。座ると羽織のとおりだ。とおり、とおりで『二十とおり』??」、「お前の言っている事はもう、みんな分かっているよ」。「増え過ぎちゃった。」、「もうよせよ。」、「そんな事言わないで、今度は少なくするから。立ち上がると、衣に一致。座ると羽織に一致だ。一致いっちで『わぁ〜〜』これは!?。」
 「みろ!にっちもさっちも、行かなくなった。」。

 


1.十徳(じっ‐とく)
 (僧服の「直綴(じきとつ)」の転という) 衣服の名。素襖(すおう)に似て脇を縫いつけたもの。武士は葛布(くずふ)で白または黒、胸紐あり、中間(ちゅうげん)・小者・輿舁(こしかき)などは布を用い胸紐がなく、四幅袴(よのばかま)を用いる。鎌倉末期に始まり、室町時代には旅行服とした。江戸時代には儒者・医師・絵師などの外出に用い、絽・紗などで作り、黒色無文、共切れ平絎(ひらぐけ)の短い紐をつけ、腰から下に襞(ひだ)をつけて袴を略した。
 
 十徳四幅袴(−よのばかま) 十徳を着て四幅袴をつけた服装。犬追物の矢取・犬牽、馬の口取、轅輿(ながえこし)を舁(かく)者などが用いた。
広辞苑

十徳羽織
 和服で長着の上からはおる外衣の一種。羽織にちかい形状をしているが、生地に絽を用い、紐は地に縫いつけ、腰の部分に襞をとってあるなど、独特の仕立てになっている。広袖とも呼ぶ。
 鎌倉期ごろにあらわれ、平装として用いられたが、江戸期に入って僧侶、医師、絵師、儒者、茶頭などの正装に定められた。着流しもしくは長袴の上に着用する。
 現在でも町人系統の茶道においてさかんに用いられる。
Wikipediaより

写真;原色日本服飾史  井筒雅風  光琳社出版より


2.両国橋(りょうごくばし)

 
 広重 名所江戸百景
 「両国橋大川ばた」
 
 

 中央区東日本橋と墨田区両国の区境、隅田川に架かり、京葉道路が走る。

 両国橋は幕府の戦略的な観点から、架橋しなかったが、明暦の大火(1657)後の江東地区の開発にともなって、寛文元年(1661)に竣工した。一説によると万治2年(1659)12月に竣工したとも言われる。
 戸田茂睡(もすい)『紫の一本(ひともと)』によると橋名の由来を次のように書いている。
「下総国本所に江戸浅草(浅草橋)より百余間の橋を架けさせらるる。武州下総両国へ掛かりたる橋なるが故に両国橋と名付けるなり。」と記述されている。幕府の最初の命名は「大橋」であったが、のちに新大橋が架けられたために、俗名の両国橋が正式名となった。
 本所・深川の開発がこの橋を必要としたもので、明暦の大火の惨事を教訓に橋際に広大な火除け地、広小路を作り、橋番の小屋を建て、沿岸町民へ出火出水のさいの橋の防御を義務づけた。両国橋は橋上の眺望の美しさと、広小路の床見世(とこみせ)の賑わいによって市民に親しまれて、遊山舟や花火で名高くなった。

 隅田川には日光街道・千住大橋・文禄3年(1594)架橋に続いて両国橋が架けられ、その後、江戸時代に新大橋・元禄6年(1693)、永代橋・元禄11年(1698)と架橋された。
 両国橋、新大橋、永代橋3橋を大川三大橋と言われた。安永3年(1774)吾妻橋が架けられ、大川四大橋と言われ、明治までこの状態が続いた。


3.
一石橋( いっこくばし、いちこくはし。中央区外堀通り日銀南交差点”常磐橋”と”呉服橋”交差点間に架かる橋)  

   
広重 名所江戸百景
「八ツ見のはし」
奥に道三堀・銭瓶橋

 
 広重 東都名所
 「日本橋之白雨」
右前方に一石橋と江戸城

 
 

 第76話 落語「ぼんぼん唄」で紹介している、迷子しらせ石標が有る所です。左側のフェンスの中に建っています。 また、第74話「水屋の富」で歩いたとこで、 一石橋脇で玉川上水の余水を日本橋川に滝のように排水していました。

 一石橋を挟んで川が十字路の形をなしています。南北に走るのが外堀、北側に走るのを日本橋川(外堀)と呼び、東に直角に曲がって流れます。西に道三堀がありました。
 まず北側から、(1)常磐橋(ときわばし、現在の常盤橋と字が違う)、(2)呉服橋(ごふくばし)、(3)鍛冶橋(かじばし)があって、道三堀には(4)道三橋、(5)銭瓶(ぜにかめ)、日本橋川に入って(6)日本橋、(7)江戸橋が見渡せた。

 全部で七橋が見渡せて、(8)一石橋自身も加えれば、この橋の上からは八つの橋が見えることになります。ここは俗称「八ツ見の橋」として江戸の名所のひとつとなっていました。

 しかし、時代が下がってくると、西の道三堀は明治42年の時点で埋め立てられてしまって、現在オフィスビルになってしまい、当然橋は無くなっています。
 また、南の外堀も埋め立てられて、外堀通りになってしまいました。この外堀通りの西側は東京駅の八重洲口になっています。第113話「金明竹」で歩いたところです。道路の地下には八重洲地下街があり、魚のように買い物客が泳いでいます。壁に手を突っ込むと、当時の魚がつかめそうです。(^_-)
 埋め立てが進んだ為、八ツ見以上に橋が見えた事はありませんでした。

 

 「日本橋から見る一石橋」歌川国直画  橋向こうは道三堀、遠景に富士山が見えます。2012.9.追加

  橋の北に幕府金座御用・後藤庄三郎邸、南に御用呉服商・後藤縫殿助邸が有り、後藤氏両家の援助で架橋された。そこで五斗と五斗で合わせて十斗=一石。一石橋と名づけられたとのことで、川柳にも「屁のような由来一石橋のなり」と詠われています。

■幕府金座御用・後藤庄三郎
 後藤家の祖は祐乗(正奥)とされる。祐乗は美濃国の出身で、京都へ出て室町幕府第八代将軍足利義政に仕えた。このときの祐乗の職能は彫金であり、とくに日本刀の装具である目貫(めぬき)・笄(こうがい)・小柄(こづか)の三所物の製作を得意とした。祐乗の作風は、美濃彫りの技法をベースとして、金の発色にすぐれ、質実剛健ななかに豪華さを誇り、当時の武士の好みに合致したものであった。室町幕府が倒壊し戦国時代に突入すると、後藤家も時代の波に翻弄される。後藤家の再興に尽くしたのが、第五代徳乗(光基)とその弟長乗(光栄)である。彼らは織田信長・豊臣秀吉など有力大名からの求めに応じて自己の作品を提供したので、後藤家は京都の有力な町衆に成長し、ついに、茶屋家・角倉家とならんで京都三長者の一家と見なされるまでになった。
 その技術をもって時の権力に仕え、大判の鋳造や分銅の鋳造へと家業を広げて行ったのである。そして、貨幣の鋳造においては大判座の頭人として、分銅の鋳造においては分銅座の頭人として幕府経済機構と民衆の経済社会との接点に位置付けられたのであった。
 あらら、何処かで聞いた事がある名前ですね。そうです、第113話「金明竹」に出てきた、祐乗(ゆうじょう)光乗(こうじょう)宗乗(そうじょう)三作の三所物(みところもん)。その三所物を作っていた後藤家なのです。

 


  舞台の一石橋を歩く

 一石橋は寛永年間(1624〜1647)またはそれ以前から存在した橋である。大正11年に架け替えられた時は石組みの二重アーチになっていて重厚な西洋的なモダンさがあった。今の形態になったのは上流半分が昭和48年に、下流部分の半分が平成11年に完成した。当時の面影は親柱が残っているのみです。(一石橋説明版より)
 その重厚さは説明にもあるとおり、下の写真に見られるように親柱の部分だけで、実用本位の鋼鉄製の橋になってしまいました。

 ここから目を凝らしてみると、南には埋め立てられて外堀通りと名を変えていますが、交差点名で残っています。呉服橋交差点、鍛冶橋交差点が望めます。
 西の道三堀も埋め立てられて、道にはならずビルが建っています。当然橋はどこにもありません。
 北に目をやると、大正7年架橋の常盤橋が石作りの優雅な姿を現しています。この橋のような感じで大正期の一石橋があったのでしょう。
 その北(上流)に常磐橋が有りますが、歩行者と自転車専用の橋になっていますので、今ひとつ周囲から疎外されたような孤独感があります。橋の右手(東)には日銀本館、左手には常盤橋公園があります。 この公園は江戸城外郭の正門として常盤橋門と呼ばれ、敵の侵入を防ぎ、味方の出撃を容易にするよう、”コ”の字型の大きな切石で積み上げられた、枡形門の跡です。天正18年(1590)架橋され、両国橋が架かるまでは江戸一の大橋でした。

 一石橋から東に目をやると、昭和2年架橋の西河岸橋が見えます。この噺の中には登場しない新しい橋です。
 その向こうには江戸一の、いえ、日本一有名な日本橋がかろうじて見えます。日本橋川の上部には首都高速道路の橋桁が天井のように川を塞いでいますので、眺望と景観は最悪です。
 江戸期には遠望出来たと言われる江戸橋は残念ながらここからは確認出来ません。

 今の一石橋は「常盤橋」、「常磐橋」、「西河岸橋」、「日本橋」、が望めるだけで、自橋を含めて”五つ見橋”と呼ばれそうです。
 切手になった「八つ見のはし」(右写真)

 

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。  

写真

それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。

両国橋
隅田川は今でも重要な水上交通路です。業務用の船舶に混じって定期遊覧船が通過していきます。
 赤い帯のスマートな現在の両国橋です。中央区側から見ています。

一石橋( 別名「八ツ見の橋」)
橋名に「いちこくはし」と書かれています。南側から北側を見ています。日銀ビルの向こうに三井タワービルが見えます。
 右写真は常盤橋上から見た一石橋です。
 大正11年に木橋から鉄筋コンクリート花崗岩貼りの橋となり、 関東大震災にも落橋せず、 平成9年に架け替えられるまで使われました。

常磐橋( ときわばし。旧常磐橋御門の橋) 
現在の石橋は枡形に使っていた石を用いて、明治十年(1877)に改架した都内随一の貴重な洋式石橋です。橋の銘板には常磐橋とあり城門の枡形の一部も現存しています。
正面の建物は日銀本館。

常盤橋(ときわばし。現在供用の橋)
関東大震災後常磐橋下流に常盤橋が架けられました。
現在はメインの道路が走り、二代目を担っています。

呉服橋(呉服橋跡)交差点
一石橋から見た呉服橋跡の交差点。正面奥に鍛冶橋があります。この道が外堀通りで、外堀を埋め立てた後の道です。

鍛冶橋(かじばし。鍛冶橋跡)交差点
外堀通りの交差点。当然ここに外堀があって、鍛冶橋が架かっていた。外堀通りの右側は東京駅です。

道三(どうさん)堀跡
一石橋から見ています。手前が外堀通り、その奥が道三堀であったが、ご覧のように埋め立てられて、ビルになっています。このビル日本橋ビルと言いますが、この地下に下水道局のポンプ所が有ります。
右に常磐橋、左に呉服橋が有ります。

日本橋
左、日本橋をまたぐ中央通り、その上を首都高速道路が横切っています。その景観の悪さは最悪です。
首相、都知事、地元が撤去の意向を示しています。
右;西河岸橋から見た日本橋。

江戸橋
昭和通りに架かる江戸橋。この道路が広すぎて橋の状態が見当たりません。その上を首都高速道路が横切っています。その左側に日本橋があります。

西河岸橋(にしがしばし)
一石橋と日本橋の間に架かる橋。日本橋の上から見ています。その先に一石橋があります。日本橋の上からでも一石橋は首都高速が邪魔して確認出来ません。

                                                        2006年4月記

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