落語「粟田口」の舞台を歩く
   

 

 林家正蔵(彦六)の噺、「粟田口」(あわたぐち)によると。
 

 刀屋岡本政七(まさしち)の番頭・重三郎は、研ぎ上がった刀を納めた替わりに、金森家の家宝である名刀「粟田口國綱」を預かった。その際に褒美だと言われ、主人に止められていた酒にしたたか酔ってしまい、佐賀町河岸で動けなくなってしまった。小僧は人を連れてくると店に帰り、一人になった時に黒装束の男が現れ、無理矢理刀を奪われて、重三郎は川の中に。それを見ていた駕籠屋の一人が、口封じに切られて川の中に落とされると、先程の小僧が提灯を先頭に仲間と走って来た。その異様さに驚いて小僧達は逃げ出してしまった。河岸に荷足(にたり)船がもやってあり、その船頭は一部始終を見ていた。板子一枚を持って、武士の背中から、刀を収めた腰をめがけて板子を振ると体をかわされ、体勢が逆転して船に逃げ帰り、船を出して万年橋下で一息ついた。
 橋上に泳ぎでは達人の番頭・重三郎が、店にも金森家の重役の稲垣小左衛門にも迷惑を掛けてしまったと、首つり自殺を図ったが、下で船頭・千太が抱き止めた。千太は芝伊皿子(いさらご)台町で、荷足の千太と言って若い者を20人ほど使っていた。その子分を使って一緒に探そうと、船で芝口に上がり、行きつけの居酒屋に入って暖か物を頼んで一息ついた。
 そこに、あわただしく入ってきたのは駕籠屋の安っさんだった。先程の佐賀町河岸で仲間を切られた片棒だった。自分も殺されるかと思い怖さから、腰が抜けたがやっとの思いでここまでたどり着いた。この話を聞いて、安も仲間に入れて刀を探す事になった。
                                     ここまでの噺を<佐賀町河岸>といいます。

 国府台(こうのだい)は市川にあって春は桜、秋は紅葉(もみじ)が美しい地であった。
 金森家では重役の稲垣小左衛門が責任を取らされてお暇となり、忠義な家来の丈助と共に真間(まま)の根本へ移って荒物屋を始めた。丈助は目先も効いて店は繁盛していた。二人は八幡(やわた)の八幡宮に参拝した帰りに雲助と喧嘩になり、残された長持ちを調べると拐かしを受けた娘が出てきた。ひとまず、小左衛門の住まいまで連れて帰ったが、聞くと、なんと息子小三郎の許嫁(いいなずけ)の”みえ”であった。
 国府台の総寧寺(そうねいじ)に紅葉狩りに丈助と百姓の清助を連れて稲垣小左衛門が来ていた。小左衛門は一節切(ひとよぎり)笛に酔いしれていた。ここに黒装束の侍が来て稲垣小左衛門を斬り殺して江戸川に沈めた。見ていた百姓清助も切られて同じく江戸川の川底に。丈助には目もくれず立ち去った。
 丈助は参道の裏に行っていきなり、先程の武士・大野惣兵衛に声を掛けたが親しく話し出した。みえを刀の詮議に200両必要なので吉原に身を売らし、その身は吉原で買えるから大野様のご自由にと言った。ほとぼりが冷めた頃、金森家に紛失した刀を取り戻したと進言すれば、重役に返り咲く上、丈助も大野の下で召し抱えてくれると固い約束が出来た。忠義一途と思っていた丈助が裏で敵役の大野に寝返っていた極悪人だとは小左衛門は分からなかった。
                                            ここまで<国府台の紅葉狩り>

 吉原では火事が出ても火消しは手出しをしなかった。吉原の見世が燃上したので仮宅を出し、山口屋は深川仲町に出した。吉原の見世が来たというので、吉原の時より忙しかったが、そのため客層が落ちた。みえは音羽と名前を変えて山口屋に遊女として勤めていたが、馴染みの客も通ってくれた。
 そこに丈助が尋ねてきて、無心をした。200両の金で刀は回収したが、それを金森家に届けるのにお供揃いをして出掛けるため、高輪の船宿で待機している。その費用が100両かかる。当然音羽には工面できる算段はなかった。その時、新造が入ってきて目の悪い若いお客さんが着替える時に100両の金を落とし、あわてて仕舞った事を音羽に告げた。音羽は可哀想だがそのお客が帰る時殺めて懐の物を取り上げなさいと、丈助に言い渡した。音羽は分からなかったが、そのめくらは稲垣小左衛門の倅で許嫁の小三郎であった。丈助は小三郎が居なくなったら目の上のたんこぶが無くなるからと、後をつけて木場の材木置き場に来た時に刀を抜いて襲った。しかし、神影流の達人小三郎だったので、肩に傷を付けられただけだった。人の気配がしたので丈助は逃げたが、その足音は音羽であった。傷ついた若者の名を尋ねると、小三郎。音羽は石川の娘みえだと話すと許嫁のみえだと分かった。みえが吉原にいると分かったので、100両と手紙を布団の中に置いて来た。それは見ていないが大変な事を丈助に言ってしまったのでここまで追いかけて来たという。小三郎の住まいに行くと、荷足の千太と安が居て、面倒を見てくれた。音羽は足抜けの形になったので、千太達が身請けの算段をしてくれた。ひとまず身体を隠すために矢切に住むみえの乳母おしのの所に小三郎と二人で行った。
 みえの乳母であった丈助の母親は、我が子の悪事に気付き、矢切の家に無心に戻った丈助を自分の手で刺し殺す。虫の息の丈助が、刀を盗んだのも、稲垣小左衛門を殺したのも自分の手引きであったこと、手引の相手は大野総兵衛で、200両を猫ばばしたのも、自分だと白状して果てた。
 小左衛門の息子・小三郎は丈助に肩を切られたが、その影響で悪血が抜けて目が開いた。
 その小三郎が大野総兵衛を追って無事父の仇を討ち、粟田口を取り戻す。これによって金森家に帰参が出来た。
                                                ここまで<丈助の最期>  


 
 この噺は彦六が、谷中全生庵の圓朝まつりで3話を3年越しで高座に掛けたものです。3話で約90分掛かっています。圓朝の原題は「粟田口霑笛竹」(あわだぐち_しめすふえだけ)で、この噺の2倍以上かかる長編で、出てくる人物が右往左往しますので、私などは、どこの誰だか分からなくなりますが、彦六の話では3話になって簡潔な内容になっています。現在は彦六の弟子林家正雀がこの噺を伝承しています。

1.粟田口
 粟田口 吉光(あわたぐち よしみつ、13世紀頃)は鎌倉時代中期の刀鍛冶。正宗と並ぶ名工で、特に短刀作りの名手として知られる。
 作風は、優美な太刀姿、「鉄色青く刃白し」と評される様に梨子地の鍛えに上品な直刃を焼き格調の高い作品が多い。

 国宝 指定名称:短刀 銘「吉光(名物厚藤四郎)」粟田口吉光作 東京国立博物館蔵
 室町時代から名物として名高く、寸法が短くきわめて小ぶりであるが、刀身が極端に厚いことから「厚藤四郎」と呼ばれた。地鉄(じがね)、刃文ともに抜群の出来である。
 足利将軍家に伝わり、その後、一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)、黒田如水、豊臣秀次、豊臣秀吉などの所有を経て毛利輝元に伝わり、毛利家から徳川家綱に献上されたという。

 京都の粟田口には古くから刀の名工がいた。吉光は、通称を藤四郎といい、鎌倉の岡崎正宗とならぶ名工とされている。古来より銘が流暢であり、また、ほとんどの作には「吉光」二字銘を切る。しかし、年期銘のある作が無いが、親、兄弟の作から推測すると鎌倉中期の刀工と見られている。豊臣秀吉により、郷義弘・正宗と共に「三作」と称された。
 現存作の多くは短刀であり、身幅、体配とも非凡なものが多い。地鉄は「梨子地」と呼ばれる小板目肌が最も良くつんだもので、地沸(ぢにえ)厚くつき、地には線状の湯走り(ゆばしり)が見られる。基本的な刃文は、直刃(すぐは)を主体としつつ細かく乱れ、刃中よく沸え、匂い口深いもので、焼き出しに互の目(ぐのめ)を連ねるものが多い。また、名物後藤藤四郎(短刀)、名物平野藤四郎(短刀)のようにやや大振りのものから、刃文も湾れ(のたれ)に丁子を交えるなど乱れ刃主体のものもある。名物厚藤四郎(あつしとうしろう、短刀)は「鎧通し」と呼ばれる特に重ねの厚い作品で、元重ねは1cmを超える。無銘の名物、無銘藤四郎(むめいとうしろう、短刀)も元重ね厚く7mm強ある。
 古来珍重されてきたため、 織田信長、豊臣秀吉と言った権力者の元に蒐集され、本能寺の変、大阪夏の陣で焼身になったものが多い。徳川家康は大阪夏の陣に際し、焼け身、紛失した吉光や正宗を始めとする名刀を探させた。これら名刀の焼身は初代越前康継の手によって焼き直され、その姿を今に残すものも多い。吉光の焼き直しの代表格としては、太刀を磨り上げた名物一期一振藤四郎(いちごひとふりとうしろう、刀)、小薙刀を磨り上げた名物鯰尾藤四郎(なまずおとうしろう、脇差)がある。また、大阪夏の陣に際し、堀中から無傷で回収した薙刀直しの名物骨喰藤四郎(ほねばみとうしろう、脇差)も、江戸城明暦の大火で焼け、後代の康継によって焼き直された。

重要文化財 「粟田口吉光」(名物 岩切長束藤四郎)短刀。東京国立博物館蔵。


2.舞台
金森家(かなもりけ);江戸・古川にかかる国道1号線を通す古川橋と四ノ橋の間の南側で、また、伊皿子台町から魚覧坂を下って国道1号線に突き当たった所。港区白金一丁目12〜13の内に金森左京という屋敷がありました。金森家の禄頭は三千石。橋を渡った北側には「小言幸兵衛」の麻布古川や「黄金餅」の麻布絶口釜無村の舞台があります。

佐賀町(さがちょう);江東区佐賀町。噺の発端の地です。都心から永代橋を渡り、左(北)に曲がった街。
佐賀町河岸;佐賀町に面した隅田川の河岸。志ん生は佐賀町北側、仙台堀川の河岸でこの噺が始まります。そこには現在上之橋と、隅田川に接する仙台堀川水門が有ります。

万年橋(まんねんばし);江東区小名木川に架かり、隅田川東岸に並行してはしる道を渡す。小名木川は仙台堀川の北側に平行して東西に流れる。番頭が首つりを仕損ない船頭・千太に助けられた橋。浮世絵、北斎画 冨嶽三十六景「深川万年橋下」(右)が有名。正面の藍色の水面が隅田川。

芝口(しばぐち);船頭・千太に連れて行かれた居酒屋があったところ。港区新橋一丁目に架かる新橋で、銀座に抜ける中央通り(第一京浜=東海道)を通す。現在は上空に首都高速道路を通し、その上部の橋に「銀座新橋」と入っているところが、「芝口橋」と呼ばれた所です。街は南の新橋側にあった。

芝伊皿子台町(しば_いさらごだいまち);港区三田四丁目と高輪一丁目に接する、泉岳寺方向から伊皿子坂を登りきった伊皿子交差点がある街。船頭・千太の住まいがあった。

永代橋(えいたいばし);大川(隅田川)最下流に架かっていた木橋。現在は江東区深川地区と中央区新川(町)を渡す。

 東都名所「永代橋全図」広重画  手前が中央区側、右側の橋は日本橋川に架かる豊海橋。右上の島は佃島。左上が深川。現在の永代橋は豊海橋を渡った先に架かっています。ここから芝口まで約3km、籠屋の安っさんは心も体も大変だったでしょね。

木場の材木場(きば−);小三郎はここで丈助に斬りつけられる。江東区深川木場。現在は木場が新木場に移って、堀跡などは埋め立てられて、木場公園になった。

高輪の船宿(たかなわ−);丈助は刀が見付かって金森家に返却のため一同がここで待機しているとウソを付いた地。港区高輪、泉岳寺や現在の品川駅があるところ。当時は海岸際で風光明媚だった。

葛飾の真間(かつしかのまま);現在の千葉県市川市真間。万葉期の伝説、「われも見つ人にも告げむ葛飾の真間の手児名が奥津城処」山部赤人。真間に手児名という女性が住んでいた。彼女は美しかったため多くの男性に言い寄られて悩んだ末、入水自殺をした。彼女が水を汲んだ井戸、「真間の井」があったという。紅葉の名所、日蓮宗の弘法寺があったが現在は小さくなってしまった。

■手児奈霊堂(てこなれいどう);市川市真間4−4。この地に手児奈と言う美しい娘が居た。あまりにも美しいので男達は争って手児奈を妻にしようと争った。心優しい手児奈はそれに耐えられず、真間の入り江に身を投げた。里人はこれを悲しみ、祠を作って手厚く葬った。

弘法寺(ぐほうじ);紅葉の名所。市川市真間4−9、真間山弘法寺。奈良時代、天平9年(737)手児奈の哀話を聞いた行基(ぎょうき)菩薩が一宇を建てて「求法寺」(ぐほうじ)と名付けその霊を祀った。それから約100年後、平安時代、弘仁13年(822)弘法大師が来て七堂伽藍を建立し求法寺を弘法寺と改称した。建治元年(1275)日頂上人(にっちょうしょうにん)の時、法華経の道場となった。弘法寺が手児奈霊堂を管理しています。

■根本(ねもと);現在はこの町名はなく、市川市市川四丁目。稲垣小左衛門が荒物屋を始めたところ。現在の真間と江戸川に挟まれた地で、市川の中心地で賑やかな地でした。

■葛飾八幡宮(かつしか_はちまんぐう);市川市八幡4−2、葛飾八幡宮。京成八幡駅前。ここの帰りに息子の許嫁”みえ”に巡り会った。

国府台(こうのだい);市川市国府台。国府台は江戸を望む高台。太田道灌の居城「市川城」があった所。天文6年、北条と里見の合戦が行われた場所としても知られる。敗れた里見側は安房へ退く

 玉蘭斎貞秀画「利根川東岸一覧」部分(明治元年) 利根川とは江戸川の事。手前の川が江戸川。中央の上方に延びる川と言うより入り江は現存しない。絵の中央突き出た洲の中ほどに継橋が見え、その上に手児奈霊堂、左の高台に上がると弘法寺、その高台一帯を国府台、その左には総寧寺が見えます。中央に戻って、江戸川に合流するあたりに手児奈は身を投げたと言われます。その右に市川根本、市川の名があり、圓朝の噺ではここから歩き始めて、松並木の坂を上がって総寧寺に。右上部には八幡様が描かれています。クリックすると倍の大きさになります。里見公園壁に貼られた浮世絵より

■総寧寺(そうねいじ);市川市国府台3−10、里見公園隣。圓朝は噺の中で「真間の根本をなだれ上りに上って参ると、総寧寺の大門(だいもん)までは幅広の道で、左右は大松の並木にして、枝を交えて薄暗きところを三町ばかりまいりますると、突当りが大門でございますが、只今はまるで様子が違いましたが、其の頃は黒塗の大格子の大門の欄間は箔置にて、安国山(あんこくざん)と筆太に彫りたる額が掛っておりまする、向って左の方に葷酒不許入山門(くんしゅさんもんにいるをゆるさず)とした戒壇石(かいだんせき)が建って居りまする。大門を這入ると、半丁ばかりは樹木は繁茂致して、昼さえ暗く、突当りに中門(ちゅうもん)がございまするが、白塗りにて竜宮の様な妙な形の中門で、右の方はお台所から庫裏に繋っており、正面は本堂で、曹洞派の禅林で、安国山総寧寺と云っては名高い禅寺でございます」。
 今は里見公園の一画になってしまった。写真;現在の総寧寺中門

矢切(やぎり);現在の千葉県松戸市下矢切。矢切と葛飾区柴又間の江戸川を渡す、矢切の渡しがあり、歌謡曲や伊藤左千夫の小説「野菊の墓」でお馴染み。
 
矢切の渡しは、1983年に細川たかしによって、作詞:石本美由起、作曲:船村徹の歌謡曲『矢切の渡し』の大ヒットによって再び脚光を浴びた。
野菊の墓」の小説は青空文庫にあります。http://www.aozora.gr.jp/cards/000058/files/647_20406.html

 

3.言葉

荷足船(にたりぶね);多く関東で用いた小形の荷船。荷物を安定的に沢山詰めるように、幅広く造ったもの。上記写真;江東区和船同好会での乗船風景。

はま鍋;浜鍋ではなく、蛤(はまぐり)で仕立てた鍋料理。芝口で食べた暖か物の一つ。

青柳(あおやぎ);バカ貝のむき身の通称。東京湾の木更津青柳で出荷されるのでこう呼ばれた。寿司種やぬたで食べると最高。これも芝口で食べた肴の一つ。
また、柱豆腐=貝柱と豆腐を温かく合わせたもの、もあった。

吉原の仮宅(かりたく);吉原が全焼もしくはそれに近い状態になった時に、幕府の許可のもとに仮の小屋を設けて営業したことをいう。 当然、吉原郭内では営業不可能となっているため、この時だけ特別に大門の外にでて、江戸市中に散在する方法で営業した。
 仮宅営業は急場をしのぐためとして、何につけても略式にすることが認められていた。これは格式を誇り、形式を重んじ、複雑な手続きを常とする吉原遊廓の日常にはない営業方法であった。
 元手がかからずに手軽に経営できるため、遊女屋の中には、予め許可のおりやすい料理屋や水茶屋がある歓楽地の近くに、日ごろから別宅を設けておき、すぐに営業できるように準備している者、仮宅営業を望むあまり消火に消極的な者もいた。
 仮宅はビジネスとしては経費節減と顧客増で、増益となった。また、遊女にとっても吉原では堀に囲まれた幽閉状態だったが、仮宅では自由に出歩き、銭湯に行ったり、街歩きをしたりもできた。つまり、仮宅は顧客、経営者、従業員の三者にとって好都合だったことになる。しかし、遊客を仲介する茶屋は困った。志ん生も仮宅遊びを経験しているが、安直な遊びで楽しかったという。
 上図、吉原の仮宅「新吉原仮宅便覧」 国立国会図書館蔵。

新造(しんぞ);「しんぞう」と読むが江戸では「しんぞ」と発音する。花魁の世話をする見習い遊女。見世に出ても玉代が半額なところから半玉とも言われた。

足抜け;遊女達は前借金で縛られているので、自由はない、その遊廓から逃げ出す事。仮宅で自由は利いたが、一晩開けたのでは逃げ出したも同然。

一節切(ひとよぎり);竹製の縦笛。一節切の呼称は竹管の節が一つであることにも由来する。一節切尺八ともいうが現在の尺八に比べ長さも短く、管の径も細く、歌口の形状も少し異なる。一節切は室町時代に始まり、江戸時代の元禄頃(16世紀〜17世紀)にかけて流行したようであるが、それ以降は途絶え文化文政年間神谷潤亭という人が熱心に再興の為尽力したが以後は演奏されることがなく絶えた。一節切は尺八に大きな影響を与え、その音楽が引き継がれていったが、結局尺八によって滅ぼされてしまったといえる。
右写真;一節切笛。左「松風」 右「のかぜ」
 「のかぜ」は、織田信長愛用の品で、信長から秀吉、家康と譲られ、家康の死の直前に息子の六男忠輝への形見の品として与えられたものと伝えられる。一方「松風」は「のかぜ」をもとに作られたと考えられ、葵の紋からして徳川家縁の一節切と思われ、松平忠輝公の遺品の一節切として貞松院に伝えられた。「のかぜ」の同部には織田木瓜紋がみられる。
「一節切尺八について」
 http://www7.ocn.ne.jp/~gakuoh/sankyoku/arekore/arekore3.htm より

 

4.落語「粟田口」について
 圓朝の「粟田ロ」はじめ「国綱の刀」「一節切(ひとよぎり)」「船頭」を即席の三題噺にまとめた小品だが、好評のため講釈種の金森騒動を背景に、巷間に流布された田之助の逸話や春風亭梅朝の怪談を加えて続き物に改作したのだという。沢村田之肋(守田座の立女形で有名)が、懇意にしていた芸者お富の死後、その位牌と婚礼を挙げたという話は、かなり世間に知られていて、圓朝は「粟田ロ」の中で、伊之助が遊女若草の位牌と婚礼を挙げる場面を作っている。(この場面は彦六の噺の中にはない)
 その頃、二代目春風亭柳枝門下の梅朝が、素行の悪さから実母に刺殺され、その幽霊が出るというので大騒ぎになった。「粟田口」の後半、矢切村で悪党丈助が母親に殺される場面は、圓朝が梅朝の噂を生かして芝居がかりの結末を作ったのである。芝居噺の「粟田口」は戯作者・山々亭有人(さんさんてい_ありんど=条野採菊)により絵入りの人情本や草双紙としても出版された。明治以降、歌舞伎に依存する正本芝居噺の演出を止めた圓朝だが、「粟田口」は好きな作品だったらしく、新しい解釈を加え、「素咄」として口演している。今日に伝えられる速記本の「粟田ロ」は、明治20年代、最盛期の圓朝の高座を記録したものといえよう。
 日本大学教授・永井哲夫氏の落語テープ解説より

 この「粟田口」は圓朝から一朝老人に伝わり、彦六がその内容を現在に十分伝えています。
 


 舞台の市川を歩く

 東京から隣の千葉県市川市に入ってJR総武線・本八幡(もとやわた)は二つ目の駅です。ここから北にロータリーを抜けると東京と千葉を結ぶ千葉街道。右に曲がると直ぐに左側に葛飾八幡宮の参道が出てきます。京成電車の踏切を渡って人だけが歩ける参道になります。尋ねた時は12月の紅葉が美しい季節、ここも銀杏が美しく七五三のお宮参りの子供達も美しく着飾って、黄金色の銀杏に負けません。突き当たりの随神門を抜けると社殿とその右に小ヘビが無数住むという天然記念物の千本銀杏が有ります。樹高22m、根回り10.2mの大銀杏の木です。
 この帰りに、小左衛門の息子小三郎の許嫁(いいなずけ)の”みえ”と遭遇。

 目の前の京成八幡駅に戻って、上り電車で三つ目、国府台駅で降ります。北に向かって歩き始めると桜並木が美しい真間川に出て右に、入江橋を渡り、細い道の先に赤い欄干が見えます。それが継橋。正確には継橋跡。左右の川は無く、坪庭のような川跡を模したような庭園状の池のような、早い話がその先は民家。

 継橋を越えてその先右側、手児奈霊堂。参道入口に霊堂の説明板があり、美女のお姿が拝見できます。その姿は下記の手児奈(てこな)霊堂内に有ります。参道を入ると正面に本堂、本堂で良いんですよね、霊堂と言うんでしょうか。立派な霊堂です。境内も広く睡蓮が浮かぶ大きな池があったり、立派なしだれ桜の木があったり、四季を通して、観る者を楽しませてくれます。
 戻って、先程の参道入口から奥に向かって進むと階段がある山の下に突き当たります。

 この突き当たりが、真間山弘法寺(ぐほうじ)参道の入口階段です。上が見えない(と、思える)階段を黙々と上がると、そこに広々とした空間が広がり、正面には山門が現れ、ここは由緒有るお寺さんだよと暗黙の内に語っています。山門を抜けると正面に平成の新本堂、右手には鐘楼、左手には大きな庫裡(大客殿)があり、その左に並んで本堂があります。左奥には旧本堂だった道場もあります。
 境内の西側から住宅地の中を横切りながら、松戸−市川を結ぶ松戸街道に出ます。この辺り一帯が根本と言われた江戸時代には市川の中心地でしたが、今、中心はJR市川、本八幡に移って、その面影はありません。

 松戸街道を横切って西側の江戸川べりに出て、川沿いの遊歩道を散歩する人達に紛れて上流(北)に向かいます。河岸には多くの鴨が羽を休ませています。まもなく里見公園の案内板とその入口が見えてきます。その手前に「羅漢の井」という湧き水があります。江戸時代からの湧き水で水量も豊富です。

 里見公園は名前の通った公園で、バラ園があったり、自然の眺めを利用して木々のバランスが素敵です。しかし、来客者が少なく冬季の売店は閉鎖されてしまいます。紅葉も綺麗なのですが、春の桜の花見には大勢の酔客が出ます。この地に国府台城趾が有ったと言います。
 この里見公園の隣に総寧寺が有ります。有りますと言うより、元はこの総寧寺の寺領だったのです。現在もその当時の面影を残し、竜宮城のような中門は下部が石張りの台座(足?)になって、直線の美しさでしょうか。噺の中では、ここの紅葉を観に来た百姓の清助と稲垣小左衛門が切り殺されてしまった地です。 ここの江戸川から工事中のSkyTreeが望めます。

 北隣の町が矢切で、みえの乳母”おしの”の所に小三郎と隠れるために二人で行ったとこです。江戸川の川づたいに行っても良く、私は松戸街道まで戻って、直ぐ来た松戸行きのバスで下矢切まで行きました。そこから町中を抜けて広々とした畑中を抜けると、約30分で矢切の渡しです。時間的にも歩く距離にしても同じくらいでしょう。矢切の渡しでは午後4時の最終便に間に合い、途中道草を食っていたら翌日まで待ちぼうけ(?)になるところでした。乗船料、大人100円。
 渡った先は、ご存じ葛飾柴又、寅さんの生国です。

 今回は紅葉を観て歩きましたが、桜の時期には最高の花見コースです。

地図
  京成・国府台駅の案内看板より。 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

葛飾八幡宮(市川市八幡4−2)
 京成電車の駅名にもなっている下総の総鎮守です。この時期多くのギンナンを落とす銀杏が多くあります。また社殿の隣にある銀杏は「千本公孫樹」(国指定天然記念物。写真右側)と呼ばれ、根本から多数の幹が出て1本の木のような形になったご神木です。

真間の継橋(市川市真間4−6、手児奈霊堂入口南)
 南から真間に至るには江戸以前、洲になっていたので弘法寺に至る大門通りにこの橋が架けられていた。

手児奈霊堂(市川市真間4−4)
 美しき美女手児奈を祀ったお堂と言うよりお寺さんです。その美しき手児奈はここ(手児奈霊堂前の説明板より)にいます。

弘法寺山門(市川市真間4−9)
 階段を上がったところにある山門です。この弘法寺で一番古い建物のように思えます。右手に鐘楼、正面に新本殿。

弘法寺(市川市真間4−9)
 本殿。明治23年に火災で再建された旧本堂は祖師堂といわれ、道場として使われています。写真の本殿は平成10年に完成したもの。

根本(市川市市川4)
 市川から松戸に抜ける幹線、松戸街道に面した街で、弘法寺の西に当たります。現在は普通の街並みですが、当時は市川の中心地でした。

里見公園(市川市国府台3−9)
 国府台では有名な里見公園ですが、元は総寧寺寺領だった。ここに太田道灌の居城「国府台城」があったが、その痕跡は見られない。

総寧寺(市川市国府台3−10)
 近江の発祥であったが、小田原の北条氏が千葉県関宿に移したが、水害が多く現在地に寛文3年(1663)移った。その時幕府から128石と六万七千坪の土地を与えられた。一宗の長となり全国曹洞宗の総支配権を得て、歴代住職は十万石の大名と同列の格式を得、江戸の小石川に屋敷を与えられた。明治5年境内に大学を建設する事になったが、陸軍用地になってしまった。その跡地が里見公園となった。

矢切(松戸市下矢切)
 伊藤左千夫の小説「野菊の墓」で有名な地。広大な畑地が続き、「野菊の墓」にあやかって野菊が美しい。江戸川に面した広大な地域は今でも田畑が連なっている。

金森家(港区白金一丁目12&13)
 伊皿子坂を上がった伊皿子台から、その先魚藍坂を下がった先の突き当たりが、この地です。右側が古川に架かる古川橋、正面が金森家が有ったところです。当時は北に麻布絶好釜無村が有った寂しいところですが、現在は都心の洒落た街並みに変身です。

芝伊皿子台町(港区高輪一丁目と三田四丁目に接する坂上の町)
 第一京浜国道から泉岳寺に向かい曲がると坂道になり、その坂を伊皿子坂と言います。登り切ったところが伊皿子交差点。この一帯が伊皿子台町と呼ばれたところです。130話「徂徠豆腐」で歩いた地です。

芝口(港区新橋一丁目銀座通りに架かっていた新橋。現在銀座新橋として高速道路に架かる)
 新橋(町)と銀座の堺に架かる新橋がありましたが、埋め立てられてその上に高速道路が出来て、その高架橋に「銀座新橋」の銘板が張り付けられています。その下に新橋の親柱が残されています。写真の前方が芝口町と呼ばれた所で、現在の新橋(町)です。

万年橋(江東区小名木川に架かる)
 小名木川は江戸と浦安を結び塩を運ぶために開削された運河で、隅田川に接するところに架かるのが万年橋です。江戸の時代から風光明媚で、現在も隅田川に架かる清洲橋(写真右奥)が望める景勝地です。北側には松尾芭蕉が住んでいたので、芭蕉記念館もあります。

佐賀町(江東区佐賀町)
 永代橋の東詰めの街で、倉庫街が有るので有名。街の西側は隅田川に面しており、北側は仙台堀川、東も大島川西支川に接する水辺の町です。

                                                     2011年1月記

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