■はま鍋;浜鍋ではなく、蛤(はまぐり)で仕立てた鍋料理。芝口で食べた暖か物の一つ。
■青柳(あおやぎ);バカ貝のむき身の通称。東京湾の木更津青柳で出荷されるのでこう呼ばれた。寿司種やぬたで食べると最高。これも芝口で食べた肴の一つ。
また、柱豆腐=貝柱と豆腐を温かく合わせたもの、もあった。
■吉原の仮宅(かりたく);吉原が全焼もしくはそれに近い状態になった時に、幕府の許可のもとに仮の小屋を設けて営業したことをいう。
当然、吉原郭内では営業不可能となっているため、この時だけ特別に大門の外にでて、江戸市中に散在する方法で営業した。
仮宅営業は急場をしのぐためとして、何につけても略式にすることが認められていた。これは格式を誇り、形式を重んじ、複雑な手続きを常とする吉原遊廓の日常にはない営業方法であった。
元手がかからずに手軽に経営できるため、遊女屋の中には、予め許可のおりやすい料理屋や水茶屋がある歓楽地の近くに、日ごろから別宅を設けておき、すぐに営業できるように準備している者、仮宅営業を望むあまり消火に消極的な者もいた。
仮宅はビジネスとしては経費節減と顧客増で、増益となった。また、遊女にとっても吉原では堀に囲まれた幽閉状態だったが、仮宅では自由に出歩き、銭湯に行ったり、街歩きをしたりもできた。つまり、仮宅は顧客、経営者、従業員の三者にとって好都合だったことになる。しかし、遊客を仲介する茶屋は困った。志ん生も仮宅遊びを経験しているが、安直な遊びで楽しかったという。
上図、吉原の仮宅「新吉原仮宅便覧」 国立国会図書館蔵。
■新造(しんぞ);「しんぞう」と読むが江戸では「しんぞ」と発音する。花魁の世話をする見習い遊女。見世に出ても玉代が半額なところから半玉とも言われた。
■足抜け;遊女達は前借金で縛られているので、自由はない、その遊廓から逃げ出す事。仮宅で自由は利いたが、一晩開けたのでは逃げ出したも同然。
■一節切(ひとよぎり)笛;竹製の縦笛。一節切の呼称は竹管の節が一つであることにも由来する。一節切尺八ともいうが現在の尺八に比べ長さも短く、管の径も細く、歌口の形状も少し異なる。一節切は室町時代に始まり、江戸時代の元禄頃(16世紀〜17世紀)にかけて流行したようであるが、それ以降は途絶え文化文政年間神谷潤亭という人が熱心に再興の為尽力したが以後は演奏されることがなく絶えた。一節切は尺八に大きな影響を与え、その音楽が引き継がれていったが、結局尺八によって滅ぼされてしまったといえる。
右写真;一節切笛。左「松風」 右「のかぜ」
「のかぜ」は、織田信長愛用の品で、信長から秀吉、家康と譲られ、家康の死の直前に息子の六男忠輝への形見の品として与えられたものと伝えられる。一方「松風」は「のかぜ」をもとに作られたと考えられ、葵の紋からして徳川家縁の一節切と思われ、松平忠輝公の遺品の一節切として貞松院に伝えられた。「のかぜ」の同部には織田木瓜紋がみられる。
「一節切尺八について」
http://www7.ocn.ne.jp/~gakuoh/sankyoku/arekore/arekore3.htm より
4.落語「粟田口」について
圓朝の「粟田ロ」はじめ「国綱の刀」「一節切(ひとよぎり)」「船頭」を即席の三題噺にまとめた小品だが、好評のため講釈種の金森騒動を背景に、巷間に流布された田之助の逸話や春風亭梅朝の怪談を加えて続き物に改作したのだという。沢村田之肋(守田座の立女形で有名)が、懇意にしていた芸者お富の死後、その位牌と婚礼を挙げたという話は、かなり世間に知られていて、圓朝は「粟田ロ」の中で、伊之助が遊女若草の位牌と婚礼を挙げる場面を作っている。(この場面は彦六の噺の中にはない)
その頃、二代目春風亭柳枝門下の梅朝が、素行の悪さから実母に刺殺され、その幽霊が出るというので大騒ぎになった。「粟田口」の後半、矢切村で悪党丈助が母親に殺される場面は、圓朝が梅朝の噂を生かして芝居がかりの結末を作ったのである。芝居噺の「粟田口」は戯作者・山々亭有人(さんさんてい_ありんど=条野採菊)により絵入りの人情本や草双紙としても出版された。明治以降、歌舞伎に依存する正本芝居噺の演出を止めた圓朝だが、「粟田口」は好きな作品だったらしく、新しい解釈を加え、「素咄」として口演している。今日に伝えられる速記本の「粟田ロ」は、明治20年代、最盛期の圓朝の高座を記録したものといえよう。
日本大学教授・永井哲夫氏の落語テープ解説より
この「粟田口」は圓朝から一朝老人に伝わり、彦六がその内容を現在に十分伝えています。
舞台の市川を歩く
東京から隣の千葉県市川市に入ってJR総武線・本八幡(もとやわた)は二つ目の駅です。ここから北にロータリーを抜けると東京と千葉を結ぶ千葉街道。右に曲がると直ぐに左側に葛飾八幡宮の参道が出てきます。京成電車の踏切を渡って人だけが歩ける参道になります。尋ねた時は12月の紅葉が美しい季節、ここも銀杏が美しく七五三のお宮参りの子供達も美しく着飾って、黄金色の銀杏に負けません。突き当たりの随神門を抜けると社殿とその右に小ヘビが無数住むという天然記念物の千本銀杏が有ります。樹高22m、根回り10.2mの大銀杏の木です。
この帰りに、小左衛門の息子小三郎の許嫁(いいなずけ)の”みえ”と遭遇。
目の前の京成八幡駅に戻って、上り電車で三つ目、国府台駅で降ります。北に向かって歩き始めると桜並木が美しい真間川に出て右に、入江橋を渡り、細い道の先に赤い欄干が見えます。それが継橋。正確には継橋跡。左右の川は無く、坪庭のような川跡を模したような庭園状の池のような、早い話がその先は民家。
継橋を越えてその先右側、手児奈霊堂。参道入口に霊堂の説明板があり、美女のお姿が拝見できます。その姿は下記の手児奈(てこな)霊堂内に有ります。参道を入ると正面に本堂、本堂で良いんですよね、霊堂と言うんでしょうか。立派な霊堂です。境内も広く睡蓮が浮かぶ大きな池があったり、立派なしだれ桜の木があったり、四季を通して、観る者を楽しませてくれます。
戻って、先程の参道入口から奥に向かって進むと階段がある山の下に突き当たります。
この突き当たりが、真間山弘法寺(ぐほうじ)参道の入口階段です。上が見えない(と、思える)階段を黙々と上がると、そこに広々とした空間が広がり、正面には山門が現れ、ここは由緒有るお寺さんだよと暗黙の内に語っています。山門を抜けると正面に平成の新本堂、右手には鐘楼、左手には大きな庫裡(大客殿)があり、その左に並んで本堂があります。左奥には旧本堂だった道場もあります。
境内の西側から住宅地の中を横切りながら、松戸−市川を結ぶ松戸街道に出ます。この辺り一帯が根本と言われた江戸時代には市川の中心地でしたが、今、中心はJR市川、本八幡に移って、その面影はありません。
松戸街道を横切って西側の江戸川べりに出て、川沿いの遊歩道を散歩する人達に紛れて上流(北)に向かいます。河岸には多くの鴨が羽を休ませています。まもなく里見公園の案内板とその入口が見えてきます。その手前に「羅漢の井」という湧き水があります。江戸時代からの湧き水で水量も豊富です。
里見公園は名前の通った公園で、バラ園があったり、自然の眺めを利用して木々のバランスが素敵です。しかし、来客者が少なく冬季の売店は閉鎖されてしまいます。紅葉も綺麗なのですが、春の桜の花見には大勢の酔客が出ます。この地に国府台城趾が有ったと言います。
この里見公園の隣に総寧寺が有ります。有りますと言うより、元はこの総寧寺の寺領だったのです。現在もその当時の面影を残し、竜宮城のような中門は下部が石張りの台座(足?)になって、直線の美しさでしょうか。噺の中では、ここの紅葉を観に来た百姓の清助と稲垣小左衛門が切り殺されてしまった地です。
ここの江戸川から工事中のSkyTreeが望めます。
北隣の町が矢切で、みえの乳母”おしの”の所に小三郎と隠れるために二人で行ったとこです。江戸川の川づたいに行っても良く、私は松戸街道まで戻って、直ぐ来た松戸行きのバスで下矢切まで行きました。そこから町中を抜けて広々とした畑中を抜けると、約30分で矢切の渡しです。時間的にも歩く距離にしても同じくらいでしょう。矢切の渡しでは午後4時の最終便に間に合い、途中道草を食っていたら翌日まで待ちぼうけ(?)になるところでした。乗船料、大人100円。
渡った先は、ご存じ葛飾柴又、寅さんの生国です。
今回は紅葉を観て歩きましたが、桜の時期には最高の花見コースです。
京成・国府台駅の案内看板より。
それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。
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葛飾八幡宮(市川市八幡4−2)
京成電車の駅名にもなっている下総の総鎮守です。この時期多くのギンナンを落とす銀杏が多くあります。また社殿の隣にある銀杏は「千本公孫樹」(国指定天然記念物。写真右側)と呼ばれ、根本から多数の幹が出て1本の木のような形になったご神木です。
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真間の継橋(市川市真間4−6、手児奈霊堂入口南)
南から真間に至るには江戸以前、洲になっていたので弘法寺に至る大門通りにこの橋が架けられていた。
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手児奈霊堂(市川市真間4−4)
美しき美女手児奈を祀ったお堂と言うよりお寺さんです。その美しき手児奈はここ(手児奈霊堂前の説明板より)にいます。
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弘法寺山門(市川市真間4−9)
階段を上がったところにある山門です。この弘法寺で一番古い建物のように思えます。右手に鐘楼、正面に新本殿。 |
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弘法寺(市川市真間4−9)
本殿。明治23年に火災で再建された旧本堂は祖師堂といわれ、道場として使われています。写真の本殿は平成10年に完成したもの。
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根本(市川市市川4)
市川から松戸に抜ける幹線、松戸街道に面した街で、弘法寺の西に当たります。現在は普通の街並みですが、当時は市川の中心地でした。
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里見公園(市川市国府台3−9)
国府台では有名な里見公園ですが、元は総寧寺寺領だった。ここに太田道灌の居城「国府台城」があったが、その痕跡は見られない。
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総寧寺(市川市国府台3−10) 近江の発祥であったが、小田原の北条氏が千葉県関宿に移したが、水害が多く現在地に寛文3年(1663)移った。その時幕府から128石と六万七千坪の土地を与えられた。一宗の長となり全国曹洞宗の総支配権を得て、歴代住職は十万石の大名と同列の格式を得、江戸の小石川に屋敷を与えられた。明治5年境内に大学を建設する事になったが、陸軍用地になってしまった。その跡地が里見公園となった。
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矢切(松戸市下矢切) 伊藤左千夫の小説「野菊の墓」で有名な地。広大な畑地が続き、「野菊の墓」にあやかって野菊が美しい。江戸川に面した広大な地域は今でも田畑が連なっている。
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金森家(港区白金一丁目12&13) 伊皿子坂を上がった伊皿子台から、その先魚藍坂を下がった先の突き当たりが、この地です。右側が古川に架かる古川橋、正面が金森家が有ったところです。当時は北に麻布絶好釜無村が有った寂しいところですが、現在は都心の洒落た街並みに変身です。
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芝伊皿子台町(港区高輪一丁目と三田四丁目に接する坂上の町) 第一京浜国道から泉岳寺に向かい曲がると坂道になり、その坂を伊皿子坂と言います。登り切ったところが伊皿子交差点。この一帯が伊皿子台町と呼ばれたところです。130話「徂徠豆腐」で歩いた地です。
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芝口(港区新橋一丁目銀座通りに架かっていた新橋。現在銀座新橋として高速道路に架かる) 新橋(町)と銀座の堺に架かる新橋がありましたが、埋め立てられてその上に高速道路が出来て、その高架橋に「銀座新橋」の銘板が張り付けられています。その下に新橋の親柱が残されています。写真の前方が芝口町と呼ばれた所で、現在の新橋(町)です。
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万年橋(江東区小名木川に架かる) 小名木川は江戸と浦安を結び塩を運ぶために開削された運河で、隅田川に接するところに架かるのが万年橋です。江戸の時代から風光明媚で、現在も隅田川に架かる清洲橋(写真右奥)が望める景勝地です。北側には松尾芭蕉が住んでいたので、芭蕉記念館もあります。
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佐賀町(江東区佐賀町) 永代橋の東詰めの街で、倉庫街が有るので有名。街の西側は隅田川に面しており、北側は仙台堀川、東も大島川西支川に接する水辺の町です。
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2011年1月記
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