落語「唐茄子屋政談」の舞台を歩く
 

  
 古今亭志ん生の噺、「唐茄子屋政談」によると。 
 

 遊びすぎて、”お天道様と釜の飯は付いてくる”と自ら勘当された若旦那”徳”は最初の内は良かったが、その内誰にも相手にされなくなった。雨も上がって吾妻橋までさしかかり欄干から飛び込もうとするところを、たまたま叔父さんに助けられた。何でもするからと、達磨横丁の叔父さんの家に連れられていった。おばさんに挨拶して食事もすむと疲れがどっと出て、死ぬ様に眠った。

 翌朝、叔父さんに起こされ、今日から「唐茄子」を売り歩けという。みっともないから・・と言うと、さとされ天秤を担いでヨロヨロしながら長屋を出ていった。アミダになった 笠も直せず、天秤にしがみついて歩いていたが、吾妻橋を渡って田原町に来た時にはたまらず、荷を投げ出して倒れてしまった。親切な住民が手分けして買ってくれた。残った二つを担いで歩き始めたが売り声も出ない。吉原脇の田んぼの中で売り声の練習をしながら、道楽三昧の日々を思い出していた。
 声も出る様になって、誓願寺店に入って来ると、質素だが品のいい奥さんに声を掛けられ、売り切った。弁当を使わしてくれと頼んで食べ始めると五つ位の男の子が「おまんまだ!」と言って離れない。事情を聞くと亭主の送金が無く買う事も出来ずに、困っていると言う。ひもじいのはよく分かると、子供に弁当をやって、売り上げを全部渡して振り切る様にして戻ってきた。

 完売した事に叔父さんも喜んでくれた。食事の出る間、顛末を聞いていたが、売り上げを見せろと言うが無い。誓願寺店で親子に弁当とお金を全部上げたというと本当ならイイが、これから行こうと提灯を持って立ち上がった。
 誓願寺店に着いてみると、長屋では大騒動。話を聞いてみると、あげたお金を因業大家が全部、店賃として取り上げてしまったので、奥さんが悲観して首をくくってしまった。徳は感極まって大家の家に怒鳴り込んで、やかん頭にやかんで殴りつけ、溜飲を下げた。奥さんは医者に診てもらい、寿命が有ったと見えて助かり、叔父さんが親子を引き取り暮らした。収まらないのは徳さんで、自分が行かなければ奥さんは助からなかっただろう。この事を奉行に願って出た。裁きの結果、大家はきついおとがめ、徳さんは人助けをしたとして、青差し十貫文の褒美をもらい、勘当が許されたという。”情けは人の為ならず”唐茄子屋政談の一席でした。
 


1.本所達磨横丁
 
場所は、古地図で言うと、浅草から吾妻橋を渡り南側”南本所馬場(ばんば)町、または馬場町”と”北本所表町”の間を南北に走る横丁。北はT字路で突き当たり(裏側、最勝寺)。現在の墨田区東駒形1丁目、本所1丁目の清洲通り東側を南北に平行に走っている道。駒形橋と厩橋間の東側。 この名称は俗名、または通称で正式地名ではないので、切り絵図などには載っていないのです。位置確定には墨田区みどり図書館で館員のご協力により「江戸府内町名俚俗名等切図集覧」より見つける事が出来ました。ありがとうございました。
 「文七元結」でも出てくる左官の長兵衛もここ達磨横丁に住んでいます。達磨を作っている人が多いからとか、達磨(下等な売春婦)がいたからとか、いろいろな説があります。
 現在の地図にも当然見つけることが出来ません。それは、区画整理が行われ、道路が碁盤の目のようになって、文字通り、斜めの路だった達磨横丁が真っ直ぐになってしまったからです。

 叔父さんは、知らずに吾妻橋で徳さんを助けた後で、「お前だったら助けるのではなかった」、徳さん「助けてください!」。そんな叔父さんだが、叔母さんに言わせると「昨夜だってお前の為に叔父さんは寝ていないんだ」と言うほど甥の事を思っているし、叔母さんが食事におかずの魚を買いに行こうとすると、「魚を食わせる?こいつは、今 、大川で魚に食われてしまうトコだったのだ、沢庵のしっぽで充分だ」とわざときつい事を言う。しかし、完売して帰ってくると、本心が出て「暑かっただろ、肩は痛くないか、やはり商売人のせがれだ。湯にするか、食事にするか、食事には魚を付けてやれ」と、嬉しい事を言うが、金がないとなると、すかさず現地に直行する事も忘れない。性根をたたき直そうとする叔父さんの心意気が伝わってくる。

 

 上図:江戸府内 町名俚俗名等切図集覧 北本所原庭・番場辺  左上の吾妻橋と右下のだるま横町

 

2.誓願寺(せいがんじだな)
 
志ん生は誓願寺の場所を、「浅草から行くと(都電)田原町の門跡さん(東本願寺)の石塀の所を誓願寺店(だな)と言って、ひどい生活をする者ばかりだった」と、言っている。
 誓願寺は府中市紅葉丘に引っ越して、今は無いが、東本願寺(旧名;東京本願寺)と並ぶ壱千坪を越す大きさがあった。田島山快楽院誓願寺(台東区西浅草2丁目の東半分)と言い、この名前から田島町と呼ばれる様になった。この寺の東と南側に門前町があり、そこを誓願寺門前と呼んだ。
 八幡神社(台東区西浅草2−14−5) 元は誓願寺の中にあったが、神仏分離政策で独立して今の社を形成しています。元禄13年(1700)大分県宇佐八幡宮から分社したものです。境内には「田島の里・誓願の梅」の立て札と梅の木が植えられていました。

 

3.本所吾妻橋(あずまばし)
 
江戸の時代から大川(隅田川)に架かっていた有名な橋。両国橋、新大橋、永代橋に続いて、浅草と本所を結んで、安永3年(1774)に架けられ、大川四大橋と言われ、明治までこの状態が続いた。落語国では「心中の本場が向島、身投げをするのが吾妻橋、犬に食いつかれるのが谷中の天王寺、首くくりが赤坂の食い違い」と、円生は 噺の中で言っていた。今は夜でも明るすぎて、飛び込みずらいのでは、ないでしょうか。
 


  舞台の本所達磨横丁から誓願寺店まで歩く
 

 隅田川の吾妻橋の一つ下流、駒形橋と厩橋間の東側、墨田区東駒形1丁目を訪ねると、当然当時の様子はありません。が、今でも2〜3階建ての民家が多く、道いっぱいに建った家の前には植木が沢山置かれています。遠くから見ると赤や黄色の花や緑が美しく目に入ってきます。昔の長屋の風情です。昼間の町は静かな本所達磨横丁です。

 浅草方面に歩いて、吾妻橋を渡ります。少しの間、欄干につかまっていましたが誰一人、景色すら見る人も居ないで、ドンドン渡っていきます。
 渡った先、雷門を右に見てその先が田原町です。ここでズッコケて唐茄子(カボチャ)をブチまいいて、「人殺しぃ!」と叫んで、住人をビックリさせた所です。今は小学校とその裏の公園に”田原町”の名前が残っているだけです。

 売り声の練習をする為、人の居ない所に(売り子が人気のない所に行ったらネェ〜)と歩いて行くと、吉原を遠望する”吉原田んぼ”に出ます。ここでの志ん生の風景描写はさすがで、ほろっとさせて笑わせます。昨日までの遊びの主人公と今日の棒手振りの落差、吉原の中のざわめきと外の差をしみじみと聞かせてくれたものです。今はどこにも田んぼは無く、ビルが密集しています。

 誓願寺店に戻って、東本願寺北側の塀の陰気な事。そうでしょう、墓地の塀ですから。回りの雑踏からするとその落差は大きいでしょう。この道路の北側が誓願寺店ですが、直ぐ北側の平行に走る路地は昔ながらの風情を残しています。決して、志ん生の言う「ひどい生活をする者ばかりだった」とは言いません。ここから北側はラブホテルや特殊浴場が林立して、飲み屋、スナックも多く、浅草らしい有名な店も多くあります。(昼間に1人で来て良かった?) この街中の一角に、八幡神社があります。この場所一帯が誓願寺があった所です。境内には「田島の里・誓願の梅」があります。

 

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。   

写真

それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。

本所吾妻橋
 
橋上から大川を覗くとどんな気持ちになるのでしょうか。クリックして覗いてください。落ちない様に。

田原町(台東区雷門1丁目西半分)
田原小学校(雷門1−5−14)前の路地です。広く整備されて昔の面影はどこにもありません。名前が残っているだけです。

門跡(東本願寺)裏の石塀
本堂北側と塀の間に墓石がずらりと見えます。歩くと、目の高さより高いところに墓が並んでいます。当時は陰気な所だったのでしょう。この右側(北側)に誓願寺店があったのです。

田島町(誓願寺店)
上記東本願寺の北側、台東区西浅草2丁目の東半分は誓願寺の敷地が占めていました。その門前は誓願寺門前と呼ばれ、明治から昭和の中頃まで田島町と呼ばれました。
表通りはビルが建ち並んでいますが、今でも裏路地が何本かあって、当時の雰囲気が残っています。

八幡神社(台東区西浅草2−14−5)
この八幡様回りに誓願寺があった。今はないが、ホテルや浴場が沢山ある。お賽銭次第で御利益があるでしょう。
境内には「田島の里・誓願の梅」があります。

                                                        2002年7月記

次のページへ    落語のホームページへ戻る

 

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送